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ブラジル日本人移民の美徳
 ※ ブラジルへの最初の移民は明治41年のことなんだそうですが、実は筆者の親戚に中にも、戦後一大決心をしてブラジルへ移民し、その後運良く帰国を果たした人たちがいます。胡椒の栽培で当てて大金を持ち帰ったものの、日本で相次いで詐欺にあい事業はことごとく失敗、無一文からやり直したそうです。その時に拾ってくれた企業が松下電器。「中途入社を受け入れてくれて有難かった」と、松下の社風を絶賛しておりました。松下だけだったそうですから。

 母の叔母の家族でしたので、初めてブラジル移民の話を聞いた時(昭和51年)は本当に驚いた。と同時にぐっと歴史を身近に感じたことを思い出します。今はその叔母も亡くなり何となく交流が途絶えていますが、素敵な方々だったことを下記記事を読んで思い出しました。



□【もう一つの日本】(2)100年前の地元記者驚かせた「清潔と規律」
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071211/trd0712111256004-n1.htm
2007.12.11 12:56

 「ブティックひまわり」「寿し安」「木村理髪店」「明石屋宝石店」…。ちょうちん型の街灯が続く街路に、漢字の看板があふれていた。書店には「少年マガジン」や岩波文庫が並ぶ。ブラジル最大の都市サンパウロの中心部にある日系人街「リベルダーデ」を歩くと、まるで日本の地方都市の商店街に紛れ込んだような錯覚に陥る。

 南北1キロの街路に約400軒。近年は中国、韓国系の店が増え、東洋人街とも呼ばれるが、海外で日系人街として成り立っているのは、ここと米ロサンゼルスのリトル・トーキョーだけという。

 突然、赤い大鳥居が姿を現した。本物の神社ではないが、参道のような赤い欄干の陸橋が続いている。

 その名も「大阪橋」。大阪万博を翌年に控えた昭和44年、大阪市とサンパウロ市が商都同士という縁から、姉妹都市提携したことを記念して命名されたという。近くにはたこ焼き屋もあった。

 地下鉄駅の売店ではポルトガル語の新聞に混じり、邦字新聞2紙が福田内閣やプロ野球の動向を伝えていた。街で出会った2世の女性が言った。

 「ここではたいがいのことは日本語でできますし、白いご飯や梅干し、のりもあります。でも1世がブラジルへ渡ったときは、ご飯もおしょうゆもおみそもなかった。この街も日系社会も、みんな日系人が100年かけて築き上げてきたのです」

 明治41(1908)年4月28日、午後5時55分。ブラジルへの最初の移民船「笠戸丸」は全国から集まった移民165家族781人を乗せ、神戸港を離れた。ブラジル日系社会初の6世、大西エンゾ優太ちゃん(2)の5代前の先祖で、鹿児島県出身の川畑徳之助さん、カネギクさん夫婦もその中にいた。

 西回りでアフリカ南端の喜望峰を望み、「蚕棚」と呼ばれた2段ベッドで寝起きして52日目の6月18日、サンパウロに近いサントス港へ着いた。当時の地元紙「コレイオ・パウリスターノ」は、洋服に鳥打帽、白手袋で正装した日本人の姿を初めて見て、こう書いた。

 《このように清潔で規律正しい移民はいまだかつて見たことがない》

 ブラジルの地元紙は、日本人移民の識字率が9割に上ることや、大食堂に一度に入ることができないため「残りの者は静かに廊下で順番を待っていた」こと、「驚くことに彼らの去った後には一つのタバコの吸殻もつばもなかった」ことを列挙し、こんな観察まで残した。

 《夫が妻を信用することはわれわれの予想外で、日本貨幣を妻に携帯させていることなど、その美徳はうらやましい》

 移民は州内の6つのコーヒー農園に分かれ、契約労働者として働いた。当時のブラジルは1888年に黒人奴隷を廃止して20年しか経っておらず、そもそも日本人移民が歓迎されたのは、奴隷廃止で労働力が足りなくなったためだった。白人の農園主や支配人の中には、日本人を奴隷のように扱う者もいた。

 過酷な労働と低収入に見切りをつけた移民たちは相次いで農園を出た。優太ちゃんの先祖、川畑さん夫婦も1年後に農園を離れて、漁師になったり、バタタ(ジャガイモ)を植えたりして働いた。カネギクさんは30歳で、徳之助さんは46歳で異国の土となった。

 「ブラジルへ苦労しにきたわけです」

 優太ちゃんの祖父、中村パウロ修さん(64)はしんみりと言う。

 あとには、農園で生まれた2人の姉妹が残された。妹は今年3月に95歳で亡くなった時江さん。優太ちゃんの直接のルーツであり、高祖母(ひいひいおばあさん)にあたる。7歳の時から家事手伝い、子守に追われ、学校にも通えなかったという。

 時江さんの長女は、時江さんの両親と同じ笠戸丸移民だった竹内喜左衛門さんの長男、満次さん(80)と結婚した。ブラジル生まれの満次さんは、父親が始めたレンガ工場を成功させ、サンパウロ西郊のタボン・ダ・セーラ市の副市長まで務めた。市のメーンストリートは「キザエモン・タケウチ通り」と名づけられている。

 満次さんは「親父たち初期移民はポルトガル語も話せず、食べ物も合わない中で一生懸命に働いた。その苦労があって、日系社会があるのです」。

 大阪橋は、勤勉や規律といった100年前の地元記者を驚かせた日本人の美徳の上に架かっているのかもしれない。

 文・写真 徳光一輝



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【2007/12/11 17:57】 | 【資料庫】新聞・ニュースストック | トラックバック(0) | コメント(0)
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日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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