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母さんのこと
 ※ 昭和27(1952)年公開、大映映画『母山彦』を観ました。三益愛子主演の「母もの」シリーズの一つだそうです。夫を子供の不注意?から事故で亡くし、母の手ひとつで3人の子供を育てる苦労と喜びが描かれてありました。

 昭和27年といえば、主権回復(サンフランシスコ条約執行)の年ですね。風景はとても貧しく、筆者にはとても懐かしい。いつの間にか、自分の母や兄弟とのことを想い出しながら観ていました。

 時代背景は戦中戦後ですが、戦争にはほとんど触れていません。まだGHQの影響下にあったのでしょうか。空襲の話も無ければ隣組の様子も全く描かれていません。ただただ貧しい中での母子の絆を描くばかり。

 あの頃は「日本の母」という表現がありましたね。筆者の母もまさしく「日本の母」でしたが、女性の幸せは結婚にあったのです。夫に尽くし夫を支え、子供を無償の愛で育て家庭を守る。そのためにはどんな苦労も厭わない。母の愛情は太陽に例えられていました。

 中学生の頃に先生から教えられたことを想い出します。

 「母の愛は太陽の愛、どの子にも分け隔てなく降り注ぐ愛」

 本当にそうだと思いましたね。疑う余地のない愛情をもらったと思います。その母が怒ると鬼のように怖かったのですが。昔は母のことを兄弟でこう呼んでいました。

 「鬼のお民」

 それが今では「仏のお民」。仏のように優しい。まるで観音菩薩のようです。

 その「鬼のお民」と呼ばれた母の時代は日本中が貧しかった。世界恐慌勃発の前年昭和3年に生まれ、小学校時代は一人母方の実家へ口減らしに預けられた。そこの赤ん坊を背負いながら水汲みや牛追い仕事を手伝った。

 でも、売られたわけではないので幸せだったと思う。その家の嫁には邪険に扱われたらしいが、その分祖母に可愛がられた。1本の短い毛糸と編み棒を与えてもらい、編んではほどきして遊んでいたという。今も母の特技は編み物だ。

 中学へは実家に戻り通った。卒業してまた一人、電話交換手になるために満洲へ渡った。ソ連の侵攻、東安駅爆破事件、逃避行、終戦を知り抑留生活、翌年に引揚げると故郷長崎には原爆の痕、母の病死を知らされた。


 母の優しさはどこから来たものだろう。貧しさや苦労? いいえ、筆者は「教育勅語」だと思います。だから母だけが特別優しいわけじゃない。あの頃の日本人はおおよそ優しい人ばかりですね。

 母の背中におんぶされている頃に、耳にたこができるほど聞かされた話があります。

 「しゃばちゃん、人は思いやりが1番大事なのよ、思いやりのある人におなりなさい。しゃばちゃんはいい子だね~・・・」

 おんぶされながら聞いたその話、その意味を知ったのはずっと後のことです。言葉も分からない頃から何度も聞かされた。それを思い出した時はほんとに驚いたものです。小学校高学年になった頃にふと思い出したことなのです。

 あの頃の兄たちのお小遣いは1日5円だった。ある日兄から

 「しゃばちゃん、母さんにお小遣いはまだか聞いてみて?」

 と頼まれた。

 「兄ちゃんから頼まれたことは言っちゃだめだよ」

 と念を押され「うんわかったよ」。で、素直な筆者は

 「母さん、兄ちゃんたちのお小遣いはまだなの? これ、兄ちゃんから頼まれたんじゃないよ」

 母は大笑いして「わかったわかった」。

 兄たちは様子を陰で見ていて逃げて行った。ずっと後で思い出し、そのことを確かめると、その日のお小遣いはとうとうもらえなかったらしい。これは高校生になってから想い出したこと。

 小学3年生くらいの夏のこと、近所の友達と家のそばで遊んでいた。外の水道(井戸)の水を流しっぱなしで桶に入れたスイカを冷やしていた。友達と二人で、そのスイカで遊んでいた。

 「ガオー、ガオー」

 二人でゴジラごっこ。スイカを持ち上げては、バシャンと桶に落す。すると友達が勢い余って落した拍子に桶の淵に当たり、スイカにヒビが入ってしまった。びっくりして二人顔を見合わせた。髪の毛が逆立つ思い。

 「どうしよう・・きっと怒られる」

 頭のいい友達は機転をきかし(?)

 「水が冷たいと割れることがあるらしいよ」

 そうか、そういうことがあるのかと騒いでいるところに母が・・

 「何してるの?二人とも・・あ、スイカ・・」

 「いや、スイカが割れて・・! 水が冷たくてね、冷たくて・・・」

 「そろそろ冷えたかな? 二人とも入りなさい、いっしょにスイカ食べましょう」

 今でもはっきり覚えています。母はきっと分かっていたはず。でも、怒らなかった。「ヒビが入ってちょうどいい」と、笑いながら私たちを家の中に入れてくれたのです。今でも時々思い出しては、母の優しさに感心します。

 あれからずいぶん経って、恐る恐るそのことを訊いたことがありましたが、母は「忘れた」「どうでもいいと思ったんじゃない?」と言って笑うだけでした。

 その母がいったん怒ると強烈でした。ある日学校から帰ると、ふすまの向こうから母の怒鳴り声が聞こえた。兄二人が叱られている。筆者がそーっとふすまの陰から覗くと

 「あなたたち、自分が何をしたか分かってるの?」

 と言いながら、二人並んで立っている兄たちを睨みつけていた。ひっぱたくから歯を食いしばれと言っていた!

 筆者がその場から一目散に外へ逃げたことは言うまでもありません。よく兄弟で遊び疲れた夕暮れの帰り道に、母がまだ怒っているかも知れないとしょんぼりする兄に

 「大丈夫、きっと今ごろ機嫌直してるよ」

 となぐさめたものです。その頃のことです。兄が「鬼のお民」と言い出したのは。

 その母も、兄たちが中学校へ上がる頃には手を上げることはなくなりました。それまでは文字通り「鬼のお民」、怒ると強烈でした。

 母はその時代に洩れなく、夕食は父が帰ってからで、父へは1品多く出し、全員が正座で「いただきます」「ごちそうさま」でした。途中で足を崩したり、肘をついたりすると「ピシャッ!」とやられます。一粒のご飯も残さず、「お百姓さんありがとう」と頂いたものでした。

 そうだ想い出した。父は帰ると背広を脱いで着物に着替えていました。ステテコに浴衣に団扇にタバコ(いこい)です。玄関に「おかえりなさい」と迎えに行くと、「ハイおみやげ」とたまにチュウインガムをくれました。

 懐かしいことが次々と想い出されます。1本の映画で色んなことを思い出す。もうこの辺にしておきましょう。きりがなくなりそうです。


 この映画の最後のシーン。息つく暇もないほどの苦労を重ね、ようやく初孫を迎えたその孫を腕に抱き、三益愛子扮するお婆ちゃんが嬉しそうに言います。

 「あんたはおかあちゃんにどんな苦労をかけるつもり?」


 

 
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テーマ:雑記 - ジャンル:学問・文化・芸術

【2007/10/01 15:51】 | 【筆者雑記】 | トラックバック(0) | コメント(0)
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日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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Author:娑婆妥場
この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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