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“10円でございます”
台湾国旗※このお話は「謝小姐の台湾日記」からの引用ですが、すでにHPへのリンクは切れているようです。お話のページだけが残っている状態ですが、いつ消えてしまうか不安なので、ほぼ全文を引用させて頂きました。文章自体は「村上龍ジャパンメイルメディア」に掲載されていたものだそうですがそこもリンクが切れているようです。引用に不都合がありましたら、本人様からのご連絡があれば削除致します。

「10円でございます。」
http://homepage1.nifty.com/MYO/sub16/sub16.htm


 現在も台湾には山地原住民と呼ばれる人々が住んでいます。
 遥か昔、中国大陸から人々が渡って来る以前に台湾に住んでいた人々の呼称で山地同胞、または原住民とも呼ばれています。原住民という表現は、日本ではあまり良い意味では用いられていませんが台湾では、古くからここに住んでいる、ということを意味し、最近では名誉ある言葉として自らを称しています。ちなみに台北原人等の呼称もこのように用いられています。

 ここでは150年位前までは原住民と平地人との間では争いが絶えませんでした。具体的には、平地人が原住民の住んでいる山に許可なく進入した場合は殺されたりしました。それは、他族の者が許可なく自らの地に進入した場合、首を取ることは構わない、という厳しい掟があったためです。そのため、平地人は柵と交易所を作り原住民との間に距離をおき、互いの自治を認め合い平和を保ちました。

 1895年の下関条約にて清国は台湾を日本に譲り渡し、それ以降台湾は日本の領土となり植民地政策が行われることになりました。植民地政策下では原住民の人々は高砂族と呼ばれ、日本も清国と同様に彼らに対して隔離政策を行いました。当時、高砂族の中には8種類の部族がありましたが、この部族間ではほとんど交流がなく、閉鎖的な社会を築いていました。

 しかし、日本政府は清政府と異なり、積極的に部族の中に入り調査をしました。そして、その後、日本文化の導入(皇民化政策)を始めたのです。また、高砂族の住んでいた原生林を国有地とし木材を伐採し、その運搬に高砂族の人々を酷使したのです。その急激な文化の導入や搾取に反発が数々おこりました。1930年の霧社事件が有名です。高砂族は、伝統や自然の神に対して畏敬の念を持たず、自らの文化を押し付ける日本人に対して抵抗しました。しかし、その後、高砂族の反乱は日本軍によって鎮圧されました。

 日本政府による植民地政策は、台湾での教育制度を根付かせ、一般家庭の子供たちも公学校へ通うようになりました。そこでの授業内容は、まず第一に国語として日本語を教えられました。そして、両親、天皇陛下を敬い、夫婦は円満でなければならないという教育勅語をとにかく丸暗記させれました。高砂族の住んでいる地区も例外ではなく、公学校ができ上記のような教育が行われました。

 高砂族は部族ごとに言語が異なっていたため部族間での交流はほとんどなかったのですが、日本語という共通語ができたため変化しはじめました。それまでは異なる部族間では言語によるコミュニケーションは不可能でしたが日本語という共通な言語がそれを可能にしたのです。不思議なことです。日本語が台湾での共通の言葉となったのです。部族間の交流も今まで以上に活発になりました。時代は過ぎ、台湾は中華民国となり、国語は日本語から北京語に変わりました。しかし、現在でも老齢者は小さいときに学んだ日本語で会話をします。

 制度的な事柄に関しても以前は、大部分の山地が山地管制区域と指定され、民間人は許可なく進入してはいけなかったのですが、10年位前から段階的に規制は解除され現在は殆どが自由に進入可能な区域となりました。

 外国人に関しても、以前は進入不可能であった区域が開放され許可があれば入山可能になりました。

 学問の世界では情報は国境を越え忽ちに伝わるようで、台湾原住民地区規制開放の情報は日本の生物学者に伝わり、日本から2人の学者が訪れてきました。生物学とは何の関係もない私にその案内役が頼まれたのです。貝類学者で有名な波部忠重博士の学者仲間、台湾の台湾大学医学部教授張寛敏博士の教え子の妹です。入山許可とか面倒な申請があり、忙しい兄にかわり、私が同行する事になったのです。案内役を頼まれた私は2人の生物学者と共に原住民の住んでいる山に車で向かいました。

 そこは テンタナというところです。テンタナとは天に続くという意味です。 その2人の生物学者はホソガワギセルの亜種イシザキギセルというカタツムリの調査のためにここを訪れました。

 イシザキギセルは京都帝国大学から台北帝国大学に赴任した黒田徳米先生が70年前に発見したのものだそうです。70年も前に日本の学者の方は首をとられる覚悟で山岳地帯に調査をしたのでしょう。

 入山許可等の申請は、警察局でパスポートを渡して費用を支払い、許可証をもらうという形で簡単に済みました。入山道路の入り口には警官が立っていて、入山には許可書とパスポートを見せる必要がありました。しかし、私たちの車以外は、警官に止められることもなく、次々と入山して行きました。
 なぜ、私たちの車だけが止められなければならないのか、私は疑問に思い、警官に尋ねました。警官が答えるには、他の車を運転しているのは警官の親戚、山地同胞の人々とのことでそういった車は既に全て暗記してしまっているらしく、そうでない車だけを止めればよいということでした。私は自分の人相が悪いので止められたのではと勘違いしていましたが、そうではないことがわかり安心しました。

 入山し、車から降りると学者たちは生物の採集を始めました。その様子はまるでごみ拾いをしているようでした。私は次第に疲れを感じ始めましたが、それとは裏腹に山の谷間にあるテンタナは素晴らしい景色でした。天まで届く空も澄みきり、空気も非常に新鮮でした。

 それから私たちは村に到着し、とある商店に向かいました。すると、店の中から白い半袖のシャツを着て眼鏡を掛けた叔父さんがニコニコしながら出てきました。小さい頃、学校の帰りがけによく見かけた自転車の荷台にお菓子を積んで売っているやさしい叔父さんと同じ目をしていました。

 学者達はアイスボックスを覗いて、二言、三言、言葉を交わして何を買うか選んでいました(このとき学者たちは当然日本語を使っていました)。学者たちが買うものが決まったので、私は幾らですかと北京語で尋ねました。何故なら、この叔父さんの部族が日常的に用いている言葉がわかりませんでしたし、もし仮にわかったとしても私はその言葉を喋ることができなかったからです。

 すると、店の叔父さんは「1つ5円、2つで10円でございます。」とニコニコしながら背骨をまっすぐに伸ばして日本語で答えたのでした。私はそのこと自体に驚きましたが、そのあとの学者たちの態度を見てさらに驚きました。まるで天皇陛下から勲章を受け取る時のように、直角に礼をしてアイスを受け取っていたのです。

「あ、ありがとうございます。」

学者たちはそのように言い、私がお金を支払うまでその姿勢を崩しませんでした。

 店を出て、道を歩きながらモナカアイスを食べている学者たちに私はさきほどのことについて尋ねてみました。すると、学者たちは「日本で10円でございますなんて、いまどき聞けない、10円のように安いものなんか絶対、10円、としか言わない。10円です。とも言わない」
「美しい言葉だ、美しい習慣だ」「まさか台湾の山奥にきて日本語を聞けるとは思わなかったし、それにこんなに美しい日本語を聞けるとは思わなかった、タイムスリップしたような気になる。」と感動した様子で口々に言いました。

 学者たちの感動は続いたようで、そのあとの採集の時、何回か「10円でございます」と神妙につぶやいていました。

 私は日本語の「ございます」を丁寧語として理解していますが、「ございます」という言葉を使ったことはありませんでした。

 学者たちは「美しい言葉だ」と言いました。丁寧語だと私が思っていたのは美しい言葉でもあったのです。私の感覚では丁寧語と美は別なカテゴリーに所属するものでした。少なくとも北京語ではそうです。ところがこの学者たちは「ございます」を聞いて美しいと言いました。
「美しい」という言葉は辞書を調べれば意味自体はわかります。しかし、そういった言葉が用いられた時の感情やそれに関わる背景などは会話を重ねないとわからないのでしょう。

 台湾人である原住民の人が、日本語の美しい言葉を使い、その言葉に日本人が感動するという事は私にとって驚きでした。日本人は美しい言葉に接すると感動するように思いました。原住民も美しい言葉だと感じているからこそ「ございます」を使ったに違いないと私は信じています。

 原住民と日本人の間に共通しているものがあるとしたら、言葉の使い方に敏感に反応する、ということではないでしょうか?日本と台湾の原住民の世界には古くからの美しいものが存続していますがこういったことも、言葉の使い方に敏感に反応する、ということに由来しているように思います。

 台北では日々美しい建築や文化習慣が消えて逝くような気がします。美しい言葉を話す原住民や美しいものを感じる日本人だからこそ美しいものを残す事ができるのではないでしょうか。美しいものとそうでないものを敏感に感じるということや、美しいものを大切なものとして子孫に残そうとする姿勢など、日本人と原住民は美への意識が強いように思います。

 帰り道、学者たちは採集したイシザキギセルを見ながら「10円でございます」とつぶやいていました。もし、今回の採集で新種が発見されたならきっと美しい新種のカタツムリはジュウエンマイマイと命名されるに違いありません。








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【2007/04/06 04:39】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(0)
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日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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