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行動に勝る支援はない
2001.9.11 アメリカ同時多発テロ ※ 2001年9月11日、世界中を震撼とさせた「アメリカ同時多発テロ」。6年前のあの日「とんでもないニュースが・・・」というキャスターの声に画面に目をやると、ニューヨーク世界貿易センタービルからモクモクと立ち上る黒煙が映っていた。これは事故なのか?もしやテロではないかと不安に思いながらも、あまりの惨劇に声も出なかった。

 ニュースは速報を伝えたあと通常にもどるも、間もなく「2機目が突入した」と映像が切り替わった。その後ペンタゴンへの突入、4機目の墜落と合計4機の民間航空機をハイジャックしたテロであったことが報道された。あの事件以来、世界中でテロとの戦いが始まった。

 
 さて、昨夜テレビ東京で「三丁目のポスト」という番組を、これ初めて観たのですが、「911テロ」での日米消防士の感動エピソードが紹介されていました。アメリカ政府は国際テロ事件であったことから、他国の救援は一切受け付けていなかったのです。たった一例、日本人消防士の有志11人以外は。

 この日米の消防士たちはスポーツや研修を通じて親交があり、事件はメールで知らされた。事態はツインタワーの崩壊、仲間の多くが行方不明となっていた。普段は剛健な消防士の「助けてくれ!」という文字に11人は行動する。

 非常事態宣言の最中、現場へ入れる保証は全く無かったが、ともかく日本を発ったという。日本政府からの派遣ではない、個人として休暇を利用し自費で駆けつけたのだ。

 そして到着後、許可されずとも毎日現場へ通い交渉を続けたという。諦めずに通った11人は、帰国前日の最後の日にようやく許された。あの現場でアメリカ人に混じって唯一日本人消防士11人が救助活動を行っていたのです。

 番組の中で、双方の消防士は本当に輝いていました。その友情も美しいけれど、それが日本人であったことに見ていた筆者もつい誇らしく感動してしまいました。やはり行動に勝る支援はないのですね。



 今、「テロ特措法」の延長問題が政界を揺るがしています。小沢民主党党首は、とうとう外交問題までも政局にしてしまいました。その原則を無視した手法で、今世界から求められている「延長」を阻止されることになれば、日本はかつて湾岸戦争の時に行動せず、多額の支援金で済ませたばかりに、全く信用を失った。それ以前の状態に逆行してしまうのです。

 信用を失うことはたやすいことなのです。しかも個人ではなく国家の信用なのです。湾岸戦争以降、この上なく地に落ちた国際社会での信用を得るために、その後長く地道に自衛隊が努力を重ねてくれました。




□ 国際派日本人養成講座:気は優しくて力持ち ~自衛隊海外支援奮闘記
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog502.html

●「サマワの人々は彼らが『古きニッポン』の子孫として、愛情と倫理に溢れた人々であることを見出した。」

1.「東洋・アジアを代表してどうか頑張ってきてください」

 平成3(1991)年、湾岸戦争時にイラクがペルシャ湾に敷設した機雷を除去するために、海上自衛隊の掃海部隊が派遣された。ペルシャ湾沿岸で採掘された原油は、巨大なタンカーで日本を含め世界各国に運ばれる。そこに敷設された機雷は、世界へのエネルギー供給を脅かす存在であった。

 指揮官だった落合元海将補(当時、一等海佐)は、こう語っている。

 とにかくアジア各国は我々掃海部隊を大歓迎で迎えてくれましたよ。最初の寄港地フィリピンでもそうでしたし、またシンガポールでは軍の最高司令官から「東洋・アジアを代表してどうか頑張ってきてください。よろしくお願いします。そのための支援ならなんでもしますので遠慮なく言ってください」とまで言われたのです。またペナンでも、スリランカでも、そしてパキスタンでも同様の大歓迎を受けました。

 ところが、日本からFAXで送られてくる新聞記事に我々は目を疑いました。当時日本のマスコミが報じていたのは、我々が体験し、目の当たりにしているアジア各国の大歓迎ぶりとはまるで異なる「アジア各国の不安や対日警戒」なる虚構でした。結局、彼らはありもしないことを捏造して国内で報道していたわけです。我々は船上でこの事実を知って、怒りを禁じ得ませんでした。

 
 当時、日本の一部マスコミは、自衛隊の海外派遣は「アジア各国の不安や対日警戒」を引き起こす、という理由で反対していたのだから、こうした「不都合な真実」をありのままに報道するわけにはいかなかったのだろう。

2.「皆さんは大きな誇りである」

 しかし、初の海外派遣に、511名の隊員の士気はすこぶる高かったという。落合元海将補はこう振り返っている。

 派遣隊員の平均年齢は32.5歳でしたから、結婚適齢者が多かったんです。12月頃から準備して5~6月には結婚を考えていたのでしょうが、部隊のペルシャ湾派遣が決まるや凛然として任務を引き受け、挙式を延期してまでこの任務に参加した者もおりました。本当に頭が下がる思いでしたよ。

 娘の結婚式を欠席してこの派遣部隊に加わった年配の隊員は、結婚式が始まる時間に、掃海艇の後部甲板に立って祖国の方角に一礼していたという。

 掃海部隊は、ペルシャ湾の難所と言われる海域で、酷暑のなか、34個の機雷を処分して、各国のタンカーが安全に通行できるようにした。一人の死傷者も出さずに、これだけの成果を上げたことは、各国海軍を驚かせた。

 海上自衛隊の掃海能力は世界一と言われている。大東亜戦争末期に米軍が日本周辺に蒔いた機雷を今日までに約7千個も除去してきた。殉職者も79名に上る。世界でこれほどの機雷除去の経験と技術を持つ部隊は、日本の海上自衛隊をおいてない。だからこそ、国際社会からペルシャ湾への掃海部隊派遣を求められたのである。

3.「皆さんは大きな誇りである」

 日本は湾岸戦争で130億ドルもの拠出をしたが、金だけ出して血も汗も流さない姿勢は、国際社会で冷ややかに見られていた。現地の在留邦人も肩身の狭い思いをしていた。

 ところが、日の丸を掲げた掃海部隊がやってくるや、アラブ諸国は歓呼して迎え、在留邦人の子どもたちも他国の子どもからいじめられる事がなくなった、という。バーレーンでは在留日本人会が歓迎パーティーを開催して、「アラブの国で働く日本人にとって、皆さんは大きな誇りである」と挨拶した。

 掃海部隊が呉市の基地に帰還した際には、クウェートのアルシャリク駐日大使は呉まで出迎えて、こう述べた。

 機雷掃海の任務を終え、帰国されたことに感謝します。初めて日本が海外に自衛隊を送ったことの意味は、湾岸各国だけでなく全世界が高く評価すると思います。

4.「子供が病気になったと話すと必ず薬をくれる隊員がいた」

 ペルシャ湾掃海部隊の成功から、自衛隊のPKO(国連平和維持活動)派遣への道が開かれた。翌平成4(1992)年8月に「国際協力(PKO)法」が成立し、その翌月には陸上自衛隊の施設大隊が、戦乱から立ち直って民主選挙を控えたカンボジアへ派遣された。

 カンボジアは長く続いた内戦で、国道や橋梁が破壊されていた。明石康氏が代表を努めるカンボジア暫定機構(UNTAC)に、海空陸自衛隊から総勢1800人以上が派遣された。その中心となった陸上自衛隊1200人は、1年間の任務期間中に道路100キロを修理し、橋梁約40を補修した。地元の人々は自衛隊を大歓迎し、「日本の侵略行為の兆候」などと反対する者は一人も出なかった。

 当時のカンボジアは内戦の直後で、まだ危険な状態だった。実際にUNTACの選挙支援ボランティアとして活動していた中田厚仁さん、そして警察から派遣されていた高田警視の二人が命を落としている。そんな実情を無視して、野党の「自衛隊が現地にアジア侵略の不安を与えるのではないか」という「懸念」から武器としては小銃と拳銃しか携行できなかった。

 それでも陸上自衛隊の部隊の中には、PKOへの志願が定員の30倍に達した所もあった。

「日本の代表としてしっかり活躍したい。同じアジアの国の発展に協力できる事がうれしい」(陸二曹28才)

「当初は両親にも反対されましたが、国際貢献のためだからと必死に説得した。」(陸三曹30才)


 危険な地雷処理をしても、その手当は1時間で缶ジュース1本分、家族への電話代1分千円前後も自己負担。そんな中でも、明石代表が「カンボジアの民衆に愛され、この国の生活にとけこもうとする努力は、とりわけ目立ち、胸を打つものがありました」と評したほど、真摯な活動を続けた。

 住民の一人は「私の家はとても貧しい。子供が病気になったと話すと必ず薬をくれる隊員がいた。わたしは、UNTACの中で日本が一番だと思っている」と語った。

5.笑顔の「反自衛隊デモ」

 カンボジアへの派遣が行われている最中の平成5(1993)年5月には、アフリカのモザンビークへ陸海空自衛官48名で編成された輸送中隊、および、司令部要員5名が派遣され、平成7(1995)年1月まで続けられた。

 平成8(1996)年には中東のイスラエル・シリア国境のゴラン高原に輸送隊が派遣され、6ヶ月毎に部隊交替を行いながら、現在も継続中である。イスラエル・シリア両軍に挟まれ、ゲリラ活動と毒蛇やサソリに脅かされながらの活動は過酷な任務だが、現地の人々には心から歓迎されている。

 シリアやイスラエルの人々は、日本人に対して大変友好的で、町を歩いていると、よく「ヤパーニ、ヤパーニ(日本人、日本人)」と声を掛けてきて握手を求め、親愛の情を示そうとする。(太田明三等陸曹)

 平成14(2002)年2月から16(2004)年6月まで実施された国連東チモール支援団への約2300人の陸上自衛隊員派遣は、PKO史上最大の規模であった。

 東チモールでは、日本の一部マスコミが「期待」していた「反自衛隊デモ」がついに起こった。デモの参加者は「自衛隊帰れ!」と英語で書いた横断幕を持っていたが、不思議なことに、みな満面の笑顔だった。

 この光景を見た日本人ジャーナリストが真相を見破った。横断幕には「Japan Ground Self Defense Force(日本陸上自衛隊)」とあったが、地元の人は「Japan Army(日本陸軍)」と呼んでいて、「自衛隊」などという世界でも特異な名称は知らないはずだった。その横断幕は日本の左翼活動家が作り、地元民に渡したものだった。英語の分からない彼らは自衛隊を歓迎する横断幕だと騙されてデモ行進に使ったのである。

 ここまで姑息な策略をよくも考えついたものである。現地民衆が騙されたと知ったら、それこそ日本人への「不安と警戒」を与えるだろう。

6.ただ被災民のために

 自衛隊の国際支援活動としては、戦争・内戦の起こった地域での平和維持活動の他に、大規模な自然災害に見舞われた地域での救援活動がある。

 平成10(1998)年に、巨大なハリケーンによって壊滅的な被害を受けた中南米ホンジュラスへの部隊派遣がその皮切りだった。1ヶ月ほどの間に4千人を超える現地人の治療診察を行った。

 続いてトルコ北西部地震(平成11年)、インド地震(平成13年)、イラン南東部地震(平成15年)、インドネシア・スマトラ島沖大規模地震及びインド洋津波(平成16年)、パキスタン大地震(平成17年)、インドネシア・ジャワ島大地震(平成18年)と、地球上で毎年のように起こる大災害に自衛隊は救援活動を展開してきた。

 インドネシア・スマトラ島沖大規模地震では、派遣地バンダ・アチェで約3ヶ月に累計6千人を超える診療を行い、23百名近くに麻疹(はしか)のワクチンを接種した。防疫を行った地域は13万3800平米に及んだ。

 麻疹のワクチン注射まで行うのは、被災地の子どもたちを守ろうとする自衛隊ならではの真心のこもった活動である。こうした真心は、現地の人にもすぐに伝わる。5歳の子どもを連れてきた父親は「日本の自衛隊がこんな所まで来て、子供のために注射をしてくれて感謝している」と述べている。

 また防疫では、マラリアを媒介する蚊を駆除するための薬品散布を夕方や早朝の時間帯に行った。蚊が孵化する前の時間帯に駆除するのが効果的だから、というので、わざわざこういう時間帯を選んで、人知れず薬品散布を行う、という姿勢に、マスコミや衆目を意識せずに、ただ被災者のためを思う純粋な気持ちが込められている。

7.60余年ぶりに助けに来てくれた「日本軍」

 インドネシアで自衛隊医療チームが臨時診療所を設けると、そのニュースはたちまち島中に伝播し、それまで他国軍の診療所で診察・治療を受けていた被災者が自衛隊の施設に押し寄せた。「日本軍がやってきてくれた」とばかりに、患者数は日をおって増えていったという。

 診療にあたった医官の一人は、当時の模様をこう語っている。

 もちろん我々は一人でも多くの人々を救うために懸命に取り組みました。そしてそんな我々に地元の人々は心から感謝しているようでした。・・・独身の自衛隊員に「うちの娘をもらってほしい」と次々に申し出てくることもありました。とにかくインドネシアという国は歴史的な面からみてもたいへん親日的なのです。

 それもそのはずである。インドネシアはオランダの植民地として3世紀半にわたって搾取されてきた。それを昭和17(1942)年3月にジャワ上陸した日本軍がわずか10日間でオランダ軍を降伏させたのである。その際にはインドネシア人が積極的に日本軍の進軍を助けた。

 日本軍は3万5千人もの現地人将兵を育成して、今日のインドネシア国軍の基礎を作った。日本の敗戦後、再植民地化を狙うオランダ軍が襲ってきたが、2千人とも言われる日本軍将兵が現地に残って、ともに独立戦争を戦ったのである。

 現地から見れば、その「日本軍」が60余年ぶりに再び助けに来てくれたのである。

8.「日本軍を攻撃したら一族郎党を征伐する」

 地元民への真心の籠もった支援を行う自衛隊の姿勢は、イラクでもいかんなく発揮された。先遣隊の「ひげの隊長」佐藤正久1佐は族長たちから食事に招待された時は、現地の衣装をまとい、現地の人々と車座になって、右手で食べた。イラク人たちはその姿勢を「我々の伝統文化を尊重してくれる」と非常に喜んだ。

 ある有力な族長は「日本軍を攻撃したら一族郎党を征伐する」という布告を出した。佐藤1佐の帰国時には、別れを惜しむ部族長たちから、族長衣装と「サミュール(同胞)サトウ」というアラブ名まで贈られた。

 さらにサマワ住民約70名のデモ隊が「サマワ市民と自衛隊で安全な街を再建しよう」という垂れ幕を掲げて、自衛隊宿舎まで行進し、佐藤隊長に花束を贈った。

 こうして地元民の心をつかんだ自衛隊は、病院・学校・道路・橋梁などの復旧・整備、医療・給水支援など、黙々と人道復興支援を行い、ますます地元民の信頼と感謝を勝ち得ていった。

9.「『古きニッポン』の子孫として愛情と倫理に溢れた人々」

 地元の新聞は、自衛隊の活動をこう評した。

 日本国陸上自衛隊が県内に到着して数週間の内に、サマワの人々は彼らが『古きニッポン』の子孫として、愛情と倫理に溢れた人々であることを見出した。彼らは偉大なる文明を保持するとともに他の国家を尊重し、他国民の家庭や職業に敬意を払う立派な伝統を持っていたのだ。

 軍人は国民を守るために、時には自らの命を投げ出さねばならない。それゆえに、その「愛情と倫理」はどこの国でも道義のお手本として敬せられる。

 細やかな心遣いをしながらも、世界各地で力強い支援を展開する自衛隊は、日本で俗に言う「気は優しくて力持ち」という表現がぴったりである。その姿勢は国際社会に生きる国際派日本人としての立派なお手本と言えよう。
(文責:伊勢雅臣)



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【2007/09/11 13:06】 | 【筆者雑記】 | トラックバック(0) | コメント(4)
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コメント
そんな日本の消防士さんたちがいらしたとは全く知りませんでした。良いお話ですね。どんな金銭的な援助より、胸を打つお話です。

先月、オーストラリアに海上自衛隊の艦隊が立ち寄り、一般公開に行く機会を得ました。自衛官の方々の礼儀正しく親切なこと。サマワの方々のように私も「古き日本」を感じました。半年近くも家を離れ、お嬢さんの入学式に出られなかったとか、時差がある地域では家族になかなか電話も出来ないとか、南米では日本人の口に合う食材が手に入らず大変だったとか、様々なご苦労があるようです。
幹部の方は、自衛隊員のなり手がいなくて困っていると仰っていました。予算不足で、生活環境や給料もあまり良くなく、国民から感謝されるでもなく非難する人までいて、それでなりたいという人の方が奇特ですよね。自衛隊員として活動されていらっしゃる方々には本当に頭が下がります。
【2007/09/11 19:08】 URL | milesta #S4B2tY/g[ 編集]
milesta様

安倍総理の辞任と、大変残念なことになりました。たとえ小さな力でもと援護射撃をしていたつもりですが、事態は深刻となりました。この先が非常に心配です。
【2007/09/12 20:13】 URL | 娑婆妥場 #3.a9MHK6[ 編集]
この番組私も見ました。
さすが日本人、と思いました。困っている人、助けを求めている人がいたらほっておけないのが真っ当な日本人です。年配の方は鳶(江戸時代の火消しさん)のような方だなあと思いました。
自衛隊の活躍についても記事を拝見しているうちに涙が出てきました。
まず、困っている人たちを助けに行く、それが日本の国のためだから。この気持ちを全国民が持たなければいけないとはっきり思います。
もっと本当の報道をしてもらいたいですが既存メディアに期待はできないし・・・。
是非このようにして記事にして知らせてください。
【2007/09/13 21:33】 URL | さくらこ #-[ 編集]
さくらこ様

ほんとに日本のマスコミは程度が低いばかりか悪意がありますね。ところで、テレビ東京といえば視聴率が低いようだからもったいないなぁと思っていたのです。私も珍しく番組表をチェックしていて「あ。」と思い見てみると大当たりでした。ちゃんと調べると、中にはいい番組もありますものね。

自衛隊にはいつも泣かされます。もちろん感動で。昔の日本人の精神が自衛隊には引き継がれていますよ。
【2007/09/14 09:00】 URL | 娑婆妥場 #3.a9MHK6[ 編集]
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日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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