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阿部忠男さんの“シベリア抑留”最終回 -- 日本帝国バンザイ!
引揚船「興安丸」 ※ お蔭様でやっと最終回にこぎつく事ができました。遅々として進まぬ更新であったにも拘らず、根気良く見守り下さいましたこと、有難うございました。

 “シベリア抑留”と言葉にすれば簡単ですが、その実態、意味を知る日本人はまだまだ一握りに過ぎません。戦後60余年、この過酷な体験を余儀なくされた方々はご高齢となられ、その多くはすでに亡くなられています。

 阿部さんはおっしゃいました。やっとの思いで日本へ帰って来たものの、お偉いさんたちとは違って自分たちのような若い一社員への国からの補償は殆ど無いに等しく、また補償を求めて動いてくれる支援者も無かった。ましてや今となっては生き残っている者も少なく、何を今さらというところです・・・、と。

 筆者はお話をうかがいながら、阿部さんのシベリアでの不当な抑留生活におけるソ連への憎しみもさることながら、夢にまで見た祖国にまで不当に扱われたやり場のないそのご無念に、どうお答えすればよいのやらと心が痛みました。

 早期帰還者の多くが共産主義の洗脳の犠牲となり、舞鶴で心待ちにしていた家族の許へ帰ることもせず、そのまま日本共産党へ直行した者まであったのです。そしてにわかに共産党の議席が倍増するという時代でもありました。シベリア問題はタブー視され、帰還者たちは置き去りにされたのです。

 阿部さんにとって懐かしい故郷であっても、阿部さんを疑い、快く受け入れることをしませんでした。阿部さんの社会復帰は困難を極めることになりました。
 

●引き揚げの報道 (引用:舞鶴引揚記念館

 第二次世界大戦が終わった時点で、海外諸地域に残された日本人の数は、軍人・軍属が約320万人、一般 邦人が約300万人以上といわれていた。この人達の速やかな祖国への復帰は全国民の切なる願いであり、政府も当面 の国家的緊急課題としてこの大事業に取り組み、まず昭和20年9月28日、舞鶴をはじめ浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司を引揚湾に指定して業務を開始した。

 この膨大な海外日本人が一斉に日本内地へ引き揚げる様相は、まさに史上、その類例を見ない民族の大移動であった。こうして、昭和33年9月の最終船入港で幕が下りた13年間の海外引き揚げは、日本国内はもちろん全世界の注目を集め、一時は新聞・通信社、放送局、ニュース映画などの報道関係75社、約1,000人とニューヨーク・タイムス、AP通信など数多くの新聞、放送関係の記者、カメラマンの取材によって内外に報道された。特に舞鶴はこの間、66万人を越える引揚者を受け入れ、更に昭和25年に函館、佐世保両引揚援護局の廃止後は国内唯一の引揚湾として最後まで重要な役割を果たした。








□ 阿部忠男さんの“シベリア抑留”最終回 -- 日本帝国バンザイ!

 ---- 朗報

 長い長い、厳しい厳しい、流転の日々を送ってきた私たちに、朗報がもたらされた。日本人だけのエタップである。今までの囚人列車と違って、客車での“客人”扱いである。

 本当に夢のような話である。信じられない、帰国できるのだ、この夢よどうか壊れないで、そして覚めないで、何度も何度も吾が身をつねって真実であることを確かめた。

 “これでやっと開放されるのだ”という安堵感をもっての、シベリアの汽車の旅は素晴らしかった。走っても走っても何百キロと続く大密林地帯・・・、そして国営農場のジャガイモ畑が延々と続いた。

 本当に夢のようだ。極めつけはバイカル湖の“だだ広さ”を実感したことである。列車の中は和気あいあい、話は“ぼた餅”であったり“寿司”であったり、もっぱら食べ物が中心であった。

 車窓から見える広大な湖が、目に入ってくるすべてのものが、そして晴れ上がった空が、みんなみんな私達の前途を祝福してくれているように思えた。

 懐かしい流行歌を口ずさむ者も現れ、本当に華やいだ和やかな同胞の夢を乗せて、列車は集結地“ナホトカ”へ向けて、軽やかな車輪音を残しひた走っていった。

 ---- ナホトカで3ヶ月間

 集結地ナホトカの収容所は、港を眼下に一望できる小高い丘の上にあった。ここで日本からの船を待つため3ヶ月ほど待機することになる。この間、休養をとり、十分な食事が与えられ、“健康を回復”してから帰国させるらしい。

 毎日、作業もなく各人思い思いの時間を過ごした。帰国に備えての英語、ダンスのレッスン、踊り、唄、詩吟・・・等々、その点では有識者の集まりであり先生には事欠かなかった。どれもリラックスしての自由参加、帰国への心の準備が着々と進められていった。

 そんなある日、ひと足先に着いていた私達が迎えたのは、5年前“アルマ・アタ”で別れて以来の再会となった、電々社員を含めたハバロフスク組の集団でした。

 同僚との久しぶりの再会に、お互い元気で良かった、良かったと、涙、涙のうちに抱擁と握手を繰り返した。ここでも、親しくしていた複数の同僚の死亡を初めて知り、本当に悔しい思いをした。

 帰国を前にして帰らぬ人となった同僚の無念と哀れを悔み、深い哀悼を捧げました。

 それにひきかえ幾多の苦難はあったが、飢えに耐え、屈辱に耐え、過酷な労働にも耐えて、今、自分が元気でここにいる、なんと幸せなことだろうと痛感いたしました。

 ここで、長い間シベリアの山奥に取り残されていた私が、いかに“浦島”になっていたかについて、ちょっとふれておきたいと思います。

 5年前にハバロフスクに集められた政治犯の9割にあたる日本人は、前にも述べたように日本人だけの集団生活をおくり、その当初から日本との文通、小包の受け取りも許されていたようであった。

 日本から同僚に送られた、缶詰やお菓子の容器に貼られたラベルの色の鮮やかさに目を見張った。なんて美しいんだろう!・・・それは、8年間の隔絶された殺風景な所でばかりの生活で、鮮やかな“色彩”に飢えていたからだと思いました。 

 また、これは笑い話のようですが・・・、友人から一枚の“ナイロン風呂敷”をもらいました。これを初めて見た私は、なんと肌触りの良い、美しい、そして薄い素材でできた、こんな素晴らしいものが日本で作られているのかと実感、感激しました。

 その数日後のこと、収容所にある売店で働いている女の子に声をかけられ、私の持っていた風呂敷と「白パン1本にバター1箱と交換してほしい」とせがまれた。

話を聞くと、スカーフとして使うらしい。私としては白パンといわず黒パンでもよい。とにかく“腹一杯食べたい”と何年来思い続けてきた夢であった。入ソ以来一度も口にしたことのない“白パンとバター”が食べられる。悪くない話なのでこれに応じようとしたが、考え直した。

 今は状況が変わり空腹でもない。せっかく友人からもらった立派なものを手放しては申し訳ない、と思い断った。その時の女の子の悔しそうな顔・・・。

 帰国してから私の無知と馬鹿さかげんが分かりました。このナイロンの風呂敷、2枚100円くらいだったと思います。

 ---- 引揚船「興安丸」

 ナホトカ港に日の丸を掲げた「興安丸」がその姿を現した時の感激、嬉しさ、それは到底言葉では表せません。

 乗船当日、タラップから1歩、甲板に足を踏み入れた時の感動・・・「お帰りなさい、お帰りなさい、ご苦労様でした」と温かく迎えてくれた日赤看護婦さんの優しい言葉。

 ただ、「ありがとう」と一言答えるのが精一杯。あとは、まともに見ることができませんでした。どれだけの涙が出ただろうか。おそらく何年分か溜まっていた涙が、一度に堰を切って流れ出したような気がしました。

 この時に受けた感動は、終生忘れることはできません。今でも瞼を閉じれば、鮮やかな“日の丸の小旗”と“看護婦さんの美しい笑顔”が、昨日の事のように鮮明に浮かんできます。

 乗船が終わると鈍い汽笛を残して、半分薄氷に閉ざされたナホトカ港を滑るように出航した。

 船内では心尽くしの“赤飯”、数年来夢に見た日本食の数々が“尾頭付きの鯛”と共に並んでおり、早速に祝宴が始まりました。

 すべてが夢のようだ、本当に生きていて良かった、これで日本に帰れるのだ、長かった、辛かった、悪夢よさようなら・・・。久しぶりに頂いた日本酒に酔いしれ、心尽くしの料理に感激し、そして舌鼓を打った。

 入ソ以来、一度も口にできなかったアルコール、ちょっと度を越したようである。この酔いを醒まそうとデッキに出た。どうもまだソ連領海のようで、軍用艦がピッタリと横について警戒に当たっている。

 それから20~30分の後、どうやら公海に出たようである。これで正真正銘の自由だ。やっとソ連という国から解放されたのだ。

 この時点で初めて、乗船名簿が日本に向けて打電された。この事によって、8年間生死不明のままだった私の消息も、家族の許へ知らされた事になりました。

 私はこの時、氷点下の寒さも気にならず、下着のままで上甲板に上って行った。今まで伴送して来たソ連艦が、汽笛を合図に興安丸から離れ次第に遠ざかって行く。

 この船に向かって「ソ連のバカヤロー!」、そして東に向かって「日本帝国バンザーイ!」と、声を限りに叫びました。


 -- 終わり --







 ※ 学校の教科書で、このシベリア抑留についてどのように記載されているか。それはほんの数行で、例えば「新しい歴史教科書」をもってしても、

 「ソ連は日ソ中立条約を破って満洲に侵入し、日本の民間人に対する略奪、暴行、殺害を繰り返した。そして日本兵の捕虜をふくむ約60万の日本人をシベリアに連行して、過酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させた。」

 一枚の絵が添えられているものの、たったこれだけの表現で終わりです。教科書には字数の制限や教科書検定の規定という枠がある上に、教える立場の教師の扱い如何で、生徒の記憶に残るのは“シベリア抑留”という言葉だけのように思います。

 せん越ではありますが、歴史を教える教師には、その時代その時代の我々の先祖が、迫り来た事態をどう捉え、どう悩み、どう考え、どう行動したのか、その心情に重点を置き、生徒たちが我が事として学び取れるように授業をしていただきたいと思います。

 何を隠そう筆者は歴史が苦手でした。年数と出来事を羅列し、暗記するだけの歴史の授業には全く興味がわかず、つまらなかった記憶しかありません。ましてや特にこの第二次世界大戦あたりの授業は、「期末テストが始まるから、あとは各自で読んでおきなさい」と軽く流されただけのように記憶しています。

 しかもそれら教えられた日本の歴史は自虐的で、結果“戦前”の印象は暗いイメージに閉ざされ、戦後こそが平和で正しいと教えられました。中でも印象に残る代表的なものは、「今後何があっても憲法9条は守らねばならない。日本がもしあのまま戦争に勝っていたとしたら、今頃とんでもない国になっていただろう」と脅され、9条を守るよう誓わせられたことです。

 今思えば、あの時代こそ、つまり幕末から昭和にかけての時代こそが、日本が初めて世界史に登場し、日本史において最大の国難の時代であったのです。いやまだ、その国難は続いていると言えます。まだまだ日本は、戦後体制(占領下体制)の蜘蛛の糸から脱却できないでいるのですから。あんな教育が今も続いているのですから無理もありません。

 我々の父祖はその最大の国難に真っ向から立ち向かい、辛うじて日本を残してくれました。熱戦は終わったけれど、その国難は今や見えない形で私達の傍で闊歩しています。これを子孫にまで先送りさせるわけにはまいりません。

 さて最後に、去る4月11日にご逝去になられた、故 名越二荒之助先生の最後に詠まれた和歌をご紹介して終わりにしたいと思います。筆者は名越先生から多大なる影響を受けました。そんな方は多いと思いますので、先生の詳しいご紹介は割愛させていただきます。

 昨年の秋のある日、夜空に浮かんだ美しい月を見て詠われ、今年の歌会始に出品されたものだそうです。先生も5年間のシベリア抑留から帰還されています。

 お題 「月」 名越二荒之助
 シベリアの荒野に眠る英霊を 忘れず照らせ今宵の月も




 ● これまでに参考にしたサイト
 ・舞鶴引揚記念館
 ・平和祈念展示資料館
 ・平和祈念事業特別基金 戦後強制抑留史
 ・『異国の丘』とソ連・日本共産党
 ・国際コミュニケーションプレゼンレポート:国際コミュニケーション(8)
 ・第018回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号
 ・日ソ戦争 地図・ソ連の歴史教科書
 ・JOG(297) 近衛文隆 ~ ラーゲリに消えたサムライ
 ・旧ソ連抑留画集
 ・大礒正美研究室 コラム「よむ地球きる世界」:ソ連の北海道占領計画を知らしめた久間発言
 ・同上コラム:問題な(カイロ・ポツダム文書の)日本語
 ・満洲国の地図
 他、複数の「抑留者の証言」サイト等
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【2007/07/19 19:25】 | 【証言】 阿部忠男さんの“シベリア抑留” | トラックバック(0) | コメント(4)
<<参院選を終えて -- 小沢一郎という政治家 | ホーム | 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その6 -- 収容所生活の中で>>
コメント
おかえりなさい。
8年もの長い年月をよくぞ耐えてこられてのご帰国 本当にようございましたね。
>日の丸の小旗と日赤看護婦さんの優しい笑顔
思わず涙が出ました。
>ソ連のバカヤロー!日本帝国バンザーイ!
同感ですね。

アメリカで収容所に入れられた日系移民にはずいぶんたってからですが補償が出たとか何とか聞きますがソ連を引き継ぐロシアはそんなことは考えもしないのでしょうね。

歴史教育は本当に酷いことをしていると思います。
私はずいぶん大人になるまで東郷平八郎を知らなかった!のです。
受験は日本史、世界史で受けたんですよ。 歴史が好きであれだけ勉強したのに何で東郷さんを知らなかったのか。
日露戦争のことは知っていたはずなんですが今から考えてもどうして抜けていたのか分かりません 。情けないことでした。

9条を守るよう誓わせられたというのはすごいですね。
中学の時左翼がかった音楽の先生にアリラン、平壌我らのふるさと、など今も歌詞を覚えていますが北朝鮮礼賛の歌などを当時はそれと知らずに教えられていたんです。アウシュビッツの写真なども見せられ戦争反対という意味だったのかなあ 真意は分かりませんが音楽なのになぜこんな写真集を見せるのだろうと思っていました。
当時反発して先生の言うことを聞かない子がいて不良だなあなんて思っていたけれどなんのその子たちのほうがよほど私より目覚めていたということです。

これはおかしいと思い自分で勉強を始めなければ何も得ることができません。
60年たってやっといろいろなことが、真実が、語られ始めているようです。沖縄のこと、ヴェノナ文書、等々中西輝政氏の「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」PHP新書より
今からもっと多くの真実を確定する文書の公開などが始まればより本当のことが分かっていくでしょう。 でもその頃には現実に戦前、戦中を経験した人は確実にいなくなってしまいます。

娑婆妥場さん、こんな貴重な体験談をまとめて世に出してくださったことに感謝いたします。
私も何らかの形でこのことを広めるお手伝いをしていきたいと思っています。

またいろいろなことを教えてください。期待しています。
【2007/07/20 23:29】 URL | さくらこ #-[ 編集]
さくらこ様ありがとうございます。

この連載の約1ヵ月半の間に、お蔭様でシベリア抑留問題についてさまざまな角度から調べることができました。
もしソ連の崩壊が無ければ、ソ連公文書はもとよりヴェノナ文書の公開もなかったでしょう。いまだ公開されない最高機密文書については少なくともあと40年はかかるとされています。
その頃には私自身もこの世には確実にいません。今やれることを、その優先順位を間違えないようこれからも自戒を込めて頑張りたいと思います。
今まさに、これまでいたずらに日本を貶め、負の部分のみを拡大強調してきた歴史教育を顧み、真実を基調とする歴史の再考の微風が吹いています。
その微風をなるべく余さず共有したいと考えブログを始めました。
私はさくらこ様と同じ立場にあります。学ぶべきは自分自身にありますので、今後ともご指導宜しくお願い申し上げます。
【2007/07/23 10:42】 URL | 娑婆妥場(管理人) #3.a9MHK6[ 編集]
やっと日本に帰ってこられましたね。だけど、帰ってこられなかった方も多くいらして、そのことが今の日本人にはあまり知らされていない。ここに連載されていたようなシベリアでの境遇についても、やはり知らされていない。
ブログでこうして公開されるのは、とても意義のあることだと思います。本当に貴重な記録をありがとうございます。

教育の問題は本当に大きく、これを直していくのには一体どのくらいの年月をかければいいのでしょうね。
【2007/07/24 23:04】 URL | milesta #S4B2tY/g[ 編集]
milesta様

ありがとうございました。
milesta様に背中を押され、さくらこ様に励まされたからこそ、なんとか最終回にこぎつけたものと思っております。
これでこのブログがインターネットに存在するかぎり誰かの目に触れることができます。
さくらこ様がおっしゃるように「これはおかしいと思い自分で勉強を始めなければ」知ることができない、現在の学校教育の歪みを、一日も早く是正させなければなりません。
これは教える側の毅然とした覚醒が絶対条件であり、占領下の「教科書の墨塗り」を代表とする戦後体制からの脱却が最も重要であります。
それが叶わないかぎり、日本は亡国への道から外れることはできません。
確実に脱却へと一歩でも前進するほかに道はないと思います。
【2007/07/27 13:07】 URL | 娑婆妥場(管理人) #3.a9MHK6[ 編集]
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しゃばだば近代国史帖


日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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Author:娑婆妥場
この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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