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阿部忠男さんの“シベリア抑留”その6 -- 収容所生活の中で
ラーゲリ分布推測図 ※ 左の画像は阿部さんの手記に含まれていたラーゲリの分布図です(クリックで拡大)。その数字もやはり推察の域を出ないものなのですが、ソ連領内全体での総数は2000ヶ所を下らないであろうとのこと。スターリンは第一次及び第二次世界大戦で荒廃した国内を復興するために、自国民に加え複数多数の他国民を拉致しこれに充てていたことになります。

 そしてもうひとつ、スターリンの思惑にはレーニン以来の「世界共産主義革命運動」があります。

 日本人抑留者の祖国への返還は早期の者で4~5年かかり、その後長期の者は3年の空白の後に第一次が8年後、最終で11年後と実にだらだらと後ろ向きな対応に始終しました。

 その間の日本政府の対策は、GHQ占領下であり独自主導とはいきません。また、終戦後、昭和22~3年頃からの米ソ冷戦の勃発で、大戦時は連合国であった米ソがにらみ合っていたのですから、なおさらのこと回り道でした。

 それに加え、スターリンの思惑が邪魔をします。コミンテルン主導の下に結成された日本共産党の存在です。抑留者の返還の遅れの影で日本共産党が暗躍していました。

管季治の国会証言内容(『はるかなるシベリア―戦後50年の証言』北海道新聞社、1995年、P.70)
 「収容所長の訓示に続き、抑留者の一人が『われわれはいつ帰国できるのか』と質問した。軍政治部将校のエルマーラエフ上級中尉が答え、菅が通訳した。のちに国会に呼ばれた彼は、問題の言葉を次のように訳した、と証言した。『いつ諸君が帰れるか、それは諸君自身にかかっている。諸君はここで良心的に労働し、真正の民主主義者となる時、諸君は帰れるのである。日本共産党書記長徳田は、諸君が反動分子としてではなく、よく準備された民主主義者として帰国することを期待している』」 


 引用文を見ておかしなところがありますね。「よく準備された民主主義者」とはどういう意味なのか。それはすなわち「共産主義者」のこと、抑留者の大半がこの共産主義者への転換のための「洗脳」に悩まされました。「民主化」と称する「共産主義化」でした。

 さらに抑留者の返還の遅れが日本共産党書記長からの希望を根拠にしているくだりがありますが、それはさすがに関係はないだろうと思われます。なぜなら日本共産党はコミンテルンの配下であって対等ではないのだから、スターリンのソ連に尻尾を振っていただけのことで、それが有ろうが無かろうが抑留者を積極的に返還する気は全く無かったと思われます。しかし、日本共産党が同胞である抑留者を共産主義革命の道具としてしか見ていなかったことは間違いないことです。

 阿部さんご自身は、洗脳されることはなかったとのこと。しかし、民間人でありながら囚人とされたのです。抑留者とは言ってもさまざまなタイプがありました。収容所での待遇もさまざまで、労働はなかったが禁固され、他者との一切の接触を遮断された者もありました。驚くことに女性の抑留者まであったのです。(今回の手記に出てくる女囚は日本人ではありません)

 




□ 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その6 -- 収容所生活の中で

 ---- さまざまな民族性

 収容されている外国人はさまざま。日本人、中国人、朝鮮人、モンゴル人、カザフ人、キルギス人・・・ウズベック、トルクメン、ウクライナ、ポーランド、ラトビア、リトアニア、エストニア、ドイツ、ルーマニア、ハンガリー、チェコ、白ロシア(ベラルーシ)、ロシア、グルジア・・・等々まるで民族博物館のようでしたが、その内の7割は、ロシア、ウクライナ、ポーランド人で占められていた。

 これらの人々と数年間生活を共にしていると、それぞれの民族性、考え方、お国柄に違いがあり興味を持った。

 それでは、これらの人々の国民性(民族性)の一端を、私が見たまま感じたままに述べてみたいと思います。

 朝鮮人:
 愛国心が強く、いついかなる時も団結して行動することによって、物事を有利に処理するという優れた民族だと思いました。

 中国人:
 実に商売上手。収容所で配給されるパンや新聞紙、10グラム単位で受け取る砂糖やタバコ等を、交換したりこれを仲介することによって、その利ザヤを稼ぐ商才がある点が共通しており、これはたぶん“華僑”の血を受け継いでいる証だと思いました。

 モンゴル人:
 実に大らかで、物を非常に大切にする人なつこい民族だとの印象を受けた。これはふだん放牧で生計を立てている人が多く、ポウ(移動家屋=ゲル)での生活から生まれる習慣からくるものだろうと感じました。

 カザフ人・キルギス人:
 とにかく日本人に、顔かたちや動作までが良く似ているので親しみやすく、大和民族のルーツではなかろうかと思ったのは私一人ではなかったろうと思います。

 ウズベック・トルクメン人:
 体格が良く陽気で踊り好き。屈託がないこれらの要素が長寿国につながっているのでは、と思いました。

 ポーランド人:
 比較的に“武士は食わねど”というタイプの紳士が多く、日本人に対しては好意的で、「君たちは祖国があってうらやましい。我々の前途は暗いが、日本人は刑期の長短に関係なく早い時期に帰れるだろう」とよく励ましてくれた。

 ドイツ人:
 私が接したドイツ人は、たとえ戦争に負けてもドイツ民族としての誇りを持ち、毅然とした態度でソ連当局の不手際や要求を掲げてこれに立ち向かっていた。また、申し合わせたようにロシア語を使うことを嫌い、通訳を通して自国語で堂々と振舞っていた点など、日本人として学ぶべきところがたくさんあったように感じました。

 ロシア人:
 今まで色々と述べてきたように、ソ連という国にはヘドが出るほど嫌いで恨み骨髄に達する怒りを覚えますが、これはすべて指導者と政策が悪かったもので、今から述べるロシア人は親しみのもてる民族でした。

 気取らず大らか、あまり物事、特に物に執着しない。日本人には特に同情的で、作業面でも軽い仕事を選んでやらせてくれる等、親しみやすい民族だったと思います。が、ドイツ人に対しては敵愾心をもって接していたように見受けられた。

 また、家族からの小包が届いた時など、「日本人、来い」と呼び寄せて、一緒にご馳走してくれることも時々あった。今日良ければ明日の事はどうでも良い、という投げやり的なところが気になったが、これは社会主義体制のひずみが、彼らの気持ちをそうさせているのではないかと見受けられた。

 ラトビア・リトアニア・エストニア:
 この、バルト三国の民族は排他主義の典型のような民族で、他民族との交流を極端に嫌っていたように思う。当時、小国ながらも経済的に恵まれていたのか、どの民族よりも祖国からの小包が多かったように思えた。

 収容所内に食べ残した食品を預かる倉庫があり、その中で「腐食して困る」のが、決まったようにバルト三国からの預かり物であったと聞かされていた。腐るほど物があっても他人に分け与えることをしない、呆れた国民性である。

 しかし、この批判は的を得ていないかも知れない。それは、日本人には最後の最後まで小包はおろか葉書一枚出すのも許されていなかったので、これを妬んでの偏見があったやも知れません。

 日本人:
 最後になりましたが、日本人は案外個人主義的で、自分に直接関係無い事には手を貸そうとしないが、自分に有利になるだろうと思う事には積極的に動く。どう贔屓目に見ても利己主義者の集まりで、今まで戦争に負けた経験も無ければ耐乏生活にも慣れていないせいか、自分本位で秩序の無さをあらわにしていたように思い、同じ日本人として少し淋しい思いをさせられました。

 耐乏生活の中で色々の人種と出会い、さまざまな人とのふれあいの中で得たことは、「人間、苦境に立たされ、孤立無援で裸になった時、初めてその人の真価が分かる」ように思いました。


 ---- よく使われたロシア語(囚人語)

 ここで、私達の起居していたラーゲリ内の様子と、日常使われていたロシア語について少しふれてみたいと思います。

 多くの人からよく、「長い間シベリアにいたのだからロシア語はペラペラだろう」と訊かれますが、とんでもありません。戦前に教わった初歩の日常会話の域を少しも出ておりません。

 もちろん、戦前の仕事柄、読み書きはある程度分かると言っても、ロシア語の新聞であればその2~3割ほどの理解にとどまり、テレビのロシア語放送だとか要人のしゃべるロシア語等、全くと言っていいほど解りません。

 ラーゲリ内では、それまでに習った“美しいロシア語”は全く不必要な言葉として使われることはありませんでした。例えば、“おはよう・こんにちは・おやすみ・すばらしい”など、このような簡単なそして美しい日常会話など、ついぞ一度も使われることも聞いたこともありませんでした。

 これに変わり、多くの民族の共通語として使用されたロシア語というより“囚人語”は、ごく限られた20~30の単語で事足りました。では、この囚人語の内、日常よく使われた言葉について若干説明してみます。

 一番良く使われた言葉に“ダモイ”(帰国)、この言葉は抑留期間中、毎日のように、耳にタコができるほど聞かされた。

 “スコーロダモイ・ヤポンスキー”(日本人はすぐ帰国できる)、これは慰めの言葉に違いありませんが、これだけの大嘘を飽きることなく、しかも平気でよくつけたものだと思いました。

 ソ連当局は日本人の顔を見ると「スコーロダモイ、スコーロダモイ」と、この言葉を連発した。スコーロ、スコーロ(すぐ、すぐ)が、実現するのに8年かかりました。

 次に良く使われた言葉に“ダワイ”(さあやれ)という命令形の言葉ですが、これ一つで大方の意味が通じる便利な言葉で、“来い・行け・座れ・よこせ・物を渡せ・作業にかかれ”等、何にでも使われた。

 次は囚人生活にピッタリで、最も日常に多く使われた言葉に“ヨッポイマーチ”、正しくは(イブ・トバイ・マーチェリー)、直訳すると「汝の母を犯せ」。なんと物騒な言葉ですが、これは人を罵倒する時に使う。“畜生・阿呆・くそったれ・バカヤロウ”等、囚人の間では日に何10回となく口にするごくありふれた言葉である。

 次に良く使われた言葉に“ニチェボウ”。“なんでもない・大丈夫だ・平気だ・結構だ”、これは諦め観を表現する代表的な言葉で、中国語の“メンファーズ”にあたる。

 その他にも色々ありますが、皆様がお聞きになってもあまり興味がわかないと思います。例えば、男性器や女性器等の卑猥な言葉を、何の臆面もなく、いつでもどこでも平気で口にすることができる“独特の世界”であったのです。

 最後に、せっかくですので“スパシーボ”(ありがとう)、この一語だけ覚えて帰ってください。スパシーボ!

 ---- その他、諸々のこと

 自治管理について
 ラーゲリ内の自治管理は、その殆どを囚人に任せいているが、「プロトヌイ」と「スーカ」という2派のヤクザが顔をきかせ、ラーゲリ内の要所を殆ど支配していた。すなわち一般囚人からのピンハネにより悠々と生活していた。

 文字通り弱肉強食の世界であったがその反面、彼らによりラーゲリ内の秩序が保たれていたということも事実であった。

 特権階級について
 ラーゲリ内の特権階級とは、炊事場・パン配給所・散髪・被服係・靴修理・洗濯・風呂・掃除、このような所で働く人を言う。

 彼らは食事が腹一杯食べられ、室内作業の上に仕事が楽である。これらで働く者の人事権も、当局とグルになっているヤクザが全部握っていた。弱い立場の一般囚人は、これらの仕事に就くことは容易なことではなかった。

 収容所の移動について
 同じ収容所で長く生活する事によって広がる弊害を無くすため、囚人の移動が頻繁に行われたが、あまり効果が無かったように思えた。それは、どこの収容所に変わってもヤクザが顔をきかせ、弱い立場の囚人はいつでも惨めな生活を余儀なくされていたからである。

 病院と医者について
 収容所では半年に一度の身体検査が行われたが、これが実に滑稽である。医者が持っている聴診器は木製で“おもちゃのラッパ”のような代物で、これを使っているところはお目にかからずだが、囚人一人一人のおしりを指でひねって、その肉付きを確かめ、1級から3級までの等級が決められる。

 まるで家畜の品定めをするようである。この判定によって、1~2級になった者は、否応なしに労働に駆り出される。運良く3級になった者は、収容所内の雑役に就くことになる。

 この人たちは幸運である。以後6ヶ月間は労働から解放され、しかも基準食が約束されるからである。この間に健康が回復、肉付きもやや良くなるので、次の検査で格上げされることになる。

 また、囚人が病気のため作業休みをもらうには、朝早くから医務室に並ぶ。その場合、高熱があれば認められるが、日本人に多い神経痛やリューマチ等は、熱をともなわないので“仮病”とされ一切認められない。

 また、面白いことに、病人にその日の“定数”が決められており、これをオーバーすると、よほどの重病人でない限り休みが認められなかった。  


 先頃、長い海外生活を終え帰国したソルジェニーツィンの著書『収容所群島』により、初めてその“鉄のカーテン”内の収容所の実態が、世界に向けて明らかにされた。

 私も友人から借りてむさぼるように読んだ。それによると、私たちと同じ時期に囚人としてラーゲリ生活を送っていた。氏の書いている収容所内の様子、過酷な労働の実態など、その文章の一つ一つが当時の思い出と共によみがえり深い感銘を受けました。今まで国内事情がすべてベールに包まれ公表されなかっただけに、その反響も大きかったと思われます。 

 ---- ペレシルカ(中継基地

 バム鉄道の分岐点の街タイシェットに、ブラーツクまでの約300kmの間に点在する約80ヶ所の収容所を管理統括する“ペレシルカ”(中継基地)が設けられていた。

 前に少し述べましたが、ラーゲリのエタップ(移動)は 頻繁に行われた。これは囚人を同じラーゲルに長く滞在させることから生じるであろう諸問題への対策で、ラーゲリ内の秩序維持と、付近の地形その他の状況を知られることによって逃亡される危険性が増すのを未然に防ぐ狙いがあったとされる。

 一つのラーゲリには、1000~1500人の囚人が収容されていた。エタップは約100人単位で月に1~2回行われ、一つのラーゲリの全囚人の入れ替えを終えるのに約1年かかった。

 このペレシルカの滞在期間は3~10日間で、あの過酷な労働から解放される貴重な貴重な日々で、それは正に“砂漠の中のオアシス”に例えられると思います。

 ここでは毎日のように囚人の出入りがあるので、何年も会っていなかった同僚にひょっこり出会うこともあり、お互い無事であった事を喜び確認し合うと共に「帰国の日まで元気で頑張ろう」と励ましあったものである。

 この地域に点在する収容所の約2割は、女性だけの収容所だと聞かされていた。この女囚たちも同じように定期的なエタップがあり、このペレシルカで合流する事になる。

 もちろん、収容される建物は別々であるが、その出入りはあまり厳しくないようであった。そこで今からお話しするような場面が、決まったように繰り広げられた。

 私が始めてこのペレシルカに収容された当日のことである。部屋の広さは30畳ほどで、約30名が自由に横になれるほどのスペースであった。

 それぞれが自分の居場所を確保し終わった時のことである。関東軍の防寒服で男装した女囚が2人、すーっと部屋に入ってきたかと思うと私の横にあった隙間に割り込んで横になった。

 女囚は下着を全然つけていないばかりか、女性自身を誇示し手まねきで挑発する。これを待っていたかのように、先を争って男囚がこれに応じる。周囲を気にすることもなく、目の前でやられるので厭でも目に入る。

 これによって女囚も男囚と同じように、入浴時の剃毛が証明された。複数の男囚を相手に満足した女囚が去って行く。暫くしてまた別の女囚がやって来る。かくして行為が続けられる・・・。

 私の場合、4度このペレシルカに滞在したが、その都度同じ修羅場を見せられる事となりました。シャバにあってはこのような刺激的な場面に出くわす事はまず考えられないと思いますが、情けないことにこの千載一隅のチャンスに私の性的な反応はゼロでした。

 その時の年齢は25歳前後、“衣食足りて礼節を知る”という言葉がありますが、人間というもの食が足りてなければ欲望も邪推もわいてこないということを、身をもって体験することとなりました。

 男女の交わりがあれば当然の如く妊娠・出産ということになりますが、この場合いかにもソ連らしい措置がとられた。妊婦は作業を免除され、出産後は育児施設に移され減刑される。また、母親が子供を欲しない場合、子供は国の施設で面倒を見てもらえるらしい。

 この間、妊婦に対する道義的な責任の追求も無く、寛大な措置がとられるらしい。このようなことは日本では考えられないことで、さすが“囚人の国ソ連”らしいやり方だと感心させられました。

 






 
 ※ 冷戦について。冷戦の反対語は熱戦。その違いは武力を持って戦うか否かにあります。俗に言う「東西冷戦」とは「米ソ冷戦」のことです。主体は日本にありません。主体を日本にすると、日ソ冷戦は大戦前からありました。厳密に考えるとそれは、大正12年に日本共産党ができた時点で勃発していたと考えられます。

 その3年後の昭和元年に、日ソ国交樹立に伴い「治安維持法」が制定されました。日本国内にソ連大使館を設置することで予想される、共産革命の諜報・謀略の加速に対処するものでした。

 現在も日本は、東アジア諸国との間で、つまり中国・ロシア・北朝鮮・韓国との間で冷戦状態にあると筆者は認識しています。そこには領土問題と拉致問題という紛争が存在するからです。ロシアとの間では、シベリア抑留の問題も解決していません。

 これらの状況を踏まえると、戦後廃止させられた「治安維持法」の復活を望むところです。それ以前に憲法改正、本当のところは新憲法の制定なのですが・・・。山積された戦後体制からの脱却の諸項目を加速させるためには、安倍政権の長期化が必須だと思います。そのためには、近々の参議院選で自民党に圧勝していただきたい。

 当ブログにおいて、政治についての云々はなるべく避けたかったのですが、歴史と政治は切っても切れない関係のようで・・・今般の参議院選がとても気がかりです。国が倒れては年金などそれこそ消えてしまうのですから、年金問題に始終して選挙を有利に運ぼうとする野党の見識の無さと、それを煽るマスコミが本当はどこを向いているのかを・・・。もうやめましょう。(笑)

 今回の手記内容は前回までと違い、次回いよいよ日本へ帰還となることへの「夜明け前」のような軽快さを感じました。そこで、筆者の解説部分では、軽く読み流せないように抑留問題の根幹にあるものを提起させていただきました。

 日本における開国以来の日清・日露・支那事変を含む大東亜戦争とは、世界史的に見てまさしく、ソ連の覇権である世界共産革命運動と欧米列強の人種差別的覇権の狭間で吹き荒れた、とてつもなく巨大な渦に巻き込まれた運命的な悲劇であったと考えます。

 次回はいよいよ最終回。いっしょに日本へ帰りましょう。

 
 
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【2007/07/12 16:44】 | 【証言】 阿部忠男さんの“シベリア抑留” | トラックバック(0) | コメント(4)
<<阿部忠男さんの“シベリア抑留”最終回 -- 日本帝国バンザイ! | ホーム | 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その5 -- 囚人ラーゲリ>>
コメント
お久しぶりです。
ずっと読ませていただいているのですがあまりに過酷な体験がつづられており、何も言えなくなってただただ読ませていただいてました。
今回は収容所生活で出会った様々な国の人々の国民性をあげておられおっしゃるとおりほっとさせられました。
次は最終回、いよいよ帰国ですね。
それにしてもロシア人は個人的につきあうといい人なんでしょうがまあどこの国の人でも同じだと思うのですが共産主義に犯されるともうどうしようもなくなってしまいますね。
「世界共産主義革命運動」から日本を守るために治安維持法ができたこと至極当然に思います。共産主義ほど恐ろしいものはないと思います。今の日本人にはその恐ろしさが分からないのかその中に組み込まれたいのか理解できない言論界と教育界の活動があります。
選挙も気になりますね。自民党にも変な人がおり民主党にも立派な人がおり、真に日本の国のことを考えている人が自民党に団結してくれたらなあと思うのですがなかなかうまくいきません。
【2007/07/13 23:54】 URL | さくらこ #-[ 編集]
民族性の違い、おもしろいですね。日本人が個人主義だと言うところも、意外性があり興味深いです。
今回の選挙は、マスコミが異様に現政権を叩いていることが気になり、政治の本質を見失っているような気がしてなりません。政策論議がされずムードだけで選挙に向かっているような感じですね。海外で投票するのはひと手間なのですが、投票手続きを取りました。主人と合わせてたった二票ですが、無駄にはしたくないと思っています。
【2007/07/14 18:45】 URL | milesta #S4B2tY/g[ 編集]
さくらこ様

私もタイプしながらとても苦しく、しばしば手が止まり頭を冷やしながらの作業でした。

>理解できない言論界と教育界の活動
学校では、治安維持法制定の背景についての論調が全く違っていて、選挙権の拡大を理由に挙げているようです。そういえば私もそんな記憶があるような・・・。
歴史を奪われることの恐ろしさ、早く正常化させたい・・・。

>自民党にも変な人がおり民主党にも立派な人がおり
まったくです。ガラガラポンと政界再編を今こそ・・・。ですよね。
【2007/07/19 20:55】 URL | 娑婆妥場(管理人) #3.a9MHK6[ 編集]
milesta様

私も日本人のくだりには驚いてしまい、少なからずショックを受けてしまいました。
しかし思えば「長いものには巻かれろ」的なところがありますものね・・・。

遠い外国から見る日本はきっとよけいに危なげなのでしょうね。貴重な「清き2票」です。私の1票も心を込めて行使したいと思います。
【2007/07/19 21:06】 URL | 娑婆妥場(管理人) #3.a9MHK6[ 編集]
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しゃばだば近代国史帖


日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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