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阿部忠男さんの“シベリア抑留”その5 -- 囚人ラーゲリ
シベリア鉄道 ※左の地図は《東京木材問屋協同組合》さんのサイトよりお借りしたものです(クリックで大きくなります)。阿部さんを含む多くの抑留者によって建設された「第二シベリア鉄道」の位置が示されています。阿部さんが勤務した“ハイラル”の位置は筆者が付け加えました。“カラカンダ”は、モンゴルの左側にあり、この地図には含まれません。

 筆者はこの連載を進めながら、手記をタイプしながら、初めて知る事柄のひとつひとつを、ネット上ではありますができるだけ詳細に調べるようにしていました。というより、どんどん疑問が膨らみ、タイプの手が止まってしまうのです。

 単語のひとつ、それらを示す画像はないか、他の方の証言や当時の議事録、調べていくうちにまた初めて知る驚愕の事実に出くわしてしまいます。それらに付随する様々な要素について考えているうちに、散り散りだった多くの事柄の断片がつなぎ合わされ、まるで絵が浮き上がってくるかのようです。

 当時の日本を取り巻く悪夢のような現実、“激動の昭和”と言われますが、それはすでに明治後期の日本の指導者たちには見えていたことではないかと思います。運命と言ってしまえば簡単ですが、我々の父祖はその、とてつもない運命に真っ向から立ち向かっていたのだと・・・。

 

 

□ 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その5 -- 囚人ラーゲリ

 ---- エタップ(移動)

 これより話は“囚人ラーゲリ”の実態について詳しく述べてみたいと思います。

 囚人としての第一歩は、同じカザフスタンのカラカンダで始まりました。位置は今までいたアルマ・アタの北200km余りですが、1800km以上を迂回する2日間の旅でした。

 例の囚人列車に乗せられ、宇宙基地で一躍有名になったセミパラチンスクを経由、シベリア鉄道の拠点ノボシビルスクに出て西進、ペトロバウルスクより南下するコースでした。

 到着したカラカンダは文字通り石炭の街、断層は数km四方に及び、街そのものがこの断層の上に造られてており、戦後最も急速に発展した街と言われております。

 ラーゲリの数も30以上を数え、これら囚人の労働力によって支えられた街だと言えます。これからお話する中で、たびたび“ラーゲリ”という言葉が出てきますが、これは囚人収容所のことですのでお含みおき下さい。 

 カラカンダの街は北緯50度に位置し、樹林や緑の全く無い荒涼たる大地がどこまでも続いている。大陸性の気候で、夏は厳しい暑さが続き、冬は零下30℃以上下がることが多かった。

 春先になると“ブラーン”といってシベリア独特の猛吹雪が決まったようにやって来る。この嵐が一度羽ばたくと、原野は一瞬にして真っ黒い翼の下に覆われてしまい、1メートル先も見えなくなってしまう。

 作業に出された囚人は帰り道を失い、そのつど決まったように幾人かの犠牲者を出した。毎日の作業は、炭鉱での採掘作業が昼夜3交代で続けられた。慣れない重労働のため各人の疲労が極限に達していた。

 そんなある日、突然作業が中止となり日本人全部が移動することになった。

 “どうやら帰国できるらしい”

 このような噂が瞬く間に広まり、これが真実であって欲しいと心に念じていましたが、これまで以上に物々しい輸送警備を見て、帰国の夢は泡のように消えてしまった。

 これは“エタップ”と言って、単なる囚人の“移動”にすぎなかった。

 後日に分かったことですが、この時の移動で、残留していた日本人受刑者の9割が、極東最大の都市ハバロフスクに集められ、帰国の日まで日本人だけの集団生活を送ることになったようでした。

 この時も私はみんなと一緒に行動することにならず、極々限られた一部日本人として、他民族と一緒のラーゲリに収容される事になりました。この時の人選がどのような意図によって決定されたのか、最後まで分かりませんでした。

 残された少数の日本人の顔ぶれは、樺太出身者がやや多いかなと思われる程度で、前職も年齢もまちまちでした。

 電々出身の同僚とも別れ、日本人同士顔を会わせることもほとんど無い、淋しい、そしてますます厳しい囚人生活が、いつ果てるとも無く続く事になります。

 ---- 吸血マシカ

 その場所は、バム鉄道沿線に点在するラーゲリでした。バム鉄道というのは、バイカル・アムール鉄道の略で「第2シベリア鉄道」として昨今紹介されている。

 これは現存するシベリア鉄道のタイシェットが起点で、バイカル湖の北側を迂回し、シベリアの密林地帯を横切って、アムール河のコムソモリスクを経てワニノまでの全長約4300km、ワニノからは対岸にサハリン(樺太)が見える。

 国境に近い現シベリア鉄道に比べて戦略上安全の上、数100kmの近道になることから、スターリン時代に着工されていた。

 起点のタイシェットから300kmの地点にあるブラーツクまでの間に、4kmおきにラーゲリがあり(その数約80)、その沿線に投入された日本軍捕虜は約10数万人、枕木1本に1人の生命が落されたと言い伝えられるほどの悪条件下での難工事であったらしい。

 前にも述べたように、昭和24年頃までの帰還で空いた収容所に、我々が収容されることになった。北緯55度、冬は零下40℃位まで気温が下がるのに加え、5月の雪解けを待ちかねたように“マシカ”と称するブヨがそれこそ雲霞の如く来襲する。

 その虫が執拗に人間の血を吸う厄介者で、この虫に吸われると顔が手がみるみる腫れ上がってしまう。このマシカを防ぐため、うだるような暑さの中でも“カマルニック”という網をかぶり、手にはコールタールを塗って作業をせねばならなかった。

 ここでの作業は、伐採・建築・材木の貨車への積み込み等であった。

 貨車への材木の積み込み作業は不定期で、列車の入ってくる時間が全く決まっていない。ホームに列車が入ると、真夜中であろうと何時であろうと召集がかかる。

 昼間の作業でくたくたに疲れて寝ていてもおかまいなし、収容所と駅は近かったが、積み込み作業が終わるのにたっぷり2時間はかかる。この間、警備兵に「ブイストレー・ブイストレー(早く早く)」とせきたてられながら作業が続けられる。朝になると、夜中にかり出されたことは考慮に入れられることも無く、決まった時間に決まった作業に出なければならない。

 とんでもない所に連れて来られたものである。この世に地獄というものがあれば、このような悪条件下で労働を強いられる私達のことを言うのではなかろうか。

 好むと好まざるとに関わらず、“神の定め”に従い、この試練に耐えることが唯一命を支える手段であった。このバム鉄道沿線における苦難のラーゲリ生活が、いつ果てることなく続いていった。

 ---- ザプレットナヤ・ゾーナ(立ち入り禁止区域)

 以前の収容所に比べて警戒が数倍強化されました。ここで“ザプレットナヤ・ゾーナ”について説明いたします。

 日本語に訳せば、ただの「立ち入り禁止区域」ですが、私の抑留生活8年を通じて、目に見えるかたちで自由を束縛されたこの区域、この言葉を忘れることはできません。

 即ち、このザプレットナヤ・ゾーナに立ち入ることは、理由の如何を問わず“射殺”されるということです。

 収容所の場合、四隅に高さ4メートル位の望楼があり、機関銃を持った兵隊が昼夜を分かたず監視に当たり、ザポール(塀)3メートル位の高さで囲まれている。

 その塀の両サイド3メートル幅で鉄条網があり、この塀と鉄条網の間を“ザプレットナヤ・ゾーナ”と言い、絶対に立ち入る事はできない。

 この地域の地面は常に耕されており、もし人が立ち入ると足跡がくっきりとつくようにしてあり、夜は煌々と照明されている。

 次は、作業現場でのザプレットナヤ・ゾーナ。例えば伐採作業を行う場合、100メートル四方のゾーナが必ず設営される。この準備が終わるまで、作業は行われない。

 ゾーナの幅は2メートル位、この間の樹木・雑草は全部切り払われ、見通しを良くする。

 いよいよ作業が始まるが慣れない伐採作業のため、倒れる大木の下敷きになるまいと、それこそ一歩ゾーナの外へ出たため射殺された者、また、このゾーナを気にしてウロウロしている間に、倒れてくる大木の下敷きになり命を落す者等、後を絶ちませんでした。

 一生懸命頑張っても、日本人の細腕では50%達成するのがやっとの伐採作業、零下20度を超える悪条件下での労働に耐えかねたあげく、自分の腕を、また、5本の指を、自分の振り上げた斧で断ち切った複数の同僚を私は知っております。

 この人たちの気持ちは、私には痛いほど分かりました。たとえ、かたわ者になっても生き長らえようとした執念がそうさせたものと思います。

 この事件が故意にやったと当局に見られた場合、10日ほどの営倉入りをさせられることもあったようですが、その後は外の作業から開放され、基準食も保障されされたのである。

 しかし、考えてみれば、この代償はあまりにも大きく、不具者としてのハンデが一生涯、本人を苦しめたであろうと思います。このうちの一人は、帰国後もあまり家庭にも仕事にも恵まれず、50歳位で亡くなりました。意志の弱さがその後の人生にも影を落したものと、同情の念を禁じえません。ただひたすら故人の冥福を祈るのみです。

 ---- 作業場までの往復時

 囚人が毎日作業に出る、その行き帰りの厳重な警戒について、一言ふれておきます。

 30~50名の囚人が作業に出る場合、最低でも10名の警備兵が配置される。行進中その隊列の前後に2人ずつ、左右に2人ずつ、これを指揮する隊長と、念入りに軍用犬を連れた兵1人で合計10人と1匹。

 毎朝の出発に先立って、警備隊長から必ず次のような命令がある。

 警備隊長から下される命令(阿部さんの直筆)


 「フニーマーニエ ザクリュチョンヌイ プレドプレジダーユ
 イッチィ ネーラズガバーリュウ シャークレーボ シャークプラーボ
 チダーイ パベーガ カンボーイ ストレリャーユ ベス
 プレドプレジェーニエ ヤーソノ!!」

 これを訳しますと、

 「囚人たちよよく聞け、只今から命令を下す、行進中は話をしてはいけない、一歩左へ出ても一歩右へ出ても、それは逃亡とみなし、予告なしに射殺する、分かったか!!」

 ここで囚人が一斉に、「ヤーソノ!(分かりました!)」と大きな声で答える。声が小さい時は、もう一度やり直しをさせられる。この年中行事のお題目を唱え出発となる。

 行進中、雪道に足を取られ隊列からはみ出た場合でも、警備兵は容赦なく発砲する。伐採作業中でもそうであったように、誤ってゾーナを越えたであろうことが誰の目にも明白である場合でも情け容赦は無い。

 この自衛策として、雪道や雨上がりの道を歩くときには、隣り同士でがっちりとスクラムを組んで歩くようにした。

 射殺が行われた場合、警備兵に咎めがあるどころか、1階級昇進の対象になるという呆れた噂がささやかれていた。

 尊い人間の命を虫けらの如き扱うこのような行為に対して、とめどなく怒りがこみ上げてきました。いついかなる時も“標的”にされているのだという恐怖心と、必ず前後左右をふり返って安全を確かめるという癖が心底身につき、帰国後も数年間は、私の気持ちから離れることがありませんでした。

 






 ※ ソ連から提出された抑留者のデータと、その後のソ連の崩壊にともない放出された公文書のデータは、それぞれの数字が大きく異なります。

 先日、いわゆる「従軍慰安婦問題」、一部の米国下院議員の動きの件で奔走されているすぎやまこういち氏が、「全体主義者の武器はいつも“ウソ”」と述べられていましたが、このソ連のデータでも合致しますね。

 しかも、公文書の数字についても正確であるとは考えられません。囚人列車で運ばれる間の犠牲者は除外して、到着した後の数字しかないからです。また、特務機関や諜報機関の将校などは逮捕直後に裁判を受ける間もなく処刑されています。収容所内であっても、過去に亡くなった者の名前を点呼するなど、およそ正確に記録されていたとは思えません。

 すぎやま氏ご指摘の「全体主義者」という括りで見ますと、ソ連・中国・北朝鮮のやり方はあらゆる点でよく似ていますね。過去のナチスも含めて。

 では、今回はこれくらいにします。次回は興味深い、阿部さんから見たそれぞれの民族性についてや、よく使ったロシア語など、収容所内における諸々のエピソードを予定しています。(ラスト2です)


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【2007/06/29 10:39】 | 【証言】 阿部忠男さんの“シベリア抑留” | トラックバック(0) | コメント(2)
<<阿部忠男さんの“シベリア抑留”その6 -- 収容所生活の中で | ホーム | 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その4 -- 軍事裁判>>
コメント
危険を避けるために一歩境界を越えても、雪に足をとられて転んでも射殺というのは、酷いですね。
それに自分で腕や指を落としてまで避けたかった作業とは、どんなに辛いものだったでしょう。
毎回毎回あまりのむごさにロシアへの怒りが増幅していきます。

いろいろと下調べをなさっているだけあって、とてもわかりやすいです。ありがとうございます。
【2007/06/29 20:39】 URL | milesta #S4B2tY/g[ 編集]
milesta様

まったく更新が遅くて申し訳なく思います。
当時のことを調べれば調べるほど、大戦全体を操っていたソ連に怒りを覚えますね。
どこからたどっても、スターリンに行き着くのですから・・・。そして大戦はいまだ終わっていないように感じます。

あと2回で終了しますが、今回が最も過酷な内容でした。それだけに、筆も止まりがちとなりましたが、多くのことを知ることができました。それらすべてをご紹介することはできませんが・・・。


【2007/07/02 09:47】 URL | 娑婆妥場(管理人) #3.a9MHK6[ 編集]
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日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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