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阿部忠男さんの“シベリア抑留”その3 -- 強制連行
天山山脈 ※ 強制連行された日本人将兵および民間人の数は、ソ連の発表では60万人とされていますが、ソ連崩壊後の資料流出により少なくとも100万人は下りません。もともとのスターリンの指令は「日本人を50万人連れて来い」というものでした。

 また、“日本に帰す”という甘言によって連行されたという証言を裏付けるように、筆者の母は東安からの逃避行の途中で日本兵の大列とすれ違い、その際の会話を覚えています。

 その時17歳の母は、自分たちと逆方向へ行く兵隊さんたちに思わず声をかけています。

 「兵隊さん?どこへ行くの?」
 「日本へ帰るんだ・・・」

 お互いに自分のことで精一杯の状況でした。会話はそれだけでした。兵隊さんたちは嬉しそうに、口々に「日本へ帰るんだ」と言っていたそうです。

 後に母はあの時の光景を思い浮かべ、彼らがシベリアへ送られる途中であったのだと、筆者に何度も悔しそうに話してくれました。もちろんあの時点で誰も、強制連行の事実を知る由もありません。  





□ 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その3 -- 強制連行

 ---- 過酷な囚人列車の旅

 昭和20年、師走も押し迫った28日の真夜中、ハルビン駅でソ連兵から「1・2・3」と豚の仔を数えるようにポンポンと尻を叩かれながら汽車に押し込まれた。

 いよいよソ連行き確実だ。逮捕された事により一応の覚悟はしていたものの、この列車が満州国内を走っている間に何か突発事件でも起きぬものかと、その奇跡を願ったのは私一人だったろうか。

 寝られぬ一夜が過ぎ、やがて列車が急勾配に差し掛かり、あえぎあえぎ速度が落ちていった。囚人列車のため窓の外を見る事はできなかったが、今、満洲の屋根、興安嶺の峠に差し掛かっている事は手に取るように分かった。この山を越えればあと国境まで近い。いよいよ満洲ともお別れかと、前途の不安と恐怖心が交錯し落ち着けない気持ちのまま国境を越えた。

 囚人の護送はどこの国でも厳しいと思いますが、この国ほど徹底しているところはないのではなかろうか。囚人護送用に造られたものであり、窓が小さく鉄格子が張ってあるのですぐ分かる。

 その内部は片側に1mほどの通路があり5つの室に区切られている囚人部屋、警備兵室、桶を置いただけの便所。1部屋の定員は10名になっているが、5割り増しのギュウギュウ詰めにされたのではたまらない。

 外は零下30℃の寒さというのに、逮捕後2週間以上も入浴していないため、各人異様な体臭と便臭でむせかえっている。足を伸ばすのはおろか、腰を下ろし足をかがめた姿勢で身動きも自由に出来ない。

 大小便は朝夕2回、その主要時間一人3分間。便秘してなくても無理な要求であるのに時間とにらめっこしている警備兵は、その途中でも否応なしに立たせてしまう。牛馬でさえ大小便くらい自由に出来るのに、囚人列車の中では人間に排便の自由さえ与えてくれない。

 時間外にもよおして困った挙句、自分の靴の中に用を足す人も見受けられた。私達の常識では到底考えられない事が、ここでは公然と行われていた。1日、2日、の旅ならいざ知らず、何日続くやも知れないシベリアの旅は、今始まったばかりである。
 
 夜明けと共に監視兵によって無造作に放り込まれる300gの黒パン。援ソ物資の残り物と思われる一切れの缶詰。それは命をつなぐにあまりにも心細い量であった。

 栄養失調に加え、不衛生極まりない列車の中は絶望状態に置かれていった。乗車以来1週間、氷に閉ざされたバイカル湖付近を過ぎた頃から、体力の無い者は日増しに気力を失い、わずかな黒パンさえ喉を通らなくなり、ただ水、水と、水を求める者が増えていった。

 これらの人の悲愴な哀願をよそに、警備兵は雑談にふけりこれに応じようとしない。車外に荒れ狂う吹雪のうなりだけが無情に小窓を震わせていた。仕方なく凍りついた窓ガラスに人息でできた氷の花を舐めて、かすかに喉をうるおし我慢せねばならなかった。

 このような悲惨な、そして過酷な扱いを受けながら、1月の16日まで実に20日間の旅は続いた。これこそ私にとって終生忘れる事のできないシベリア横断の記録であります。

 約6000km、新幹線で走れば2日足らずの行程を、これだけの日数をを費やしての輸送に、心身ともにクタクタになり、列車を降ろされた時にはしばらくの間歩行することができなかった。そこに20~30センチ幅の溝があるのに、どうしても跨ぐことができず転んでしまう始末でした。

 ---- たどり着いた収容所 その設備と待遇

 到着したのは中央アジア、カザフスタンの首都アルマ・アタ。南に5000~6000m級の天山山脈がそびえ、1年中雪が山上から消える事はなく、その雄大な眺めは私達のすさんだ気持ちをどれだけ慰めてくれたか知れません。山の向こうは中国、広大なタクラマカン砂漠と続き、その南はインド大陸に通じております。

 収容所に落ち着いて、少しは人間らしい生活ができるものと期待しておりましたが、この願いは見事に裏切られました。

 住まいは、三段式の木製ベットが蚕棚のように広い部屋に並んでいました。個人に与えられた居住範囲は、幅50cm・縦180cm。藁蒲団はおろか毛布一枚与えられませんでした。

 このような窮屈な所で生活ができるのだろうか、それでもあの殺人的な列車輸送中の事を考えれば、足が伸ばせて寝られるだけでも幸せである。

 部屋が広いので2ヶ所に置いてあるペチカ(暖房)は、ほとんどその効果がなかった。それでもお互い、夜はめざしのように体を寄せ合って寝るのでなんとか寒さはしのげた。

 次に困ったのが水でした。収容所内に水道設備は無く、朝当番がバケツ1杯の水を炊事場から貰って来る。これを各人コップ1杯ずつ配給される。このコップ1杯の水を口に含み、その水を手のひらに移して顔を洗い手を洗った。

 日本のような恵まれた環境の下で育った人には、ちょっと理解し難い事だと思いますがこれもなんとかクリアできました。

 便所。これは壮観といおうか、何の囲いも無い。厚板に50cm間隔位に空けられた穴に、20人ほどが並んで用を足す。

 便そうの深さは3~4m位あるが、冬の場合出した糞がすぐに凍結してしまうので、その糞柱がまるで筍のようにぐんぐん伸び上がってくる。1日も放っておくと用を足す穴より上へせり上がって来る。

 毎日ハラペコの生活をしているのに、出る物だけは良く出るものだと感心した。いかに栄養価の少ない、カスの多い物を食べていたかの証であるように思えた。

 時々つるはしを持った掃除人が、立ち上がった糞柱を壊すため便そうに入る。汚い仕事をしてご苦労な事と思われるでしょうが、どっこいこの仕事に就くことは簡単にはいかない。食事が充分与えられるので、希望者はいくらでもある。後で述べますが、この人も収容所の特権階級に属するのである。

 何に困ったといっても、始末する紙が無いのに一番頭を痛めた。仕方なく綿入れの上衣から少しずつ綿を取り出して始末したが、これも限界があり後には雑草や木切れで始末する事もあった。

 本当に紙の無い生活にはお手上げでした。唯一入手可能なのは新聞紙だが、これがまた貴重品である。物を包むとか便所紙に使うなどとんでもない話であり、そのほとんど100%がタバコの巻紙として利用される。

 タバコは1日8gほど毎日支給されるが、このタバコが“マホルカ”といってタバコの葉と茎を一緒に刻んだもの。このタバコを5cm×10cm位に切った新聞紙に巻きつけて、唾でくっつけ紙巻タバコの出来上がりである。

 このタバコの作り方は、抑留経験者なれば誰でも知っておられる事と思います。ソ連の一般労働者は、ほとんどがこのタバコで満足しており、製品化された箱入りタバコなどついぞお目にかからなかった。

 風呂は1週間に一度入浴が許されるが、これはどうも体を洗うのが目的ではなく、衣服の消毒・滅菌が目的だったと思われました。

 入浴の際、必ず頭髪と陰毛が剃り落とされる。これは毛じらみの予防と逃亡防止の一策で、頭髪と陰毛を調べれば一般人でない事がすぐに判るためである。

 入浴時間は約20分、キャラメル大の石鹸をもらい、洗い湯として手桶1杯のお湯をもらい、それで1週間たまった汗まみれの体を洗い、最後に上がり湯を1杯もらう。これで終わりです。滅菌の終わったゴワゴワの衣服を受け取り、下着の交換が行われた。

 “生かさず殺さず”これがソ連当局の私たちに対する基本方針であったのではなかろうかと疑いたくなるほど、300gのパンと燕麦(えんばく)のスープが飽きることなく続いた。

 それは私達が生きていくために必要な最低カロリーであったと思います。飢えるという事は人間にとって最大の悲劇であり、今まで身につけていた教養も、道徳も、名誉も、何の役にも立たなかった。すなわち野生の動物に立ち返って、食べ物や食べる事のみに関心が集まった。

 夏の間、収容所内の空き地に群生していた“あかざ”をはじめ食べられそうな野草はほとんどその姿を消してしまった。そればかりが、羞恥心を忘れてしまった多くの人が、夜明けを待ちかね先を競って炊事場のゴミ箱あさりをするのも珍しいことではなくなった。

 そこまで落ちぶれてはいけないと自分に言い聞かせ、自制することができたが、空腹をまぎらすため備え付けの白湯を多量に飲み、夜中に忙しく便所通いをしたのもこの頃であった。

 こうした環境に置かれた人たちの行動を、非難したり軽蔑したりする事は許されないかも知れませんが、朝みんなに同じように配給される命の糧である同僚のパンを盗み、みんなの前でつるし上げをされた大学教授の哀れな姿が、今もって鮮明に私の記憶に残っております。

 飢えと寒さと重労働、そして不衛生、医者も薬も無い、助かる命も何ら施すすべもなく、栄養失調や得体の知れない発病で今日も1人2人と死んでいく。

 死んだ者はそのままトラックに載せられ、数キロ離れた小高い丘に運ばれ、素っ裸にされて、あらかじめ掘られた穴に放り込まれる。神も仏も無い、この国では死んでしまうと“犬猫”同様に葬られる。

 冬になると表面の土が凍結してコンクリートのようになり、つるはしも受けつけなくなる。この冬に備えて何十という穴が掘られる。

 この穴掘りから死体の埋葬までを何回となくさせられた。そのつど、帰国の日を夢見て、また肉親の事に思いを馳せながら、帰らぬ人となった同僚の無念と哀れを悼むとともに、明日は我が身に迫る運命かと密かに手を合わせ瞑目したものである。

 
 シベリアの大地にも変則ながら四季は巡って来ます。6月に入ると木の芽も雑草も申し合わせたように衣替えするが、9月の声を聴くとすっかり色づき落葉してしまう。

 6月から9月まで4ヶ月の間に春・夏・秋と、めまぐるしい季節の移り変わりがある。名も知らない草花が咲き、木の実が色づき、小鳥がさえずる。これらの自然が唯一、私達のすさんだ気持ちを和ませてくれた。

 また、8年間の抑留生活を通じて、後にも先にも一度だけ“オーロラ”を観賞することができた事は本当に幸運であったと思います。

 夜9時前だったか、用便を済ませ、美しい星空を仰いで郷愁の念に浸っていた時のことでした。一瞬東の空が茜色に輝いたかと思うと、雲の流れのように色の濃淡が刻々と変わる“幻想の世界”が10数分間にわたって繰り広げられた。

 この美しさ壮大さを、私は表現する言葉を知りません。しばし全てを忘れて、宇宙で繰り広げられる一大ショーに陶酔しました。






 ※ このシリーズの最初で、阿部さんご自身に「特務機関」の認識は無いことをお伝えしました。しかし、筆者の調べた範囲では、電々と満鉄の調査部は「特務機関」であったという記述が複数見られるのです。

 また、志願してまで入隊したはずなのに、当時日本に唯一の通信学校で2年間学んだ後に“除隊”した理由は何だったのだろうか。

 その後の電々調査部への入社と直前の除隊には、何らかの関係があったのではないかという疑問がふくらみ、再度確認してみました。

 阿部さんは再度、その認識は無いと答えましたが、当時を思い出すように、電々調査部の管轄が途中から軍に変わったことを話してくれました。また、“除隊”の理由は、軍からの命令であったと。

 阿部さんは、除隊も入社も素直に命令に従っていただけだとおっしゃいました。特務機関の諜報部員と、自分のような“社員”がたくさんいたのだと。

 筆者なりに考えますと、目的を“意識”していた諜報部員と、命令に“従っていた”一社員という違いでしょうか。同じような仕事をしながらも、立場は違っていたということではないかと思います。

 では、今回はここまでとします。次回は、不可解な“軍事裁判”により戦犯の烙印を押されます。それは、現在の民主主義社会における法の下の裁判とは程遠いものでした。

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【2007/06/06 17:17】 | 【証言】 阿部忠男さんの“シベリア抑留” | トラックバック(0) | コメント(4)
<<阿部忠男さんの“シベリア抑留”その4 -- 軍事裁判 | ホーム | 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その2 -- 身柄拘束>>
コメント
こんにちは。
貴重な証言の記事を毎回ありがとうございます。

囚人専用の列車があったのですか。
列車でも収容所でも、人間とは思われていないような扱いですね。本当にひどい。
一度日本へ帰ると思わされた後のこの仕打ち、どんなに落胆しただろうと思います。


【2007/06/07 13:23】 URL | milesta #S4B2tY/g[ 編集]
milesta様

またまた大変お返事が遅くなり失礼しました。
この件の事象を調べていると、
阿部さんの手記にはみ出る事柄がいろいろあるのです。
それはそれは聞くに堪えない酷いことばかりで愕然としています。
また、数字については正確な資料も無さそうで、どれも推察の域を出ません。
ソ連という国の恐ろしさがよく分かります。
今しばらく更新に時間がかかりますが・・。
軍事裁判について調べているところですが、
ソ連のそれは特に異常で・・・言葉で表現できないほどです。
【2007/06/11 09:48】 URL | 娑婆妥場(管理人) #3.a9MHK6[ 編集]
今福冨健一先生の「南十字星に抱かれて」ー凛として死んだBC級戦犯の「遺言」ーを読んでいるところです。
戦犯裁判は本当に酷いもの、合法的な復讐であり、心ある判事、弁護人はこれら裁判を裁判として認めていない。
きっとソ連の軍事法廷ならもっとひどいことがあったでしょうね。
今まで知らなかったことをどんどん吸収しようとしているところですので期待しています。

【2007/06/11 23:43】 URL | さくらこ #-[ 編集]
さくらこ様

ソ連の参戦自体が異常ですからね。終戦直前でしたし。
それに共産主義の独裁国家ですから・・・。
私はこの“シベリア抑留”についてを記述するにあたって、
どうしてもそのままを書くことができそうにありません。
日本人の想像を絶する異世界の“物語”のようです。
現に阿部さんの表現も、実際とはかけ離れて“静かな”ものとなっているように思います。
“言葉が見つからない”もしくは“正視したくない”のではないかと。
短期、長期にかかわらず、生還した人たちは
よほどの精神力・生命力を持ち合わせていた“猛者”だと思います。
実際は、私や阿部さんの記述の何倍も過酷であったと受け取っていただきたく思います。
【2007/06/12 01:41】 URL | 娑婆妥場(管理人) #3.a9MHK6[ 編集]
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