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阿部忠男さんの“シベリア抑留”その2 -- 身柄拘束
満洲国の国旗  ※ 満洲国(満洲帝国)は昭和7年に創建され日本の敗戦とともに消えました。わずか13年という短い運命でしたが、建国以来治安は安定し、毎年100万人もの漢民族が万里の長城を越えて入国したといいます。
 その工業化も素晴らしく発展しましたが、電信電話網も日本とは比べ物にならないほど近代化されていたそうです。(阿部談)

 戦争末期の満洲は、関東軍の南方戦線への転進で将兵や武器弾薬が不足していました。兵員は急遽徴兵したものの新兵ですし、武器弾薬に至っては不足したままで、いわば「張子の虎」でありました。3方面から満洲を取り囲むように侵攻したソ連軍に対して立ち向かえる兵力は無く、朝鮮国境まで退き、間もなく終戦となります。

 それだけに満洲の被害は大きくなりました。また、ソ連軍の規律は無いに等しく、略奪・暴行・虐殺の類は野放しの状態で満洲の産業設備はもちろんの事、産業資材、貴金属、医薬品、衣料品、生活資材に至るまで、そのほとんどのものが収奪されました。この日ソ間の一連の惨禍による日本人の死亡者数は軍民合わせて50万人以上に上ります。
  



□ 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その2 -- 身柄拘束

 ---- 長期抑留者の顔ぶれ

 とにもかくにも終戦を迎え、やれやれこれで日本に帰れると喜んだのもつかの間、「ウラジオ経由で日本に帰す」という甘言にだまされ、なんと65万人もの軍人と一部民間人がシベリアに連行され、ソ連復興のため牛馬の如く働かされたのであり、その間に明らかにされているだけでも7万人の犠牲者が出ました。

 これこそ終戦の条件である「軍事俘虜は速やかに本国に帰還させる」というポツダム宣言の明らかな違反行為であり暴挙であると言えます。

 これらの日本人俘虜は、昭和24年頃までに逐次帰国する事になりますが、私のように戦犯として汚名を着せられた者2800名は、昭和32年頃までシベリアの地に残留を余儀なくされました。

 この2800人の受刑者の数、多いようにも思われますが全抑留者の数からすれば0.5%にも満たないごく限られた人だったと思います。

 では、この長期抑留者とはどのような顔ぶれだったのか、私の知る範囲で明らかにしてみたいと思います。

 ・関東軍司令部の将校
 ・各部隊の上級将校
 ・特務機関・憲兵隊に所属していた将校
 ・国家公安委員会の幹部
 ・大学教授


 等、いずれも錚々たるメンバーで関東軍又は満州国で確固たる地位におられた方々です。これらの人に混じって私達の仲間、電々社員・満鉄社員が約80~100名程いました。 

 それでは、私達のような下っ端の会社員が何故大物と一緒に裁かれたのでしょう。私の歩んできた経歴を明かす事によってその答えを出してみたいと思います。

 私は昭和15年、18歳で通信隊に入隊しました。配属されたのが「特殊無線隊」といってその任務はソ連の軍事無線を傍受し、その情報を得ると共にその電波の発信地を方向探知するという特別な任務を持った部隊でした。

 入隊後、神奈川県にあった通信学校に派遣され、そこでソ連の通信、ロシア語のタイプライター、初歩のロシア語の教育を受けました。専門課程である無線によるロシア文の受信については、手書きで1分間60字、タイプ受信で150字位できるような教育を受けました。

 ロシア語の方は初歩の日常会話程度でしたが、この教育課程で教わった一つの詩が唯一私の頭の中に残っておりますので、これを紹介させていただきます。

 これはソビエトの有名な詩人プーシキンの詩の一部です。これを書いて見る事によって共通文字の多い英語との違い、そして美しい詩の心をを感じ取っていただければと思います。
 
プーシキンの詩(阿部さん直筆)
 

  リュボービイ シィリネエーイ スメールチィ イ ストラアハア
  スメールチィ トーリコ リュボービイ ジェールジツツア 
  ドビイージェツツア フ ジイーズニイ    プーシキン

 (訳) 愛は死よりも強く 死の恐怖よりも強い
     人生は愛によって支えられ 愛によって育まれる  プーシキン

 私達が生きていく上で大きな支えとなっているのが愛であり、それは夫婦の愛、親子の愛、恋人との愛、すべて人生は愛によって支えられ育まれている。


 ---- 身柄拘束 白系ロシア人元従業員の正体

 2年間の軍隊生活を終え、満洲でんでん調査局に入社、仕事の内容が軍隊で習った事、やっていた事の延長で、教育なしですぐに役立つ経験者としてかなり優遇されての入社だった。

 当時、でんでん調査局はハルビンに本部を置き牡丹江、ジャムス、黒河、ハイラルにそれぞれ支部があり昼夜を分かたずソ連の無線情報を収集していました。

 私の勤務したハイラルは興安北省にあり、ホロンバイル大草原のど真ん中、満州里(マンチュウリ、国境の街)まで140km位の所に位置しています。冬の気温は零下30℃位に下がりますが、設備の充実とあいまって快適な勤務をする事ができました。

 仕事は私を含め無線の傍受班10名、ソ連のラジオ放送を速記している白系ロシア人5名、同じく蒙古放送を受けている蒙古人2名、その他翻訳、技術、庶務等30名のスタッフで仲良く与えられた仕事に心底誇りを感じ希望に満ち満ちた、そして充実した毎日を過ごしていました。

 又、敷地内に住宅も完備、外国人をはじめ従業員全員が家族ぐるみの付き合いで楽しい日々を送っておりました。

 これらの夢は8月9日のソ連機の爆撃によって根底から覆されました。
 「ハルビンへ撤収せよ」との命令を受け、当日まで愛用していたアメリカRCA社製の高性能な無線機10台の真空管を金槌で叩き割り、機密書類を何とか焼却し、着の身着のままで軍用列車に乗り込みました。途中再三ソ連機の銃撃を受けながら、何とかハルビンまで後退する事が出来ました。

 ハルビンで終戦を迎え、敗戦国民の屈辱をいやと言う程味わいながら2ヶ月ほど過ごしたある日、どこで居所を突き止めたのか、例のハイラルで一緒に3年間仕事をしていた白系ロシア人の一人“ベンガルト”が、いかめしい赤軍の軍服にピカピカのカピタン(大尉)の肩章をつけ兵隊5人を従え逮捕に来ました。本当にアッと言う間の出来事でした。

 彼は赤軍の将校でありながら、3年間もまんまと私達の組織に潜入して、私達のやっていた仕事の内容やその他の情報が、彼によって筒抜けになっていたという事が分かりました。

 この日の思わぬ身柄の拘束により、私の人生は180度の転換を余儀なくされました。






 ※ この阿部さんの手記は、約10年前に初めて書かれたものだそうです。2ヶ月をかけて思い出し書かれたもので、ご自身の記憶だけがより所ですので、今回のことで取材を重ねるうちに訂正される箇所もありました。細部についてはそのつど修正というかたち(お知らせはしません)にしますが、ひとつプーシキンの詩について、最近になって発見したことがあったそうです。

 阿部さん曰く、「上官から何度も重ねて叩き込まれ、てっきりプーシキンの作品だとばかり思っていました」が、最近になって読んだ『世界の名言集』という本の中に良く似た名言を見つけたそうです。

 前半の「愛は死よりも強く、死の恐怖よりも強い」という部分ですが、作者は小説家の“ツルネーゲフ”とあったそうです。

 どちらが本当の作者なのか興味のあるところですが、ご本人がプーシキンの作品だと教え込まれ、人生の大部分で信じてきたことですから、原文はそのままにしておきますがご理解下さいね。

 3年間仲良く働き、家族ぐるみで親交のあった白系ロシア人・元従業員が、実はソ連のスパイであったとのこと。ソ連コミンテルンは世界中でこのように、時期が来るまでスパイを眠らせておく手法をとっていました。

 阿部さんにそのことを尋ねますと、「二重スパイだったのでしょうね」との見解でした。都合のいい側に付いて、使い分けていたスパイが多くいたようです。あの目まぐるしい情勢の移り変わりの中で、阿部さんたち日本人は呆然と眺めるより他はなかったと。

 それでは今回はこれくらいにしておきたいと思います。次回から舞台はシベリアへと変わります。強制連行の列車内、そして最初に収容されたラーゲリ(収容所)の環境についてまでを予定しております。


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【2007/06/01 16:58】 | 【証言】 阿部忠男さんの“シベリア抑留” | トラックバック(0) | コメント(8)
<<阿部忠男さんの“シベリア抑留”その3 -- 強制連行 | ホーム | 阿部忠男さんの“シベリア抑留” ---- はじめに>>
コメント
こういった貴重な証言を取り上げられることの意義の大きさ、計り知れないものがありますね。

日本人を貶めるための戦時の掘り起こしには熱心な方々はたくさんいるというのに・・。

抑留経験された方々もかなりの御高齢になっていらっしゃるので、真実を語り継ぐ役割を担われてくださったことに感謝いたします。

続きも楽しみにしております。
【2007/06/02 02:34】 URL | huhuhu #-[ 編集]
お返事ありがとうございます。阿部さんがお元気でなによりでした。
シベリア抑留についてはあまり知られていません。沖縄は、広島は、長崎はと悲惨な惨状を日本のせいにするような話は山ほどあるのに・・・・。
終戦当時のソ連の横暴は少しずつ国民の知るところとなってきましたが、まだまだ多くの方に知られるところまでいっていません。満洲へ攻め込んだソ連兵の虐殺、横暴、シベリア抑留での惨状、被害者の数からいっても日本が他国に与えたと言われている数よりずっと多いじゃありませんか。
阿部さんの貴重な証言を検証しながらこのように記事にしてくださって多くの人に知らせてくださることに感謝いたしますと共にこれからに期待しています。
うちの義母も阿部さんと同じ年代です。早くに看護婦になり、従軍看護婦としてシンガポールに行きました。考え方、身の処し方、生き方が真摯です。元気なうちにいろいろ聞いておかねばと思っています。
【2007/06/02 08:11】 URL | さくらこ #-[ 編集]
huhuhu様

有難うございます。
現在、抑留経験者の平均年齢は84~85歳です。
阿部さんとお電話にて最初にお話させていただいた時に
思わず、生きていて下さったことにお礼を言っていました。
原稿を好きに使っていいと信頼頂けたことに感謝しております。
阿部さんのお声は大変力強く、ホッといたしました。
相変わらず更新に手間取っていますが
頑張りますので宜しくお願い申し上げます。
【2007/06/04 08:01】 URL | 娑婆妥場(管理人) #3.a9MHK6[ 編集]
さくらこ様

抑留者の証言は100ほどあるそうですが、
その実態が分かるようになったのは
ソ連の崩壊による公文書の公開によるものです。
しかしプーチン政権になって再び閉ざされてしまったようです。
日本はソ連の横暴を棚上げのまま国交回復してしまい、
北方領土問題も解決しないままです。
抑留経験者への特別な補償もほとんど成されないまま、
政府は対応を昨年終了してしまいました。
これを敗戦の屈辱だと目をつぶっていては、
日本の将来は無いと思います。
命がけで立ち向かってくれた先人に対しても、
未来の日本人に対しても申し訳が立たないと思います。

さくらこ様のお義母さまの尊いご経験を
必ずかたちにして残して下さいますよう
私からもお願い申し上げます。
【2007/06/04 08:32】 URL | 娑婆妥場(管理人) #3.a9MHK6[ 編集]
励ましのお言葉ありがとうございます。いろいろ聞いてはいるのですがなかなか形にするまでには至りません。私の母も含め(母は義母とは全く違う特別な体験をしています)この時代に生きた普通の日本人の生活、ものの考え方などただ聞くだけでなく何か形に残るものにしていかなければなりませんね。それでなくては私たちがいなくなった後とぎれてしまいますから。
あーーたいへんだ!
【2007/06/06 11:24】 URL | さくらこ #-[ 編集]
さくらこ様

私も最近になってやっと母に手記を書いてもらいました。
もうずいぶん前から(20年ほど前)何度か提案していたのですが、
元気な頃は生活に忙しく、そのうちにという反応でした。
でも、もう待てないと思い、ひ孫が生まれたことをきっかけに
「おばあちゃんがどんな人生を送ったのか、後になって読ませたいので」
とすすめると、やっとその気になってくれたのですよ^^
ひ孫どころか、子供たちさえ何も知らないも同然なのですからね。
母の戦前の話は、私が興味をもって訊くぐらいなんです。
これも戦後教育の悲しい結果ではないかと思っています。

たとえ短い文章でも、本人の書かれたものは迫力が違います。
書くのがどうしてもおっくうなら、
テープかビデオで会話を収録するのもいいかと思います。
頑張ってくださいよ^^
【2007/06/11 09:20】 URL | 娑婆妥場(管理人) #3.a9MHK6[ 編集]
はいありがとうございます。録音か録画するのも一つの手段ですね。
お母様が手記を書かれましたか。すばらしいことです。
幸いうちの母の方は手記を書きたいというのが前々からの思いなのですがなかなか着手できずにいたようなので、便せんにでも思いつくままにいろいろ書いてみたらどう?書き加えたり並べ替えたりできるからまず書き出してみてと話にいったばかりです。
母の体験は私が小さいときから折に触れて聞いていることも多いので書いたものがあればそれをもとにもっと突っ込んで聞くこともできます。
まず書き始めることが先決!記憶が確かなうちに共同作業ですすめていきたいと思っています。
義母の方は生い立ちからなぜ看護婦を目指したか、なぜ従軍したかなどとても大切なところを少しは聞いているのでこちらも何とか形にしたいなあと思います。
【2007/06/12 00:03】 URL | さくらこ #-[ 編集]
さくらこ様

聞き手が本当に興味を持っていれば、
忘れていたことも思い出せること、多々あると思います。
私も大変興味深深ですので、できれば公開していただければ有難いのですが・・・。
後へ続く者たちのために。
【2007/06/12 01:51】 URL | 娑婆妥場(管理人) #3.a9MHK6[ 編集]
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日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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