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阿部忠男さんの“シベリア抑留” ---- はじめに
 強制連行の途中、乗り換え駅にて
 ※ 大変お待たせいたしました。ようやく阿部忠男さんご本人と電話にて連絡がとれました。これより少しずつ阿部さんの手記を連載したいと思います。
 できるだけ読みやすい形態にしたいので、筆者なりに多少の説明とタイトルを加えました。旧仮名使いや旧漢字は現代のものに変えました。ロシア語表記はカタカナにしました。筆者はロシア語は皆目わかりませんので、阿部さんに電話越しで発音していただき表記しました。間違いがあればご指摘下さい。

 上の写真は「平和祈念展示資料館」様よりお借りしたものです。“シベリア抑留”の実態について参考にさせていただきました。

 ここで阿部さんについて少しご紹介いたします。
 阿部さんは大正11年、愛媛県に生まれました。高等小学校を出て地場産業である今治市のタオル工場にて勤務、18歳(昭和15年)で志願し満洲は新京(旧満洲国の首都で現在の長春)の通信隊に入隊、特殊無線隊に配属されました。その直後に日本に唯一の陸軍通信学校(現、神奈川県相模大野)に派遣され2年間の教育の後に除隊、満洲電信電話株式会社(でんでん調査局)に入社します。

 ここで筆者はこれは「特務機関」ではなかったのかと疑問に思い、阿部さんに確認をいたしましたが、ご本人にはそのような認識はなくあくまで除隊しての入社であったとのことでした。しかし、勤務内容は特務(ソ連の軍用電波を傍受し各種情報を分析)であったとのことです。そのため阿部さんは戦犯としての烙印を押され、その抑留期間は長期に及ぶことになります。

 8年間の抑留生活の後に、昭和28年12月、ナホトカ港より「興安丸」にて第一次帰還(長期抑留者)を果たしますが、昭和24年頃までに帰還した早期帰還者たちの多くがソ連共産党により洗脳されていたことで、阿部さんも疑われ社会復帰に大変な困難が伴いました。

 これについても確認いたしましたが、阿部さんの抑留環境は酷いものでしたので洗脳されるわけがなく、ソ連に対しては憎しみのみであるとのことでした。

 阿部さんとは連絡が取れたばかりです。取材を重ねる中で、色んな話が聞けることと思います。それを少しずつご紹介しながら連載したいと思います。尚、ご本人に確認する前に掲載した「お知らせ」の内容には多少の誤認がありますことをご了承下さい。また、掲載の後に細部を修正することもあろうかと思いますがご理解下さい。



 

□ 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その1 (平成19年現在85歳)

 ---- はじめに

 私は終戦直後にソ連官憲より身柄を拘束されシベリア送りになりました。そこで軍事裁判にかけられ、ソ連刑法58条6項により『矯正労働25年』の判決を受けました。そのとき私は23歳で、身分は“満洲電信電話株式会社”の一社員でした。

 それから8年間、20数ヶ国から集められた政治犯と共にシベリア各地の収容所を転々と追い回され、わずか10人位の日本人と出会うこともあり、又日本人3人だけという事もありました。

 明日の命も保証されない、その日その日の空腹と冬の平均気温零下30℃の極寒の中での強制労働という奴隷生活を強いられ、何度死を考えたことか。

死ねばこのような苦しみから解放されるという誘惑に駆られたこともありましたが、「なにくそここで死んでたまるか俺はどんな事があっても生きながらえて祖国日本に帰り、生き証人としてこの非人間的な扱いの実態を伝えねばならない」と深く肝に銘じました。

 ---- 終戦直後の満洲

 昭和20年8月9日、ソ連軍による満洲への攻撃が始まりました。大量の軍用機と戦車、近代兵器により武装した数10万の兵力によって多方面から国境を侵犯して来ました。

 これを迎えうった日本軍は、一部で陣地に立てこもり抵抗した所もあったようですが、ほとんどの国境ではなすすべもなく後退に次ぐ後退を余儀なくされました。

 ではあの精鋭を誇った関東軍が何故こうもみじめな敗北をしたのでしょう。理由は大きく分けて二つあると思います。

 その一つは、当時日本とソ連の間には「日ソ中立条約」(原文では「不可侵条約」)が結ばれており、ソ連が一方的にこれを破りこんなに早く攻めてくる事はないだろうと甘く見ていた事。

 今一つは18年頃より南方での作戦が思うにまかせず被害が増大していった。この補充のため関東軍の主力を転進させてしまい、満洲には補充兵の召集によって兵員の確保はなんとかしたものの、肝心の兵器弾薬がほとんど残されていなかった事が挙げられると思います。

 そして8月の15日、終戦を迎え進入して来たソ連兵は横暴を極めました。略奪、暴行、強姦等・・・。瞬く間に大混乱に陥りました。当時の惨状については多くの引揚者やマスコミによって語りつくされていると思いますので省略いたしますが、60年(原文では50年)を経た現在でもなお残留孤児の問題が解決を見ていない事に胸が痛みます。





 ※ 阿部さんは戦犯の烙印を押され、その抑留生活は長期に及び、また一般の抑留者とは隔離され、多民族の収容所を転々とする間、日本人は常に2~3人であったそうです。

 また、当時日ソ間で結ばれていたのは「中立条約」ですが、多くの人は「不可侵条約」と認識していたようです。もっとも、当時の日本政府は条約を結ぶにあたって「不可侵条約」を希望しており、ソ連が譲らず最終的に「中立条約」で落ち着いたため混同されているのだと思われます。

 次回は、長期抑留者の顔ぶれと阿部さんの特殊無線隊での教育過程、満洲でんでん調査局(ハイラル支部)での生活、そして終戦、ソ連兵による身柄拘束までを予定しております。

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【2007/05/29 21:20】 | 【証言】 阿部忠男さんの“シベリア抑留” | トラックバック(0) | コメント(2)
<<阿部忠男さんの“シベリア抑留”その2 -- 身柄拘束 | ホーム | しばらく更新が遅れます>>
コメント
始まりましたね。連絡がついてよかったですね。
【2007/05/30 20:32】 URL | milesta #S4B2tY/g[ 編集]
milesta様

ご心配おかけいたしました。
やはりご旅行だったのですよ^^
しかしまたその後つかまりません。
お忙しそうです。
お元気で何よりです。

もうひとつ。
ぜひ使いたい画像がありまして、
只今、許可のお返事を待っているところです。
明日、阿部さんの取材ができれば
画像は先に延ばしてでも更新したいと思っております。
【2007/05/31 17:00】 URL | 娑婆妥場(管理人) #3.a9MHK6[ 編集]
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日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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