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《日本人の精神》 李登輝 -- 幻の講演 --
「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは 「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは
李 登輝 (2003/03)
小学館
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※いつも気の向くままに数冊の本をハシゴ読みする。1冊の本を一気に読みきるほどの速読術も根気も無い筆者は、今日も思いつくままぶつぶつ独り言つぶやきながらハシゴ虫食い読み。この本も洩れなく発売後間もなく嬉々として購入したわりには読みきれていなかったこと判明。そういえば寝不足の頭で何度も居眠りしながらなかなか読み進めなかったことを思い出した。改めて途中から読み返し、その魂のこもった内容に目からウロコが落ちました。(笑)

 読み進みながら(これはぜひとも紹介せねば)と頭をよぎり、紙切れ挿みながらまた読み進めておりましたが、最後まで読み終えて、当初引用するつもりでいた本文は全部伏せておくことに決めました。なぜなら。この本を「引用」などという小技で紹介することは、筆者には無理、おこがましいってこと、独り言つぶやいてしまいましたから。よって内容はタイトルや下に引用する識者らの感想で想像力膨らませて下さいませ。これも数人だけにとどめておきますが。

 しかしそれではあんまりでしょう。したがいまして付録として掲載されている、慶応大学三田祭(平成14年)での、外圧により実現しなかった「幻の講演」の原稿を、全文というわけにはまいりませんが引用させて頂きます。外圧に屈した「武士道」を忘れた当時の日本政府に抗議を込めて。



□ 『日本人の精神』 (慶応大学三田祭・幻の講演原稿) ―― 初出「産経新聞」 2002.11.19日付

◆ 日本人の「自己否定」に心を痛める

 ※この項目は割愛させて頂きました。

◆ 日本人技師・八田興一が台湾に残したもの


八田興一


 台湾で最も愛される日本人の一人、八田興一(はった よいち)について説明しましょう。

 八田興一といっても、日本では誰もピンとこないでしょうが、台湾では嘉義台南平野15万町歩(1町歩はおよそ1ヘクタール)の農地と60万人の農民から神のごとく祭られ、銅像が立てられ、ご夫妻の墓が造られ、毎年の命日は農民によりお祭りが行われています。彼が造った烏山頭(うざんとう)ダムとともに永遠に台湾の人民から慕われ、その功績が称えられるでしょう。

 八田興一氏は1886年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校を経て1910年に東大の土木工学科を卒業しました。卒業後まもなく台湾総督府土木局に勤め始めてから、56歳で亡くなるまで、ほぼ全生涯を台湾で過ごし、台湾のために尽くしました。

 1895年に日本の領土になったころ、台湾は人口約300万人、社会の治安が乱れ、アヘンの風習、マラリアやコレラほかの伝染病などが原因で、きわめて近代化の遅れた土地であり、歴代3代の台湾総督は抗日ゲリラ討伐に明け暮れた時代でありました。

 第4代の児玉(源太郎)総督が民政長官の後藤新平氏を伴って赴任した1898年ごろに、台湾の日本による開発が初めて大いに発展しました。

 八田興一氏が台湾に赴任するのは、後藤新平時代が終了した1906年以降のことです。後藤新平時代に近代化が大いに進んだとはいえ、以前があまりに遅れていたこともあり、八田氏が精力を傾けることになる河川水利事業や土地改革はまだまだ極めて遅れていました。

 台湾に赴任してまもなく、台北の南方、桃園台地を灌漑(かんがい)する農業水路の桃園大●(シュウ=●=土ヘンに川)の調査設計を行い1916年に着工、1921年に完成しましたが、灌漑面積は3万5千町歩でありました。これが今日の石門ダムの前身であります。

 この工事の途中から旧台南州嘉南大●(シュウ=同上)水利組合が設立され、八田氏は総督府を退職して組合に入り、10年間をその水源である烏山頭貯水池事務所長として、工事実施に携わりました。

 嘉南平野15万町歩を灌漑するために、北に濁水渓幹線、南に烏山頭ダム幹線の二大幹線を築造し、曽文渓からの取水隧道(ずいどう)によってダムに1億6000万トンの貯水を行ったものであり、土堰堤(どえんてい)築造工法としてセミハイドロリックフィル(反射水式)工法が採用されました。

 この工事の完成によってほとんど不毛のこの地域15万町歩に毎年8万3000トンの米とサトウキビその他の雑作が収穫されるようになりました。その時分では東洋一の灌漑土木工事として、10年の歳月と(当時のお金で)5千4百万円の予算で1930年にこの事業を完成したときの八田興一氏は、なんと44歳の若さでありました。

 嘉南大シュウの完成は世界の土木界に驚嘆と称賛の声を上げさせ、「嘉南大シュウの父」として60万人の農民から畏敬の念に満ちた言葉で称えられました。

 八田興一氏への恩を忘れないようにしたのは何でしょうか? 古川勝三氏の著作からの引用ですが、八田興一氏があの若さでこの偉大な仕事を通じて台湾に残したものが3つあると思います。

 一つは嘉南大シュウ。不毛の大地といわれた嘉南平野を台湾最大の穀倉地帯に変えた嘉南大シュウを抜きにして八田氏は語れません。
 二つ目は八田氏の独創的な物事に対する考え方です。今日の日本人が持ち得なかった実行力と独創性には目を見張るものがあります。
 三つ目は八田氏の生き方や思想は、我々に日本的なものを教えてくれます。

 これら諸点について具体的な諸事実を並べて話しましょう。


一、まず嘉南大シュウの特徴についてみましょう。

 ①灌漑面積は15万町歩、水源は濁水渓系統5万2千町歩、烏山頭系9万8千町歩。灌漑方式は3年輪作給水法。
 ②烏山頭ダムの規模、堰堤(えんてい)長1273メートル、高さ56メートル、給水量1億5000万トン、土堰堤はセミハイドロリックフィル工法採用。
 ③水路の規模、給水路1万キロ、排水路6000キロ、防水護岸堤防228キロ。

 このような巨大な土木工事をわずか32歳で設計に取りかかり、34歳で現場監督として指揮をした八田氏の才能には頭が下がります。戦後の日本における近代農業用水事業の象徴である愛知用水の10倍を超える事業なんだと考えれば、うなずけるものと思います。

 そして烏山頭は東洋唯一の湿地式堰堤であり、アメリカ土木学会は特に「八田ダム」と命名し、学会市場で世界に紹介したものです。

 しかし嘉南大シュウが完成しても、それですべてが終わったというわけにはいきません。ハードウェアは完成しましたが、それを維持管理し有機的に活用するためのソフトウェアが大切です。農民はその大地を使って農作物を作り、生産力を上げなければ嘉南大シュウは生きたものになりません。

 農民の技術指導が連日、組合の手によって繰り返されました。その甲斐あって3年目には成果が顕著になってきました。かくして不毛の地、嘉南平野は台湾の穀倉地帯に変貌を遂げたのです。

 その成果には、

 ①農民が被る洪水、干ばつ、塩害の三重苦が解消したこと。
 ②3年輪作給水法によって全農民の稲作技術が向上したこと。
 ③買い手のない不毛の大地が給水によって地価が二倍、三倍の上昇を招き、全体では9千5百40万円もの価値を生んだ。この金額は当時の全工事費を上回る金額であった。
 ④農民の生活はこれによって一変し、新しい家の増築や子供の教育費に回す余裕がでてきた――ことがあげられます。

二、次は八田氏の独創的なものの考え方を述べなければなりません。以上述べた嘉南大シュウの巨大な工事に対して、当時として常識はずれの独創的方法が採用されました。

 その一つはセミハイドロリックフィル工法の採用です。この方法は東洋では誰も手がけたことがなく、アメリカでさえもこのような大きな規模の工事では採用されていなかった。この工法を採用したのには、それなりの理由がありました。

 まず地震です。この地帯は断層があちこちに発生しており、地震強度は6以上もあります。この工法は粘土による中心羽金層を堰堤(えんてい)の中心に造り、浸透水を遮断して堰堤の決壊を防ぐアースダム方式です。この工法を遂行するには、300万トンの大量の土砂と中心羽金層を造る微細な粘土を必要としますが、この地域にはこれを供給する場所がありました。

 この未経験の工法を採用するに当たり、徹底的な机上の研究とアメリカ視察を行いました。そして、この工法の採用と設計が間違いでない確信を持って工事にとりかかったのです。

 また、コンクリートコアの高さと、余水吐をめぐって、セミハイドロリックフィルダムの権威者ジャスチンと大論争しますが、自説を譲らず、設計どおりに構築しました。70年経過した今日でも、堰堤は1億トン以上の水を堰(せ)きとめて、八田ダムの正確性を証明しています。

 二つ目は大型土木機械の使用です。労働力のあまっている時代としては常識はずれでした。大型機械の使用については組合や当時の請負業者が反対していました。購入予算は4百万円に達し、堰堤工事と烏山頭隧道工事費の25%にあたります。

 八田氏の意見は、これだけの堰堤を人力で造っていては10年どころか20年かかってもできない。工期の遅れは15万町歩の土地が不毛の土地のまま眠ることになる。高い機械で工期が短縮できれば、それだけ早く金を生む。結果的には安い買い物になる――というものでした。

 この考え方は当時としては偉大な見識と英断と見なければいけないでしょう。これら大型土木機械はその後の基隆港の建設と台湾開発に非常な威力を発揮しました。

 三つ目は烏山頭職員宿舎の建設です。「良い仕事は安心して働ける環境から生まれる」という信念のもとに、職員用宿舎200戸の住宅をはじめ、病院、学校、大浴場を造るとともに、娯楽の設備、弓道場、テニスコートといった設備まで建設しました。

 それ以外にまたソフトウェアにも気を配り、芝居一座を呼び寄せたり、映画の上映、お祭りなど、従業員だけでなく家族のことも頭に入れて町づくりをしています。工事は人間が行うのであり、その人間を大切にすることが工事も成功させるという思想が、八田氏の考えでした。

 四つ目は3年輪作給水法の導入です。15万町歩のすべての土地に、同時に給水することは、1億5000万トンの貯水量を誇るとはいえ、烏山頭ダムと濁水渓からの取水量だけでは、物理的に不可能でした。

 ならば当然その給水面積を縮小せざるを得ないと考えるのが普通ですが、八田氏の考えは違っていました。土木工事の技術者はダムや水路を造りさえすれば、それで終わりであると八田氏は考えなかったのです。

 ダムや水路は農民のために造るのであれば、15万町歩を耕す農民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に増え、生活の向上ができて初めて工事の成功があると考えていました。

 そしてそのためには、すべての土地を50町歩ずつ区画し、150町歩にまとめて一区域にして、水稲、サトウキビ、雑穀と3年輪作栽培で、水稲は給水、サトウキビは種植期だけ給水、雑穀は給水なしという形で、一年ごとに従事栽培する方法を取りました。給水路には水門がつけられ、50町歩一単位として灌漑してきたのです。


◆ ソーシャル・ジャスティスを実践

 最後に、雄大にして独創的工事を完成させた八田興一とはどんな人だったのか、そこに焦点を当てて考えて見ましょう。

 八田興一氏は技術者として抜群に優れていたばかりではなく、人間としても優れていました。肩書きや人種、民族の違いによって差別しなかったのです。天性ともいえるかもしれませんが、これを育んだ金沢と云う土地、いや日本という国でなければかかる精神がなかったと思います。

 嘉南大シュウの工事では10年間に134人もの人が犠牲になりました。嘉南大シュウ完成後に殉工碑が建てられ、134人の名前が台湾人、日本人の区別なく刻まれていました。

 関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必要に迫られたことがありました。そのとき、八田氏は幹部のいう「優秀な者を退職させると工事に支障がでるので退職させないでほしい」という言葉に対し、「大きな工事では優秀な少数の者より、平凡な多数の者が仕事をなす。優秀な者は再就職が簡単にできるが、そうでない者は失業してしまい、生活できなくなるではないか」といって優秀な者から解雇しています。八田氏の人間性をあらわす言葉でしょう。八田氏の部下思いや、先輩や上司を大事にすることでは、数え切れないほどエピソードがあります。

 八田氏は1942年3月、陸軍からの南方開発派遣要員として招聘されます。その年の5月7日、1万4000トンの大型客船「大洋丸」に乗ってフィリピンへ向かう途中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃に遭い、大洋丸が沈没。八田氏もこのため遭難しました。享年56歳でした。

 妻の八田外代樹(とよき)は3年後、戦争に敗れた日本人が一人残らず(台湾から)去らねばならなくなったときに、烏山頭ダムの放水口に身を投じて八田氏の後を追いました。御歳46歳でした。

 私の畏友、司馬遼太郎氏は『台湾紀行』で、八田氏について、そのスケールの大きさをつぶさに語りつくしています。

 私は八田興一によって表現される日本精神を述べなければなりません。何が日本精神であるか。八田氏の持つ多面的な一生の事績を要約することによって明瞭になります。

 第一のものは、日本を数千年の長きにわたって根幹からしっかりと支えてきたのは、そのような気高い形而上的価値観や道徳観だったのではないでしょうか。

 国家百年の大計に基づいて清貧に甘んじながら未来を背負って立つべき世代に対して、「人間いかに生きるべきか」という哲学や理念を八田氏は教えてくれたと思います。「公に奉ずる」精神こそが、日本および日本人本来の精神的価値観である、といわなければなりません。

 第二は、伝統と進歩という一見相反するかのように見える二つの概念を如何にアウフヘーベン(止揚)すべきかを考えてみます。

 現在の若者はあまりにも物質的な面に傾いているため、皮相な進歩にばかり目を奪われてしまい、その大前提となる精神的な伝統や文化の重みが見えなくなってしまうのです。

 前述した八田氏の嘉南大シュウ工事の進展過程では、絶えず伝統的なものと進歩的なものを適当に調整しつつ工事を進めています。3年輪作灌漑を施工した例でも述べたように、新しい方法が取られても、農民を思いやる心の中には伝統的な価値観、「公義」すなわち「ソーシャル・ジャスティス」には些かも変わるところがありません。

 まさに永遠の真理であり、絶対的に消え去るようなことはないものです。日本精神という本質に、この公義があればこそ国民的支柱になれるのです。

 第三は、八田氏夫妻が今でも台湾の人々によって尊敬され、大事にされる理由に、義を重んじ、誠をもって率先垂範、実践躬行する日本的精神が脈々と存在しているからです。日本精神の良さは口先だけじゃなくて実際に行う、真心をもって行うというところにこそあるのだ、ということを忘れてはなりません。

 いまや、人類社会は好むと好まざるとにかかわらず、「グローバライゼーション」の時代に突入しており、こんな大状況の中で、ますます「私はなにものであるか?」というアイデンティティーが重要なファクターになってきます。この意味において日本精神という道徳体系はますます絶対不可欠な土台になってくると思うのです。

 そしてこのように歩いてきた皆さんの偉大な先輩、八田興一氏のような方々をもう一度思い出し、勉強し、学び、われわれの生活の中に取り入れましょう。

 これをもって今日の講演を終わらせてもらいます。ありがとうございました。



□ 私は本書をこう読んだ

 ●阿川弘之・・・作家
 「昔の日本の良いところは台湾に残ってゐる」とは、よく言はれることだが、それをしっかり身につけた代表的人物をひとり選ぶとすれば、やはり李登輝前総統であらう。忠誠心、勇気、礼儀正しさ、慈愛の心等々、その「良いところ」を総合象徴するものとして、李登輝先生はいつも、新渡戸稲造の著書『武士道』をお挙げになる。かつて台湾総督府の農業関係技師をつとめた新渡戸博士のやうなり理想家肌の学者、技師、教育者たちが、20世紀前半、台湾のせいねんたちの胸に、直接間接、台湾近代化、自由化、大発展の希望の灯をともしたのである。本国の日本で、昔の良さが失はれつつあるこんにち、今度は私たちが、台湾の人から理想の灯をともしてもらはねばならぬ。「日本人よ、やまとごころを取り戻せ」と、前総統が諄々説いて止まない此の一冊は、21世紀の日本人必読の書と讃へても過言ではあるまい。

 ●石原慎太郎・・・作家
 国家ヘの愛情が失われて久しい。政治も、行政も、経済も、外交も、社会全体が朽ち果てていく今の日本の姿を、多くの日本人はただ、ただ、傍観するのみである。台湾の李登輝前総統――私の知己で敬愛する政治家のひとり――がそんな日本にメッセージを投げかけてくれた。『「武士道」解題』は情けない現代日本人への警世の書である。

 ●金美齢・・・台湾総統府国策顧問
 日本人クリスチャン新渡戸稲造が英語で著した『武士道』を、台湾人クリスチャン李登輝が日本語で読み解く。二人の国際人が考えるノーブレス・オブリージュ。このストイックな精神が日本を再生させ、台湾を自立させる。これこそ21世紀のバイブルである。

 ●小林よしのり・・・漫画家
 「存在の虚無」になど惑わされず、自分の存在をこの時代に刻み込みたい、命を大きく使ってみたいと願う若者にとって、必読の書である。敗戦後、占領統治によって破壊された日本の教養が、李登輝という偉人の中には、明瞭に残っているのだから。

 ※以降省略させて頂きました。


 



 

 

 

 

 
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【2007/05/07 17:08】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(0)
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日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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