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「ご覧なさい。これが殖民地の学校かな?」
蔡焜燦氏
 ※ 司馬遼太郎著「台湾紀行」の“老台北”こと蔡焜燦氏が、来日されているとのこと。今月いっぱい滞在されるようだ。“来日”というより里帰りか。80歳になってなお、精力的な行動力に脱帽です。どうか、いつまでもお元気な姿を見せて下さいますよう、日台関係が一日も早く正常化されますよう、ご祈念いたしております。
 蔡先生のお話を聞いているだけで、元気倍増です!




■蔡焜燦氏 母校を訪ねて 日本統治下の学校教育に誇り
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070421/chn070421001.htm


 台湾を代表する「愛日家」として知られる蔡焜燦(さいこんさん)氏(80)が、戦前の日本統治下で義務教育を受けた清水(きよみず)公学校を訪ねた。赤レンガ造りのモダンな校舎から伝わってくるのは、当時、台湾の将来を築く人材育成のため、日本本土にもない先進の教育設備を注ぎ込んだ日本人の熱意だ。蔡氏は「これが殖(植)民地の学校だろうか」という随想を発表するほどに、この学校を誇りとしているが、思い出の地をめぐりながら、愛日家ゆえに抱く複雑な思いものぞかせた。

 (台中県清水鎮 長谷川周人)

 清水公学校を訪れるきっかけとなったのは、蔡氏が復刻した同校の「総合教育読本」だった。この学校では昭和10年、校内有線放送や16ミリ映画などを使った最新の視聴覚教育が始まった。その副読本として童謡や神話などを集めた「総合教育読本」は日本文化の凝縮だった。蔡氏の随想のエッセンスとともに同書を産経新聞文化面で紹介したところ、大きな反響を呼んだ。

 当時の日本教育には、「民衆を隷属させた日本軍国主義による暗黒の一ページ」(中国外交部報道官)という批判もある。が、蔡氏は「『公』と『誠』を重んじる日本教育は台湾発展の源となった」と反駁(はんばく)する。


            ◇           ◇

 「ご覧なさい。これが殖民地の学校かな?」。校門をくぐると蔡氏が、ちゃめっ気たっぷりにいった。

 瓦ぶきの屋根を支える白亜の洋風円柱。見上げた天井は和風建築のヒノキ造り。廊下かられんが造りのアーチをくぐれば、芝生を敷き詰めた中庭が広がり、南洋の常緑樹、榕樹(ガジュマル)が木陰をつくって涼風を呼ぶ。その優美なたたずまいを目の当たりにし、うなるほかなかった。

 「手洗い場で使った水を散水に使い、リサイクルの観念を教えた。教室には白木造りの神棚があり、朝礼後の礼拝で作法を習い、掃除当番を通じて公共心を養った。発案者の川村秀徳校長は400枚ものレコードを集め、校内有線放送や映画による視聴覚授業でときめく子供心を立体的に育てた。これが72年前に日本人が台湾で作った学校なのです」


            ◇           ◇

 新校舎の落成から半年足らず昭和10年4月21日早朝、大地震が台湾中部を襲った。震源に近い清水一帯でも家屋が倒壊し、死者320人を超す大惨事となったが、新校舎はびくともしなかったという。

 「おやじは土をこねて急ごしらえのかまどをつくり、粥を炊いて被災者に配った」。「減私奉公の日本精神に生きる父親」の姿を脳裏に焼き付け、見舞金を贈られた昭和天皇に親近感を抱いたという蔡氏は、図らずも地震を通じて「愛日家」としての第一歩を踏み出すこととなった。

 蔡氏は高台にある地震の慰霊碑から清水を見下ろしながら、静かにこう語った。「いつか私が死んだら、遺骨は3つに分けて散骨させる。葬式はしない。そして『拝啓 おやじの友人の皆様 父はあの世で待っているそうです』と息子に公告を出させます」

            ◇           ◇

 「粋だろう」と言わんばかりの蔡氏に、日本へ託す言葉を期待したが、続きはない。代わりに、脱いだ上着をひょいと肩にかけ、こう歌った。

 ♪ふるさとの山の青さよ、尊さよ なんで頭がこう下がる あの木、あの森、あのせせらぎも みんな昔の夢が住む

 (「ふるさとの灯」作詞・西條八十、作曲・早乙女光)

 「愛国心をはぐくんだ日本教育は、激動の戦後を乗り越える心の糧。しかし、行き場を失った愛国心ほど悲哀に満ちたものはない」。ある親日派長老はこういって肩を落とすが、戦後日本が領有権を放棄した後の「台湾」は、世界に法的存在が認められず、蔡氏には日本教育でたたき込まれた「愛すべき祖国」を持てないでいる。




■「日本人よ胸を張れ!」“老台北”蔡焜燦氏語る
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070424/chn070424002.htm


 司馬遼太郎著「台湾紀行」に博識の“老台北”として登場する著名な台湾の実業家、蔡焜燦(さいこんさん)氏(80)が23日、東京・大手町の産経新聞東京本社を夫人の李明霞さん(81)とともに訪れ、「心のふるさとは京都だ」などと、1時間あまりにわたって日本への思いを語った。

 戦前の台湾で教育を受けた日本語世代の一人で、自ら「愛日家」と称する蔡氏は、自信を失いかけた日本人に事あるごとに、「日本人よ胸を張れ!」と激励するなど、民間レベルで長年にわたって日台交流を実践してきた。

 こうした労苦に対し、日本人の有志を代表する形で産経新聞社とフジサンケイ ビジネスアイはこの日、蔡氏と夫人に感謝状と記念品を贈った。

 蔡氏と夫人は京都、大阪を経由して5月1日に台湾に戻る予定。

 ≪講演要旨≫

 「“愛日家”というのは私の造語だ。現在の私たちは元日本人としか言えないが、首から上は今でもニッポン的。おばあちゃん(蔡夫人)は寝言も日本語。にぎりずしが大好きで、昨夜も寝言で『小鰭(こはだ)』などと言っていた」

 「司馬遼太郎先生から以前、心のふるさとはあるかと聞かれたとき、京都と答えた。昭和20(1945)年、終戦後に京都府美山町(現南丹市)で2カ月ほど炭焼きをしていた。今も京都の黒瓦の建物や五重塔を見るだけで落ち着く。ふるさとに帰ってきたつもりだ」

 「(昭和8年に蔡氏が入学した台湾台中の母校の)清水(きよみず)公学校は、日本全国どこにもなかった校内有線放送設備や16ミリ映画の映写設備があった。その副読本だった『総合教育読本』を卒業生や日本の方々に読んでもらいたいと思い、復刻版を(自費で)出版した。日本の方々に、もっと自信を持ってもらいたいからだ」

 「これが植民地の学校だろうか。植民地、植民地といって(統治時代の問題など)でたらめなことをいう人がいるが、(副読本は)日本人が当時、こんなにも高い教育を台湾で行った事実の証明ではないか」

 「昨日(22日)に靖国神社の春季例大祭に初めて参加した。今年から4月29日は『昭和の日』になった。その日に私たちが日本にいることは、感慨深い」


☆台湾のWHO加盟を支持する集いで披露された蔡焜燦さんのメッセージ
日本李登輝友の会メルマガ『日台共栄』第519号より

【メッセージ】日本の皆様、ありがとう[台北 蔡焜燦]

 五月一日、無事台湾に帰って参りました。日本滞在中はたくさんの方にお
目にかかれて大変嬉しゅうございました。靖国神社の例大祭にも初めて参列
でき、司馬遼太郎先生の墓参にも参り、本当に心温まる旅でした。

 さて、台湾は堂々とした一つの国であるにもかかわらず、中国の理不尽な
妨害でWHOに加盟できないため、必要な情報が入って来ず、本当に困って
います。

 しかし、だからと言って台湾は一方的に情報の提供を求めているわけでは
ありません。これまで積極的に対外的な医療協力を行ってきています。一昨
年の南インド洋大津波災害における復興活動、昨年二月のフィリピン土石流
災害に際しては緊急援助隊の派遣と物資の搬送、鳥インフルエンザに対する
防疫物資の提供と台湾国際医療チームの派遣など、数え上げればきりがあり
ません。

 四年前のサーズ、つまり「中国肺炎」ですが、あの時のことを思い出して
ください。中国政府が発生を隠蔽して対策を怠り、WHOからの情報もない
中、台湾は最善を尽くし、影響を最小限に食い止めました。

 皆さん、サーズウィルスや鳥インフルエンザが国境や人種を見分けます
か。

 本日は日本李登輝友の会の主催により、日本の皆様が台湾人と一緒に台湾
のWHO加盟支持の集いを開かれるとの報に接し、私は目から汗が出ていま
す。これが日本です。これが武士道の国日本なのです。だから台湾の友人な
のです。

 今日の東京は雨だそうですが、そのような中を駆けつけていただき、遠く
台北から深く御礼を申し上げます。日本の皆様、ありがとう。

 二〇〇七年五月六日

                        台北 蔡 焜燦




■【台湾有情】総統府に日本人の軌跡
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070126/chn070126002.htm

 日本から訪れた知人を案内したついでに、一般参観者に混じって総統府を見学した。取材で内部まで出入りする機会はあるものの、総統府が観光客や住民に見せる“表の顔”に触れるのは初めてだけに、興味があった。

 総統府の裏側にある出入り口では、来訪者はまず金属探知機で身体検査を受ける。カメラのほか携帯電話も持ち込みは許されず、自動小銃を構えた憲兵があたりに、にらみを利かせている。出迎えてくれた案内役のボランティアは親日的ないわゆる「日本語世代」で、開口一番、こう言った。

 「日本は台湾を植民地にしていない。疫病を一掃し、高いレベルの教育環境を整えたのです。イギリスやフランスの植民地とは違います」

 内部に入って、まず目に飛び込んできたのは、歴代総統を紹介する大型パネル。日本の総督19人の顔写真も総統と同じ扱いで掲げられていた。解説に耳を傾ければ、社会基盤整備など日本の政策が台湾の発展を促した功績として熱く語られる。

 歴史認識では日本に厳しい中国通の知人は押し黙った末に、別れ際にようやく口を開いた。「戦後、われわれが自ら封印した日本人の軌跡が台湾では今なお生きていた。しかも権力の中枢である総統府に…。北京ではおよそ考えられない」。

 総統府の一般開放は週日の午前9時~正午。日本人は旅券が必要です。(長谷川周人)

(2007/01/26 08:34)















☆その他台湾関連本
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【2007/04/25 03:50】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(1)
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日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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Author:娑婆妥場
この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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