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あゝモンテンルパの夜はふけて

渡辺はま子~モンテンルパの夜はふけて  渡辺はま子 
       明治43(1910)年~平成11(1999)年 
 『支那の夜』『何日君再来』『桑港のチャイナ街』『蘇州夜曲』など、戦前から大活躍したスター歌手。 
 
 中国の異国情緒をイメージした曲調とチャイナドレスに中国扇のスタイルで、李香蘭とともに一世風靡した。 

 もうすぐ彼女の命日、12月31日が近づくとモンテンルパのエピソードを想い出す。忘れちゃいけないエピソード。

 支那事変が始まった翌年の昭和13年からの7年間、彼女は上海など中国大陸の戦地へ数知れず慰問に行った。終戦は天津で迎え、抑留された収容所でも引き揚げ船の中でも歌い続けた。

 帰国すると、国内では「あの戦争は間違っていた」という風潮が広まっていて、彼女は面食らう。GHQ占領下で戦勝国が一方的に裁くという軍事裁判で判を押された戦犯の家族までもが後ろ指をさされていた。

 実際に戦地で多くの兵隊さんたちと交流していた彼女は、だまって見ていられない。そんな風潮に惑わされることなく、巣鴨拘置所や傷病兵、戦犯の家族を慰問して廻った。

 そんなある日、彼女の大ファンであったフィリピンの下院議員(元駐日大使)デュラン氏から、今もフィリピンで150人の元日本兵が戦犯として捕らえられ、悲惨な状況にあることを聞かされる。

 すぐにマニラに行こうとするが、まだ国交も回復されておらず行く術はなかった。いても立ってもいられず、彼女はお香を送った。

 その後モンテンルパの死刑囚から手紙が届く。遠い祖国に想いをつのらせた歌詞と譜面、そして「あなたに歌っていただけるなら死んでも悔いは残らない」としたためてあった。

 その場で彼女はピアノを弾き歌いだした、それを聴いたビクターのディレクターが感動し、即決でレコードにした。昭和27年7月、『あゝモンテンルパの夜はふけて』は瞬く間にヒット、20万枚が売れた。

 彼女は、その年の暮れにモンテンルパの刑務所を訪れた。それも直前までビザが取れず、やむなく通過査証を手に見切り発車でフィリピン行きを決め、出発ぎりぎりのところでビザが下りたのだった。

 昭和27年12月25日、死刑囚の独房の奥のステージは花で飾られ、「歓迎 渡辺はま子様」と横断幕が掲げられていた。

本当に一生懸命、来ました。もっとたくさんお土産を持って来たかったんです。
だけど自分が来られるかどうか、わからなかったものですから。
なにも買うこともできないで、ただ走り回って、
やっと自分だけ来ました。
だからみなさんに、あれもしたい、
これもしたい、と思っていたんですけどなにもできないで……
ただ一生懸命歌って……


 彼女は衣装を3度も替えながらヒット曲のすべてを歌い、やがて『あゝモンテンルパの夜はふけて』を・・。囚人たちのすすり泣きが聞こえた。看守までもが口ずさんだ。この歌が後に囚人たちを救うことになる。

 会も終わりに近づくと、デュラン議員が『君が代』を歌うよううながした。「私が責任を持つから」と。敗戦国の国歌は、歌うことを許されていなかった。

 一同起立し、祖国に向かって『君が代』歌い始めた。ある者は泣いて声にならず、ある者は途中で座り込んでしまった。

 その後帰国した彼女はラジオで語りかける。モンテンルパの同胞を救うための署名を集めるのを手伝って下さい、兵隊さん!と。それを聞いた全国の元兵隊さんたちが組織立って一件一件に呼びかける。そして、なんと500万人の署名が集まった。

 署名だけではない。彼女はその後もモンテンルパに2度、遺族と共に慰霊に訪れている。モンテンルパだけではない、硫黄島・サイパン・沖縄などの激戦地へ何度も慰霊訪問し、慰霊碑の建立に印税の殆んどをつぎ込んだ。

 話を戻して、次に吉田義人から『あゝモンテンルパの夜はふけて』のオルゴール2冊を送られた彼女は、その1冊を加賀尾に送った。その後送られた500万人もの署名と嘆願書が更に功を奏し、死刑囚たちは全員帰国することになる。

 7月22日午前8時半、横浜港に帰り着いた彼等を迎えたのは、港を埋め尽くす2万8千人もの大群衆だった。彼女はもちろん、ここでも歌った。

  モンテンルパの夜は更けて
  つのる思いに やるせない
  遠いふるさとしのびつつ
  涙にくもる月影に
  やさしい母の夢を見る

 ◎ここでメロディーが聴けます
http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/AhAh_MontenrupanoYohafukete.htm

 ◎あゝモンテンルパの夜は更けて


 

■当時のモンテンルパ・ニュー・ビリビッド刑務所 モンテンルパの収容所
 日本が受諾したポツダム宣言第10項に基づき、極東国際軍事裁判所条例は戦争犯罪をAからCに類型化した。

 A項は平和に対する罪、B項は通例の戦争犯罪、C項は人道に対する罪についての規定で、各項該当者を各級戦犯と呼んだ。

 戦争指導者を対象としたA級裁判は国際軍事裁判(東京)、BC級裁判は中国をはじめ米英蘭仏豪フィリピンなどの関係7カ国(国内外49ヶ所)がそれぞれの国の法規をもとに軍事裁判を行い、被告は5千7百人、うち千人余りが処刑又は獄中で死亡した。受刑者の多くは後に、その罪状は事実無根であったことが判明している。モンテンルパでは17人が絞首刑で亡くなった。

 現在のモンテンルパ同刑務所(無料動画)
http://www.ch-sakura.jp/streamfiles/streaming.html?id=44

戦後、多くのゆかりある元日本兵たちによって、17名が処刑され埋葬された地に『モンテンルパ日本人記念墓地公園』が建立された。現地の日系ガイドさんが、歌のエピソードも交えて当時を語るドキュメントフィルムです。


   加賀尾秀忍  

 高野山僧侶であった加賀尾が教誨師としてフィリピン・モンテンルパの刑務所に赴任したのが昭和24年10月、任期の6ヶ月を過ぎても一人で帰国する気持ちにはなれなかった。受刑者の残飯で食いつなぎながら全員を連れて帰る方策を探っていた。

 「歌だ!」加賀尾は、その頃ヒットしていた「異国の丘」(日本中にシベリア抑留者のことを思い出させた)にヒントを得て、モンテンルパの歌を作ることを思いつく。

 死刑囚の元憲兵・代田銀太郎に作詞を、作曲は元将校の伊藤正康に頼んだ。加賀尾は出来上がった歌を渡辺はま子に送った。

 そして間もなく、加賀尾の祈りが次々と実り出す。彼女の慰問に続き、彼女からオルゴールが届いた。ちょうどキリノ大統領との初めての会談が許された昭和28年5月16日のことだった。

 大統領は、市街戦で妻と3人の子どもを日本軍に殺されており、どう泣きつかれても耳を貸さないぞと身構えていた。ところが、加賀尾は静かにオルゴールを土産にと手渡しただけだった。

 もの哀しいメロディーが流れ「この曲は何か」と尋ねる大統領に、加賀尾は戦犯たちが作ったものだと答えた。

 大統領は再度メロディーに耳を傾けると「7月4日の独立記念日には日本人を二人釈放してあげましょう。この二人というのは小池君と藤崎君です。戦争中、私が捕虜になっていた時、こっそりとかばってくれたんです。この二人については早くからなんとかしたかったのです」とつぶやいた。

 そのあと事は急転して行く。当初二人だけだった恩赦が、6月27日には「一部の者に恩赦、釈放の恩典を与えるので、それに値すると認められるものを指名せよ」となり、一夜明けた翌日の決定は「死刑囚、無期刑囚を全員釈放。死刑囚は無期に減刑して、日本の巣鴨に送還する」に変わった。

 実はその前日、日本からの戦犯釈放嘆願書がフィリピン外務省に届けられていた。それには何と日本人500万人もの署名が添えられていたのだ。

吉田義人

 元軍人でオルゴール会社を経営していた吉田義人は、彼女の歌を聴いて感動し、当時できたばかりの『(富士山の蒔絵の)アルバム式オルゴール』にこの曲を詰め、彼女に2冊を送った。


    


■参考にしたサイト
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog180.html
http://d.hatena.ne.jp/torix/20051231
http://www.geocities.jp/showahistory/history4/27d.html
http://mine-sc.ddo.jp/mines_data/mines003.htm
http://www.tamanegiya.com/monntennrupa.html
他、数知れず

■訃報:代田銀太郎氏死去/作詞家
http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20060607000397
四国新聞社2006/06/07

 代田銀太郎氏(しろた・ぎんたろう=「ああモンテンルパの夜は更けて」作詞者)7日午前3時56分、肺炎のため長野県飯田市の病院で死去、92歳。飯田市出身。自宅は飯田市松尾清水4467の1。葬儀・告別式は10日午後2時から飯田市松尾新井6544の1、メモリアルホール光和で。喪主は長男和信(かずのぶ)氏。

 第二次世界大戦中に憲兵としてフィリピンに赴任。戦後、戦犯死刑囚として刑務所に収容された。52年に渡辺はま子が歌い、ヒットした「ああモンテンルパの夜は更けて」を作詞。歌がきっかけとなって大統領による日本人戦犯の特赦、釈放につながったとされる。
 

■番外編:この曲知ってる方、教えて下さい! 
http://www.otokichi.com/main/newotokichi/lostsongjp.htm

 つい最近のエピソード。占領下に神戸に赴任していた元米軍兵の姪(60代)のジャンさんが、亡くなった叔父の好きだった、当時の日本の流行歌手とその曲を探しているというメールが届くところから始まります。
 その歌手とは、最後になんと渡辺はま子さんであったことが判明するのだけれど、それまでの全世界を巻き込んだやり取り顛末が、リンク先で詳細に記録されています。
 なんとも言えぬホンワカとした、こちらまで幸せな気分にさせてくれるエピソードでした。どうぞ、覗いてみて下さい。
 


【おまけ】
 実はこの一連の釈放嘆願活動の陰で、笹川良一・岸信介などをはじめとする多くの気骨者たちが、同じように財を惜しまず奔走していました。

 最後に、はま子さんと同時期のスター歌手、二葉あき子さんの思い出話をひとつ。

二葉「渡辺さんはね、そうあの頃は歌手もあまり多くなかったから、淡谷センセ、渡辺はま子さん、私って順番なの。それで渡辺センセはとっても明るい方で、夏になると思い出すんですけど、ビールをよく召し上がって、疲れちゃったからアンマさん呑もうよって言ってね、アンマさんがビールになってね、二人で呑んでてね、みんな宿の人も寝ちゃったもんだから、アンマさん探しに行こうって、二人で台所行って、ビールがここらへんにあるよって二人で呑んだ記憶があります」
 



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【2006/12/14 11:15】 | 【昭和】占領下 | トラックバック(0) | コメント(0)
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日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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