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亡命チベット人2世 タシィ・ツゥリンさん 釈放記者会見
チベット国旗 ※ 長野聖火リレーで逮捕拘留されていた亡命チベット人2世のタシィ・ツゥリンさんが、先週金曜日(5/16)、20日ぶりに釈放されました。威力業務妨害罪では最高額の50万円の罰金刑を受けたということです。異常ですね。

 拘留期間が長期に及んだことについては、胡 錦濤の来日に配慮した政治判断であったのだろうとのこと。極論として裏の裏を返せば、タシィさんの身辺保護のためとも考えられますが、50万円の罰金となると、うーん・・・、やはり異常であるとしか思えません。

 タシィさんの拘留期間が長引くにつれ、一部で「中国に引き渡されるかもしれない」との情報も流れ仰天しましたが、やはりデマだったようで釈放のニュースにとりあえず安堵しました。しかしタシィさん、ずいぶん痩せてしまいましたね・・お元気そうではありますが。

 このニュース、やはり大新聞もテレビもほとんどスルーでした。現在、四川大地震の報道で一色です。しかしね。地震とチベット問題は別問題です。地震で他の問題が帳消しになることはありません。地震の対処についての問題が上積みされたに過ぎません。

 さて、極一部のマスコミが集まり急遽記者会見が行われました。その模様が、関西ローカルテレビの朝日放送『ムーブ』(5/19)と、スカパー241のチャンネル桜『桜プロジェクト』(5/20)で報道されました。『ムーブ』については人気ブログ“ぼやきくっくり”さんで詳細が紹介されております。ついでにYOUTUBEも貼っておきました。

 で、重複するところがありますが、下記に『桜プロジェクト』の方をテキストに起こしました。そのVTRにはカット部分があり、(・・・)表記で繋げております。このカット部分については、恐らくペマ・ギャルポさんの通訳部分であると思われます。タシィ・ツゥリンさんの発言はテロップで表示されておりました。


 □長野で抗議し、逮捕されたタシィ・ツゥリンさんへのインタビュー 1/2(ムーブ)
 

 □長野で抗議し、逮捕されたタシィ・ツゥリンさんへのインタビュー 2/2(ムーブ)
 



□チャンネル桜『桜プロジェクト』(5/20) より

■亡命チベット人2世 タシィ・ツゥリンさん 記者会見 (通訳:ペマ・ギャルポさん)
平成20年5月16日(金)東京・ニュートーキョービル

ペマ・ギャルポ
「まずは皆さんにご挨拶を申し上げますよ」

タシィ・ツゥリン
「このたびは、日本の国民、政府、警察にご迷惑をお掛けしたことをお詫びし、また、感謝申し上げたいと思います。・・・拘留中に日本の皆様から沢山の手紙を頂きまして、それが大変励みになりました。このことは生涯決して忘れません。・・・日本の法律を犯さねばならなかったやむを得ない理由があったことを、申し上げたいと思います。・・・私はインドで生まれて、祖国を見たことはありません。しかし親から聞いた話で、かつてそこで何があったのかを常に自分で考え、18歳から今日まで心が落ち着いたことはありません。今、チベットで何が起きているのか、今回のことだけでも、亡くなった方々のことを思うと、いても立ってもいられず、あのような行動に及んでしまったのです。・・・日本ではチベット人が暴力的であると思っている方もいるかもしれませんが、決してそのようなことはありません。私たちはあくまで、平和裏に非暴力的な運動をしています。・・・改めて、日本の皆様ありがとうございました。」

Q:日本に来る前はどこの国で抗議活動を行っていたのですか?

「タイのバンコクで抗議活動をしていました。・・・インドとネパール、バンコク、ドイツそして日本です。」

Q:長く拘留されると思いましたか?

「最初はそうでもないと思いましたが、取調べの様子などから、長くなりそうだと思うようになりました。・・・日本の警察は私の活動についてかなり調べていたようです。その確認のようなことがありました。私は常に平和裏に活動して、やましいことはないので、その通りだと追認しました。」

Q:今回は一人で日本に来たのですか?

「一緒に活動する仲間はいますが、今回は一人で来ました。」

Q:警察はあなたの活動についてどのようなことを知っていましたか?

「私がネパールの抗議活動に参加したことは知っていました。その件については繰り返し聞かれました。」

Q:警察はあなたの活動について詳しい情報を持っていましたか?

「持っているような印象もありましたが、全く関係ない質問もされました。」

Q:あなたの活動について中国当局から情報が流れているのでは?

「日本の当局が私について特に詳しい情報を持っているとは思いませんでした。私の活動はチベット人として、何も恥じることも、隠し立てすることもないので、質問には積極的に答えました。」

Q:警察は取り調べで新しい情報を採っている様子でしたか?

「日本の警察はあくまで法律に沿って質問しているようでした。当初は、過激な行動も行っていると想定していたようですが、私が平和裏に、非暴力的に活動していると納得したうえで、釈放してくれたと思っています。」

Q:福原愛選手が、訪日した胡 錦濤主席と卓球をするのを知っていて、飛び出したのですか?

「聖火ランナーが走ると知っていただけで、どういう方かは全く知りませんでした。全くの偶然だったのです。カルマ(業)なのかもしれません。」

Q:日本での拘留期間は他国と比べ、長いのでは?

「それぞれの国の法律の問題で、比較に意味はありません。日本の法律は犯しましたが、ちゃんと罪を償い、それに沿って結論を出してもらったと思っています。」

Q:日本以外で、拘留されたことはありますか?

「オリンピックに関する抗議活動では、ありません。3月10日の決起記念日にインドで捕まり、一ヶ月間拘留されました。」

Q:当局の対応において日本と外国で違いはありますか?

「各国の治安に対する取り締まり方は、さして違いはないと思います。今回の場合は中国人たちが、後ろから挑発的なことを言ってきたので、自分の父親が刑務所から出た後、またそのような人たちがどのような目に遭ったか、急にそれを思い出して、あのような行動に出てしまいました。他国ではそこまでのことはなく、捕まることもなかったのです。」

Q:中国人たちはどのような言葉で挑発してきたのですか?

「私が習慣的によく口にしている言葉“ダライ・ラマ万歳!”を叫んだところ、後ろにいた中国人たちが“ダライ・ラマはキチガイ!”“ダライ・ラマは平和を乱す悪人!”と叫んできました。それを聞いて冷静でいられなくなりました。・・・チベット人の今日があるのはダライ・ラマ法王のお陰です。世界中の人たちが法王は平和的な方だと知っているのに、侮辱的な言葉を発したことに我慢ができなかったのです。」

Q:大地震による、北京五輪の延期論については?

「個人的な見解ですが、オリンピックより救済活動が優先されるべきだと思います。」

Q:今回の抗議活動で自分の思いが世界に伝わったと思いますか?

「自分自身の小さな目的、祖国を見たことがない私が、自分自身がチベット人であることの意味において、そして今回、多くの人たちにチベットを知ってもらえたということで、目的は達成されたと思います。」

Q:中国に対して何かメッセージは・・・

「チベット人に害を与える中国政府に怒りはありますが、中国人に対しては特別な感情はありません。むしろ、中国人とチベット人は幸せを求める同じ人間だと思います。」


三輪和雄(桜プロジェクト火曜日担当キャスター)
「お疲れのところ有難うございます。まーあのー、今日ですね、インタビューのときも質問させて頂きましたけれども、それはも非常に篤い宗教心でね、日本の警察に対しての恨み言もおっしゃらずに、もうその部分感激したんですけれども、ただチベットにこう・・平和をもたらすためにはもっとこう・・本音というか、戦法的にいろいろ思いをぶつけた方がかえっていいような気もしないではないんですが、いかがでしょうかそこらへんは」

タシィ・ツゥリン
「おっしゃる通りですが、数日前の大地震で多くの方が亡くなったことにより、私の気持ちは収まり、今は同情しています。」

三輪和雄
「それからあのー、チャンネル桜の視聴者をはじめですね、日本人であのー、そのダライ・ラマさんとは何の関係もない人たちが、チベットに、今のね、状態に心の底から同情して、長野でもですね、チベット旗を・・あれはチベット人でもなんでもなくて本当の日本人がね、チベット旗をもってあれだけ連帯を、沢山の人たちがしていたということに関して何か一言あれば」

タシィ・ツゥリン
「そもそも今回、日本に行こうと思ったのは、マレーシアで日本人夫婦の抗議行動があったからです。」

三輪和雄
「まーあのー、ともかくですねー、この威力業務妨害ということになってるんですけど、私の方のアレですると、あの程度のことで逆に10何日(20日間ですヨ、三輪さん)もですね、拘留されたかと。あのー、ま、ペマさんはご存知のように罪刑法定審議ってのがあって罪は法で定めると、いうことになってますんでね、諸外国に比べてどうかということを伺ったんですけども。私も長野に行きましたけれども、まーあのー、彼が挑発されて怒ったように、あれだけチャイナの人間がもう傍若無人にね、やってたと。で、警備も明らかに中国側を守る警備で、チベットの旗を持った人をむしろ規制するという、こういう日本のあり方はどうだったでしょう。」

タシィ・ツゥリン
「長野に着いた時には、中国支援者が多くいるように見えましたが、命令されたり、お金を貰って来ている中国人に対して、よく見ると、チベットを支援してくださる日本人の方々は心からの応援をして下さっていました。日本人の皆様のお陰で、とても心強く感じられました。」

三輪和雄
「どうも有り難うございました」




 ※ 桜の方のVTRを見ての印象ですが、タシィさんの熱のこもったお答えの様子やその言葉の多さからすると、テロップがとても簡略化されていて、本当はもっと言葉があったんじゃないかと、もっと詳しい通訳が欲しかったなと。チベット語が分からない筆者にはどうにも歯がゆい思いでした。

 釈放されたこの当日に急遽、ほんの数時間を東京での記者会見に費やし、翌朝早々に台北へと帰られたそうです。その後、台湾でも記者会見などがあったなら、それもぜひ聞いてみたい。

 「国のために自分に何ができるかを常に考えて生きている」「18歳から今日まで心が落ち着いたことがない」とおっしゃるタシィさんは、本当なら、あの中国によるチベット侵略という悲劇がなかったなら、今ごろチベットのどこかで平和に暮らせたはずなのです。こんな遠くの外国で逮捕されたり記者会見をすることもない、同胞に囲まれ些細なことに夢中になって生きていられたはずなのです。そして今、世界中に散らばるチベット人のほとんどの人たちが、タシィさんと同じ思いで耐えているのかと思うと何とか助太刀してあげたい、してあげたいが・・。

 現実の日本国政府はというと・・。あの長野でタシィさんを地面に押さえつけ羽交い絞めにした。筆者には、あの姿が、中国に羽交い絞めにされる日本国に見えて・・・。

 北京五輪に拘るあまりに、今、中国は四川大地震にも苦しめられているように見えます。しかし、本当に苦しめられているのは中国人民です。タシィさんのおっしゃるように、中国人もチベット人も日本人も幸せを求める同じ人間なら、あの閉鎖的で残忍な中共政府を早く崩壊させたい。そのためにも今だ目覚めぬ日本人と日本政府の軌道修正を急がせたい・・。うううう。。。
 

 
 
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【2008/05/21 05:19】 | 【Free Tibet】 | トラックバック(0) | コメント(4)
あーした天気になーーーれ
チベット国旗 ※ この期に及んでチベット四川大地震とは。中共政府が誕生して59年、その間の災いは天災(人災?)も含めてどれだけ自国民の命を奪ってきたことだろう。何という軽き中国人民の命。ただただお悔やみ申し上げるばかりです。

 人心を欺くことで保身を続けたこの独裁国家の巨悪は、その存在が閉鎖的であるがゆえに国際世論からの非難を免れていたが、経済の改革開放とインターネットの出現による極めて情報の統制困難な時代を迎え、ここに来て急速に世界に晒されることとなった。

 近年、かの国の急速な経済発展にともない関係諸国を巻き込んだ事件の数々は驚愕の限りを尽くしており、神をも畏れぬ究極の、国家ぐるみ、及び、かの国特有の体質とでも言うしかない倫理欠如の所業に、世界は眩暈と嫌悪感で充満していた。

 そこへ来てのチベット弾圧だった。

 内政に極度の不安を膨らませながらの国際社会への船出は、建国59年目を迎え、何が何でものオリンピックが仇となったようだ。チベット弾圧への抗議は、チベット問題だけにあらず。中共政府が撒き散らしたあらゆる巨悪への抗議だ。

 しかし思うに、この巨悪を太らせた大巨悪は、第二次世界大戦の戦勝国にある。遡って欧米列強の人種差別的覇権にある。そして敗戦により、かつての魂を失った我が国の迷走にある。

 中共の崩壊とともに、その同罪たる秩序のひずみが、矯正への道へと辿らんことを希(こいねが)うばかりです。言葉が正しく蘇り、歴史が正しく蘇り、人類社会の未来が明るく照らされますよう、雨にも負けズ風にも負けズ・・・なーんて。日本語は言霊だから、こう言い続け願い続ければもしやそうなるかも、と。

 あーした天気になーーーれ。


 

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【2008/05/18 07:16】 | 【Free Tibet】 | トラックバック(0) | コメント(0)
冷徹さでは福田首相も胡 錦濤と同類
福田首相と胡 錦濤 ※ 福田首相を形容してぴったりくる言葉がなかなか見つからない。あえて言うなら「冷徹さでは胡 錦濤と同類」というところか。

 チベットの惨状にも動じない、中国産食品等で国民の生命をも危うくされていることにも動じない。長野での警備方針は福田首相の意向が反映されたものだった。胡 錦濤の滞在期間中は、その路線がさらに強化されるらしい。

 福田首相にはさらさら、日本国民の生命と安全・財産・名誉そして法すらも守る気がないようだ。その点で胡 錦濤と酷似しているように思う。

 自民党は安倍前総理が倒れた後、なぜに福田氏を総裁に持ち上げたのか。と疑問に思います。福田氏は前の総裁選で年齢を理由に候補を辞退していた人だ。しかも、安倍氏と相反する立場であったにもかかわらず、安倍氏を推挙していた代議士のほとんどが福田氏推挙に回った。そこには政治家としての理念も何もない、勝ち馬に乗ったと判断するのが妥当でしょう。筆者の疑問とは、その福田氏を勝ち馬に選んだ意図とは何だったのか、ということ。

 福田政権の発足以来、順調に支持率は落ちてゆき、とうとう安倍政権末期をも下回った。安部氏を叩きに叩いたあの朝日新聞が「福田首相参上!」と歓迎したにもかかわらずこの「惨状!」とは。これいかに。

 筆者は。福田氏を総裁に導いた意図とは、自民党潰しにあったと思っています。

 小泉政権が誕生する以前、あの頃の自民党支持率低迷も相当酷いものでした。政権交代は確実であろうと世論も民主党も浮き足立っていたが、小泉政権の誕生で自民党は救われた。小泉氏さえ総裁選で負けていたならば、あの時点で自民党は潰れていたのです。現に総裁選当初の党内支持では小泉氏に分は無かった。国民の人気だけがあったのですよ。

 さて、小泉政権の誕生、そのお陰で後の安倍氏による真正保守政権が実現した。しかし、「戦後レジュームからの脱却」を掲げ、安倍政権下での日本再生が本格化すると、朝日をはじめとする左派が牛耳るマスコミの安倍叩きは、以前にもまして執拗にして手段を選ばずの露骨なものとなった。安倍氏の改革が教育・安全保障、そして自治労・公務員にまで及ぶと、安倍潰しの包囲網は官僚によるリークも加わり、まるで袋叩きの形相となった。

 向かうところ敵ばかりとなった安倍氏を守るべき内閣からも、叛乱とも受け取れるような失言や不祥事が相次ぎ自殺者まで出した。とうとう健康まで損ない気力体力使い果たした安倍氏は力尽きた。その後の情報の中には側近の首相秘書が工作員であったと指摘するものもある。

 そして直後の総裁選でイリュージョンの如く周りから持ち上げられたサプライズが福田氏だったのだ。安倍政権を継ぐに最も相応しかったはずの麻生氏は一夜にして党内支持率が反転し、総裁選のルール変更という掟破りの辻斬りもあり、国民の応援むなしく華と散った。

 かくして福田政権の発足と相成ったが、今日のこの惨状は、その時点で、誰もが予測できていたことなのです。

 自民党潰しのために福田政権を誕生させた。中共による政治工作の項目にある自民党内の分断工作は小沢氏らの離党の頃に完成されており、自民党解体工作は福田氏を勝ち馬にすることで完成していたのでしょう。これ、筆者だけの単なる妄想でしょうか。どっちにしろ、自民党は死に体です。そして、中共による日本無血侵略は、民主党政権の誕生でほぼ完成となるでしょう。

 フリー・チベットならぬ「フリー・ジャパン」を、日本人はすでに始めなければならない。ということ。胡 錦濤は来日するのではない。「新・日本自治区」を視察に立ち寄っているだけなのだ。と、自分で書いていてぞっとする。

 胡 錦濤よ!私はあなたを歓迎しない!

☆この画像を、5月6日に掲載しませんか。
日本人が、彼を歓迎していると思われたくありません。

その日は、あちこちのブログに、この画像があればいいなと思っています。
直接、抗議やデモに参加出来ない方も、ぜひご利用下さい。




NO!虐殺者


NO!胡 錦濤


NO!チベット弾圧


NO!首切り人


 
 
チベット大虐殺の真実(OAK MOOK 210 撃論ムック) (OAK MOOK 216)チベット大虐殺の真実(OAK MOOK 210 撃論ムック) (OAK MOOK 216)
(2008/04/30)
西村幸祐

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【2008/05/06 07:30】 | 【Free Tibet】 | トラックバック(0) | コメント(3)
4・26長野善光寺 チベット犠牲者追悼法要
チベット国旗 ※ 明日、胡 錦濤がやって来る。 

 
 




□【聖火リレー】その時善光寺では【日本人の想い】
聖火リレーの始まったその時、スタート地点を辞退した善光寺では、チベットでの犠牲者 へ追悼法要が行われました。それはチベット民族のみならず、中国の人にすら対象とするものでした。

 




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【2008/05/05 18:50】 | 【Free Tibet】 | トラックバック(0) | コメント(0)
皇后陛下のお言葉の中から-壁崩壊後のベルリン訪問時のご印象
歩み 皇后陛下お言葉集歩み 皇后陛下お言葉集
(2005/10/08)
宮内庁侍従職

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 ※ 「御即位十年に当たっての記者会見」より、平成十一年十一月十日、在日外国報道協会代表質問より皇后陛下の御言葉をお一つご紹介致します。


 

質問― 両陛下はこの十年間に何度か外国をご訪問されましたが、当時の最も印象深い思い出や、ハプニングについてお話をお聞かせ下さい。また、そうした機会を体験されて、日本が国際的役割の中で世界に発信した方がよいと思われるメッセージは何だとお考えでしょうか。


 皇后陛下― 十年間に訪れたどの国においても、幾つかの懐かしい再会があり、たくさんの新しく印象深い巡り会いがありました。遠い国々を訪ね、そこに母国におけると同じく、心を通い合わせることのできる人々を見いだすことは本当に嬉しく楽しいことでした。

 それぞれの旅に思い出があり、その中から最も印象深い一つを選ぶことは難しいのですが、今、陛下もお触れになりましたように私も壁崩壊後のベルリン訪問は、とりわけ深い印象とともに思い出します。

 今から十年前のちょうど今ごろ、テレビのニュースで朝の光を一杯に受けたブランデンブルグ門に群がる人々の笑顔を見、その明るい光景に強く心打たれてから四年後、陛下のお伴をしてベルリンを訪れ、ワイツゼッカー大統領ご夫妻とベルリンのディープゲン市長ご夫妻とともに、ブランデンブルグ門を通りました。その後壁の周辺を歩き、そこで亡くなった幾人かの方々のお墓を見、この壁とともにあった三十年近くに及ぶ世界の歴史と、その壁のために命を失った人々と、また運命をたがえた多くの人々の上に思いを致しました。忘れることのできない旅の一日でした。

 二つ目の質問である、日本が世界に発信すべきメッセージについては、これはさまざまであってよいのだと思います。また、私は幾つかの国を訪問する機会を得る中で、一国が発信するメッセージは、必ずしも言葉や行動により表現されるものばかりとは限らず、例えば一国の姿や、たたずまい、勤勉というような、その国の人々が長い年月にわたって身につけた資質や、習性というものも、その国が世界に向ける静かな発信になり得るのではないかと考えるようになりました。その意味で、日本が国際的な役割を十分に果たしていく努力を重ねる一方で、国内においても、日本が平和でよい国であることができるよう、絶えず努力を続けていくことも、大切なことではないかと考えています。



 
 ※ 1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊。その日突如として東ドイツ政府が、東ドイツ市民に対して旅行の自由化を発表したことから、なだれ現象のように西側へ渡る大群集の様を、筆者もテレビで目撃した記憶が今も生々しい。ハンマーを振り下ろし嬉々として壁をぶち壊す人々を見て、世界中が歓喜の声を上げた。

 今、北京オリンピックを控えた中国へ、世界中の視線が集まっています。息をつめて見つめる多くの人々の胸に、あの「ベルリンの壁崩壊」の記憶が蘇っているのではないでしょうか。

 さて、今や現場を知る者には「長野事件」と呼ばれる先の聖火リレーでの様で、あの日は日本国の主権を踏みにじられ法治国家としての前提を揺るがせた大事件としての自覚があります。一方で政府は胡 錦濤 国家主席の訪日を前に、いまだその自覚がないようです。

 長野での中国人留学生たちの傍若無人な様を思い出すと、全体主義に手繰られた哀れを感じると同時に恐怖を覚えました。日本の警察は手も足も出せず、中国人による不法行為を黙認した。それは警備の算段を誤ったためなのか、政府の意向が反映したものだったのか。これを放置することは、中国にその日から主権移譲したことになるまいか。今からでも遅くはない、被害者は警察に届けを出して欲しいと思います。

 ひるがえって中国人当事者たちは何と思ったか。自国での「愛国無罪」が他国である日本で通用すると思い込んだとしたら大変なことになる。警察はその威信にかけて粛々と法に委ねるべきである。もしや胡 錦濤の訪日時においても同様の警備に及べば、我が国の法治国家としての体裁は完全に崩壊する。やめてくれ。

 さらに我々は、在日中国人の方々全部が全部だとは思わないが、中共政府からの糸で容易に手繰られ得る存在であることを目の当たりにしました。彼らは祖国を離れても恐怖政治の影響下にあるということだ。彼らの多くは中共を信じていないという。中共が大嫌いだという。しかし、祖国への愛国心は当然に持っている。中共は嫌でも、愛国心を持つことはごく自然なことなのだから。

 そんな彼らに、筆者は、敵対するのではなくこう語りかけたい。「あなたは中共を信じられるのですか?」と。天安門事件で中共は何をしたか思い出して欲しい。彼ら自身が、もしくは、彼らの両親や親戚が、あの事件を覚えているはずです。今日本にいて、この自由の国で、天安門事件や文化大革命の真実を調べることは容易なこと。どうか、あなた自身が真の自由に目覚め、祖国の開放と民主化に心を傾けて下さい、と。

 ところで、もう一つだけご紹介したい皇后陛下のお言葉があります。マスコミの方々は心して耳を傾けるように。


□平成五年 お誕生日に際し宮内記者会質問に対する文書回答

 質問― 最近目立っている皇室批判記事についてどう思われますか。



 皇后陛下― どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います。今までに私の配慮が充分でなかったり、どのようなことでも、私の言葉が人を傷つけておりましたら、許していただきたいと思います。

 しかし、事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であっては欲しくはありません。

 幾つかの事例についてだけでも、関係者の説明がなされ、人々の納得を得られれば幸せに思います。






 ※ この翌年のお誕生日(11/20)の朝、皇后陛下は倒れられ、失語の状態で後の六ヶ月を過ごされた。その間も、倒れられた当日以降の公務はすべてお出ましになられました。

 天皇皇后両陛下は、長野事件を見てどのように思われたでしょうか。胡 錦濤訪日の際の謁見は、筆者にはどうにも許し難く、陛下に痛く申し訳なく思います。我々の声は政府には届かないのか。福田現政権においての胡 錦濤の訪日には絶対反対です。どうにかならんのか?

 同日にダライ・ラマ法王と会談されるなら大歓迎ですが。





 

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【2008/05/03 06:55】 | 【御皇室】 | トラックバック(0) | コメント(2)
昭和天皇の戦中生活について描かれた手記を発見と-東京新聞
昭和天皇・香淳皇后 ※ 先日の「昭和の日」(4.29)、東京新聞朝刊一面トップでの記事(26・27面記事は新聞から転載)です。ネット上を探してみると他にFNNニュース(フジテレビ)がとり上げていました。FNNでは動画もご覧になれます。

 しかし手記といえば誰の手に委ねられるかで扱いも変わること、先般の「富田メモ」の扱いで記憶に新しいのです。どうかそのまま歪めることなきよう、と見守りたい。

 昭和天皇のお人柄についてはこれまでにも多くの史料や著述等があり、「富田メモ」での報道内容では大きく乖離した違和感を持ちました。その疑惑に対しスクープした日経新聞は払拭のための史料公開を拒絶したままになっています。

 



【FNNニュース】
昭和天皇の戦争中の生活がうかがえる侍従武官の手記が見つかる


 戦争中の昭和天皇の生活がうかがえる侍従武官の手記が見つかった。
 食事について、「一汁二菜、お香物位(おこうのものぐらい)」と記されるなど、質素を好んだ昭和天皇がしのばれる。
 「宮殿炎上」と題されたこの手記は、1936年から日米開戦前年の1940年まで、軍部との連絡役である侍従武官を務めた山澄 貞次郎元海軍少将が、終戦後に記したもの。
 手記には、昭和天皇の戦争中の生活について、「何事にも堅実簡素を尊ばれる」などと書かれ、食事は「白米を召し上がらず、七分づきのご飯に、一汁二菜、お香物位で、皆が想像するように、山海の珍味を並べる王者のお食事とは全く違う。私は、金持ち連中は少しは自重しろと憤慨した」と記されている。
 また、何事にも仰々しいことを嫌う昭和天皇が、側近らに対して、「なかなか趣旨が徹底しないのは困ったものだ」などと苦言を呈していたエピソードもつづられていて、その人柄がしのばれる。


【東京新聞:一面】
□昭和天皇の戦中生活描く 海軍侍従武官の手記発見
-2008年4月29日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008042902007452.html

 日中戦争開始前年から昭和天皇(一九〇一-八九年)の海軍侍従武官を務めた故山澄貞次郎(やまずみていじろう)氏(七六年に七十九歳で死去)の手記を遺族が見つけた。昭和天皇の知られざる人柄や質素な生活ぶりが、側近の目を通して描かれた貴重な資料として注目される。 

 手記は「随筆 宮殿炎上」。山澄氏は三六(昭和十一)年五月-四〇年十一月の四年半、軍部との連絡役を担う海軍侍従武官(計三人)の一人として昭和天皇に仕えた当時の様子などを、終戦後の四八年につづった。

 まず昭和天皇の「人間宣言」について「事実は決してそんな変化があった訳ではなく」「以前から決して御自身を神と思召していらっしゃりもしない」と説明。四六年から始めた全国巡幸を「機会があったら今度の戦争について国民にわびたい、日本再建の努力に力づけをしたいと思召していらっしゃったのが御主旨(しゅし)」と記す。

 生活ぶりは「何事にも堅実簡素を尊ばれる」とし、好況の当時でさえ食事は「白米は召し上がらず、七分づきのご飯に一汁二菜、お香物位で、皆が想像するように、山海の珍味を並べる王者のお食事とは全く違う。私は金持ち連中は少しは自重しろと憤慨した」。

 下着も「すっかり切れるまで洗濯して召される」。ぜいたく品は使わず、品質が悪くても国産品や代用品を利用、腕時計は国産のニッケル物。写真を見る際は「包装やアルバムの体裁などは何でも良く、仰々しいのを殊にお嫌いになった」と明かす。

 軍服姿の真夏の執務でも扇風機を使わず、冬の葉山御用邸の滞在は「御避寒」とされていたが「実際は筑波おろしの寒風を突いて連日荒けた海上にお出ましになる御鍛練であって(生物研究の)御趣味でなければ決してできない」と振り返る。

 昭和史に詳しい作家・半藤一利さんの話 昭和天皇の暮らしぶりを示す詳細な描写がある。人々が興味を持つ内容で今まで書かれていなかったことが書かれており、天皇の生活を具体的に示す記録として興味深い。

【東京新聞:26面】
□戦時下の側近がペン 誤った昭和天皇像憂う


☆「随筆 宮殿炎上」発見
 太平洋戦争に向けて軍靴の音が高まる中、海軍侍従武官として四半世紀にわたり、昭和天皇に仕えた山澄貞次郎(やまずみていじろう)氏。終戦から二年半余たった手記では、天皇の日常生活に関する間違った伝聞や憶測を憂い、その素顔を書き残して興味深い。主なものを紹介したい。(生活部・杉戸祐子、特報部・野呂法夫、一面参照) =原文は《》。一部省略、現代仮名遣いに。

■「几帳面」気配りの執務

 《まことに惜しくてたまらない》―。手記は山澄氏が終戦後の一九四六(昭和21)年、出征先の南太平洋・ブーゲンビル島から帰還する途中、前年五月の空襲で皇室の中心的施設「明治宮殿」(豊明殿など)が全焼したことを知った無念さから始まっている。

 山澄氏は祖父、父も海軍の重鎮という「海軍一家」に生まれた。戦艦「陸奥」の艦長も務め、終戦時は少将。退官後は神奈川県逗子市に住んだ。

 手記は長男の故暉(あきら)さん(二〇〇四年死去)の妻康子さん(八〇)=同市=が遺品から見つけた。「復員省」と印刷されたB5の縦書き用紙六十一枚に、「心を清める」「陛下の御食事」など十九項目にわたる。

【御言葉】

 《陛下がおやすみになることを「御格子(みこうし)」、魚を「お万那(おまな)」》。山澄氏は御所で使われていた言葉を記録した。

 そばは「そもじ」、酒は「おすすり」。昭和天皇は自身を「朕(ちん)」ではなく「わたし」、皇后(香淳皇后)を「ながみや(良宮)」。娘の内親王らは両陛下を「おもうさま」「おたあさま」、側近は天皇を「お上(かみ)」と呼んだ。

 お印は昭和天皇が「若竹」、香淳皇后は「桃」。《皇后陛下は桃にちなんだ玩具をお集めになってすでに数百個》《ご印章の因縁であろうか、お上の御性質が竹のように素直で清廉で、皇后さまが桃のように豊かでふっくらしていらっしゃる》

 正月に自分の干支の日があれば飴を出す習慣があった。侍従らの詰め所では盆に山盛りの飴が三つも四つも出て、一同なめながら祝い話をした。

【映画】

 昭和天皇は新聞は切り抜きを読むとされたが、《東京の主要六種類と大阪二種類を、約二十分間フォルマリン消毒をして差し上げた》

 映画はお好きで、ベルリン五輪の「民族の祭典」や音楽映画「未完成交響曲」、ディアナ・ダービン主演の「オーケストラの少女」、ハンセン病をテーマにした「小島の春」など当時の主なものはほとんど鑑賞された。

 長女の村木淳さん(八一)=同市=によると、山澄氏は退官後も葉山御用邸(同県葉山町)に滞在された天皇の将棋やコントラクトブリッジ(カードゲーム)の相手をした。

 天皇は日中戦争以来、皇居内でのゴルフは中止したが、遊びの腕前ををこう明かす。《ゴルフのハンディが二十二、玉突きが二十五ぐらい、将棋が素人仲間の上の下(六級)》

【東京新聞:27面】
■海底採集 船酔い無縁


【御謹言の片鱗】

 昭和天皇の執務ぬりは《万事几帳面》。普段は背広姿だが、陸海軍大臣から報告を受ける際にはその軍服に着替え、《一日に三度も四度もお召替えになることは珍しくない》。夏に廊下のガラス戸も少ししか開けず《大切な国務関係の書類を飛ばしたり無くしたりするのをお気使った》

 村木さんによると、山澄氏は生前「政務室は密室で暑く、自分たちは汗だくだったが、その中でお上はきちんとしておられた」と話していた。

 一方で宮内省の役人への苦言も吐露する。《地位環境を利用して不当の権力をふるい、威張り散らした者もいた。その言動が陛下のご意志そのものであるように誤られていたのは遺憾》

【花梨】

 両陛下の御殿の庭に大きな花梨があった。山澄氏は三七年暮れ、《三つも頂戴すれば一つぐらいは芽が出るでございましょう》と、実を頂いた。

 花梨は桃と違い、小さな実がたくさん入っていることを知らなかった。《この無知が当分、両陛下のお笑いの種になり、赤面の至りであった》

 花梨は自宅の庭で増え、苗木数本を皇后陛下に献上した後日談も。《御殿の花梨は戦災で焼けてしまい、献上した第二世の花梨が、今は吹上御苑にすくすくと大きく育っているとのことだ》

 吹上御苑には毎年夏、滋賀県からゲンジボタルが献上された。生物学者の天皇は単なる慰めではなく、何とか繁殖させようと苦心され、流水に放って研究もされた。

 ヒドロゾアなどの採集は面目躍如だ。海軍侍従武官が船長になり、十五トンの葉山丸で葉山沖に出て300メートル以上の海底で網を引いた。《海上が荒れても陛下は少しも構わず、船に弱い侍従はすぐ酔ってしまうが陛下はまことにお強く、酔ったご経験がお有りにならない。薬は侍従がお世話になるのが落ちであった》

【皇太子殿下の玩具】

 皇太子さま(現天皇陛下)の思い出もある。学習院初等科入学前に東宮仮御所で独立した生活を送るため、両陛下の元を離れるお別れの内宴が三七年三月の夕に開かれ、皇太子さまから御所で遊んだ玩具が側近に贈られた。

 《「山澄、山澄、アア山荒らし」と仰せられた。私が海軍の侍従武官だからとて「ノラクロ」が乗っている船の玩具など、小さい物八個を賜ったが、体の大きな小出侍従には、最も似合った犬の玩具を賜って大笑いをなさった可愛らしい御姿を今でもはっきり覚えている》《これらの玩具を見ると、私たち一般の生活と大差ない御生活様式であるのがわかる》

【酒と煙草】

 昭和天皇は飲酒も喫煙もされなかったが、出征者の慰問に心を砕く。侍従武官が戦地入りする御差遣(ごさけん)で重要な役目が特注の酒などの下賜(かし)だった。

 二九年、若槻礼次郎元首相が御陪食(ごばいしょく)の際、「良いお酒でございます」と申し上げたところ、天皇は「今日は特に理研酒(合成酒)を用意したのだが」と大笑いされたという逸話を引いて記す。《御慰問の酒と違い、御陪食の際、外国人など別の場合を除いて、理研酒のようなものをお用いになるのは有りがちのこと》

【お田植え】

 宮中の儀式で大切なのが、両陛下が皇居内で行う養蚕や米作り。《御自ら農家の苦心と努力とを御体験なさっていらっしゃることと、その意義を国民は知るべきだ》と訴えて締めくくる。




 

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【2008/05/03 03:32】 | 【御皇室】 | トラックバック(0) | コメント(0)
しゃばだば近代国史帖


日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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Author:娑婆妥場
この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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