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『大日本帝国下の朝鮮半島』近代化の真実
水間政憲氏 ※ 水間政憲氏の転載フリー・レポートです。

 本日、韓国大統領選挙の投開票が始まりました。保守系候補が有力だとのことで当初は期待したのですが、何やら「公約」でとんでもないことを言っているようで、どっちにしろ日本への影響は変わりそうにないですね。日本の政治の未熟を棚に上げて言えた義理ではないですが、韓国もなかなか成熟できない国ですね。

 水間氏のレポートはどれも問題の根幹を突いており、これらの歴史認識を周知させることが急務かと思います。一番近い国であり、我が国の在日及び帰化率が最も多い民族なのです。両国間の厚い歴史認識の壁を限りなく取り除くことが、お互いの平和への唯一の道であると思います。

 そのためには、我が国国民の「奪われた歴史」からの覚醒が必須であります。国民が覚醒すれば、まともな政治家は安心して政治に没頭できるはずです。現在の政治家は「選挙」に勝つための「票」のために、国民の認識に左右され、手足縛られ猿ぐつわを噛まされ、苦汁をなめ、本来の仕事ができないでいるのです。

 どの政治家が候補者が、本当に国のあり方を考え国民を思う政治をやろうとしているのかを、国民の大多数が見抜く見識を身に付けなければ、民主主義は正しく機能しません。それこそ弱者を切り捨てる搾取社会を、ますます助長させることになるのです。




400万(※億)ドル (水間政憲)2007-12-18 23:14:07

 北朝鮮への支援は、日本に400万(※億)ドル出させる。これは、李韓国大統領候補の発言である。韓国が、日本の支援で復興したことを物語っている。この言動は、今まで韓国を甘やかしてきた日本に、責任の一端がある。C型肝炎被害者全員を、救済できない日本が、朝鮮人を支援する必要など一切ない。

 そこで、外国語に翻訳することを含め『SAPIO』(2007年11月14日号)に掲載された「『大日本帝国下の朝鮮半島』近代化の真実」を転載フリーとしますので、拡散して下さい。ジャーナリスト水間政憲。転載フリー


◎「『大日本帝国下の朝鮮半島』近代化の真実」:『SAPIO』(2007年11月14日号)--水間政憲・転載フリー 

 常に外交において「歴史カード」を突きつけられる日本にとって、歴史を正しく評価することが今ほど大切なことはない。時には植民地統治の「功」の部分を強調してみせる必要もあるだろう。実はあの朝日新聞がその手助けとなる。貴重な発掘史料をレポートする。

 福田首相は10月初旬に南北首脳会談のため平壌を訪れた盧武鉉韓国大統領に、金正日総書記へ「過去を清算し日朝国交正常化を実現させたい」とのメッセージを言付けたという。「過去の清算」とは北朝鮮にとっては植民地支配への謝罪とともに巨額の経済援助を日本から引き出すことに他ならない。

 しかしこれはおかしな話だ。02年9月17日、小泉首相と金正日総書記が交わした日朝平壌宣言では「両国及びその国民のすべての財産及び請求権を相互に放棄する」ことに同意している。

 さらに、GHQの試算では、北朝鮮に残した日本政府と民間の資産は462億2000万円。これは現在の物価で8兆7800億円相当にあたる。(『産経新聞』02年9月13日付)。

 交戦国でなかった北朝鮮に残した日本資産の請求権は国際法上認められているが、平壌宣言によって日本は8兆7800億円の請求権を放棄したのである。国交正常化にあたって「金」を支払う必要などどこにもない。

 以上は北朝鮮の話だが、韓国も含めて朝鮮半島における植民統治が残した遺産とはいかなるものだったのか。外務省が把握している終戦時の朝鮮半島における日本の資産は702億5600万円となっており、現在の物価で13兆3486億円に上る(1945年8月15日時点の朝鮮在外財産評価額)。

 今回筆者は、国会図書館に眠る貴重な史料を発掘した。日本が朝鮮半島を植民統治した1910(明治43)年の5年後、1915(大正4)年から1945(昭和20)年まで発行された朝日新聞の「朝鮮版」である。

 当時は『大阪朝日』の地方版として朝鮮西北版、南鮮版、北鮮版、西鮮版、中鮮版、鮮満(朝鮮・満洲)版などが存在していた。研究者の間では植民統治の真実を知る上で「幻の史料」とも呼ばれ復刻もされているが、まだ一部であり、今回、戦後初めて読者の目に触れる記事も多い。

 本稿では、これら「朝鮮版・朝日新聞」に掲載された記事を中心に現在も朝鮮半島で社会インフラとして利用されている日本の「遺産」を紹介する。

 「処女列車は走る
 試運転は上首尾」


 先の南北首脳会談では、南北縦断鉄道・京義線の輸送を開始することや開城・新義州間の鉄道の共同補修を南北共同宣言で謳い上げた。これらは元々朝鮮併合前の1899年に始まった鉄道整備計画によって作られたものだ。鉄道は国家の基本インフラと言っていい。記事から当時の様子を拾ってみよう。

 <処女列車は走る 愈(いよい)よ開通の京慶線永川・友保間 試運転は上首尾>

 「大型機関車両に連絡の二等車両、食堂併用の三等車一両、計二両の試運転列車はすがすがしい朝陽を浴びて午前八時三十六分大邱駅を出発、(略)列車は坦々たる畑中の直線コースを時速五十キロで邁進している、(略)この開通によつて今後の輸送に期待するところが多い」(『大阪朝日・南鮮版』1938年12月1日付)

 <京慶線を一部電化 明年度から工事に着手>(同1938年12月10日付)

 JR北海道の一部(小樽-滝川間)が電化されたのは、1968年8月のことだった。北海道に電車が通ったのは朝鮮半島の30年後なのである。それらに付属した駅舎も豪華版で、東京駅よりも重厚な佇いの京城駅(04年まで使われてきた旧ソウル駅は今後博物館として利用される)は、

 <竣工した京城駅>

 「既にほぼ工事の落成を告げている新築の京城駅開通式は来る十月十三日朝鮮神宮に奉納すべき宝物が京城に到着する当日を以て盛大に挙行せらるる予定である」(『大阪朝日新聞附録・朝鮮朝日』1925年9月15日付)と報じられている。

 国有鉄道と私設鉄道は朝鮮半島全域に及んだ。1937年1月までの国有鉄道の総延長は3575.9km、私設鉄道は1463.6kmとなっており膨大な鉄道網が敷かれたのである(『半島の近影』朝鮮総督府鉄道局、1937年刊)。

 最近、朝日新聞は戦時中の新聞報道は、大本営発表、政府寄りで真実を伝えていなかったなどと自ら釈明している。たしかに当時の新聞を今眺めると「光」の面が強調されすぎている嫌いはある。しかし、「地元新聞」に「嘘」が報道されたのであれば、日本語教育を受けていた現地の人々は当時でも問題にしていたであろう。また史料を渉猟しながら筆者は、新聞による「宣伝」の面を考慮してもあまりある「事実」が存在していると考えざるを得なかった。

 本土と同等の
 教育を実施


 物資輸送で鉄道と対をなす港の整備も実行された。

 <仁川築港工事竣成式>

 「工費四百万円を投じたる仁川築港、(略)自転車競走及び仮想行列其他の催しあり未曾有の賑ひを呈せり」(『大阪朝日・鮮満版』1918年10月29日付)

 北朝鮮の羅津駅、清津港(今もほぼそのまま「利用」されているという)なども日本時代の築港だ。『大阪朝日・南鮮版』1938年12月13日付によると、羅津港は3000万円(当時の国家予算は28億6779万円)を投じ、はじめから遠距離貿易を予定して埠頭も広く、清津港、雄基港以上に近代的な港だったという。今となってはなんとも皮肉な話ではあるが、羅津港は中国に50年の租借権を獲得され中国の“北朝鮮植民地化”の象徴となり、清津港は対日工作の拠点となっている。

 「富国強兵」の名の下の工業発展も「光」の部分として有名だが、韓国だけでなく北朝鮮の工業発展に決定的な影響を与えたのは当時、世界一、二の規模を誇った水豊ダム発電所の建設である。これによって1941年から北朝鮮の送電が始まっている。その他にも当時の記事は、

 <絢爛たる化学工業 北鮮各地に勃興す>

 「東洋のイー・ゲー(当時のドイツの大手化学会社)を思はす興南朝窒工場を中心として絢爛たる化学工業の花を咸南各地に満開せしめている野口コンツエルンの躍進も、日本鉱業をトップとして幾多の資本系統によつて開掘されんとしている」(『大阪朝日・朝鮮西北版』1936年10月1日付)

 と工業発展を遂げる熱気を伝えている。朝窒(朝鮮チッソ)は当時世界最大級の窒素工場だったことは戦後の史料でも数多く評価されているところだ。公衆衛生の向上も近代都市インフラの大切な柱だ。

 <平壌の臭気一掃 愈よ糞尿地下タンク新設>

 「府内の糞尿は現在府内大馳嶺里の貯畜場にためているが(略)、大都市としての面目上の問題であり、矢野平壌府尹(いん)も先般内地六大都市の糞尿処分施設を視察し原始的な府の処置について改善意見を持つに至つたので糞尿地下タンクを新設する」(『大阪朝日・朝鮮西北版』1938年12月11日付)

 学校教育は、近代国家の礎であり、欧米諸国と日本の植民政策の決定的な違いは、本土と同等の教育を植民地でも施したことにある。戦後は「内鮮一体」の施政の負の面ばかりが強調されるが、この点も再評価されるべきであろう。例えば最高学府の帝国大学を植民地内にも設立した。

 京城帝国大学(現在は文化関連団体が入居)は1924年に設立され旧帝国大学(9校)の中で6番目だった。当時の記事はこう伝えている。

 「目下京城府東崇洞に新築中の京城帝国大学の工事もその後順調に進み来年四月の開校期までには万違算なきはずである、しかし四月の開校日までに竣成するのは大学予科の卒業生法文科八十名と合せて百六十名を収容すべき校舎だけで、なほ十五年度には五十万円の予算で図書館、心理学教室、医学部本館および講義室を(略)完成する」(『大阪朝日新聞附録・朝鮮朝日』1925年9月27日付)

 日本統治時代の朝鮮半島には、1924年までに、法学専門学校、高等工業学校、高等商学校、高等農林学校、師範学校、官公立中等学校など148校が開校していた(『朝鮮年鑑』大正15年度版)。

 「記念碑的建造物」として
 ソウルに残る日本建築


 各記事のマイクロフィルムや当時の写真集を総覧して目につくのは、学校、銀行、裁判所などが次々と建設されていることだ。歴史的建造物として残され今も利用されている。

 例えば韓国政府は、1995年に朝鮮総督府庁舎を植民統治の負の象徴として解体したが、現ソウル市庁舎は旧・京城府庁舎をそのまま使用している。

 <新築の京城府庁舎 工事着々と進行す>

 「鉄筋コンクリートで四階建平面山字型をなし正面二十八間(約50m)、(略)高さ百十八尺(約36m)の塔屋を設くる等真に半島有数の大建築である」(『大阪朝日新聞附録・朝鮮朝日』1925年9月27日付)

 また現在、ソウル市立博物館に転用されている元高等法院は1908年に開庁している。

 「併合前は司法と行政との混淆が甚だしく、裁判はすべて行政官が之れを行ひいたのであるが統監府時代に全然行政事務より切り離され現在は地方法院(内地の地方裁判所)覆審法院(内地の控訴院)高等法院(内地の大審院)の三階級とし司法制度は確立せられ」た(『大阪朝日新聞』1924年5月25日付)。つまり国家の基本である三権の一つがこの時確立されたのである。

 「反日」として名高い現在の韓国紙さえも「新世界百貨店旧館は『韓国流通史の記念碑的建造物』」(『朝鮮日報』ネット版06年9月26日付)と評価せざるを得ないのは旧「三越」である。現在は韓国資本に渡り「新世界百貨店」となっている。隣に新館が造られているものの旧館を「韓国では例を見ない工法」(同)まで使って、大改修工事を行い、07年12月に当時の建物を残してリニューアルオープンする予定らしい。三越は1906年に「京城出張員詰所」を開設してから朝鮮半島に進出し、1929年に「三越京城支店」を開店している。

 今回紹介できた史料はごく一部にすぎない。国会図書館に所蔵されている膨大な史料を冷静に分析すれば、戦後言われているような朝鮮半島統治時代のイメージは一新されるのではないか。日朝交渉が国交正常化と経済援助を両天秤にかけて進められようとしているいま、北朝鮮の罠に嵌らないためにも「植民統治の評価」=「過去の清算」はしっかりとした資料のもとに日本側の理論を構築することが急務である。



 
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【2007/12/19 14:45】 | 【演説・講演・論文・コラム】 | トラックバック(0) | コメント(0)
母とはいつも珍道中
弥生美術館はもう近い ※ 16日の日曜日、弥生美術館へ行って来ましたよ。お天気も良くご機嫌の母でした。

 地下鉄千代田線の根津駅へ着いたのはお昼ごろで。まずは食事をと、お店を探しましたが、日曜なのでどこも開いていません。ぶらぶら美術館方向へ歩いていると、『弥生式土器ゆかりの地』という碑がありました。さっそく記念撮影。しかしお店は閉店ばかり。

 そうこうしているうちに美術館が。思ったより近かった。美術館の喫茶店でサンドイッチでもつまもうと近づいてみるとこれまた閉店。どうするか。薬の時間なのでね。どうしても何か食べないといけないんです。

 想像していたよりずっと小さい美術館を前にして困っていると・・・

弥生美術館


 向かいの東大を見上げて母がつぶやいた。

 「ここの学食で食べようよ」

 母の口から「学食」という言葉が飛び出して大笑い。

 そうかそういう手があったのか。でも外部の人間が入ってもいいの?

 「テレビで見たことあるよ、学食は誰でも入れる」

 それでさっそく警備員さんに訊いてみたら「OK」とのこと。思いがけず東大構内を散歩することになりました。木々の間から見える古い校舎が立派で、「帝国大学」の面影を偲びながらゆっくり歩きました。
東大構内を散歩し学食へ


 学生気分で食事をしながらバカな会話で盛り上がりました。

 「教授は何学部でしたか?」
 
 「う~ん。編み物学部だったかな」

 「おお、かの有名な編み物学部でしたか。最近のご研究は?」

 「昨年までは帽子でしたが、今はセーター型襟巻きですよ」

 母は家でもじっとしていられない人で、テレビを見ている時も編み物をやっています。手元を見ずにどんどん編んじゃう。毎日2つ3つ編めるので大変な量になりますが、それを欲しい人に全部プレゼントするのです。欲しい人がいなくなったらまた違うものを編みます。

 目下の母のブームはセーターの襟だけという部分編み。マフラーよりコンパクトで首が温かい。小物ですから仕上がるのも早く、疲れないで済むのがいいんだそうな。ちょっと実物を見ないと分からないでしょうからと、今しがた写真に撮りました。母と二人大笑いしながら、あまりに多いので一部だけにしました。分かるかな。

セーター型襟巻き


 学食で食事のあと、学生生協でお土産を・・。「合格祈願」の文房具や土産物といえば定番のお饅頭がありました。母は孫のために文房具を買い、筆者は自分用に「湯のみ」を買いました。あー、もう写真を撮るのも面倒です、ご勘弁を。(笑)

 そして母は手紙に入れるイチョウの枯葉を拾い(押し花用)、思いがけない寄り道を終えていざ弥生美術館へ。

 美術館の中では写真は許されず、ゆっくりゆっくりおしゃべりしながら楽しく見て回りました。そうそう、milestaさんのブログで教えてもらいここへ来たのです。期待を裏切らないこの素晴らしい『ふろくのミリョク☆展』は今月23日までの開催です。どんな内容かは、ぜひmilestaさんのブログをご参照下さい。きっと行きたくなっちゃいますよ。

 母がやって来てから早いもので半月が過ぎました。来年の3月まで母を飽きさせないために、毎日衛星放送の中から面白そうな昔の映画やドラマ、特集等を録画しています。前回、母に「もう飽きた」と言われてしまったので、今度はさらに気合を入れているのだ。(笑)

 ではまた、それらの話題もそのうちに。 


 さっそくの追記

 何やらずっと自室にこもってのミシンの音が止まり、母が居間に戻りました。しばらくすると居眠り・・(笑) 夜になってから居眠りすると本番で眠れなくなるので起こす口実に、

 「お母さんのことが記事になってるよ」

 と、このブログを見せてみました。ゆっくり声をぼそぼそ出して読みながら笑いながら・・・


 「あ~面白かったね、明治大学は」

 お後がよろしいようで。 

 
    

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【2007/12/18 17:14】 | 【筆者雑記】 | トラックバック(0) | コメント(4)
ブラジル日本人移民の美徳
 ※ ブラジルへの最初の移民は明治41年のことなんだそうですが、実は筆者の親戚に中にも、戦後一大決心をしてブラジルへ移民し、その後運良く帰国を果たした人たちがいます。胡椒の栽培で当てて大金を持ち帰ったものの、日本で相次いで詐欺にあい事業はことごとく失敗、無一文からやり直したそうです。その時に拾ってくれた企業が松下電器。「中途入社を受け入れてくれて有難かった」と、松下の社風を絶賛しておりました。松下だけだったそうですから。

 母の叔母の家族でしたので、初めてブラジル移民の話を聞いた時(昭和51年)は本当に驚いた。と同時にぐっと歴史を身近に感じたことを思い出します。今はその叔母も亡くなり何となく交流が途絶えていますが、素敵な方々だったことを下記記事を読んで思い出しました。



□【もう一つの日本】(2)100年前の地元記者驚かせた「清潔と規律」
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071211/trd0712111256004-n1.htm
2007.12.11 12:56

 「ブティックひまわり」「寿し安」「木村理髪店」「明石屋宝石店」…。ちょうちん型の街灯が続く街路に、漢字の看板があふれていた。書店には「少年マガジン」や岩波文庫が並ぶ。ブラジル最大の都市サンパウロの中心部にある日系人街「リベルダーデ」を歩くと、まるで日本の地方都市の商店街に紛れ込んだような錯覚に陥る。

 南北1キロの街路に約400軒。近年は中国、韓国系の店が増え、東洋人街とも呼ばれるが、海外で日系人街として成り立っているのは、ここと米ロサンゼルスのリトル・トーキョーだけという。

 突然、赤い大鳥居が姿を現した。本物の神社ではないが、参道のような赤い欄干の陸橋が続いている。

 その名も「大阪橋」。大阪万博を翌年に控えた昭和44年、大阪市とサンパウロ市が商都同士という縁から、姉妹都市提携したことを記念して命名されたという。近くにはたこ焼き屋もあった。

 地下鉄駅の売店ではポルトガル語の新聞に混じり、邦字新聞2紙が福田内閣やプロ野球の動向を伝えていた。街で出会った2世の女性が言った。

 「ここではたいがいのことは日本語でできますし、白いご飯や梅干し、のりもあります。でも1世がブラジルへ渡ったときは、ご飯もおしょうゆもおみそもなかった。この街も日系社会も、みんな日系人が100年かけて築き上げてきたのです」

 明治41(1908)年4月28日、午後5時55分。ブラジルへの最初の移民船「笠戸丸」は全国から集まった移民165家族781人を乗せ、神戸港を離れた。ブラジル日系社会初の6世、大西エンゾ優太ちゃん(2)の5代前の先祖で、鹿児島県出身の川畑徳之助さん、カネギクさん夫婦もその中にいた。

 西回りでアフリカ南端の喜望峰を望み、「蚕棚」と呼ばれた2段ベッドで寝起きして52日目の6月18日、サンパウロに近いサントス港へ着いた。当時の地元紙「コレイオ・パウリスターノ」は、洋服に鳥打帽、白手袋で正装した日本人の姿を初めて見て、こう書いた。

 《このように清潔で規律正しい移民はいまだかつて見たことがない》

 ブラジルの地元紙は、日本人移民の識字率が9割に上ることや、大食堂に一度に入ることができないため「残りの者は静かに廊下で順番を待っていた」こと、「驚くことに彼らの去った後には一つのタバコの吸殻もつばもなかった」ことを列挙し、こんな観察まで残した。

 《夫が妻を信用することはわれわれの予想外で、日本貨幣を妻に携帯させていることなど、その美徳はうらやましい》

 移民は州内の6つのコーヒー農園に分かれ、契約労働者として働いた。当時のブラジルは1888年に黒人奴隷を廃止して20年しか経っておらず、そもそも日本人移民が歓迎されたのは、奴隷廃止で労働力が足りなくなったためだった。白人の農園主や支配人の中には、日本人を奴隷のように扱う者もいた。

 過酷な労働と低収入に見切りをつけた移民たちは相次いで農園を出た。優太ちゃんの先祖、川畑さん夫婦も1年後に農園を離れて、漁師になったり、バタタ(ジャガイモ)を植えたりして働いた。カネギクさんは30歳で、徳之助さんは46歳で異国の土となった。

 「ブラジルへ苦労しにきたわけです」

 優太ちゃんの祖父、中村パウロ修さん(64)はしんみりと言う。

 あとには、農園で生まれた2人の姉妹が残された。妹は今年3月に95歳で亡くなった時江さん。優太ちゃんの直接のルーツであり、高祖母(ひいひいおばあさん)にあたる。7歳の時から家事手伝い、子守に追われ、学校にも通えなかったという。

 時江さんの長女は、時江さんの両親と同じ笠戸丸移民だった竹内喜左衛門さんの長男、満次さん(80)と結婚した。ブラジル生まれの満次さんは、父親が始めたレンガ工場を成功させ、サンパウロ西郊のタボン・ダ・セーラ市の副市長まで務めた。市のメーンストリートは「キザエモン・タケウチ通り」と名づけられている。

 満次さんは「親父たち初期移民はポルトガル語も話せず、食べ物も合わない中で一生懸命に働いた。その苦労があって、日系社会があるのです」。

 大阪橋は、勤勉や規律といった100年前の地元記者を驚かせた日本人の美徳の上に架かっているのかもしれない。

 文・写真 徳光一輝



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【2007/12/11 17:57】 | 【資料庫】新聞・ニュースストック | トラックバック(0) | コメント(0)
あの周恩来が靖国を拝観していた頃の神田と中国共産党の関係
水間政憲氏 ※ ジャーナリストであり近現代史研究家でもある水間政憲氏の論文です。転載フリーとのことで掲載させて頂きました。

 日中間の歴史認識のズレは、我が国の歪んだ戦後教育にも問題がありますが、そもそも中国には歴史を政治的に偽造・改ざんするという文化(?)があるのです。つい最近も日中間の共同文書で「削除」という改ざんが成されていますが、よくやる手法なのですね。

 敗戦国として一時的に歴史を奪われたことは仕方のないことと思いますが、そのまま放置ではいけません。正しい歴史を取り戻しましょう。国民が歴史を取り戻し、弱腰な政府を後押ししましょう。


□あの周恩来が靖国を拝観していた頃の神田と中国共産党の関係
:水間 政憲『正論9月号』2005(平成17)年9月1日初版発行


 「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れてはならない」

 日中復交にさいしての周恩来首相の有名な言葉である。

 20世紀初頭の1917年9月、内乱状態の中国から、一人の青年が日本に留学して来た。天津の南開学校を卒業した若き日の周恩来であった。

 中国人留学生は、日清戦争が終結した一八九六年、講和条約(下関条約)が結ばれて13人の留学生が来日したのが始まりであった。その時、清国との間で留学生の来日に尽力したのは西園寺公望文部大臣であった。

 ちなみに1972年の日中共同声明に尽力したのは、西園寺公望の孫で、戦中ゾルゲ事件に連座した西園寺公一だった。

 中国は、近代国家の実態を日清戦争によってまざまざと見せつけられた。そこで、我が国を通しての近代化を選択した。漢字を使用する我が国が、西洋近代文化を取捨選択して活用している現状を見て、西洋諸国から新たに学ぶより有益と判断したのである。

 その後、中国人留学生は増加の一途を辿り、日露戦争を境にしてピークに達している。その人数は、1905年に8600余人、1906年には約2万人とも言われている。

 我が国が過去千年以上にわたって送り出した留学生の数を、中国は1~2年で上回ったことになる。

 当時、我が国で中国人教育の為に設立された学校には、成城学校(陸軍士官学校の予備校)、日華学堂(専門各科を学ぶ為の言語を中心)、振武学校(陸軍士官学校、陸軍戸山学校に入る為の予備校)、東亜商業学校、東京同文書院、弘文学院、東斌学堂、法政速成科、経緯学堂、早稲田大学留学生部などがあった。

 蒋介石は陸軍士官学校卒となっているが、実際は振武学校に通っていた。また、中国政府官費留学生は、我が国の国立大学に入学したものだけが認められていた。日清戦争後は、中国が日本に学べとの流れの中で、両国の国民感情がよくなり、一気に「清国熱」が高まり、教育、軍事、外交、法政、農業顧問など様々なジャンルの日本人が中国へ渡った。その人数は、1899年の1725人から、1906年には1万6910人(東亜同文会編『支那年鑑』)となっていた。

「中国人の風気を開発」するとの信念を持った教育熱心な日本人の中からは、中国に学校を設立するものも現れた。
 その主な学校は、北京の東文学社(1901年)、上海の留学高等予備学堂(1905年)、南京の本願寺東文学堂(1901年)、天津の東文学堂(1899年)、杭州の日文学堂(1898年)、厦門の東亜学院(1900年)、泉州の彰化学堂(1899年)などである。

「歴史はくり返す」とよく言われるが、1972年の日中共同声明以降と同じ様な状況だったのである。

 当時、中国が文化交流の中で日本語から取り入れた言語は、王立達の論文「現代漢語中従日本借来的詞彙」(実藤恵秀著『中国人日本留学史』)によれば、「現在よく使用されている外国語の84%となり、また『新名詞辞典』『新知識辞典』などに収められている語彙のほとんど半分は日本語から借用したもの」だという。

 そこで、高名凱、劉正タン(土ヘンに炎:タン)共著『現代漢語外来詞研究』(前掲書)を活用して、「中華人民共和国憲法」を見ると、「中華」以外の「人民」「共和国」「憲法」は日本人が創造した言語である。

 その本文も、日本語を削除すると憲法として成り立たないのである。

 その意味で、現代の中国国家及び国民の概念は、日本語なくして存在できないのである。

 しかし、中国はあまりにも拙速に日本語を取り入れたので、未だに日本人が創造した意味を理解していない。

神田は革命運動に走る中国人留学生たちの拠点

 日本に留学した周恩来は、中国政府が認める官費留学生を目指して1918年3月、東京高等師範学校を受験した。しかし、失敗している。

 周恩来は同年7月、背水の陣で第一高等学校(現・東大教養学部)の受験に挑むが、また失敗した。

 周恩来は、その時の心境を友人に手紙で次のように告白している。

「日本にやって来たのに日本語をうまく話せず、どうして大いに恥じずにいられよう! これを自暴自棄というのだ。いかなる国を救うのか! いかなる家を愛するのか! 官立学校に合格できない、この恥は生涯拭い去ることができない!」(『周恩来十九歳の東京日記』小学館文庫)

 周恩来は中国政府の官費留学生の待遇を得ることは出来なかったが、共産党の指導者になるための社会主義思想に出合った。

 河上肇京都帝国大学教授の雑誌『社会問題研究』を手にしたことが、周恩来における共産主義思想の原点なのであった。

 周恩来は、河上肇に心酔して帰国までの半年間、友人の呉達閣に誘われて京都大学の聴講生になっている。

 当時、中国人留学生は、神田神保町周辺に数多く住んでいた。神田には、中国人留学生の約三分の二を集めていた東亜高等予備学校(現在の神保町二丁目の愛全公園付近)と中華青年会館があった。周恩来も東亜高等予備学校に通っていた。

 当時、中国国内は内乱状態で、愛国心の強い周恩来がとても勉学に専念できるような状況ではなかったのであろう。

 1911年、中国15省で革命政府が成立し、翌12年に孫文を臨時大統領とする中華民国が南京に成立した。翌13年、袁世凱が大統領に就任すると、独裁政権にもどってしまった。袁世凱は翌14年国会を解散して、わずか2年で清朝時代へ逆行して行った。我が国で学んだ孫文たちの近代国家建国の理想は形骸化した。

 第一次大戦(1914~18)に乗じて、我が国は、対華21ヶ条要求を袁世凱に受諾させた。袁世凱は、1916年に病死して、翌17年、清朝復活クーデターが暴発した。それを収拾した段祺瑞国務総理は、ドイツに宣戦布告している。周恩来は、この様な激動の中で革命運動に参加して行った。

 東京は、「中国革命同盟会」が発足したところで、孫文の革命家生活40年の3分の1を過ごした、中国近代国家建国の拠点都市であった。

 孫文の父親、達成は中国広東省最大の暴力団といわれた「三合会」の会長だった。父親が死ぬと、孫文は22歳で会長に就任している。

 孫文は、我が国の政財界(犬養毅元首相、頭山満玄洋社代表など)から、物心両面の絶大な支援を受けていた。その都度、革命が成就した暁には、満州の統治を日本に委ねるなどの甘言を弄していた。

 1912年、中華民国臨時政府大統領として、南北妥協を策し袁世凱に大統領を譲り渡したことで、孫文には人道的使命もなく、政治理念もなにもない。あるのは、独善的な中華思想だけだったと覚醒した黒龍会代表、内田良平は以後支援を打ち切っている。

 それにもかかわらず、1913年の第二次革命にまた日本から孫文を支援している。

靖国神社に親しみを感じていた周恩来

 当時、中国人留学生の革命への熱い想いを発散できる場所は、サロンの役割と革命運動の拠点になっていた神田神保町にあった中華青年会館であった。

 周恩来は、読書と散歩をこよなく愛し、神田神保町周辺を徘徊していた。

 神保町は、当時も今と同じ様に書店が軒を連ねていた。東京堂書店などに入り浸っていた周恩来にとって大学の授業を受けることより有意義だったであろう。

 おそらく周恩来は、神保町からすぐ近くにある靖国神社に行っているのではないかと、頁を捲ると、靖国の文言が眼に飛び込んできた。


1918年4月30日(火曜日)気候・夜・雨。
【治事】
「午前、授業のあと、青年会(著者注・中華青年会館)に行き、帰ってきて読書。午後、授業のあと、急いで帰ってきて、また読書。夜、九段に靖国神社の大祭を見に行くが、雨に降られたのでやめて、青年会に行って新聞を読み、伯鳴の部屋に行き、しばらく話す」


 靖国神社は、神保町から4~5分。目と鼻の先にあり、公園がわりに散歩コースとして利用していたのであろう。この日は、靖国神社で春季例大祭が開催されることを事前に承知した上で、見に行っている。


同5月1日(水曜日)気候・雨のち晴れ。
【治事】
「朝、読書。昼飯のあと、半時間、昼寝。夜、九段をぶらぶらしていると、靖国神社の大祭に出会い、それを見てはなはだ大きな感慨を催す」


 周恩来は、昨夜見ることが出来なかった「大祭に出会い、それを見て…」とあるが、それは神官が隊列を組み、神門を通り拝殿、昇殿へと進む姿を拝観しての感想なのであろう。日記には、「九段をぶらぶらしていると…」とあるが、神官の隊列は靖国神社境内にいなければ、見ることはできない。

 中国人留学生用の留学案内書には、『日本遊学指南』(章宗祥著)などがあった。その中の「東京の遊覧地」には、〈靖国神社「麹町九段坂の上にある。国家のために忠死した人を祀ってある」〉と記載されている。

 周恩来は、青年会などで様々な留学案内書を手にして、「大祭」の行事がいかなるものか認識していて感動したのであろう。

 当時、中国では戦死しても家族に通知されることもなく、まして恩給などの保証もなく、国家が殉国者を手厚く慰霊することなど夢のような出来ごとだった。現在でも中国に於いては、政府や軍の幹部でなければ八宝山(中国の慰霊場)に祀られることはない。

 胡錦濤主席などの中国共産党第四世代は、社会主義の中で育ったのであり、宗教に基づく慰霊とはいかなるものか理解できないのであろう。しかし、中共第一世代は、宗教とはいかなるものかを認識した上で社会主義国家を創った。それは、周恩来の日記の中にも見ることができる。


1918年2月15日(金曜日)気候・晴れ。温度6.2度。
【通信】
「釈迦が『世界には成仏しない者が一人いる。私こそその一人だ』というほど大きくはなれないけれども、有縁の者と一人一人断絶させられており、私にできなければ、誰が達磨の面壁に学ぶことができよう。……私の心を依然として『自然』に用い、進化の軌道に従いながら、もっとも大同の理想にちかい最新のことをしなければならない…」



 周恩来の南開学校時代の友人、厳智開は東京芸術大学に留学していて、台東区谷中の霊梅院(禅宗)に下宿していた。周恩来は、その友人との交流の中で禅宗にふれたと思われる。

 日記の中で「達磨の面壁」と書いた周恩来が、一時禅宗に興味を示していたのは明らかである。

 菩提達磨は、インドから中国に渡って来て禅宗の開祖になった。しかし、禅宗は中国で根付かなかった。周恩来が惹かれたのは、「進化」「大同の理想」(無差別自由のユートピア世界)、「最新」といったことか。その文言の意味する先にある社会主義思想に光明を見出したのであろう。周恩来が靖国神社に親しみを感じていたことは、その後の日記にも現れている。


6月2日(日曜日)気候・小雨。
【治事】
「朝、『新中』に行って集会に参加し、ついで夢九を訪ね、昼まで話し、いっしょに出かけて会元楼で食事。飯のあと『游就館』に遊び、私の寓居に帰り、しばらく話してからやっと別れる。夜、輪扉が来る」


 この日は、小雨にもかかわらず靖国神社遊就館(当時は「游」と書いた)に行ったとあり、1月1日から6月3日までで3回靖国神社に行ったことが書かれている。

 周恩来が、散歩がてらに靖国神社に行った回数はけっこう多かったと思われる。
 その頃、周恩来をインタビューした東京日日新聞記者神近市子によれば、「下宿で新聞や本を読み、外へ出る時はかすりの着物に兵児帯をしめ、ロシア風の帽子をかぶったりしてなかなかおしゃれだった」(『日本人の中の周恩来』)と。日本の風俗を受け入れていたようである。

 周恩来は、近代国家日本の殉国者にたいする慰霊の実態を見て、日本の伝統と文化の神髄をそこそこ理解していたのではあるまいか。

 いずれにしろ中華人民共和国「建国の母」と称される周恩来が、日清、日露戦争の戦死者を祀っている靖国神社の「大祭」を拝観していた事実は注目してよかろう。

 現在、中国は、日清戦争以降を日本が中国を侵略したと喧伝している。胡主席は、「宗教」の神髄を知る為にも、靖国神社の「大祭」を拝観した周恩来の真情を理解してほしい。

 1921年7月の中国共産党創立者12名中、初代総書記陳独秀、李大、李達、董必武、李漢俊、周仏海は日本留学組であった(早稲田大学で学んでいた李大も靖国神社遊就館を拝観している)。中国共産党創立者である陳総書記以下主な指導者は、現中国共産党が批判する「軍国主義国家時代の日本」で社会主義を学んでいたことになるのだ。

 中国サイドは、その辺の事情に気付いたがゆえに、靖国問題の論点をいわゆる「A級」戦犯にすり替えたのであろうが、ここにも大きな矛盾が生じる。

「A級」戦犯として処刑された七人は、各連合国側の自国民にも知らされていた有名人であった。中国の場合は、南京攻略戦の総司令官、松井石根大将である。しかし、松井大将は陸軍を代表する親中国派の聖将でもあった。 松井大将は、南京攻略に於いて「中国文化保持のための厳命」を発し、和平の「投降勧告文」を撒布したり、「南京城攻略要領」で国際法を厳守させていた。松井大将は、国際法をより徹底する為に、国際法と慣習法の権威斉藤良衛博士に同行してもらっていた。

 東京裁判は、「A級戦犯」を裁くために、事後法の「平和に対する罪」を主に活用した。

 「A級戦犯」で処刑された七人の「平和に対する罪」の訴因の有罪、無罪の数を見ると松井大将以外は、2~7つの有罪となっている。しかし、松井大将は、「平和に対する罪」に関する訴因のすべてが無罪であった。

 松井大将は、B・C級を裁くための「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」の訴因の中の一つだけの有罪で処刑になった。松井大将を「A級戦犯」とすることが、できないのである。

 A、B、Cの区分けをするのであれば、松井大将は「B・C」級戦犯となる。となれば、直接中国と関係のある「A級戦犯」が存在していないことになり、中国が声高に批判する「A級戦犯」の根拠がないことになる。

中国は政治用語の基本概念を理解していない

 1972年、中国はソ連との対立から開戦まで準備していた中で「資本主義帝国」と批判していた日本に接近して国交を結んだ。疲弊した国家経済をたて直すことが、最重要政策だった。

 日中間の戦時中の諸問題は、1978年の日中平和条約の締結ですべて終結している。それが国際的な常識である。

 にもかかわらず、中国がくり返し問題にしてくるのは、日本から取り入れた近代国家に於ける政治用語の基本概念を理解していないことに原因がある。

 王毅駐日大使は今春、早稲田大学での講演などで、「日本が国際国家になりたければ、小泉首相は靖国参拝をするべきでない」「国際的な常識、コンセンサスでやることが利益になる」と述べていた。王大使がいう「国際」「国際的」は、日本が創造した言語である。

 王大使は「国際」「国際的」を「中国中心」「中国中心的」と解釈している。王大使は、未だ世界の中心は中国との中華思想の幻想の中にいるのであろう。

 国際的常識をもっている世界の主要国の政府関係者は、靖国神社に参拝している。参拝していないのは中国だけなのである。2002年3月には、韓国の大使館付武官の柳海軍大佐、徐陸軍大佐も靖国神社に参拝している。

 中国が好んで使用する「歴史を鑑として」の「歴史」は、日本が創造した言語で日本語を取り入れた弊害が今頃になって現れて来たのであろう。未だ中国は、「歴史」を客観的に見ることなどまったく必要ないとの判断で解釈しているようだ。

 一般的に日本が、西洋近代文化を学び始めたのは、幕末の西周や津田真道などのヨーロッパ留学以降といわれている。しかし、実際には西洋近代文化を取り入れ始めたのは、それより100年以上前の1720年(享保5)年からである。

 将軍吉宗は、1720年、宗教書以外の洋書の翻訳を解禁したことで、一気に洋書熱に火が付いた(『中国人日本留学史』)。

 中国は、同じ1720年、キリスト教を禁止して、以後100年間宣教師は中国でほとんどの活動が封じられた。中国では中華思想の高慢な態度で、外国人が漢訳した本には見向きもしなかった。それが、日本と中国の近代文化の吸収の差となって現代にも影響をあたえているのである。

 本年4月の北京で開催された日中外相会談の席上、李肇星外相は、町村信孝外相にたいして「日本には人権問題がある」と意味不明な発言をした。

 日本がいかに人権問題にかかわって来たのかを実例で示すと、1872(明治5)年、横浜に停泊中の奴隷船マリア・ルーズ号の船長を裁判にかけ、監禁されていた中国人苦力230名を解放して、中国に送り返しているのである(『明治維新と東洋の解放』)。

 日本は、中国が人権の意味を知らない時、すでに現在にも通用する人権意識をもっていたのである。ちなみに「人権問題」は日本語である。

 1919(大正8)年ベルサイユ講和会議において、日本は「人種差別撤廃決議案」を上提した。19人の委員の内11人が賛成し、2人は欠席して反対投票はなかった。

 しかし、英国代表のロバート・セシル卿が強固に反対し、日本の提案を強く拒否した結果、議長の米国大統領ウィルソンは否決したのである。

 この時、人間平等の精神が踏みにじられたことが、我が国における第二次大戦の淵源にもなっている。

かつて中国の要人は度量が広かった

 人治主義の中国に於いて、表面的であっても友交関係が維持できたのは、日本留学組の郭沫若副総理(九大医卒)、周恩来首相の参謀役だった廖承志(早大で学ぶ)などが存命中の1983年頃まで。そのころは歴史認識問題など起きていなかった。

 周恩来のあとを引き継いだ華国鋒首相の存在も見過ごすことはできない。1980年5月、中国人民外交学会(日中友好協会の上部機構)の招待で、国策研究会常任理事矢次一夫、三菱重工業相談役河野文彦、評論家細川隆元の三人は、準国賓の待遇で華国鋒首相、小平副首相と会談している。度量の広い会談が交わされている。(『北京会談〈全記録〉』)

 河野 西太平洋においてお国と日本と米国が協力していくことが世界の平和・安定を維持していく上にきわめて重要であるという点で、私はそのことだけ申し上げたいと思います。

 華国鋒 すべての問題が完全に一致するのは大変難しいことです。それぞれの国が置かれている環境・条件が異なる。…問題を認識する場合、それを見る角度によって認識も異なってくるわけです。…私たちが自分の意見と異なる意見を耳にした場合、それはむしろよいことで、悪いことではないと思います。…相当な相違点をもっているというのはごく正常なことだと思います。

 小平 私たちの間には、多くの問題について、見方や見解に相違のあることを、私は承知しております。しかし、それは構わないことで、重要なことは、私たちの間の理解を促進していくことです。


 天安門事件を武力弾圧した小平のことばは、額面通り受けとれないにしても、現中共指導者の硬直した姿勢とは大きな違いである。そして、小平は矢次氏に対して唐突に次のことを申し入れたのである。

 「きょうここで、岸(信介)先生に対し正式に招待の意を表明いたします」

 今、中国は、靖国神社に合祀された「A級戦犯」のことを大問題にしているが、岸元首相は戦前から満州の妖怪と畏れられ、戦後は、GHQに「A級戦犯」として逮捕された人物である。

 中国は、利用価値がある国家や個人には遜り「A級戦犯」でも招待する価値があると判断する。

 「白いねこでも黒いねこでもねずみを取るねこは良いねこだ」は、小平のことばとして有名だが、これは小平個人のことばというよりも、「中国四千年」の歴史の中で中国人の遺伝子に組み込まれ、変化することのない基本的意識なのである。




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【2007/12/11 13:14】 | 【演説・講演・論文・コラム】 | トラックバック(0) | コメント(0)
我が家の冬の恒例
 ※ 毎年の恒例で冬になると母がやって来ます。昭和3年生まれの母は、二度の大手術に耐え今では第一級障害者ですが、今年(12/2)も元気に筆者の元へ来てくれました。これから3月頃までの滞在です。

 8年前に父が他界し、その後の大病を克服した母は、やっと自由に動き回るようになりました。昔人間の母は、それまで自分のことは考えもせず、家族のためや他人のためだけに生きているような人でした。それが大病を経て、やっと自分の老いに気づいたようで。(笑)

 もちろん以前は、筆者が毎年帰っていたのですが、それではゆっくりいっしょにいられないし、母の気力の刺激にもなるのではないかと考えてのことです。案の定、お互い毎年の楽しみになりました。

 このところしみじみ思うことは、母から与えられた最大のプレゼントは兄弟ではないかということ。筆者は4人兄弟なのですが、これが大変な心丈夫なのですね。

 母の大病以来、兄弟の話題(電話ですが)の中心は母のことばかりになりました。お陰で母と同居の次兄とは特に会話が増え、社会に出てからずっと縁が遠くなっていたけれども、また子供の頃のように家族を強く意識するようになりました。ま、これは筆者だけが実家から遠く離れているからかもしれませんが。

 冬の間の3~4ヶ月、また母の昔の話を堪能します。ずっとそばにいる兄弟が知らない母の過去を、隅々まで聞き取りたいと思っています。と・・、そうだ先日ポロリと、「満州時代に2~3ヶ月ほど台湾人の家庭にホームステイしていた」と言っていた。これも詳しく聞きたいな。

 というわけで、しばらく更新がどうなるか、これまで以上に気ままな更新となりそうです。母中心の生活、落ち着いてPCの前に座る時間が激減しておりますので申し訳ありません。

 今はちょっと母がお出かけ中、そのスキに弁明させて頂き候。ではまたそのうちに。


【2007/12/05 14:02】 | お知らせ | トラックバック(0) | コメント(4)
しゃばだば近代国史帖


日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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