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安倍総理のインドネシア・インド・マレーシア歴訪とテロ支援法延長について
西村眞悟衆議院議員 ※ 安倍新内閣が発足いたしました。この新内閣支持率・不支持率に関しての世論調査報道が早速流されましたが、新聞各社の数字の落差があまりに大きく、データとしてはどうなんでしょうか。それ以前に、先の参院選でメディアに好いように翻弄された世論を目の当たりにしており、この国に正常な世論調査は当分望めないのかもしれませんが。

 それはさておき今回は、安倍総理のインドネシア・インド・マレーシア歴訪やテロ支援法延長に関しての、西村眞悟衆議院議員の的確明快な評論文をご紹介したいと思います。

 この『眞悟の時事通信』は、政治や外交に多少知識不足な筆者でも読んでいて大変解りやすい。歴史にも精通し曖昧ではなくはっきりとした言葉で述べられており痛快でもあります。




□ 総理の歴訪ルートと防衛省の人事騒動に思う(眞悟の時事通信:平成19年8/25)
http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page=307

 ニュースを精査した訳ではないが、二つのことについて記しておこうと思う。
 一つは、総理大臣のインドネシア・インド・マレーシア歴訪について。他の一つは、防衛省の人事について。但し、この人事については、登場人物が知っている人ばかりなので、プリンシプルだけを書いておきたい。

 先ず、総理のインドネシア・インド・マレーシア歴訪に関して。
 この歴訪ルートを知ったとき、直ちに思ったのは「戦略的ルート」だということである。そして、こういう歴訪ルートを選定した総理に、「なるほど」と頷いた。
 安倍総理は、昨年の就任直後に中国と韓国を訪れた。そして、ほぼ十か月後にインドネシアからインド、そしてマレーシアを訪れたのである。
 これで我が国のアジア外交にバランスが回復したのだ。
 従来、中国一辺倒外交がアジア外交だと思われてきた。
しかし、中国はアジアの特異な一つの地域に過ぎない。従って、我が国の外交は、この特異な中国を視野に入れつつ海洋でつながるアジアと通じることが肝要である。この肝要な地域が、この度の歴訪ルートである。

 安倍総理は、インドで、東条英機元首相等A級戦犯を裁いた東京裁判において、ただ一人無罪判決を書いたパール博士のご子息と会見した。これは非常に重要なことで評価すべきことである。
 そこで、インドでそれをするのなら、もう一つあったと、改めて惜しむことがある。
 それは、何故八月十七日からインドネシア訪問を始めなかったのかということである。総理は日程を二日繰り上げるだけで、
八月十七日のジャカルタにおける独立記念式典に立ち会うことができたのである。
 
 この八月十七日は、インドネシアの独立記念日である。
西暦一九四五年のこの日、ハッタとスカルノは、ジャカルタでオランダからのインドネシア独立を宣言した。その日付を、彼らは西暦で記さずに皇紀二六〇四年八月十七日と記したのである。手書きの独立宣言文の日付は「17・8・04」となっている。
 この独立記念日に、インドネシア人は、独立に日本が果たした役割を改めて顧みるとともに、この日から始まる激しいオランダ軍との独立戦争に多くの日本兵が参加してインドネシア独立のために戦い死んでいったことを思い起こすのである。

 インドネシアからインドへ抜けるこの回廊は、我が国のシーレーンであるとともに親日的な地域である。
 この回廊が不安定になれば、我が国にエネルギーが届かず、我が国経済は崩壊する。従って、この回廊を総理大臣が歴訪したことは極めて重要なことである。
 マスコミは、インドにおける二酸化酸素排出量の抑制問題に焦点を当てて報道しているが、私にとっては、これは名目で、我が国の総理大臣がインドネシアを抜けてインドへ入ったという事実を重く評価したい。総理外交に求められていた国家戦略が現れてきたと見たい。

 また、歴史を断絶させずに観れば、この歴訪ルートで直ちに思い起こすのは、大東亜戦争における初期の西方作戦である。ここが我が国の存立にとって重要な地域であるということは、この戦史を見るだけで分かる。
 大東亜戦争における連合艦隊は、後に遙か東方に出て壊滅するのであるが、初期には西方のマレー沖からインド洋に出て大きな戦果を挙げた。
 仮に、東方に行かずにこの戦果を確固たるものにしてインド洋を制圧しておけば、インドはこの昭和十七年の時点でイギリスから独立し、インドとイギリスの補給ルートとインドから中国への蒋介石支援ルートは断ち切られて、中国大陸における講和の機運が高まって戦禍は止み、英米は対日継戦の大義名分を失ったと思われる・・・。
 と、この地域を見るとき、何時も歴史のイフ(if)を色々思い巡らしてしまうのである。

 さて、十年ほど前に、ジャカルタでインドネシア海軍の参謀長に会った。通訳はアセアンセンターの中嶋慎三郎さんだった。
参謀長は私に言った。
「日本海軍が、このマラッカ海峡に来てくれないか。日本海軍が来てくれれば、○○などイチコロだ。」
「我々インドネシアは、貧しい予算の中でこの海峡の安全を守るために努力している。その恩恵を一番受けているのは日本ではないか。海賊の船は性能が良い。予算が足りない。日本海軍も参加すべきだ。」
 
 そして、今、この海峡を我が国の自衛艦が定期的に通過している。インド洋におけるアメリカやEU諸国のテロと戦う艦船に洋上補給するためである。
 これが、どういう重みをもっているか、考えて欲しい。
 我が国自衛隊の護衛艦は、帝国海軍以来の軍艦旗を掲揚している。日本人は歴史が断絶している人が多く意識しないが、インドネシアやインドからこの軍艦旗を見れば、日本海軍が再び、マラッカ海峡を通過するようになったのである。つまり、前に会ったインドネシア海軍参謀長の要望通りになっているのだ。
 
 今我が国政界の論調では、テロ支援法延長に関して、
「インド洋における給油活動の成果を厳密に検証するべきだ」というような議論が表面化しているが、インドネシアからインドに至る護衛艦の遊弋の成果は、たかが「給油の成果」だけで計れるものではない。我々は、インド洋で無料ガソリンスタンドを開設しているのではない。
 自衛隊の活動は、シーレーンである海洋・海峡の安全という我が国の存立にかかわるほどの重みをもっているのである。
 
 以前、大阪のある地域で、婦女をターゲットにした暴行事件が多発した。その時、警察がパトカーをその地域に重点的に走らせた。すると、暴行事件はピタリと止んだ。
 パトカーでもこれだけの効果がある。
 では、自国の独立という重大な事件に、決定的なインパクトを与えた国の軍艦旗を掲揚した海軍艦艇の遊弋が、どれほどの効果を持っているか。どれほど、地域の安全に貢献しているか。
 ここに思いを馳せなければ、とうてい国政における政治家の議論にはならない。ガソリンスタンド経営上の損得の議論にはなるが。

 次に、防衛省の事務次官人事について簡潔に述べておきたい。 この問題に関して、官邸と防衛省内局が、手続論でごちゃごちゃ言っているのが報道された。
 しかし、問題は手続論ではない。
 大臣が決めたのなら、内局はそれに従わねばならない。そして、そのように手続を進める。これが、事務方の仕事である。
 それを、事務次官が官邸に直行して不平不満を申すとは、一種の下剋上である。
 
 特に、自衛隊には指揮命令系統のラインがある。このラインを維持することによってシビリアンコントロールが機能するのである。従って、防衛省においては他の省庁よりも特にラインを重視すべきなのだ。
 しかるに、ここの事務のトップが官邸に乗り込んでラインを無視した。そして、事務次官の意向と、大臣の意向とが折半されたような結果となっている。このような悪弊を見過ごしてはならなかったのだ。

 また、事務次官は防衛庁生え抜きの後任に固執していて、警察庁出身者を排除したい意向と報道された。この報道が正しいのなら、これは防衛省の私物化である。
 始めに入ったところが、防衛庁であろうが警察庁であろうが大蔵省であろうが、共に同じ「国家の官僚」ではないか。
 その地位にふさわしい者がその地位につく、これが人事の鉄則である。特に国家を守る為の組織である防衛省においては、この原則は重視すべきである。
 仮に、無能なやつが生え抜きであるという理由だけで事務次官になれば、いざという時の惨害は国民に及ぶではないか。特に防衛省の事務次官人事には、生え抜きか生え抜きでないかというような了見の狭い基準は有害である。
 省庁は官僚の私的縄張りではない。
 広く、各省庁にいる「国家の官僚」を見渡して、有能な人材なら引っこ抜いてでも防衛省に迎えるという考え方でないと官僚機構の活力が出ないと思う。有能な人材を求めた省庁を縦断した人材引っこ抜き競争こそ、奨励すべきことである。



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【2007/08/29 16:57】 | 【筆者雑記】 | トラックバック(0) | コメント(2)
インド国会における安倍総理大臣演説

インド国会にて演説する安倍総理 ※ 今回はインド訪問中の安倍総理の国会演説を全文ご紹介いたします。昨年のインド首相国会演説も報道されませんでしたが、これも報道されていないようです。(2007年はインドにおける日本年です)

 ※ 緊急追記
 本日(平成19年9月1日現在)外務省HPから「マンモハン・シン・インド首相の国会演説」が削除されていることを確認いたしました。他項目は残されており不可解であり残念であります。


 この安倍総理の演説の反響は、

 安倍総理のスピーチに対しては、聴衆より随所で30回以上の拍手が起こり、スピーチ終了後は聴衆が総立ちとなるスタンディングオベーションとなった。

 ということで、本当はその映像を見てみたいと思ったのですが、残念ながら見つかりません。どうしたことでしょう。せめて政府インターネットテレビで流して頂けることを期待したいと思います。

 筆者は20数年前に一度インドを一ヶ月ほど一人旅したことがありました。その頃は恥ずかしながらパール博士のこともチャンドラ・ボースのことも知らず、もったいないことをしたと思っています。ブッダの悟りの地を訪ね、熱中症で倒れたことを想い出します。





□ インド国会における安倍総理大臣演説(平成19年8月22日)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/19/eabe_0822.html 

    「二つの海の交わり」
   Confluence of the Two Seas

モハンマド・ハミド・アンサリ上院議長、
マンモハン・シン首相、
ソームナート・チャタジー下院議長、
インド国民を代表する議員の皆様と閣僚、大使、並びにご列席の皆様、

 初めに私は、いまこの瞬間にも自然の大いなる猛威によって犠牲となり、苦しみに耐えておられる方々、ビハール州を中心とする豪雨によって多大の被害を受けたインドの皆様に、心からなるお見舞いを申し上げたいと思います。

 さて、本日私は、世界最大の民主主義国において、国権の最高機関で演説する栄誉に浴しました。これから私は、アジアを代表するもう一つの民主主義国の国民を代表し、日本とインドの未来について思うところを述べたいと思っています。

 The different streams, having their sources in different places, all mingle their water in the sea.

 インドが生んだ偉大な宗教指導者、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda)の言葉をもって、本日のスピーチを始めることができますのは、私にとってこのうえない喜びであります。

 皆様、私たちは今、歴史的、地理的に、どんな場所に立っているでしょうか。この問いに答えを与えるため、私は1655年、ムガルの王子ダーラー・シコー(Dara Shikoh)が著した書物の題名を借りてみたいと思います。

 すなわちそれは、「二つの海の交わり」(Confluence of the Two Seas)が生まれつつある時と、ところにほかなりません。

 太平洋とインド洋は、今や自由の海、繁栄の海として、一つのダイナミックな結合をもたらしています。従来の地理的境界を突き破る「拡大アジア」が、明瞭な形を現しつつあります。これを広々と開き、どこまでも透明な海として豊かに育てていく力と、そして責任が、私たち両国にはあるのです。

 私は、このことをインド10億の人々に直接伝えようとしてまいりました。だからこそ私はいま、ここ「セントラル・ホール」に立っています。インド国民が選んだ代議員の皆様に、お話ししようとしているのです。

 *      *

 日本とインドの間には、過去に幾度か、お互いを引き合った時期がありました。

 ヴィヴェーカーナンダは、岡倉天心なる人物――この人は近代日本の先覚にして、一種のルネサンス人です――が、知己を結んだ人でありました。岡倉は彼に導かれ、その忠実な弟子で有名な女性社会改革家、シスター・ニヴェーディター(Sister Nivedita)とも親交を持ったことが知られています。

 明日私は、朝の便でコルカタへ向かいます。ラダビノード・パール(Radhabinod Pal)判事のご子息に、お目にかかることとなるでしょう。極東国際軍事裁判で気高い勇気を示されたパール判事は、たくさんの日本人から今も変わらぬ尊敬を集めているのです。

 ベンガル地方から現れ、日本と関わりを結んだ人々は、コルカタの空港が誇らしくも戴く名前の持ち主にせよ、ややさかのぼって、永遠の詩人、ラビンドラナート・タゴールにしろ、日本の同時代人と、いずれも魂の深部における交流を持っていました。まったく、近代において日本とインドの知的指導層が結んだ交わりの深さ、豊かさは、我々現代人の想像を超えるものがあります。

 にもかかわらず、私はある確信を持って申し上げるのですが、いまインドと日本の間に起きつつある変化とは、真に前例を見ないものです。第一に、日本における今日のインド熱、インドにおける例えば日本語学習意欲の高まりが示しているように、それは一部特定層をはるかに超えた国民同士、大衆相互のものです。

 背後にはもちろん、両国経済が関係を深めていくことへの大きな期待があります。その何より雄弁な証拠は、今回の私の訪問に、日本経団連会長の御手洗富士夫さん始め、200人ちかい経営者が一緒に来てくれていることです。

 第二に、大衆レベルでインドに関心を向けつつある日本人の意識は、いま拡大アジアの現実に追いつこうとしています。利害と価値観を共にする相手として、誰に対しても透明で開かれた、自由と繁栄の海を共に豊かにしていく仲間として、日本はインドを「発見」(The Discovery of India)し直しました。

 インドでは、日本に対して同じような認識の変化が起きているでしょうか。万一まだだとしても、今日、この瞬間をもって、それは生じたと、そう申し上げてもよろしいでしょうか?

 *      *

 ここで私は、インドが世界に及ぼした、また及ぼし得る貢献について、私見を述べてみたいと思います。当の皆様に対して言うべき事柄ではないかもしれません。しかし、すぐ後の話に関連してまいります。

 インドが世界史に及ぼすことのできる貢献とはまず、その寛容の精神を用いることではないでしょうか。いま一度、1893年シカゴでヴィヴェーカーナンダが述べた意味深い言葉から、結びの部分を引くのをお許しください。彼はこう言っています。

 "Help and not Fight", "Assimilation and not Destruction", "Harmony and Peace and not Dissension."

 今日の文脈に置き換えてみて、寛容を説いたこれらの言葉は全く古びていないどころか、むしろ一層切実な響きを帯びていることに気づきます。

 アショカ王の治世からマハトマ・ガンディーの不服従運動に至るまで、日本人はインドの精神史に、寛容の心が脈々と流れているのを知っています。

 私はインドの人々に対し、寛容の精神こそが今世紀の主導理念となるよう、日本人は共に働く準備があることを強く申し上げたいと思います。

 私が思うインドの貢献とは第二に、この国において現在進行中の壮大な挑戦そのものであります。

 あらゆる統計の示唆するところ、2050年に、インドは世界一の人口を抱える国となるはずです。また国連の予測によれば、2030年までの時期に区切っても、インドでは地方から大小都市へ、2億7000万人にものぼる人口が新たに流れ込みます。

 インドの挑戦とは、今日に至る貧困との闘いと、人口動態の変化に象徴的な社会問題の克服とを、あくまで民主主義において成し遂げようとしている、それも、高度経済成長と二つながら達成しようとしているという、まさしくそのことであろうと考えるのです。

 一国の舵取りを担う立場にある者として、私は皆様の企図の遠大さと、随伴するであろう困難の大きさとに、言葉を失う思いです。世界は皆様の挑戦を、瞳を凝らして見つめています。私もまた、と申し添えさせていただきます。

 *      *

 皆様、日本はこのほど貴国と「戦略的グローバル・パートナーシップ」を結び、関係を太く、強くしていくことで意思を一つにいたしました。貴国に対してどんな認識と期待を持ってそのような判断に至ったのか、私はいま私見を申し述べましたが、一端をご理解いただけたことと思います。

 このパートナーシップは、自由と民主主義、基本的人権の尊重といった基本的価値と、戦略的利益とを共有する結合です。

 日本外交は今、ユーラシア大陸の外延に沿って「自由と繁栄の弧」と呼べる一円ができるよう、随所でいろいろな構想を進めています。日本とインドの戦略的グローバル・パートナーシップとは、まさしくそのような営みにおいて、要(かなめ)をなすものです。

 日本とインドが結びつくことによって、「拡大アジア」は米国や豪州を巻き込み、太平洋全域にまで及ぶ広大なネットワークへと成長するでしょう。開かれて透明な、ヒトとモノ、資本と知恵が自在に行き来するネットワークです。

 ここに自由を、繁栄を追い求めていくことこそは、我々両民主主義国家が担うべき大切な役割だとは言えないでしょうか。

 また共に海洋国家であるインドと日本は、シーレーンの安全に死活的利益を託す国です。ここでシーレーンとは、世界経済にとって最も重要な、海上輸送路のことであるのは言うまでもありません。

 志を同じくする諸国と力を合わせつつ、これの保全という、私たちに課せられた重責を、これからは共に担っていこうではありませんか。

 今後安全保障分野で日本とインドが一緒に何をなすべきか、両国の外交・防衛当局者は共に寄り合って考えるべきでしょう。私はそのことを、マンモハン・シン首相に提案したいと思っています。

 *      *

 ここで、少し脱線をいたします。貴国に対する日本のODAには、あるライトモティーフがありました。それは、「森」と「水」にほかなりません。

 例えばトリプラ州において、グジャラート州で、そしてタミル・ナード州で、森の木を切らなくても生計が成り立つよう、住民の皆様と一緒になって森林を守り、再生するお手伝いをしてまいりました。カルナタカ州でも、地域の人たちと一緒に植林を進め、併せて貧困を克服する手立てになる事業を進めてきました。

 それから、母なるガンジスの流れを清めるための、下水道施設の建設と改修、バンガロールの上下水道整備や、ハイデラバードの真ん中にあるフセイン・サーガル湖の浄化――これらは皆、インドの水よ、清くあれと願っての事業です。

 ここには日本人の、インドに対する願いが込められています。日本人は、森をいつくしみ、豊富な水を愛する国民です。そして日本人は、皆様インドの人々が、一木一草に命を感じ、万物に霊性を読み取る感受性の持ち主だということも知っています。自然界に畏れを抱く点にかけて、日本人とインド人にはある共通の何かがあると思わないではいられません。

 インドの皆様にも、どうか森を育て、生かして欲しい、豊かで、清浄な水の恩恵に、浴せるようであってほしいと、日本の私たちは強く願っています。だからこそ、日本のODAを通じた協力には、毎年のように、必ず森の保全、水質の改善に役立つ項目が入っているのです。

 私は先頃、「美しい星50(Cool Earth 50)」という地球温暖化対策に関わる提案を世に問いました。温室効果ガスの排出量を、現状に比べて「50」%、20「50」年までに減らそうと提案したものです。

 私はここに皆様に呼びかけたいと思います。「2050年までに、温室効果ガス排出量をいまのレベルから50%減らす」目標に、私はインドと共に取り組みたいと思います。

 私が考えますポスト京都議定書の枠組みとは、主な排出国をすべて含み、その意味で、いまの議定書より大きく前進するものでなくてはなりません。各国の事情に配慮の行き届く、柔軟で多様な枠組みとなるべきです。技術の進歩をできるだけ取り込み、環境を守ることと、経済を伸ばすこととが、二律背反にならない仕組みとしなくてはなりません。

 インド国民を代表する皆様に、申し上げたいと思います。自然との共生を哲学の根幹に据えてこられたインドの皆様くらい、気候変動との闘いで先頭に立つのにふさわしい国民はありません。

 どうか私たちと一緒になって、経済成長と気候変動への闘いを両立させる、難しいがどうしても通っていかなくてはならない道のりを、歩いて行ってはくださいませんでしょうか。無論、エネルギー効率を上げるための技術など、日本としてご提供できるものも少なくないはずであります。

 *      *

 先ほどご紹介しましたとおり、私の今度の旅には、日本を代表する企業の皆様が200人ちかく、一緒に来てくれています。まさに今、この時間帯、インド側のビジネスリーダーとフォーラムを開き、両国関係強化の方策を論じてくださっているはずです。

 こうなると、私も、日本とインドとの間で経済連携協定を、それも、世界の模範となるような包括的で質の高い協定を一刻も早く結べるよう、日本側の交渉担当者を励まさなくてはなりません。インドの皆様にも、早く締結できるようご支持を賜りたいと、そう思っております。

 両国の貿易額はこれから飛躍的に伸びるでしょう。あと3年で200億ドルの線に達するのはたぶん間違いないところだと思います。

 シン首相は、ムンバイとデリー、コルカタの総延長2800キロメートルに及ぶ路線を平均時速100キロの貨物鉄道で結ぶ計画に熱意を示しておいでです。あと2カ月もすると、開発調査の最終報告がまとまります。大変意義のある計画ですから、これに日本として資金の援助ができるよう、積極的に検討しているところです。

 そしてもう一つ、貨物鉄道計画を核として、デリーとムンバイを結ぶ産業の大動脈をつくろうとする構想については、日本とインドの間で今いろいろと議論を進めています。とくにこの構想を具体化していくための基金の設立に向けて、インド政府と緊密に協力していきたいと考えています。

 今夕、私はシン首相とお目にかかり、日本とインドの関係をこれからどう進めていくか、ロードマップをご相談するつもりです。会談後に、恐らくは発表することができるでありましょう。

 この際インド国民の代表であられる皆様に申し上げたいことは、私とシン首相とは、日本とインドの関係こそは「世界で最も可能性を秘めた二国間関係である」と、心から信じているということです。「強いインドは日本の利益であり、強い日本はインドの利益である」という捉え方においても、二人は完全な一致を見ています。

 *      *

 インド洋と太平洋という二つの海が交わり、新しい「拡大アジア」が形をなしつつある今、このほぼ両端に位置する民主主義の両国は、国民各層あらゆるレベルで友情を深めていかねばならないと、私は信じております。

 そこで私は、今後5年にわたり、インドから毎年500人の若者を日本へお迎えすることといたしました。日本語を勉強している人、教えてくれている人が、そのうちの100人を占めるでしょう。これは、未来の世代に対する投資にほかなりません。

 しかもそれは、日本とインド両国のためはもとよりのこと、新しい「拡大アジア」の未来に対する投資でもあるのです。世界に自由と繁栄を、そしてかのヴィヴェーカーナンダが説いたように異なる者同士の「共生」を、もたらそうとする試みです。

 それにしても、インドと日本を結ぶ友情たるや、私には確信めいたものがあるのですが、必ず両国国民の、魂の奥深いところに触れるものとなるに違いありません。

 私の祖父・岸信介は、いまからちょうど50年前、日本の総理大臣として初めて貴国を訪問しました。時のネルー首相は数万の民衆を集めた野外集会に岸を連れ出し、「この人が自分の尊敬する国日本から来た首相である」と力強い紹介をしたのだと、私は祖父の膝下(しっか)、聞かされました。敗戦国の指導者として、よほど嬉しかったに違いありません。

 また岸は、日本政府として戦後最初のODAを実施した首相です。まだ貧しかった日本は、名誉にかけてもODAを出したいと考えました。この時それを受けてくれた国が、貴国、インドでありました。このことも、祖父は忘れておりませんでした。

 私は皆様が、日本に原爆が落とされた日、必ず決まって祈りを捧げてくれていることを知っています。それから皆様は、代を継いで、今まで四頭の象を日本の子供たちにお贈りくださっています。

 ネルー首相がくださったのは、お嬢さんの名前をつけた「インディラ」という名前の象でした。その後合計三頭の象を、インド政府は日本の動物園に寄付してくださるのですが、それぞれの名前はどれも忘れがたいものです。

 「アーシャ(希望)」、「ダヤー(慈愛)」、そして「スーリヤ(太陽)」というのです。最後のスーリヤがやって来たのは、2001年の5月でした。日本が不況から脱しようともがき、苦しんでいるその最中、日本の「陽はまた上る」と言ってくれたのです。

 これらすべてに対し、私は日本国民になり代わり、お礼を申し上げます。

 *      *

 最後に皆様、インドに来た日本人の多くが必ず目を丸くして驚嘆するのは、なんだかご存知でしょうか。

 それは、静と動の対照も鮮やかな「バラタナティアム」や、「カタック・ダンス」といったインドの舞踊です。ダンサーと演奏家の息は、リズムが精妙を極めた頂点で、申し合わせたようにピタリと合う。――複雑な計算式でもあるのだろうかとさえ、思いたがる向きがあるようです。

 インドと日本も、そんなふうに絶妙の同調を見せるパートナーでありたいものです。いえ必ずや、なれることでありましょう。

 ご清聴ありがとうございました。



 

-- 安倍総理の国会演説に対して --


□ ムカジー・インド外務大臣による安倍総理大臣への表敬
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_abe/iim_07/india_mhk.html

 ムカジー外相から、素晴らしい国会演説に対して祝福したい、特に、安倍総理の演説の中で、インドの著名な人物、具体的にはヴィヴェーカーナンダ、タゴール、ボース、パール判事に言及があったことに感動した、また、「2つの海の交わり」という演説のテーマについても、日印協力の今後の方向性をよく示しているものと考えると述べた。

 これに対し、安倍総理から、議会の指導者として、今回の国会演説の実現に御協力いただき感謝する、セントラル・ホールという歴史的な建物で演説することができ、大変光栄であったと述べた。


□ アドバニ野党下院リーダーによる安倍総理表敬http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_abe/iim_07/india_ahk.html

 アドバニ野党下院リーダーより、安倍総理の国会演説に関し、自分(アドバニ議員)は35年議員をやっているが、これほどすばらしい演説をおこなった外国要人は初めてである、総理のインド、インド国民、またインド文明に対する真摯な愛着が表れており、これに感動しなかった聴衆はいなかったであろう。ヴィヴェーカナンダを3回引用するなど日印の歴史的紐帯に言及されたこともよかったし、ガンジス川を母なるガンジーと呼んだことについてインド人は感激した旨発言した。

 これに対し、安倍総理よりは、国会演説実現のため貴リーダーが協力してくれたことに深く感謝したい、議会の暖かい雰囲気の中で気持ちよくスピーチができた、世界最大の民主主義国の議会であるので議員の皆様を通じて10億人の国民に話すつもりで演説を行った旨述べた。




□ A beautiful India song : A memory of Japanese army


『日本兵士を讃える歌』(古田中勝彦氏訳)

1.父祖の時代より 今日の日まで
  美しきマパオの村よ
  言い知れぬ喜びと平和(やすらぎ)
  永遠(とわ)に忘れまじ

※ 美しきマパオの丘に
  日本兵来たり 戦えり
  インパールの街目指して
  願い果たせず 空しく去れり

  ※ (繰り返し合唱)

2.日本兵 マパオの丘に来たる
  それは4日の火曜日
  1944年のことなり
  我は忘れじ 4月のあの日

3.罪無き民も 散り散りに
  西に東に追いやられ
  再び神の恵み受け
  集まり住まん この地マパオに

4.広島の悲報 勇者の胸をつらぬき
  涙して去れる 日本の兵士よ
  なべて無事なる帰国を
  われ祈りてやまず





【2007/08/24 13:53】 | 【演説・講演・論文・コラム】 | トラックバック(0) | コメント(6)
昔の日本映画に懐かしい日本を想う
 ※ 今回は少し昔の日本映画の話をしようと思います。筆者は前に記したようにケーブルTVをよく見るのですが、とても重宝するのが「日本映画専門チャンネル」。たまに戦前の作品もあり、内容如何にかかわらず、可能な限りは観るようにしています。

 映画を観ていて感じることは、昔の日本人の所作の美しさ、言葉の美しさ。そして人懐っこさ。若者はどこまでも若者らしく、男は男らしく女は女らしい。子供はもちろん子供らしい。全体に品があり情があふれ、目を背けたくなるような場面はありません。喧嘩のシーンでさえ、どこか上品だから微笑ましくなります。

 今の日本を見ていると心が重くなります。父祖が命を賭して残してくれた日本がどんどん落ちてゆく。昔の日本を知らない日本人がしたり顔で平和を説いている。父祖の愛した日本を知らずして父祖を蔑み日本を蝕ませている。

 戦後たったの62年でこうも落ちた日本。30年前はまだ残されていた日本の美徳はもはや見る影もない。父祖の愛し守ろうとした日本はこんな日本じゃなかった。筆者は子供の頃が忘れられない。あの頃の日本はどこへ行った。

 昔の日本映画を観ると心が和むのです。筆者の記憶にある日本と確かにつながる懐かしさ。そのまなざし、その風景、その声に、懐かしい日本を見るのです。

 ひとつご紹介したい映画があります。『鴛鴦(えんおう)歌合戦』、片岡知恵蔵主演、マキノ正博監督、昭和14年作品で時代劇オペレッタ。ミュージカルと言った方がいいのか、娯楽映画です。

 昭和14年といえば、支那事変が泥沼化し目前に大東亜戦争を控えた落ち着かない時代。ノモンハン事件が起き、ヨーロッパではドイツがポーランドに侵攻、イギリスやフランスが宣戦布告し第二次世界大戦が勃発している。国内では横綱双葉山が69連勝を記録し、巷では流行歌「一杯のコーヒーから」「名月赤城山」「唐人お吉」などがヒットしていた。

 マキノ監督は、こんな時代だからこそ世の中を明るくする作品をと発表したという。ホントに楽しい映画。江戸時代を舞台に、骨董品マニアのお気楽殿様、傘張り業を細々と営む同じくマニアで万年貧乏のヒロインの父親(志村喬)。その娘と間借りしている浪人(片岡)の恋物語は、なんとも微笑ましかった。

 この映画は録画し何度も繰り返し観ました。挿入歌は和の音階が豊富なジャズ仕立て。コーラスに徹する陽気な男たち。カラフルな番傘の群舞。三度の飯より骨董好きの陽気な傘張り親父。愛娘の横恋慕を成就させようと目論む骨董マニアの殿様。やきもきする傘張り小娘の可愛い嫉妬。カネや地位にゃてんで興味なしの優しい浪人。

 何日もこの映画の挿入歌がシーンが筆者のアタマを占領していました。今もよく想い出してしまいます。これに関連してもうひとつご紹介したいのが、米映画の『愛と哀しみの旅路』(1991年公開)です。

 これは、日米戦争をはさんで弾圧された日系人の女性とアメリカ人青年の困難を乗り越えた愛の物語。あの時代、日系人だけが強制的に収容所に追いやられましたが、どんな風に描かれているか興味をひかれ観たものです。

 そのヒロインの父親が営む日本人向け映画館で、『鴛鴦歌合戦』が上映されていたのです。そこで働くアメリカ人青年がヒロインの兄が挿入歌を歌いながら楽しそうに踊るシーンがあるのです!この日本初オペレッタが海を越え、敵国でも上映されていたと思われるシーンにクギ付けとなったことは言うまでもありません。

 戦前の映画、特に戦争映画は国策映画だと思われるでしょう。その通り、国策映画であるとは思いますが、戦後の他国に屈した国策映画まがいを観るよりはよほど純粋な日本映画だと思っています。

 

 

 

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【2007/08/22 18:31】 | 【映画・記録映像・動画】 | トラックバック(0) | コメント(2)
変わりつつある日本の祭
 ※ 昨日偶然、見ていたケーブルTVで東京都下某市での「よさこい祭」の様子が映し出されていた。「よさこい」といえば高知の祭である。それが各地に飛び火しているのは知っていたが、実際には見たことがなかった。映し出されたその様子に、筆者は申し訳ないが薄ら寒いものを感じてしまった。

 町おこしの一環だろうか。人を集めるには、祭は最適かも知れない。その土地の住民が楽しみながら、観光客を集めることができるという。この「よさこい」だけではなく、阿波踊りの例もあるが、阿波踊りについてはあまり違和感が無かったようにも思うのですが・・。

 部外者の、それも何の知識もない筆者が個人的に感じたことで、見当違いかも知れないが、翌日の今日になっても気になって落ちつかない。多くの方が楽しんでおられるであろうことに横槍を入れてしまいますが申し訳ない。

 その「よさこい」は昼間のことでした。トラックの荷台に音響設備を載せ、そこからエレクトリックな音を流し、その後ろを揃いの衣装に身を包んだ団体が踊りながら進みます。

 筆者の違和感は、その全体も詳細も「和的」なものから程遠くなっていることにあったのです。日本古来の伝統の祭とは全く異質で、日本が見えないと言いましょうか。江戸時代につながらないと言いましょうか。

 トラック。エレクトリックにアレンジされた音楽。民族色不明の衣装。ジャズダンスもどきの振り付け。

 楽しそうに踊っている。きっと何日もみんなで集まり練習を重ねたでしょう。よそから参加のグループもあった。この祭のために多くの人の努力が見える。

 ですがごめんなさい。筆者は楽しめません。これを外国から来られた観光客が見たらどう感じるのでしょう。これが日本の祭だと思われるのでしょうか。それだけはご勘弁願いたいと思います。

 

 

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【2007/08/20 08:04】 | 【筆者雑記】 | トラックバック(0) | コメント(2)
靖国に行ってきました
 ※ 昨日午前10時半、靖国に参ってきました。筆者は足腰弱く、当初は空に参拝しようと思っていましたが、悩みを抱えた若い友人が会いたいというので靖国を指定しました。

 悩みを抱えた人には靖国が一番いいと思う。現在の日本の礎となり神となった英霊に会って欲しかった。今はそんな意味合いを知らなくとも、いつか必ず解る日が来る。そう思って連れて差し上げた。

 分かっていたつもりだけれど、大変な猛暑でした。足腰どころか頭が朦朧とする。たとえこんな状況下でも、私を捨て、我が身を守ろうと逃げもせず、ただ純粋に祖国を守るため、作戦の駒となり戦い、散華していった英霊の方々を思うと、今がどれだけ幸福か。幸福に慣れた現在の日本人は筆者を含め、何が本当の幸福かを見失いがちです。

 そんなときは靖国へ参ればいい。遠い人は護国神社へ参ればいい。病に臥している人は、窓を開け、空を見上げればいい。眼が見えない人は、心を澄ませばいい。靖国に偶像は無い。日本人であれば必ず靖国へつながる心の参道がある。

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【2007/08/16 15:19】 | 【筆者雑記】 | トラックバック(0) | コメント(4)
“ポツダム宣言”受諾から戦闘終結まで
ポツダム会談終了後の三巨頭(英アトリー、米トルーマン、露スターリン) ※ 左写真は《鳥飼行博研究所》様サイトよりお借りしたものです(クリックで大きくなります)。ポツダム会談は、米英ソの首脳会談であったが、その宣言(日本に降伏を勧告)の署名は米英中だった。

 宣言を受けた日本政府は、仲介を依頼していたソ連の返答を待って回答を留保したが、「ノー・コメント」という姿勢は、各種報道の中で「黙殺」という表現に変化して各国首脳に伝わった。

・2月4-11日、米英ソ「ヤルタ秘密協定」(ソ連の対日参戦の条件:南樺太と千島列島を引渡す等)
・6月30日-7月11日、ソ連に和平の仲介を依頼-同仲介を再度依頼
・7月26日、米英中「ポツダム宣言」
・8月6日、広島に原爆投下
・8月9日未明、ソ連の侵攻はじまる(中立条約の破棄)
・  〃 、長崎に原爆投下
・  〃 、御前会議
・8月10日、スイス政府を通じて米国務長官バーンズに(国体護持の了解をもとに)降伏を申し入れる
・8月14日、御前会議、ポツダム宣言受諾を通告
・8月15日、玉音放送
・8月16日、午前、マッカーサーは米軍に戦闘中止を命令
・  〃  、午後4時、大本営は即時停戦命令を発令
・  〃  、ソ連軍、牡丹江に入城
・8月17日、関東軍、各部隊に戦闘停止命令を発令
・8月18日、午前3時、関東軍司令官、ラジオ放送を通じてソ連軍の降伏条件受諾を表明
・  〃  、ソ連軍、ハルビン入城
・18日~23日、ソ連軍、千島列島の占守島に上陸(日ソ間の戦闘で日本軍死傷者600名以上、ソ連軍死傷者2000名以上)
・8月19日、ソ連軍、新京・奉天・安東、入場
・8月23日、スターリンは日本人捕虜のシベリア移送を指令
・8月24日~9月1日までに、ソ連軍は、大連・ピョンヤン・千島列島の島幌延島・温弥古丹島・捨子古丹島・松輪島・新知島・得撫島、北方領土の択捉島・国後島・色丹島を、順次占領
・9月2日、降伏文書調印式、ソ連も調印
・9月3~5日、ソ連軍、北方領土の歯舞諸島を占領

 





□ ポツダム宣言  1945年7月26日(署名:ルーズベルト、チャーチル、蒋介石)

一、米国大統領、中華民国国民政府主席、英帝国首相は数億の国民を代表して協議を重ね、日本国に対し、この戦争を終結する機会を与えることに合意した。

二、欧州方面の陸海空軍によって数倍にも増加された米英中の驚くべき兵力は、日本本土に対し最後の打撃を加えようとしている。この軍事力は、日本国が抵抗をやめるまで日本国に対して戦争を遂行しようとする全連合国の決意によって、鼓舞され持続されている。

三、自由を希求して奮起する世界の諸国民の力に対し、ドイツが重ねてきた無益で無意義な抵抗の結末は、日本国の国民にとって極めて分かりやすいひとつの見せしめとなるだろう。現在、日本国に向かって終結しつつある力は、抵抗を続けるナチスに対して発動され、全ドイツ国民の国土と産業、生活様式を荒廃させた軍事力よりも強大なものである。われわれの決議によって支持されたわが軍事力の全面的な発動は、日本国軍の不可避にして完全な破壊と、日本本土の、同じく不可避にして完全な焦土化を意味する。

四、日本国は、無分別な算段で日本帝国を滅亡の淵に陥れている強情な軍事助言者たちに支配されたままこの戦争を続けるか、決断するときがきた。

五、以下は、われわれの条項である。われわれは譲歩しない。ほかに選択の余地はない。いかなる遅延も受け入れない。

六、われわれは、無責任な軍国主義者が世界から駆逐されるまで、平和、安全、公正の新秩序を形成することは不可能であると確信するものであり、日本国の国民を欺き世界征服の誤った道へ導いてきた者の権力と影響力は、永久に除去されなければならない。

七、右(上)のような新秩序が形成され、日本国の戦争遂行勢力が破砕されたという確証が得られるまで、連合国が指定する日本国内の諸地点は、連合国進駐の根本目的の達成のために占領下におかれるべきである。

八、カイロ宣言の条項は、履行されるべきであり、日本国の主権は本州と北海道、九州、四国、われわれが規定する諸離島に限る

九、日本国の軍隊は、完全に武装解除されたあと、それぞれの故郷に戻って平和で生産的な生活を営む機会を得ることを許される

十、われわれは日本人を民族として奴隷化したり、国家を滅亡させることは意図していないが、われわれの捕虜に対して虐待行為をした者を含む、全ての戦争犯罪者は厳正な裁判が加えられるべきである。日本国政府は、日本国民の間にある民主的な傾向を再生し強化するために、あらゆる障害を除去しなくてはならない。言論、信教、信条の自由とともに、基本的人権の尊重を確立すべきである。

十一、日本国は、その経済を持続し、物による正常な賠償可能程度の産業を維持することは許されるが、日本国を戦争への再軍備に向かわせる産業は許されない。この目的のために、管理は別として、原料の入手は許される。日本国は将来、世界貿易関係に従事することも許される。

十二、以上の目的が達成され、日本国民の自由に表現された意志に従って平和的性向の責任ある政府が樹立されると同時に、連合国占領軍は速やかに日本から撤収する。

十三、われわれは、日本国政府が全ての日本軍隊の無条件降伏を直ちに宣言し、そのための適正かつ十分な保障を心からの誠意を持って準備するよう要求する。これ以外の日本国の選択は、迅速かつ完全な破壊あるのみである
(訳:牛田久美『正論』平成17年9月臨時増刊号「昭和天皇と激動の時代」)


□ カイロ宣言  1943年12月1日(調印は無く声明のみ:ルーズベルト、チャーチル、蒋介石)

 ルーズベルト大統領と蒋介石大元帥、チャーチル首相は、それぞれの最高の軍事及び外交顧問を伴って北アフリカで会談し、次の声明を発表した。

 各軍事使節は、日本国に対する今後の軍事行動について合意した。三大同盟国は海路、陸路、そして空路から、野蛮な敵国に対して容赦なく圧力をかけることを決めた。この圧力はすでに増大しつつある。

 三大同盟国は、日本国の侵略を制止し罰するために今次の戦争をしている。この三国は、自国のために何らの利益も要求するものではない。また、領土拡張の意志を有するものではない

 右(上)の同盟国の目的は、第一次世界大戦が勃発した1914年以降、日本国が奪取し占領した太平洋の島嶼部(とうしょぶ)を日本国から剥奪すること、そして日本国が清国人から盗取した満洲、台湾、澎湖島(ぼうことう)といった一切の地域を、中華民国に返還することにある。日本国はまた、暴力と貪欲によって略取したその他すべての地域から駆逐されなければならない。

 右(上)の三大国は、朝鮮の国民が奴隷状態にあることに留意し、いずれ朝鮮を自由で独立したものとする決意を有する。

 以上の目的を達するため、右(上)の三国同盟は、日本国と交戦中の諸国と強調しつつ、日本国を無条件降伏させるのに必要な、重大かつ長期の作戦を貫き実行する。         
(訳:牛田久美『正論』平成17年9月臨時増刊号「昭和天皇と激動の時代」)






※ 申し訳ないけれど、タイプしながらあまりにデタラメな宣言なので脱力してしまいました。

 付け加えておきたいことは、ポツダム宣言前日に米国の原爆実験が成功し、日本への投下命令がすでに出されていたこと、よく見るとそのことが宣言の文言の中にも反映されています。そして、原爆投下作戦(実験)は2発だけではなかったこと。

 日本は開戦直前まで戦争の回避に努力しましたが叶いませんでした。和平についてもしかりです。宣言を読んで、あらためて連合国の「日本憎し」が伝わってきました。これはもう「民族浄化」の域だと思いました。現在はどうなんでしょう。



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【2007/08/09 08:30】 | 【大東亜戦争】宣言・条約・公文書 | トラックバック(0) | コメント(0)
戦没者追悼 -- 英霊の言乃葉
 若き特攻隊員-この写真撮影後に出撃した ※ 日本の8月には、楽しい夏休みとご先祖の霊を迎えるお盆の二つの顔があります。先の大戦、戦闘終結の日が8月15日であったことから、8月のお盆は特別なものとなりました。靖国の御霊のご両親の世代は途絶え、中でも一人息子であった英霊の方々を迎える肉親はもういません。

 しかし、今年も蝉の声に包まれた靖国に、感謝の誠意(まこと)を捧げる大きな人波ができるのです。(昨年の参拝者数:約25万8000人)
 今回は来たる慰霊の日を控えて、『英霊の言乃葉』(靖国神社)の中から数編を選んでご紹介いたします。







□ 最後の日記   海軍大将 市島保男命  
                              神風特別攻撃隊第五昭和隊
                              昭和20年4月29日
                              沖縄県東南方面海上にて戦死
                              早稲田大学第二高等学院生
                              東京都出身 23歳

 ただ命を待つだけの軽い気持ちである。
 隣の室で「誰か故郷を想はざる」をオルガンで引いてゐる者がある。平和な南国の雰囲気である。

 徒然なるまゝにれんげ摘みに出かけたが、今は捧げる人もなし。
梨の花とともに包み、僅かに思ひ出をしのぶ。夕闇の中を入浴に行く。
隣の室では酒を飲んで騒いでゐるが、それもまたよし。オレは死するまで静かな気持ちでゐたい。人間は死するまで精進しつゞけるべきだ。ましてや大和魂を代表するわれわれ特攻隊員である。その名に恥ぢない行動を最後まで堅持したい。

 俺は、自己の人生は、人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んできたと信じてゐる。

 精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは、神の大いなる愛と私を囲んでゐた人々の美しい愛情のおかげであった。今限りなく美しい祖国に、わが清き生命を捧げ得ることに大きな誇りと喜びを感ずる。


□  遺詠(故人の辞世の詩歌)   陸軍軍曹 蜂谷博史命
            昭和19年12月24日、硫黄島にて戦死、岡山市出身 23歳
・爆音を壕中にして歌つくる あはれ吾が春今つきんとす
・硫黄島いや深みゆく雲にらみ 帰らむ一機待ちて日は暮る


□  陣中日記   海軍少佐 中西齋季命 
                         神風特別攻撃隊
                         南西諸島方面にて戦死
                         昭和20年4月29日
                         和歌山県出身 慶応義塾大学卒 27歳                                                                                 
三月×日  硫黄島陥落。日本兵玉と散る。噫(ああ)!散る桜、残る桜も散る桜。

三月×日  死は決して難くはない。たゞ死までの過程をどうして過ごすかはむづかしい。これは實に精神力の強弱で、ま白くもなれば汚れもする。死まで汚れないままでありたい。

四月×日  人間死ぬ死ぬと口に出せるうちはまだ本当に死といふ観念が迫って来ない。いよいよ明日突っ込むといふ日になつてはじめて死ぬのかといふ気になる。いやそれでもまだ何か他人事のやうな気がしてゐるが・・・しかし明日は突入する。 さうすればたしかに死ぬ。


□  両親と面会   海軍大尉 安達卓也命
                       神風特別攻撃隊第一正気隊
                       昭和20年4月28日
                       沖縄方面にて戦死
                       兵庫県竹野町出身 東京帝國大学 23歳

 遥かな旅の疲れの見える髪と眼のくぼみを、私は伏し拝みたい気持ちで見つめた。私の為に苦労をかけた老いが、父母の顔にありありと額の皺にみられるやうな気がした。何も思ふことが云へない。ただ表面をすべってゐるにすぎないやうな皮相的な言葉が二言、三言口を出ただけであり、剰(あまつさ)へ思ふ事とは全然反対の言葉すら口に出やうとした。ただ時間の歩みのみが気になり、見つめる事、眼でつたはり合う事、目は口に出し得ない事を云つて呉れた。

 母は私の手を取って、凍傷をさすつて下さつた。私は入団以来始めてこの世界に安らかに憩ひ、生まれたままの心になつてそのあたたかさをなつかしんだ。私はこの美しい父母の心温い愛あるが故に君の為に殉ずることが出来る。死すともこの心の世界に眠ることが出来るからだ。僅かに口にした母の心づくしは、私の生涯で最高の美味だつた。涙と共にのみ込んだ心のこもつた寿司の一片は、母の愛を口移しに伝へてくれた。

 「母上、私の為に作つて下さつたこの愛の結晶をたとへ充分戴かなくとも、それ以上の心の糧を得ることが出来ました。父上の沈黙の言葉は、私の心にしつかりと刻みつけられてゐます。これで私は父母と共に戦ふことが出来ます。死すとも心の安住の世界を持つことが出来ます。」私は心からさう叫び続けた。

 戦の場、それはその美しい感情の試煉の場だ。死はこの美しい愛の世界への復帰を意味するが故に私は死を恐れる必要はない。ただ義務の完遂へ邁進するのみだ。

 一六〇〇、面会時間は切れた。再び団門をくぐつて出て行かれる父母の姿に、私は凝然として挙手の礼を送つた。


□  遺書      陸軍曹長 佐藤源治命
                      昭和23年9月22日
                      ジャワ島ツビナンにて法務死
                      岩手県 32歳

  僕は唱歌が下手でした

一、僕は唱歌が下手でした
  通信簿の乙一つ
  いまいましさに 人知れず
  お稽古すると 母さんが
  優しく教へてくれました

二、きょうだいみんな 下手でした
  僕も 弟も 妹も
  唱歌の時間は 泣きながら
  歌へば皆も 先生も
  笑って「止め」と言ひました

三、故郷を出てから十二年
  冷たい風の 獄の窓
  虫の音聞いて 月を見て
  母さん恋しと 歌ったら
  皆が 泣いて 聞きました

四、僕のこの歌 聞いたなら
  頬すり寄せて 抱きよせて
  「上手になった良い子だ」と
  賞めて下さる ことでせう


□  遺書      海軍大尉 溝口幸次郎命
                       神風特別攻撃隊
                       昭和20年6月22日
                       沖縄方面にて戦死
                       静岡県出身 中央大学 22歳

   (一)
 美しい祖国は、おほらかな益良夫を生み、おほらかな益良夫は、けだかい魂を祖国に残して、新しい世界へと飛翔し去る。
   (二)
  「現在の一点に最善をつくせ」
  「只今ばかり我が生命は存するなり」
 とは私の好きな格言です。
 生まれ出でゝより死ぬる迄、我等は己の一秒一刻に依って創られる人生の彫刻を、悲喜善悪のしゅらざうをきざみつつあるのです。私は一刻が恐ろしかつた。一秒が重荷だつた。もう一歩も人生を進むには恐ろしく、ぶつ倒れさうに感じたこともあつた。しかしながら、私の23年間の人生は、それが善であらうと、悪であらうと、悲しみであらうと、喜びであらうとも、刻み刻まれて来たのです。私は、私の全精魂をうつて、最後の入魂に努力しなければならない。
   (三)
 私は誰にも知られずにそつと死にたい。無名の幾万の勇士が大陸に大洋に散つていつたことか。私は一兵士の死をこの上なく尊く思ふ。


□  死の覚悟    海軍少佐 古川正崇命
                      神風特別攻撃隊振天隊
                      昭和20年5月29日
                      沖縄にて戦死
                      奈良県出身 大阪外語 24歳

 人間の迷ひは実に沢山ありますが、死に対する程、それが深刻で悟り切れないものはないと思ひます。これだけはいくら他人の話を聞いても、本を読んでも結局自分一人の胸に起る感情だからです。私も軍隊に入る時は、それは決死の覚悟で航空隊を志願したのですが、日と共にその悲壮な謂はば自分で自分の興奮に溺れてゐるやうな、そんな感情がなくなつて来てやはり生きてゐるのは何にも増して換へ難いものと思ふやうになつて来たのです。その反面、死ぬ時が来たなら、それや誰だつて死ねるさ、と云ふ気持ちを心の奥に持つやうになります。然し本当に死ねると云つてゐても、いざそれに直面すると心の動揺はどうしてもまぬがれる事は出来ません。私の今の立場を偽りなく申せば、此の事なのです。私達は台湾進出の命を受けてジャカルタを出ました。いよいよ死なねばならぬ、さう思ふと戦にのぞむ湧き上る心より、何か、死に度くない気持ちの方が強かつたりするのです。わざわざジャワから沖縄まで死ぬ為の旅を続けねばならぬ、その事が苦痛にも思へるのです。

 求道

 戦死する日も迫って、私の短い半生を振り返ると、やはり何か寂しさを禁じ得ない。死と云ふ事は日本人にとつてはさう大した問題ではない。その場に直面すると誰もがそこには不平もなしに飛び込んでゆけるものだ。然し私は、私の生の短さをやはり寂しむ。生きると云ふ事は、何気なしに生きてゐる事が多いが、やはり尊い。何時かは死ぬに決まつてゐる人間が、常に生に執着を持つと云ふ事は所謂自然の妙理である。神の大きい御恵みが其処にあらはされてゐる。子供の無邪気さ、それは知らない無邪気さである。哲人の無邪気さ、それは悟り切った無邪気さである。そして道を求める者は悩んでゐる。死ぬ為に指揮所から出て行く搭乗員、それは実際神の無邪気さである。

 和歌

・雲湧きて流るゝはての青空の その青の上わが死に所
・下着よりすべて換ゆれば新しき 我が命も生れ出づるか
・あと三時間のわが命なり 只一人歌を作りて心を静む
・ふるさとの母の便りに強き事 云ひてはをれど老いし母はも


□  海軍少佐仁科関夫命の母の手記  
    
    「最後の帰省」
               海軍少佐 仁科関夫命

                      回転特別攻撃隊菊水隊
                      昭和19年11月20日
                      西カロリン島方面にて戦死
                      長崎県南佐久郡前山村出身 22歳

 あの子はよく祭日に帰って来る。今日は明治節、なんだか関夫が帰って来るような気がしてならない。朝から気もそぞろで落つかぬ。お昼になった、あの子の好きなものを作ってもみた。座敷を整頓したり、寝具を干してみたりして、あてのない人を待っていたが、晩になっても姿をみせぬ・・・。もうこの世にはいないかも知れぬと考えたり、また正月にでもひょっこり帰ってくるかも知れぬ、と希望をもってみたりしながら、床についたのは十時すぎてからだった。

 いつかとろりとしたと思う頃、強くベルが鳴った。あっ!関夫のならし方だ。はじかれるように飛起きて玄関に出た。暗い外に立っているわが子を見たとき、無事に生きていてくれたという喜びで胸が一杯になった。そのころ神風特別攻撃隊のことが新聞やラジオに発表されたばかりだったので、いろいろ話している間に、何気なく、聞いてみた。

 「若い人が飛行機で敵艦に体当りして、死んでゆくなんて、本当にもったいないことだね。必死でなくても何とか勝つ方法がありそうなものにね」 関夫は何とも答えなかった。自分が今必死の作戦を前にして、親に最後の別れに来ているなどということは、おくびにも出さなかった。

 次の朝、早く起きた関夫は、湯殿に頭から何杯も水をかぶり乍ら、何事かを祈念しているようであった。ボサボサに伸びた髪が、ことさら気になるのも女親のせいだろうか。

 「忙しくて散髪する暇もないの」・・・無言、「恐ろしい顔になったものね、疲れているの」やはり無言、ずっと前に帰って来た際、結婚してもよいなどといっていた事を思い出したので、話をしてみたところ、関夫は何食はぬ顔で「前にいったことは、取り消し、取り消し、みな取り消し、今はとても忙しいので、次に帰って来た時にゆっくり話しましょう」といった。

 この日は運悪く父は田舎に行っていてとうとう会えなかった。最後の食事があまり進まないので「今日はなぜ少ししか食べないの」「おかずが沢山あるのでね、それにぼくも大分大きくなったんだから、そう何時までも大食いぢゃないんだよ」と笑いながら云った。しかしお酒はうまそうに飲み「お母さんも」と杯を出し、二人で楽しく汲み交わした。これが、関夫にとってはせめてもの別れの杯のつもりだったのだろう。

 いくら腹が決まっていても、母を目の前にしては、さすがに胸がせまり食事も、ノドを通らなかったのではなかろうか。

 私が駅までぜひ送りたいといったが、門前でいいよといい、母がつくった、握飯を風呂敷に包んで、手にぶらさげ、ゆったりした足どりで去って行った。

 どこから来て。何処へ行くともいわないで行ってしまった、我が家の桃太郎は待てども待てども鬼ガ島から帰って来ない。


□  硫黄島栗林兵団長より 大本営宛 最後の電報  
                         陸軍大将 栗林忠道命

                              昭和20年3月17日
                              硫黄島にて玉砕
                              長野県埴科郡西条村出身

 戦局遂に最後の関頭に直面せり、十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と安泰を祈念しつつ、全員壮烈なる総攻撃を敢行す、敵米攻以来想像にあまる物量的優勢を以って空海陸よりする敵の攻撃に対し克く健闘を続けたるは小職の聊(いささ)か自ら悦びとする所にして部下将兵は真に鬼神をも哭(な)かしむるものあり、然れども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで斃れ、為に御期待に反しこの要地を敵手に委ぬるの已むなきに至れる誠に恐懼(きょうく)に耐へず。幾重にもおわび申し上ぐ、特に本島を奪還せざるかぎり皇土永遠に安からざる思ひ、たとへ魂魄(こんばく)となるも誓って皇軍の捲土重来(けんどじゅうらい・けんどちょうらい)の魁(さきがけ)たらんことを期す。

 今や弾丸尽き、水涸れ、戦ひ残れる者全員愈々(いよいよ)最後の敢闘を行はんとするに方り、熟々皇恩の忝(かたじけな)さを思ひ粉骨砕身(ふんこつさいしん)悔(く)ゆる所あらず。

 茲(ここ)に永へにお別れ申し上ぐ。

・国のため重きつとめを果し得で 矢弾つきはて散るぞ悲しき

    昭和二十年三月十七日  






 ※ ご紹介したい「言乃葉」は数知れずありますが、今回はここまでとします。この『英霊の言乃葉』は現在8巻、一冊500円で販売されています。筆者は靖国神社遊就館にて購入致しましたが、郵送もありますので、ご希望の方は靖国神社までお問い合わせ下さい。
 
 戦争を絶対悪とし、耳も目も塞ぐマスコミの論では、私達の父祖の魂はいつまでも安らぐことはできません。これら「言乃葉」から伝わるものには、国家への忠誠以前に故郷や肉親への愛情があふれ、自己を見つめる真摯な姿があります。家族を愛し、故郷を歌を愛し、だからこそ国を愛し戦ったのです。

 御霊の帰る蝉時雨のふる8月の靖国へ、護国神社へ、空へ、今年も感謝の誠意を捧げます。



【2007/08/06 21:24】 | 【詩・言乃葉】 | トラックバック(0) | コメント(0)
大東亜戦争『終結の詔書』 -- 玉音放送



□ 大東亜戦争終結ノ詔書 -- 原文

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ體セヨ

(御名御璽)

昭和二十年八月十四日


□ 大東亜戦争終結の詔書 -- 少し読みやすくしました

朕(ちん)深く 世界の大勢(たいせい)と帝國の現状とに鑑(かんが)み 非常の措置を以(もっ)て 時局を收拾せんと欲し 茲(ここ)に忠良なる爾臣民(なんじしんみん)に告ぐ

朕は帝國政府をして 米英支蘇四國に對(たい)し 其(そ)の共同宣言を受諾する旨(むね)通告せしめたり


抑ゝ(そもそも)帝國臣民の康寧(こうねい)を圖(はか)り 萬邦共榮(ばんぽうきょうえい)の樂(たのしみ)を偕(とも)にするは 皇祖皇宗(こうそこうそう)の遺範(いはん)にして朕の拳々措(けんけんお)かざる所

曩(さき)に米英二國に宣戰せる所以(ゆえん)も亦(また) 實(じつ)に帝國の自存と東亞の安定とを庶幾(しょき)するに出(い)で 他國の主權(しゅけん)を排し領土を侵すが如(ごと)きは 固(もと)より朕が志にあらず

然(しか)るに交戰已(すで)に四歳(しさい)を閲(けみ)し 朕が陸海將兵の勇戰 朕が百僚有司(ひゃくりょうゆうし)の勵精(れいせい) 朕が一億衆庶(しゅうしょ)の奉公 各ゝ最善を盡(つく)せるに拘らず 戰局必ずしも好轉(こうてん)せず

世界の大勢亦(また)我に利あらず 加之(しかのみならず)敵は新(あらた)に殘虐なる爆彈を使用して 頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷し慘害(さんがい)の及ぶ所 眞(しん)に測(はか)るべからざるに至る 

而(しか)も尚(なお)交戰を繼續(けいぞく)せんか 終(つい)に我が民族の滅亡を招來(しょうらい)するのみならず 延(ひい)て人類の文明をも破却(はきゃく)すべし斯(かく)の
如くんば 朕何を以(もっ)てか億兆の赤子(せきし)を保(ほ)し 皇祖皇宗の神靈(しんれい)に謝(しゃ)せんや 

是(こ)れ 朕が帝國政府をして共同宣言に應(おう)ぜしめるに至れる所以(ゆえん)なり


朕は帝國と共に終始東亞の解放に協力せる諸盟邦(しょめいほう)に對(たい)し 遺憾の意を表せざるを得ず 

帝國臣民にして戰陣に死し 職域に殉じ 非命に斃(たお)れたる者及其の遺族に想(おもい)を致せば五内爲(ごないため)に裂く 

且(かつ)戰傷を負い災禍を蒙(こうむ)り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念(しんねん)する所なり 

惟(おも)うに 今後帝國の受くべき苦難は固(もと)より尋常にあらず 爾臣民(なんじしんみん)の衷情(ちゅうじょう)も朕善く之を知る
 
然(しか)れども 朕は時運(じうん)の趨(おもむ)く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び以(もっ)て萬世(ばんせい)の爲(ため)に太平を開かんと欲す

朕は茲(ここ)に 國體(こくたい)を護持(ごじ)し得て 忠良ナル爾臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し 常に爾臣民と共に在り

若(も)し夫(そ)れ 情の激する所 濫(みだり)に事端(じたん)を滋(しげ)くし 或(あるい)は同胞排擠(どうほうはいさい) 互(たがい)に時局を亂(みだ)り 爲(ため)に大道(だいどう)を誤り 信義を世界に失うが如きは 朕最も之を戒(いまし)む 宜(よろ)しく 

擧國一家子孫相傳(きょこくいっかしそんあいつた)え 確(かた)く神州(しんしゅう)の不滅を信じ 任重(にんおも)くして 道遠きを念(おも)い 總力(そうりょく)を將來(しょうらい)の建設に傾け 道義を篤くし 志操(しそう)を鞏(かた)くし 誓(ちかっ)て國體(こくたい)の精華を發揚(はつよう)し 世界の進運(しんうん)に後れざらんことを期すべし 

爾臣民(なんじしんみん) 其(そ)れ克(よ)く朕が意を體(たい)せよ






 ※ 昭和20年8月15日正午、大東亜戦争の戦闘終結を、昭和天皇の玉音放送をもって国民に知らされました。この8月15日を終戦記念日としたことから、私達は勘違いをしてしまいがちですが、主権を回復するのは昭和27年4月28日のことであり、その間6年8ヶ月に亘ってGHQによる戦時占領下体制にあったことを忘れてはなりません。

 さて今回は、毎年8月になるとマスコミの終戦特番で流される『玉音放送』が常にほんの一部だけであることから、その全文を読むことで先の大戦をふり返りたいと思いました。

 漢語調だとはいえ日本語ですので、何度か読み直すと理解できるものと思います。そこに何が書かれてあったのか、これは天皇陛下の公文書ですので、この時の日本の認識であるということになります。

 まず、
「曩(さき)に米英二國に宣戰せる所以(ゆえん)も亦(また) 實(じつ)に帝國の自存と東亞の安定とを庶幾(しょき)するに出(い)で 他國の主權(しゅけん)を排し領土を侵すが如(ごと)きは 固(もと)より朕が志にあらず」
と戦争目的を確認し、

世界の大勢亦(また)我に利あらず 加之(しかのみならず)敵は新(あらた)に殘虐なる爆彈を使用して 頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷し
「而(しか)も尚(なお)交戰を繼續(けいぞく)せんか 終(つい)に我が民族の滅亡を招來(しょうらい)するのみならず 延(ひい)て人類の文明をも破却(はきゃく)すべし斯(かく)の如くんば 朕何を以(もっ)てか億兆の赤子(せきし)を保(ほ)し 皇祖皇宗の神靈(しんれい)に謝(しゃ)せんや」
と戦争の不利と人類史上最初の核兵器使用を糾弾することで戦争終結の理由を述べています。さらに、

帝國と共に終始東亞の解放に協力せる諸盟邦(しょめいほう)に對(たい)し 遺憾の意を表せざるを得ず」
と、諸盟邦(大東亜会議の盟邦)へ「東亜の解放」の挫折に対して申し訳ないとの遺憾の意を述べ、

「帝國臣民にして戰陣に死し 職域に殉じ 非命に斃(たお)れたる者及其の遺族に想(おもい)を致せば五内爲(ごないため)に裂く
と国民の犠牲と、徹底抗戦への意志に配慮しながらも、

「然(しか)れども 朕は時運(じうん)の趨(おもむ)く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び以(もっ)て萬世(ばんせい)の爲(ため)に太平を開かんと欲す
と、戦争終結の意義を説いています。そして、

「朕は茲(ここ)に 國體(こくたい)を護持(ごじ)し得て 忠良ナル爾臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し 常に爾臣民と共に在り
若(も)し夫(そ)れ 情の激する所 濫(みだり)に事端(じたん)を滋(しげ)くし 或(あるい)は同胞排擠(どうほうはいさい) 互(たがい)に時局を亂(みだ)り 爲(ため)に大道(だいどう)を誤り 信義を世界に失うが如きは 朕最も之を戒(いまし)む 宜(よろ)しく」

と、国体護持と内戦を戒め、

擧國一家子孫相傳(きょこくいっかしそんあいつた)え確(かた)く神州(しんしゅう)の不滅を信じ
と、誇るべき自国の不滅を信じ、子々孫々まで語り伝えることの大事

「任重(にんおも)くして 道遠きを念(おも)い 總力(そうりょく)を將來(しょうらい)の建設に傾け 道義を篤くし 志操(しそう)を鞏(かた)くし 誓(ちかっ)て國體(こくたい)の精華を發揚(はつよう)し 世界の進運(しんうん)に後れざらんことを期すべし
と、国を挙げての祖国再建を呼びかけています。そして最後に、

「爾臣民(なんじしんみん) 其(そ)れ克(よ)く朕が意を體(たい)せよ
それをよく解っておくれと。


 つまり「終結ノ詔書」の内容には

 ・大東亜戦争の目的の確認と終結の理由
 ・諸盟邦国への遺憾の意と国民の犠牲と抗戦意志への配慮
 ・内戦の戒めと祖国再建への呼びかけ


 が、込められていたのです。

 「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び以(もっ)て萬世(ばんせい)の爲(ため)に太平を開かんと欲す

 という一部分をもってマスコミ特番はいまだに、単に「終戦」の象徴として伝えますが、戦争は一国の意志のみで始められ終えられるものではありません。

 この大戦がどのような理由で始められ、終えたのか。すでに多くの歴史学者により、“時が熱狂を覚まし”公開された各国公文書を踏まえた再検証が成されております。

 日本の教育界はこれまで、戦前と戦後で、まるで別の国であるかのような歴史認識を子供たちに与えていました。昨今ようやくその見直しが始まったばかりです。その安倍政権の教育改革を陰ながら支援したいと思います。



 ● 御製  昭和61年 お題 「八月十五日」

  昭和天皇
  この年のこの日にもまた靖国の みやしろのことにうれひはふかし

  香淳皇后
  やすらかにねむれとぞおもふ君のため いのちささげしますらをのとも











テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【2007/08/03 17:50】 | 【大東亜戦争】宣言・条約・公文書 | トラックバック(0) | コメント(2)
しゃばだば近代国史帖


日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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