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参院選を終えて -- 小沢一郎という政治家
石原慎太郎 東京都知事 ※ 今回の参院選の投票率は58%を越えたそうだ。投票率が上がったことで与党が大敗したとニュースは伝えている。筆者は昨夜の開票速報を見ながら、残念ながらマスコミの力の大きさと、こうも簡単にマスコミに手繰られる国民の弱さに唖然とし、想像以上の自民党大敗に愕然としました。

 この結果を見て、民主党に投票した国民はどう感じたのでしょうか。してやったりと喜んでいるのでしょうか。そもそも民主党の政策に賛同して投票した国民はどれだけいたのでしょうか。民主党以外の野党も敗退しているのです。これが政策云々の投票行動ではなかったことを示しています。

 安倍政権発足以来というもの、マスコミはひっきりなしに安倍批判を繰り返し、あろうことか自民党内でも足を引っ張る者が続出しました。参院選が近づくと、ますますそれは酷くなりました。

 安倍首相は驚くほどの速さで、重要課題そのほとんどの法案を成立させました。しかし、安倍首相のこなした仕事の詳細をマスコミは黙殺し、野党による政権批判ばかりを報道し続けました。

 その瑣末で本質から離れた批判は感情的でありました。言葉の揚げ足をとり屁理屈で塗り固められたものでしたが、国民は鵜呑みにしたようです。自民党に向けられた批判を転じて民主党への投票へと行動した多くの国民。今後起こるであろう改革の停滞と政治の混乱で自分の首を絞めることになるやもしれぬことを知ってはいまい。

 この結果は、真に残念でなりません。筆者は学も財力も名誉も何もなく、何を言っても説得力がありませんので、ここに今月号の『WiLL』(9月号)の石原都知事の寄稿文を全文紹介したいと思います。『WiLL』をご存知でない方、特に今回民主党に投票した方々、購読をおすすめします。




□ 小沢総理なんてまっぴらゴメンだ -- 石原慎太郎 東京都知事

 ---- 小沢が「日本の親父」!?

 先週の週末、台風一過で久しぶりに多摩川の土手を散歩し、町に出ると、見慣れないポスターが目に付いた。民主党党首・小沢一郎の顔が、表情の違うものが3枚並んでおり、その真ん中のポスターに「我らの親父」と書いてあった。

 参院選を契機に与野党逆転させ自分の政権を作り、小沢内閣ができて自分が総理になるつもりなのだろう。そういう意味で「我らの親父」というキャッチを作ったんだろうが、私は彼が「日本の親父」になるのなんてまっぴらゴメンです。

 若い人は知らないだろうし、年配の方も忘れてしまっただろうけれど、小沢一郎が自民党でさんざん好き勝手をして、大金もつくり、平成五年に自民党を出て新しい政党を作った。それで政界は大混乱になった。その党の名前は新生党という名前だった。

 昭和49年、私は『文藝春秋』に角さんの金権政治を批判して「君、国売り給うことなかれ」という論文を書いた。それが引き金となって、立花隆さんと、もう一人は亡くなった児玉隆也さんの田中角栄の批判の記事が載りました。

 立花さんは「田中角栄の金脈と人脈」を書き、児玉さんは「淋しき越山会の女王」というタイトルで、田中派を牛耳っていた佐藤昭という金庫番の女性のことを書いた。すると、それがきっかけで彼女を参考人として国会に呼ぼうじゃないかということになった。角さんは「これはいかん」と思ってパッと辞めちゃった。

 角さんが辞めたのはロッキード事件ではない。ロッキード事件は辞めた後のことです。

 私は角さんはアメリカの陰謀の犠牲になったんだと思う。角さんは何もかもアメリカに牛耳らせてはならない、せめてこれからのエネルギー、原子力のウラニウムの供給だけは自前のルートを作ろうと、首相外交でやろうと思った。それがアメリカの勘に触った。

 エネルギー問題でアメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄を完全に葬ろうとして、アメリカがメチャクチャな裁判をけしかけてきたのです。

 ---- 過去にけじめもつけずに

 しかし、金権で倒れた後も、ロッキード事件が起こるまで角さんの作った田中派、「経世会」は自民党、すなわち日本の政治を牛耳ってきた。そのもとで一番、勝手気ままなことをした金丸信という人の庇護の下で30代で幹事長をつとめ、自民党を壟断(ろうだん)してきたのが小沢一郎です。その小沢一郎がさっさと仲間を固めて出て行って、新生党を作った。その時に、田中角栄の金権政治と戦った立花隆さんは朝日新聞にこう書きました。

 <羽田新党とは何か。あなた方は、要するに経世会の分裂した片割れではないか。経世会とは何か。要するに旧田中派ではないか。田中派とは何か。5億円収賄犯・田中角栄をかついで、日本の政治を10年余りにわたって目茶苦茶にしてきた徒党ではないか。

 党外の刑事被告人を領袖(りょうしゅう)とあおぎ、天才政治家とあがめ、田中が右といえば右、左といえば左に動いて、日本の総理大臣の首を次々にすげかえ、数の力であらゆる道理を踏みにじってきた集団ではないか。あなた方はその中核だったではないか。

 田中が病気に倒れると、看板を経世会とかけかえただけで、田中派時代と全く同じように、金の力と数の力で政治を支配し、権力のうま味を思う存分吸い取ってきたのが、あなた方ではなかったか。

 あなた方のつくったそうした政治構造が、リクルート事件を生み、佐川事件を生み、金丸事件を生んだのではなかったか。いまや政治腐敗の代名詞となった竹下・金丸は、あなた方の大親分ではなかったか。この間まで大親分の集めた黒いカネを喜んでもらっていたのは誰なのか。

 政治改革という錦の御旗を振り回していれば、そういう恥ずべき過去をみんな忘れてくれるとでも思っているのだろうか。

 いま必要なのは、政治改革よりあなた方の人間性改革だろう。その第一歩は、日本の政治を破壊し腐敗させてきたのは自分たちであると正直に認め、懺悔し、反省することである。

 自分たちの過去にけじめもつけずに、何が新生だ。ちゃんちゃらおかしい>(1993年6月24日)

 かなり厳しい文章だが、しかしこの通りだと思う。

 ---- アメリカの経済奴隷に

 日本とアメリカの関係の中で、日本をアメリカの経済奴隷にしたのは誰か。金丸・小沢じゃないですか。

 大都市はともかく、地方都市の商店街はほとんど潰れてしまった。そして代わりに郊外に大店舗が出来た。私は自分の選挙区での体験から、こんなものを作ったら商店街はだめになるとわかっていたし、多くの者が反対した。アメリカの圧力のままに、大店舗法なるものを改悪し、商店街を潰したのは金丸・小沢です。

 それから、やっちゃいけない日本とアメリカの対の経済構造協議というのをやった。

 世界が狭くなってきて、経済先進国同士で問題が起こると世界全体に影響を及ぼすからと、みんなで合議しようということで経済先進国が集まってWTOとかOECDを作った。

 しかし、アメリカは日本の経済に押されて具合が悪くなってきたので日本をとっちめてやろうと、安保条約で恩に着せて、自分達が軍備を使って日本を守ってやっているんだから言うことを聞けといって、バイラテラルの経済構造協議をやることになった。

 私達は大反対しました。案の定、アメリカは270項目の要望を突きつけてきた。中にはとんちんかんなものが随分あった。

 私はそれに反対して、140項目の反対案を作った。私が主催している黎明の会という政策研究会のメンバーには、今は自民党を離れてしまった亀井静香くんや平沼赳夫くんがいました。

 そして私達がそれを発表しようと思ったら、自民党の最高議決会の総務会が4回潰された。小沢幹事長が命じたんです。会期末だったので、そのまま国会は閉幕。仕方ないから私達は翻訳して、外人記者クラブでも発表した。アメリカは嫌がるだろうけれど、私はやりました。しかし結局、アメリカの無法な要求はいくつか通りました。

 ---- 金丸のひと声で40億ドル

 それをいいことにアメリカが何をやってきたか。毎年、日本はアメリカから年次改革要望書というものを突きつけられている。ああしろ、こうしろといろいろなことを言ってくる。

 例えばアメリカの弁護士は水準が低く役に立たないのが多いのに、日本でも弁護士を増やせ、そしてアメリカの弁護士も日本で弁護できるようにしろと言ってきている。あるいは、金融市場をもっと開放しろとも。

 金丸・小沢が牛耳っていた頃の自民党の歴代の大蔵大臣はたいした危惧も持たずに「ビックバン」「ビックバン」とはしゃいで金融の自由化をしました。

 今どうなっているか。ヘッジファンドがどんどん出てきて、日本の会社を買い占めて売っている。ハゲタカファンドが日本で好きなことをして儲けている。こんなことを許したのは誰かといえば、小沢一郎じゃないですか。

 そして1991年(平成3)に湾岸戦争が起きた。ブレディというアメリカの財務長官が日本に圧力をかけに飛んできた。アメリカにはカネがないから、日本はカネを出せと言いに来た。

 当時は傀儡政権の海部政権、これは金丸と小沢が作った内閣です。金丸は海部の言うことなんか全く聞かずに、自分で人事をし、内閣を作った。海部は総理にしてもらっただけで、人事は何もできなかった。

 その海部内閣の主要閣僚、外務大臣・中山太郎、大蔵大臣・橋本龍太郎、通商産業大臣・武藤嘉文、内閣官房長官・坂本三十次の4人で紀尾井町の「福田屋」という料理屋で接待したら、ブレディがいきなり40億ドル出せと言った。

 4人はぶったまげて「そんなカネは急には出せない」と断った。ブレディは繰り返し3回言った後、「駄目なら俺は帰るぞ。駄目なんだな」と念を押した。

 「よしわかった。これで日米関係は悪くなる。あんた方の責任だ。もう1回名前を教えろ。中山、橋本、武藤、坂本だな」

 そうしたら慌てて一人が立ち上がって「ちょっと待ってください!」。恐らく官房長官の坂本でしょう、そう言ってある人に電話をかけた。

 当然、相手は幹事長の小沢です。その後には金丸がいたろう。小沢が相談して、金丸が「それじゃあ出してやれ」となって、40億出すことになった。

 ---- 刻印のない金の延べ棒が

 ブレディは日本に4、5時間しかいなかったのに40億ドルせしめて帰ってきて、ワシントンで記者会見をした。

 私は日本の政治家で一人だけ外人記者クラブのメンバーなんです。年中アメリカ人の記者と喧嘩する。喧嘩すると仲良くなるので、こちらに嫌な情報も教えてくれる。その一人からブレディの情報を聞いた。けれども嘘か本当かわからない。NHKの日高芳樹くんが当時ワシントンの支局にいたので、帰国した時に裏をとって聞きました。その通りだと。

 記者会見で、記者が「あまり機嫌がよくないけど、日本はやっぱりカネを出しませんでしたか」と聞いた。ブレディは「出したよ」と答える。

 記者が「不機嫌なのを見ると、額が少ないんですね? いくらなんですか?」と聞かれて、ブレディが「40億ドル」と言ったら、みんなぶったまげた。

 日本に数時間しかいなくてそれだけのカネが取れたのなら大成功じゃないですか、と言われたブレディがニヤッと笑って「俺は2日かかると思ったんだが、アイツらちょっと脅かしたら4時間でカネを出した。だったら最初からもっとふっかければよかった」。こんなことまで言われていたんだ。

 その後、さらにアメリカは90億ドルを要求してきた。さすがにこれは内閣の一存では決まりませんから、9月に臨時国会を開いて、結局、合わせて130億ドルを出してアメリカの戦争を助けた。

 ところが出した直後に戦争は終わってしまった。カネをどう使ったか報告がない。日本にキックバックしたという噂があります。日本のメディアはやる能力も覇気もないから調べられない。アメリカ人の二人の記者が書きました。そのカネが誰にいったのか。想像に難くないけれど。

 そして、それからすぐ小沢一郎は党を割って出て行った。

 その後、1992年(平成4)に金丸事件が起き、金丸さんは略式起訴された。警察が金丸さんの事務所に踏み込んでみると、刻印のない金の延べ棒が出てきた。金塊というのは、それを作った国の刻印が必ずあるんです。刻印のない金塊は北朝鮮です。北とどういう取引があってのことか。途中で当人が亡くなってしまい真相は闇に葬られてしまった。

 小沢・金丸は何をやったんですか。アメリカに約束した8年間に430兆のカネを無駄遣いして日本の経済力を弱めた。

 430兆のカネを使って何をやったか。沖縄の経済需要の全くない島に5万トンのコンテナ船が着くような港ができている。市長が自慢して見に来てくれと言われたけれど、船が来るのかと聞けばニヤニヤ笑うだけ。

 北海道で熊や鹿しか出てこないようなところに道路を作った。その先に街なんかありゃしない。そういう馬鹿なことをやった。みんな国民の税金です。そのため国債も発行した。それで日本の財政はガタガタになってしまった。

 ---- 小沢が一番嫌いなのは石原

 いまだに670兆という厖大な国債がある。あっという間にイタリアの倍の国債依存率になってしまった。この体たらくを作ったのは誰なんですか。

 今、年金の問題で騒がれているが、これはまさしく組合の体質の問題だ。45分働いて15分休む。1日にキーボードを5000字しか打たない。原稿用紙にしたら12枚半書くのは大変だけど、そこにある資料を打ち込むだけです。こんなものを業務協定で約束させる組合なんて、昔の国鉄よりもっと悪い。

 国鉄は民営化することによってよくなった。当時の国鉄の中に、西日本の井出、東日本の松田とか、東海の葛西とか、そうそうたる連中が体を張って組合と戦い、殺されるのを覚悟で民営化した。

 社保庁も安倍総理が、このままじゃ駄目だ、一度つぶして、解体し新しいものにしようとしている。それに反対しているのは組合におもねっている民主党じゃないですか。

 アメリカの言いなりになって、いまだに国をアメリカ化するための要望書をつきつけられている。こんな国は日本しかない。こんな体制を作ったのは誰か。小沢一郎じゃないですか。こんな男がリードする政党が日本を変えていくとはとても思えない。

 私は民主党に期待しているんです。しかし、岡田君も挫折した。前原君もつまらんことで挫折した。ああいう若い人たちがもう一度立ち上がって、若い仲間と若い発想で、自民党が思いもつかないことを考えてやってくれることを期待しています。

 しかし現在上に立っている小沢一郎たちに、何を期待するんですか。彼が過去にやってきたことを思い出すと、本当に怖い。彼が日本の親父になるのは、ひとりの日本人として、まっぴらゴメンです。

 前原君が挫折して、小沢一郎が党首になった時、ある新聞が「あなたが一番嫌いな人は誰ですか」と質問したそうです。古泉純一郎さんは「田中真紀子」。これは気持ちわかりますな。小沢一郎は「石原慎太郎」と答えたそうだ。

 これは名誉なことだと思いましたけれど、なんでそんなに嫌われているのか。つまり経済構造協議を批判したり、湾岸戦争に赤ん坊含めて日本人一人当たり3万5千円のカネを出したことを批判したり、そういうことを常日頃言っているからお気に召さないんでしょう。光栄です。

 ---- 小沢一郎はさっさと引退を

 私は昔『「NO」と言える日本』という本を書いた。英訳されてアメリカで50万部売れました。小説ではないのが残念ですが、アメリカでこんなに売れたのは私の本くらいでしょう。

 その4、5年後、金丸・小沢が経済をガタガタにした時、『宣戦布告「NO」と言える日本経済―アメリカ金融奴隷からの開放―』という本を書いた。もっと内容がある本だったけれど、出版社がもう出さないという。

 なぜかと聞いたら、内容もいいし言っていることは正しいけれど、前は日本は怖かったから出した。今は全然怖くない。あなたの言う通り日本はアメリカの金融奴隷ですよ、と。だから出しませんと。本が出ないのはいいんだけれど、そんなに見下される日本にしたのは誰なんですか? 引き金を引いたのは小沢じゃないですか。

 自分の政治生命をかけて日本の親父になる、という。まっぴらだね。彼が過去に何をしてきたのか、自分の目でもう一回確かめてほしい。立花さんの「ちゃんちゃらおかしい」という言葉は厳しいけれど、私もそう思います。

 小沢一郎はさっさと引退して金丸信のご供養でもしていればいい。日本がもっともっと深みにはまって、アメリカに引きずりまわされるのはまっぴらです。

 いずれにしろこの選挙をキッカケに自民党も再生していかなければならない。安倍総理は大事なことを言っているのに説明は多いが言葉が足りない。美しい国には、美しい人。美しい日本人の美しい心とは、ルース・ベネディクトの『菊と刀』に述べられている菊の花のように非常に高潔な日本人の潔さ。恥を嫌い、場合によっては自分で腹を切る。誇りの高さでしょう。

 その刀に象徴される、日本人の恥を嫌う心構えの怖さと美しさと。戦争が始まるまでアメリカ人はそれを認めていた。その心をカネ、カネ、カネで私達は失ってしまったんです。そういう日本を反省して、他力本願で、アメリカさんに頼って失ってきたものを取り戻そうというのが安倍総理の言う「戦後レジームの脱却」じゃないかと思います。

 憲法、憲法といいますけれど、読んだことある人が何人いるか? 前文なんか日本語じゃありませんよ。あんな醜い言葉で書かれた憲法は、外国人が作ったからだそうです。

 そういったものを含めて、日本人の心の基軸になる大事なものを取り戻していこうと安倍総理が呼びかけているのじゃないか。

 小沢一郎のような人物が日本の親父になったらとんでもないことになります。

 






 
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【2007/07/30 22:19】 | 【筆者雑記】 | トラックバック(0) | コメント(2)
阿部忠男さんの“シベリア抑留”最終回 -- 日本帝国バンザイ!
引揚船「興安丸」 ※ お蔭様でやっと最終回にこぎつく事ができました。遅々として進まぬ更新であったにも拘らず、根気良く見守り下さいましたこと、有難うございました。

 “シベリア抑留”と言葉にすれば簡単ですが、その実態、意味を知る日本人はまだまだ一握りに過ぎません。戦後60余年、この過酷な体験を余儀なくされた方々はご高齢となられ、その多くはすでに亡くなられています。

 阿部さんはおっしゃいました。やっとの思いで日本へ帰って来たものの、お偉いさんたちとは違って自分たちのような若い一社員への国からの補償は殆ど無いに等しく、また補償を求めて動いてくれる支援者も無かった。ましてや今となっては生き残っている者も少なく、何を今さらというところです・・・、と。

 筆者はお話をうかがいながら、阿部さんのシベリアでの不当な抑留生活におけるソ連への憎しみもさることながら、夢にまで見た祖国にまで不当に扱われたやり場のないそのご無念に、どうお答えすればよいのやらと心が痛みました。

 早期帰還者の多くが共産主義の洗脳の犠牲となり、舞鶴で心待ちにしていた家族の許へ帰ることもせず、そのまま日本共産党へ直行した者まであったのです。そしてにわかに共産党の議席が倍増するという時代でもありました。シベリア問題はタブー視され、帰還者たちは置き去りにされたのです。

 阿部さんにとって懐かしい故郷であっても、阿部さんを疑い、快く受け入れることをしませんでした。阿部さんの社会復帰は困難を極めることになりました。
 

●引き揚げの報道 (引用:舞鶴引揚記念館

 第二次世界大戦が終わった時点で、海外諸地域に残された日本人の数は、軍人・軍属が約320万人、一般 邦人が約300万人以上といわれていた。この人達の速やかな祖国への復帰は全国民の切なる願いであり、政府も当面 の国家的緊急課題としてこの大事業に取り組み、まず昭和20年9月28日、舞鶴をはじめ浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司を引揚湾に指定して業務を開始した。

 この膨大な海外日本人が一斉に日本内地へ引き揚げる様相は、まさに史上、その類例を見ない民族の大移動であった。こうして、昭和33年9月の最終船入港で幕が下りた13年間の海外引き揚げは、日本国内はもちろん全世界の注目を集め、一時は新聞・通信社、放送局、ニュース映画などの報道関係75社、約1,000人とニューヨーク・タイムス、AP通信など数多くの新聞、放送関係の記者、カメラマンの取材によって内外に報道された。特に舞鶴はこの間、66万人を越える引揚者を受け入れ、更に昭和25年に函館、佐世保両引揚援護局の廃止後は国内唯一の引揚湾として最後まで重要な役割を果たした。








□ 阿部忠男さんの“シベリア抑留”最終回 -- 日本帝国バンザイ!

 ---- 朗報

 長い長い、厳しい厳しい、流転の日々を送ってきた私たちに、朗報がもたらされた。日本人だけのエタップである。今までの囚人列車と違って、客車での“客人”扱いである。

 本当に夢のような話である。信じられない、帰国できるのだ、この夢よどうか壊れないで、そして覚めないで、何度も何度も吾が身をつねって真実であることを確かめた。

 “これでやっと開放されるのだ”という安堵感をもっての、シベリアの汽車の旅は素晴らしかった。走っても走っても何百キロと続く大密林地帯・・・、そして国営農場のジャガイモ畑が延々と続いた。

 本当に夢のようだ。極めつけはバイカル湖の“だだ広さ”を実感したことである。列車の中は和気あいあい、話は“ぼた餅”であったり“寿司”であったり、もっぱら食べ物が中心であった。

 車窓から見える広大な湖が、目に入ってくるすべてのものが、そして晴れ上がった空が、みんなみんな私達の前途を祝福してくれているように思えた。

 懐かしい流行歌を口ずさむ者も現れ、本当に華やいだ和やかな同胞の夢を乗せて、列車は集結地“ナホトカ”へ向けて、軽やかな車輪音を残しひた走っていった。

 ---- ナホトカで3ヶ月間

 集結地ナホトカの収容所は、港を眼下に一望できる小高い丘の上にあった。ここで日本からの船を待つため3ヶ月ほど待機することになる。この間、休養をとり、十分な食事が与えられ、“健康を回復”してから帰国させるらしい。

 毎日、作業もなく各人思い思いの時間を過ごした。帰国に備えての英語、ダンスのレッスン、踊り、唄、詩吟・・・等々、その点では有識者の集まりであり先生には事欠かなかった。どれもリラックスしての自由参加、帰国への心の準備が着々と進められていった。

 そんなある日、ひと足先に着いていた私達が迎えたのは、5年前“アルマ・アタ”で別れて以来の再会となった、電々社員を含めたハバロフスク組の集団でした。

 同僚との久しぶりの再会に、お互い元気で良かった、良かったと、涙、涙のうちに抱擁と握手を繰り返した。ここでも、親しくしていた複数の同僚の死亡を初めて知り、本当に悔しい思いをした。

 帰国を前にして帰らぬ人となった同僚の無念と哀れを悔み、深い哀悼を捧げました。

 それにひきかえ幾多の苦難はあったが、飢えに耐え、屈辱に耐え、過酷な労働にも耐えて、今、自分が元気でここにいる、なんと幸せなことだろうと痛感いたしました。

 ここで、長い間シベリアの山奥に取り残されていた私が、いかに“浦島”になっていたかについて、ちょっとふれておきたいと思います。

 5年前にハバロフスクに集められた政治犯の9割にあたる日本人は、前にも述べたように日本人だけの集団生活をおくり、その当初から日本との文通、小包の受け取りも許されていたようであった。

 日本から同僚に送られた、缶詰やお菓子の容器に貼られたラベルの色の鮮やかさに目を見張った。なんて美しいんだろう!・・・それは、8年間の隔絶された殺風景な所でばかりの生活で、鮮やかな“色彩”に飢えていたからだと思いました。 

 また、これは笑い話のようですが・・・、友人から一枚の“ナイロン風呂敷”をもらいました。これを初めて見た私は、なんと肌触りの良い、美しい、そして薄い素材でできた、こんな素晴らしいものが日本で作られているのかと実感、感激しました。

 その数日後のこと、収容所にある売店で働いている女の子に声をかけられ、私の持っていた風呂敷と「白パン1本にバター1箱と交換してほしい」とせがまれた。

話を聞くと、スカーフとして使うらしい。私としては白パンといわず黒パンでもよい。とにかく“腹一杯食べたい”と何年来思い続けてきた夢であった。入ソ以来一度も口にしたことのない“白パンとバター”が食べられる。悪くない話なのでこれに応じようとしたが、考え直した。

 今は状況が変わり空腹でもない。せっかく友人からもらった立派なものを手放しては申し訳ない、と思い断った。その時の女の子の悔しそうな顔・・・。

 帰国してから私の無知と馬鹿さかげんが分かりました。このナイロンの風呂敷、2枚100円くらいだったと思います。

 ---- 引揚船「興安丸」

 ナホトカ港に日の丸を掲げた「興安丸」がその姿を現した時の感激、嬉しさ、それは到底言葉では表せません。

 乗船当日、タラップから1歩、甲板に足を踏み入れた時の感動・・・「お帰りなさい、お帰りなさい、ご苦労様でした」と温かく迎えてくれた日赤看護婦さんの優しい言葉。

 ただ、「ありがとう」と一言答えるのが精一杯。あとは、まともに見ることができませんでした。どれだけの涙が出ただろうか。おそらく何年分か溜まっていた涙が、一度に堰を切って流れ出したような気がしました。

 この時に受けた感動は、終生忘れることはできません。今でも瞼を閉じれば、鮮やかな“日の丸の小旗”と“看護婦さんの美しい笑顔”が、昨日の事のように鮮明に浮かんできます。

 乗船が終わると鈍い汽笛を残して、半分薄氷に閉ざされたナホトカ港を滑るように出航した。

 船内では心尽くしの“赤飯”、数年来夢に見た日本食の数々が“尾頭付きの鯛”と共に並んでおり、早速に祝宴が始まりました。

 すべてが夢のようだ、本当に生きていて良かった、これで日本に帰れるのだ、長かった、辛かった、悪夢よさようなら・・・。久しぶりに頂いた日本酒に酔いしれ、心尽くしの料理に感激し、そして舌鼓を打った。

 入ソ以来、一度も口にできなかったアルコール、ちょっと度を越したようである。この酔いを醒まそうとデッキに出た。どうもまだソ連領海のようで、軍用艦がピッタリと横について警戒に当たっている。

 それから20~30分の後、どうやら公海に出たようである。これで正真正銘の自由だ。やっとソ連という国から解放されたのだ。

 この時点で初めて、乗船名簿が日本に向けて打電された。この事によって、8年間生死不明のままだった私の消息も、家族の許へ知らされた事になりました。

 私はこの時、氷点下の寒さも気にならず、下着のままで上甲板に上って行った。今まで伴送して来たソ連艦が、汽笛を合図に興安丸から離れ次第に遠ざかって行く。

 この船に向かって「ソ連のバカヤロー!」、そして東に向かって「日本帝国バンザーイ!」と、声を限りに叫びました。


 -- 終わり --







 ※ 学校の教科書で、このシベリア抑留についてどのように記載されているか。それはほんの数行で、例えば「新しい歴史教科書」をもってしても、

 「ソ連は日ソ中立条約を破って満洲に侵入し、日本の民間人に対する略奪、暴行、殺害を繰り返した。そして日本兵の捕虜をふくむ約60万の日本人をシベリアに連行して、過酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させた。」

 一枚の絵が添えられているものの、たったこれだけの表現で終わりです。教科書には字数の制限や教科書検定の規定という枠がある上に、教える立場の教師の扱い如何で、生徒の記憶に残るのは“シベリア抑留”という言葉だけのように思います。

 せん越ではありますが、歴史を教える教師には、その時代その時代の我々の先祖が、迫り来た事態をどう捉え、どう悩み、どう考え、どう行動したのか、その心情に重点を置き、生徒たちが我が事として学び取れるように授業をしていただきたいと思います。

 何を隠そう筆者は歴史が苦手でした。年数と出来事を羅列し、暗記するだけの歴史の授業には全く興味がわかず、つまらなかった記憶しかありません。ましてや特にこの第二次世界大戦あたりの授業は、「期末テストが始まるから、あとは各自で読んでおきなさい」と軽く流されただけのように記憶しています。

 しかもそれら教えられた日本の歴史は自虐的で、結果“戦前”の印象は暗いイメージに閉ざされ、戦後こそが平和で正しいと教えられました。中でも印象に残る代表的なものは、「今後何があっても憲法9条は守らねばならない。日本がもしあのまま戦争に勝っていたとしたら、今頃とんでもない国になっていただろう」と脅され、9条を守るよう誓わせられたことです。

 今思えば、あの時代こそ、つまり幕末から昭和にかけての時代こそが、日本が初めて世界史に登場し、日本史において最大の国難の時代であったのです。いやまだ、その国難は続いていると言えます。まだまだ日本は、戦後体制(占領下体制)の蜘蛛の糸から脱却できないでいるのですから。あんな教育が今も続いているのですから無理もありません。

 我々の父祖はその最大の国難に真っ向から立ち向かい、辛うじて日本を残してくれました。熱戦は終わったけれど、その国難は今や見えない形で私達の傍で闊歩しています。これを子孫にまで先送りさせるわけにはまいりません。

 さて最後に、去る4月11日にご逝去になられた、故 名越二荒之助先生の最後に詠まれた和歌をご紹介して終わりにしたいと思います。筆者は名越先生から多大なる影響を受けました。そんな方は多いと思いますので、先生の詳しいご紹介は割愛させていただきます。

 昨年の秋のある日、夜空に浮かんだ美しい月を見て詠われ、今年の歌会始に出品されたものだそうです。先生も5年間のシベリア抑留から帰還されています。

 お題 「月」 名越二荒之助
 シベリアの荒野に眠る英霊を 忘れず照らせ今宵の月も




 ● これまでに参考にしたサイト
 ・舞鶴引揚記念館
 ・平和祈念展示資料館
 ・平和祈念事業特別基金 戦後強制抑留史
 ・『異国の丘』とソ連・日本共産党
 ・国際コミュニケーションプレゼンレポート:国際コミュニケーション(8)
 ・第018回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号
 ・日ソ戦争 地図・ソ連の歴史教科書
 ・JOG(297) 近衛文隆 ~ ラーゲリに消えたサムライ
 ・旧ソ連抑留画集
 ・大礒正美研究室 コラム「よむ地球きる世界」:ソ連の北海道占領計画を知らしめた久間発言
 ・同上コラム:問題な(カイロ・ポツダム文書の)日本語
 ・満洲国の地図
 他、複数の「抑留者の証言」サイト等
【2007/07/19 19:25】 | 【証言】 阿部忠男さんの“シベリア抑留” | トラックバック(0) | コメント(4)
阿部忠男さんの“シベリア抑留”その6 -- 収容所生活の中で
ラーゲリ分布推測図 ※ 左の画像は阿部さんの手記に含まれていたラーゲリの分布図です(クリックで拡大)。その数字もやはり推察の域を出ないものなのですが、ソ連領内全体での総数は2000ヶ所を下らないであろうとのこと。スターリンは第一次及び第二次世界大戦で荒廃した国内を復興するために、自国民に加え複数多数の他国民を拉致しこれに充てていたことになります。

 そしてもうひとつ、スターリンの思惑にはレーニン以来の「世界共産主義革命運動」があります。

 日本人抑留者の祖国への返還は早期の者で4~5年かかり、その後長期の者は3年の空白の後に第一次が8年後、最終で11年後と実にだらだらと後ろ向きな対応に始終しました。

 その間の日本政府の対策は、GHQ占領下であり独自主導とはいきません。また、終戦後、昭和22~3年頃からの米ソ冷戦の勃発で、大戦時は連合国であった米ソがにらみ合っていたのですから、なおさらのこと回り道でした。

 それに加え、スターリンの思惑が邪魔をします。コミンテルン主導の下に結成された日本共産党の存在です。抑留者の返還の遅れの影で日本共産党が暗躍していました。

管季治の国会証言内容(『はるかなるシベリア―戦後50年の証言』北海道新聞社、1995年、P.70)
 「収容所長の訓示に続き、抑留者の一人が『われわれはいつ帰国できるのか』と質問した。軍政治部将校のエルマーラエフ上級中尉が答え、菅が通訳した。のちに国会に呼ばれた彼は、問題の言葉を次のように訳した、と証言した。『いつ諸君が帰れるか、それは諸君自身にかかっている。諸君はここで良心的に労働し、真正の民主主義者となる時、諸君は帰れるのである。日本共産党書記長徳田は、諸君が反動分子としてではなく、よく準備された民主主義者として帰国することを期待している』」 


 引用文を見ておかしなところがありますね。「よく準備された民主主義者」とはどういう意味なのか。それはすなわち「共産主義者」のこと、抑留者の大半がこの共産主義者への転換のための「洗脳」に悩まされました。「民主化」と称する「共産主義化」でした。

 さらに抑留者の返還の遅れが日本共産党書記長からの希望を根拠にしているくだりがありますが、それはさすがに関係はないだろうと思われます。なぜなら日本共産党はコミンテルンの配下であって対等ではないのだから、スターリンのソ連に尻尾を振っていただけのことで、それが有ろうが無かろうが抑留者を積極的に返還する気は全く無かったと思われます。しかし、日本共産党が同胞である抑留者を共産主義革命の道具としてしか見ていなかったことは間違いないことです。

 阿部さんご自身は、洗脳されることはなかったとのこと。しかし、民間人でありながら囚人とされたのです。抑留者とは言ってもさまざまなタイプがありました。収容所での待遇もさまざまで、労働はなかったが禁固され、他者との一切の接触を遮断された者もありました。驚くことに女性の抑留者まであったのです。(今回の手記に出てくる女囚は日本人ではありません)

 




□ 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その6 -- 収容所生活の中で

 ---- さまざまな民族性

 収容されている外国人はさまざま。日本人、中国人、朝鮮人、モンゴル人、カザフ人、キルギス人・・・ウズベック、トルクメン、ウクライナ、ポーランド、ラトビア、リトアニア、エストニア、ドイツ、ルーマニア、ハンガリー、チェコ、白ロシア(ベラルーシ)、ロシア、グルジア・・・等々まるで民族博物館のようでしたが、その内の7割は、ロシア、ウクライナ、ポーランド人で占められていた。

 これらの人々と数年間生活を共にしていると、それぞれの民族性、考え方、お国柄に違いがあり興味を持った。

 それでは、これらの人々の国民性(民族性)の一端を、私が見たまま感じたままに述べてみたいと思います。

 朝鮮人:
 愛国心が強く、いついかなる時も団結して行動することによって、物事を有利に処理するという優れた民族だと思いました。

 中国人:
 実に商売上手。収容所で配給されるパンや新聞紙、10グラム単位で受け取る砂糖やタバコ等を、交換したりこれを仲介することによって、その利ザヤを稼ぐ商才がある点が共通しており、これはたぶん“華僑”の血を受け継いでいる証だと思いました。

 モンゴル人:
 実に大らかで、物を非常に大切にする人なつこい民族だとの印象を受けた。これはふだん放牧で生計を立てている人が多く、ポウ(移動家屋=ゲル)での生活から生まれる習慣からくるものだろうと感じました。

 カザフ人・キルギス人:
 とにかく日本人に、顔かたちや動作までが良く似ているので親しみやすく、大和民族のルーツではなかろうかと思ったのは私一人ではなかったろうと思います。

 ウズベック・トルクメン人:
 体格が良く陽気で踊り好き。屈託がないこれらの要素が長寿国につながっているのでは、と思いました。

 ポーランド人:
 比較的に“武士は食わねど”というタイプの紳士が多く、日本人に対しては好意的で、「君たちは祖国があってうらやましい。我々の前途は暗いが、日本人は刑期の長短に関係なく早い時期に帰れるだろう」とよく励ましてくれた。

 ドイツ人:
 私が接したドイツ人は、たとえ戦争に負けてもドイツ民族としての誇りを持ち、毅然とした態度でソ連当局の不手際や要求を掲げてこれに立ち向かっていた。また、申し合わせたようにロシア語を使うことを嫌い、通訳を通して自国語で堂々と振舞っていた点など、日本人として学ぶべきところがたくさんあったように感じました。

 ロシア人:
 今まで色々と述べてきたように、ソ連という国にはヘドが出るほど嫌いで恨み骨髄に達する怒りを覚えますが、これはすべて指導者と政策が悪かったもので、今から述べるロシア人は親しみのもてる民族でした。

 気取らず大らか、あまり物事、特に物に執着しない。日本人には特に同情的で、作業面でも軽い仕事を選んでやらせてくれる等、親しみやすい民族だったと思います。が、ドイツ人に対しては敵愾心をもって接していたように見受けられた。

 また、家族からの小包が届いた時など、「日本人、来い」と呼び寄せて、一緒にご馳走してくれることも時々あった。今日良ければ明日の事はどうでも良い、という投げやり的なところが気になったが、これは社会主義体制のひずみが、彼らの気持ちをそうさせているのではないかと見受けられた。

 ラトビア・リトアニア・エストニア:
 この、バルト三国の民族は排他主義の典型のような民族で、他民族との交流を極端に嫌っていたように思う。当時、小国ながらも経済的に恵まれていたのか、どの民族よりも祖国からの小包が多かったように思えた。

 収容所内に食べ残した食品を預かる倉庫があり、その中で「腐食して困る」のが、決まったようにバルト三国からの預かり物であったと聞かされていた。腐るほど物があっても他人に分け与えることをしない、呆れた国民性である。

 しかし、この批判は的を得ていないかも知れない。それは、日本人には最後の最後まで小包はおろか葉書一枚出すのも許されていなかったので、これを妬んでの偏見があったやも知れません。

 日本人:
 最後になりましたが、日本人は案外個人主義的で、自分に直接関係無い事には手を貸そうとしないが、自分に有利になるだろうと思う事には積極的に動く。どう贔屓目に見ても利己主義者の集まりで、今まで戦争に負けた経験も無ければ耐乏生活にも慣れていないせいか、自分本位で秩序の無さをあらわにしていたように思い、同じ日本人として少し淋しい思いをさせられました。

 耐乏生活の中で色々の人種と出会い、さまざまな人とのふれあいの中で得たことは、「人間、苦境に立たされ、孤立無援で裸になった時、初めてその人の真価が分かる」ように思いました。


 ---- よく使われたロシア語(囚人語)

 ここで、私達の起居していたラーゲリ内の様子と、日常使われていたロシア語について少しふれてみたいと思います。

 多くの人からよく、「長い間シベリアにいたのだからロシア語はペラペラだろう」と訊かれますが、とんでもありません。戦前に教わった初歩の日常会話の域を少しも出ておりません。

 もちろん、戦前の仕事柄、読み書きはある程度分かると言っても、ロシア語の新聞であればその2~3割ほどの理解にとどまり、テレビのロシア語放送だとか要人のしゃべるロシア語等、全くと言っていいほど解りません。

 ラーゲリ内では、それまでに習った“美しいロシア語”は全く不必要な言葉として使われることはありませんでした。例えば、“おはよう・こんにちは・おやすみ・すばらしい”など、このような簡単なそして美しい日常会話など、ついぞ一度も使われることも聞いたこともありませんでした。

 これに変わり、多くの民族の共通語として使用されたロシア語というより“囚人語”は、ごく限られた20~30の単語で事足りました。では、この囚人語の内、日常よく使われた言葉について若干説明してみます。

 一番良く使われた言葉に“ダモイ”(帰国)、この言葉は抑留期間中、毎日のように、耳にタコができるほど聞かされた。

 “スコーロダモイ・ヤポンスキー”(日本人はすぐ帰国できる)、これは慰めの言葉に違いありませんが、これだけの大嘘を飽きることなく、しかも平気でよくつけたものだと思いました。

 ソ連当局は日本人の顔を見ると「スコーロダモイ、スコーロダモイ」と、この言葉を連発した。スコーロ、スコーロ(すぐ、すぐ)が、実現するのに8年かかりました。

 次に良く使われた言葉に“ダワイ”(さあやれ)という命令形の言葉ですが、これ一つで大方の意味が通じる便利な言葉で、“来い・行け・座れ・よこせ・物を渡せ・作業にかかれ”等、何にでも使われた。

 次は囚人生活にピッタリで、最も日常に多く使われた言葉に“ヨッポイマーチ”、正しくは(イブ・トバイ・マーチェリー)、直訳すると「汝の母を犯せ」。なんと物騒な言葉ですが、これは人を罵倒する時に使う。“畜生・阿呆・くそったれ・バカヤロウ”等、囚人の間では日に何10回となく口にするごくありふれた言葉である。

 次に良く使われた言葉に“ニチェボウ”。“なんでもない・大丈夫だ・平気だ・結構だ”、これは諦め観を表現する代表的な言葉で、中国語の“メンファーズ”にあたる。

 その他にも色々ありますが、皆様がお聞きになってもあまり興味がわかないと思います。例えば、男性器や女性器等の卑猥な言葉を、何の臆面もなく、いつでもどこでも平気で口にすることができる“独特の世界”であったのです。

 最後に、せっかくですので“スパシーボ”(ありがとう)、この一語だけ覚えて帰ってください。スパシーボ!

 ---- その他、諸々のこと

 自治管理について
 ラーゲリ内の自治管理は、その殆どを囚人に任せいているが、「プロトヌイ」と「スーカ」という2派のヤクザが顔をきかせ、ラーゲリ内の要所を殆ど支配していた。すなわち一般囚人からのピンハネにより悠々と生活していた。

 文字通り弱肉強食の世界であったがその反面、彼らによりラーゲリ内の秩序が保たれていたということも事実であった。

 特権階級について
 ラーゲリ内の特権階級とは、炊事場・パン配給所・散髪・被服係・靴修理・洗濯・風呂・掃除、このような所で働く人を言う。

 彼らは食事が腹一杯食べられ、室内作業の上に仕事が楽である。これらで働く者の人事権も、当局とグルになっているヤクザが全部握っていた。弱い立場の一般囚人は、これらの仕事に就くことは容易なことではなかった。

 収容所の移動について
 同じ収容所で長く生活する事によって広がる弊害を無くすため、囚人の移動が頻繁に行われたが、あまり効果が無かったように思えた。それは、どこの収容所に変わってもヤクザが顔をきかせ、弱い立場の囚人はいつでも惨めな生活を余儀なくされていたからである。

 病院と医者について
 収容所では半年に一度の身体検査が行われたが、これが実に滑稽である。医者が持っている聴診器は木製で“おもちゃのラッパ”のような代物で、これを使っているところはお目にかからずだが、囚人一人一人のおしりを指でひねって、その肉付きを確かめ、1級から3級までの等級が決められる。

 まるで家畜の品定めをするようである。この判定によって、1~2級になった者は、否応なしに労働に駆り出される。運良く3級になった者は、収容所内の雑役に就くことになる。

 この人たちは幸運である。以後6ヶ月間は労働から解放され、しかも基準食が約束されるからである。この間に健康が回復、肉付きもやや良くなるので、次の検査で格上げされることになる。

 また、囚人が病気のため作業休みをもらうには、朝早くから医務室に並ぶ。その場合、高熱があれば認められるが、日本人に多い神経痛やリューマチ等は、熱をともなわないので“仮病”とされ一切認められない。

 また、面白いことに、病人にその日の“定数”が決められており、これをオーバーすると、よほどの重病人でない限り休みが認められなかった。  


 先頃、長い海外生活を終え帰国したソルジェニーツィンの著書『収容所群島』により、初めてその“鉄のカーテン”内の収容所の実態が、世界に向けて明らかにされた。

 私も友人から借りてむさぼるように読んだ。それによると、私たちと同じ時期に囚人としてラーゲリ生活を送っていた。氏の書いている収容所内の様子、過酷な労働の実態など、その文章の一つ一つが当時の思い出と共によみがえり深い感銘を受けました。今まで国内事情がすべてベールに包まれ公表されなかっただけに、その反響も大きかったと思われます。 

 ---- ペレシルカ(中継基地

 バム鉄道の分岐点の街タイシェットに、ブラーツクまでの約300kmの間に点在する約80ヶ所の収容所を管理統括する“ペレシルカ”(中継基地)が設けられていた。

 前に少し述べましたが、ラーゲリのエタップ(移動)は 頻繁に行われた。これは囚人を同じラーゲルに長く滞在させることから生じるであろう諸問題への対策で、ラーゲリ内の秩序維持と、付近の地形その他の状況を知られることによって逃亡される危険性が増すのを未然に防ぐ狙いがあったとされる。

 一つのラーゲリには、1000~1500人の囚人が収容されていた。エタップは約100人単位で月に1~2回行われ、一つのラーゲリの全囚人の入れ替えを終えるのに約1年かかった。

 このペレシルカの滞在期間は3~10日間で、あの過酷な労働から解放される貴重な貴重な日々で、それは正に“砂漠の中のオアシス”に例えられると思います。

 ここでは毎日のように囚人の出入りがあるので、何年も会っていなかった同僚にひょっこり出会うこともあり、お互い無事であった事を喜び確認し合うと共に「帰国の日まで元気で頑張ろう」と励ましあったものである。

 この地域に点在する収容所の約2割は、女性だけの収容所だと聞かされていた。この女囚たちも同じように定期的なエタップがあり、このペレシルカで合流する事になる。

 もちろん、収容される建物は別々であるが、その出入りはあまり厳しくないようであった。そこで今からお話しするような場面が、決まったように繰り広げられた。

 私が始めてこのペレシルカに収容された当日のことである。部屋の広さは30畳ほどで、約30名が自由に横になれるほどのスペースであった。

 それぞれが自分の居場所を確保し終わった時のことである。関東軍の防寒服で男装した女囚が2人、すーっと部屋に入ってきたかと思うと私の横にあった隙間に割り込んで横になった。

 女囚は下着を全然つけていないばかりか、女性自身を誇示し手まねきで挑発する。これを待っていたかのように、先を争って男囚がこれに応じる。周囲を気にすることもなく、目の前でやられるので厭でも目に入る。

 これによって女囚も男囚と同じように、入浴時の剃毛が証明された。複数の男囚を相手に満足した女囚が去って行く。暫くしてまた別の女囚がやって来る。かくして行為が続けられる・・・。

 私の場合、4度このペレシルカに滞在したが、その都度同じ修羅場を見せられる事となりました。シャバにあってはこのような刺激的な場面に出くわす事はまず考えられないと思いますが、情けないことにこの千載一隅のチャンスに私の性的な反応はゼロでした。

 その時の年齢は25歳前後、“衣食足りて礼節を知る”という言葉がありますが、人間というもの食が足りてなければ欲望も邪推もわいてこないということを、身をもって体験することとなりました。

 男女の交わりがあれば当然の如く妊娠・出産ということになりますが、この場合いかにもソ連らしい措置がとられた。妊婦は作業を免除され、出産後は育児施設に移され減刑される。また、母親が子供を欲しない場合、子供は国の施設で面倒を見てもらえるらしい。

 この間、妊婦に対する道義的な責任の追求も無く、寛大な措置がとられるらしい。このようなことは日本では考えられないことで、さすが“囚人の国ソ連”らしいやり方だと感心させられました。

 






 
 ※ 冷戦について。冷戦の反対語は熱戦。その違いは武力を持って戦うか否かにあります。俗に言う「東西冷戦」とは「米ソ冷戦」のことです。主体は日本にありません。主体を日本にすると、日ソ冷戦は大戦前からありました。厳密に考えるとそれは、大正12年に日本共産党ができた時点で勃発していたと考えられます。

 その3年後の昭和元年に、日ソ国交樹立に伴い「治安維持法」が制定されました。日本国内にソ連大使館を設置することで予想される、共産革命の諜報・謀略の加速に対処するものでした。

 現在も日本は、東アジア諸国との間で、つまり中国・ロシア・北朝鮮・韓国との間で冷戦状態にあると筆者は認識しています。そこには領土問題と拉致問題という紛争が存在するからです。ロシアとの間では、シベリア抑留の問題も解決していません。

 これらの状況を踏まえると、戦後廃止させられた「治安維持法」の復活を望むところです。それ以前に憲法改正、本当のところは新憲法の制定なのですが・・・。山積された戦後体制からの脱却の諸項目を加速させるためには、安倍政権の長期化が必須だと思います。そのためには、近々の参議院選で自民党に圧勝していただきたい。

 当ブログにおいて、政治についての云々はなるべく避けたかったのですが、歴史と政治は切っても切れない関係のようで・・・今般の参議院選がとても気がかりです。国が倒れては年金などそれこそ消えてしまうのですから、年金問題に始終して選挙を有利に運ぼうとする野党の見識の無さと、それを煽るマスコミが本当はどこを向いているのかを・・・。もうやめましょう。(笑)

 今回の手記内容は前回までと違い、次回いよいよ日本へ帰還となることへの「夜明け前」のような軽快さを感じました。そこで、筆者の解説部分では、軽く読み流せないように抑留問題の根幹にあるものを提起させていただきました。

 日本における開国以来の日清・日露・支那事変を含む大東亜戦争とは、世界史的に見てまさしく、ソ連の覇権である世界共産革命運動と欧米列強の人種差別的覇権の狭間で吹き荒れた、とてつもなく巨大な渦に巻き込まれた運命的な悲劇であったと考えます。

 次回はいよいよ最終回。いっしょに日本へ帰りましょう。

 
 
【2007/07/12 16:44】 | 【証言】 阿部忠男さんの“シベリア抑留” | トラックバック(0) | コメント(4)
しゃばだば近代国史帖


日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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