
※ 戦勝国が敗戦国を裁くという構図で、関係諸国各地で戦犯裁判が行われました。この不公平な構図もさることながら、ソ連の対日参戦および戦犯裁判は異様でした。各国による戦犯裁判は、ポツダム宣言第10項を根拠にしています。その第10項とは、
「われらの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対して厳重な処罰を加えらるべし」
これら戦犯裁判全般の評価は別にして、ソ連に裁判を行う理由があったのでしょうか。日ソ中立条約の有効期間中に一方的破棄をし、終戦間近に滑り込むように参戦、終戦(8月15日)以降も戦闘を続け、戦場となったのは満洲および、北朝鮮地区を含む日本の北方領土内でした。
日本軍はソ連領土内での戦闘はしておらず、しかも応戦というより防戦敗退でした。ソ連兵の俘虜は当然ながら皆無。日ソ戦は明らかにソ連から突如仕掛けられたものでした。
そして、戦闘終了後、日本軍の武装解除後に100万人以上の日本人が強制連行されたのです。これは俘虜ではありません、拉致です。
筆者は“シベリア抑留”については、あまりよく調べたことがなかったものですから、阿部さんの手記に出会い、初めてソ連による裁判のことも知りました。
この、ソ連の戦犯裁判がどうしても不思議でならず、特にいわゆる“BC級裁判”について調べなおしました。そして、それは各国の国内法に基づく裁判であったこと、いわゆる“B・C級”の明確な定義によるものでもなかったこと、それにもましてやソ連のそれは秘密裁判であったことを知りました。(中国も裏で秘密裁判が行われていた)
これらの裁判全般の復讐劇的な側面の詳細については、他サイトでも多く見られますのでここでは省かせていただきますが、ソ連の場合は、その酷さ異様さを上回る、根本的に卑劣で悪辣なものを感じます。
そのため阿部さんの手記が、筆者には“遠慮”しているように思えるのです。手記の行間からにじみ出る叫びを読み取るには、あまりにふやけた日本の現実が邪魔です。
□ 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その4 -- 軍事裁判
---- 裁判を控えての強制労働
私達が収容されたのは、労働を目的に集められた収容所であり、作業を拒否する事は絶対に許されない。
作業内容は、土木・建築・伐採・農場・炭鉱等で、いずれも慣れない重労働が多く、これらの作業には全部ノルマ(作業基準)があり、これを100%遂行する事によって基準食が約束されるが、未遂行者には懲罰食といって主食のパンが減量されるほかスープの濃度がだんだん薄められる。
この作業基準であるノルマは、ソ連の一般労働者を対象に作られたものであり、体力の劣る日本人には容易に達成できない。
もちろん100%以上の作業遂行者には“タバフカ”といって、その作業量に応じて食事の量を増やす仕組みだが、何のことはない。未遂行者からへずった分を遂行者の方へまわす、いわゆる“蛸足制度”である。
満足感を味わんがため身を粉にして働き、連日100%以上の作業量を果たしていた一部の同僚が、過労で倒れ入院のため作業隊から離れていったことからも、ノルマの達成がいかに難しいかお分かりいただけると思います。
毎日の作業に対するノルマ制度の実態について、若干ふれてみたいと思います。
毎日誰がどれだけの作業を行ったかを判定する査定官が、これにあたる。百科事典を思わせるノルマ表には、あらゆる作業に対しての作業基準が定められている。これにあたる査定官の権限は大したものであった。
ところがこれにも裏があって、この査定官をいかに取り込んで有利に作業量を認めさせるか。はっきり言えば、いかにノルマをごまかすかが、その作業班長の腕にかかっていたように思われた。
来る日も来る日も、過酷な労働とノルマとの闘いが続いた昭和23年の暮れ。一日の労働でくたくたに疲れ寝ている夜中に呼び出され、取調べを受けるようになった。
どうも裁判にかけるための、前職の洗い出しが始まったようである。何回かの呼び出しの後、本格的な調書作成のため、監獄送りの身となりました。そこで待っていたのは、未決囚としての数ヶ月をおくる独房でした。
ここでの本格的な取調べの過程で、厳しい拷問を受けた人もあったようですが、私の場合先にも述べたように、密告者による詳しい作業内容の暴露があったものと思われ、厳しい取調べもなく、その確認程度で起訴手続きが終わったようでした。
4ヶ月に余る未決囚としての独房生活にうんざりしていたある日のこと、やっと運命を決められる裁判当日がやってきました。
---- 弁護士なしの裁判
では、ここで軍事裁判の模様を、見たまま感じたままに述べてみたいと思います。
正面の裁判長席に“中佐”その西側に“上級中尉”と“中尉”の肩章をつけた判事が席を占め、そして左側の六尺机に2名の書記と通訳、弁護士なしの裁判が始まりました。
国籍・指名・生年月日を告げ、罪状認否が行われました。私の場合、電々調査局での仕事の内容、入手した情報が関東軍情報部に渡されたという事実が克明に述べられ、
「以上の罪状によりお前を只今より軍法会議にかけるが、何か異議があれば申し述べよ」
と言われた。
私はやおら立ち上がり、(落ち着いて、落ち着いて)と自分に言い聞かせながら、次のように述べました。
「私は日本人であり、満洲電々調査局に勤務、上司の命により職務に忠実に励んだ者であり、何らやましいところは無い。それに、電々調査局の事業内容そのものが、色々の国の無線情報を集め、調査研究することによって、満洲電々の運営を円滑にならしめるための資料を集める事が目的であり、私がたまたまソ連の担当であっただけで、しかも合法的な手段によって情報収集した事が、ソ連の法によって裁かれるのが納得がいかない」
ここまで言った時、
「もう良い、君が自分の意志によって直接ソ連の情報を収集していた事が良くわかった。ソ連では上司の指示とか命令は何ら関係が無い。本人がそれを行ったかどうかについて、その責任が問われる。
ではこれにて結審、判決を言い渡す。
日本人、阿部忠男、この者はソ連刑法58条6項にて25年の矯正労働を命ず」
予想だにしなかった判決に、私は思わず大きな声で笑ってしまった。
「チトウスミヨーシ!(何故笑った、何がおかしい!)」
顔を赤らめ激怒した裁判官・・・。神聖なる裁判を侮辱したということで怒ったのだと思いましたが、笑ってしまったことを今さら取り消すわけにもいかず、
「私は、考えだにしなかった意外な判決に、ただおかしくて笑ってしまった。それだけです」
と、答えた。
それ以上の追求は無かったが、裁判長は机を思い切り叩いて退席して行った。閉廷も告げずに。
この判決によって、事実上、戦争犯罪人としての烙印を押され、私の前途には暗雲がかかり、未知の世界への不安と焦燥が広がりました。
その反面、これはあくまで政策的な人質であり、国際情勢の推移によって遠からず解決を見る日が来るだろうと自分に言い聞かせました。
※ 今回の手記にあるように、戦犯裁判にかけられた日本人は約3000名。豚の仔を数えるように囚人列車に乗せられ、収容所に着くとさっそく奴隷労働が始まっています。裁判の開廷前からのことです。
また、裁判とは無縁の大多数の日本人が奴隷労働に就かされ、10万とも20万ともいわれる死亡者を出しています。これはいったいどういうことでしょう。
戦犯裁判などとはコジツケもいいところでその実態は、スターリンによる日本人労働者の拉致だったのではないでしょうか。それは戦後の対日政策を有利にするための“人質”でもあったのです。
ほんの数日の参戦で、ソ連は何を得たのか。あの大戦で領土を増やしたのは、ソ連と中国だけです。共産圏の拡大を見れば、ソ連の一人勝ちだったと言えましょう。そしてそれは戦後の冷戦の前夜だったのです。
筆者はここで“奴隷労働”という言葉を使いました。それは人間扱いをされていたとは思えないからです。さらに次回の「囚人ラーゲリ」の実態を知れば、疑いようのない“奴隷労働”だったといういうことが分かります。