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阿部忠男さんの“シベリア抑留”その5 -- 囚人ラーゲリ
シベリア鉄道 ※左の地図は《東京木材問屋協同組合》さんのサイトよりお借りしたものです(クリックで大きくなります)。阿部さんを含む多くの抑留者によって建設された「第二シベリア鉄道」の位置が示されています。阿部さんが勤務した“ハイラル”の位置は筆者が付け加えました。“カラカンダ”は、モンゴルの左側にあり、この地図には含まれません。

 筆者はこの連載を進めながら、手記をタイプしながら、初めて知る事柄のひとつひとつを、ネット上ではありますができるだけ詳細に調べるようにしていました。というより、どんどん疑問が膨らみ、タイプの手が止まってしまうのです。

 単語のひとつ、それらを示す画像はないか、他の方の証言や当時の議事録、調べていくうちにまた初めて知る驚愕の事実に出くわしてしまいます。それらに付随する様々な要素について考えているうちに、散り散りだった多くの事柄の断片がつなぎ合わされ、まるで絵が浮き上がってくるかのようです。

 当時の日本を取り巻く悪夢のような現実、“激動の昭和”と言われますが、それはすでに明治後期の日本の指導者たちには見えていたことではないかと思います。運命と言ってしまえば簡単ですが、我々の父祖はその、とてつもない運命に真っ向から立ち向かっていたのだと・・・。

 

 

□ 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その5 -- 囚人ラーゲリ

 ---- エタップ(移動)

 これより話は“囚人ラーゲリ”の実態について詳しく述べてみたいと思います。

 囚人としての第一歩は、同じカザフスタンのカラカンダで始まりました。位置は今までいたアルマ・アタの北200km余りですが、1800km以上を迂回する2日間の旅でした。

 例の囚人列車に乗せられ、宇宙基地で一躍有名になったセミパラチンスクを経由、シベリア鉄道の拠点ノボシビルスクに出て西進、ペトロバウルスクより南下するコースでした。

 到着したカラカンダは文字通り石炭の街、断層は数km四方に及び、街そのものがこの断層の上に造られてており、戦後最も急速に発展した街と言われております。

 ラーゲリの数も30以上を数え、これら囚人の労働力によって支えられた街だと言えます。これからお話する中で、たびたび“ラーゲリ”という言葉が出てきますが、これは囚人収容所のことですのでお含みおき下さい。 

 カラカンダの街は北緯50度に位置し、樹林や緑の全く無い荒涼たる大地がどこまでも続いている。大陸性の気候で、夏は厳しい暑さが続き、冬は零下30℃以上下がることが多かった。

 春先になると“ブラーン”といってシベリア独特の猛吹雪が決まったようにやって来る。この嵐が一度羽ばたくと、原野は一瞬にして真っ黒い翼の下に覆われてしまい、1メートル先も見えなくなってしまう。

 作業に出された囚人は帰り道を失い、そのつど決まったように幾人かの犠牲者を出した。毎日の作業は、炭鉱での採掘作業が昼夜3交代で続けられた。慣れない重労働のため各人の疲労が極限に達していた。

 そんなある日、突然作業が中止となり日本人全部が移動することになった。

 “どうやら帰国できるらしい”

 このような噂が瞬く間に広まり、これが真実であって欲しいと心に念じていましたが、これまで以上に物々しい輸送警備を見て、帰国の夢は泡のように消えてしまった。

 これは“エタップ”と言って、単なる囚人の“移動”にすぎなかった。

 後日に分かったことですが、この時の移動で、残留していた日本人受刑者の9割が、極東最大の都市ハバロフスクに集められ、帰国の日まで日本人だけの集団生活を送ることになったようでした。

 この時も私はみんなと一緒に行動することにならず、極々限られた一部日本人として、他民族と一緒のラーゲリに収容される事になりました。この時の人選がどのような意図によって決定されたのか、最後まで分かりませんでした。

 残された少数の日本人の顔ぶれは、樺太出身者がやや多いかなと思われる程度で、前職も年齢もまちまちでした。

 電々出身の同僚とも別れ、日本人同士顔を会わせることもほとんど無い、淋しい、そしてますます厳しい囚人生活が、いつ果てるとも無く続く事になります。

 ---- 吸血マシカ

 その場所は、バム鉄道沿線に点在するラーゲリでした。バム鉄道というのは、バイカル・アムール鉄道の略で「第2シベリア鉄道」として昨今紹介されている。

 これは現存するシベリア鉄道のタイシェットが起点で、バイカル湖の北側を迂回し、シベリアの密林地帯を横切って、アムール河のコムソモリスクを経てワニノまでの全長約4300km、ワニノからは対岸にサハリン(樺太)が見える。

 国境に近い現シベリア鉄道に比べて戦略上安全の上、数100kmの近道になることから、スターリン時代に着工されていた。

 起点のタイシェットから300kmの地点にあるブラーツクまでの間に、4kmおきにラーゲリがあり(その数約80)、その沿線に投入された日本軍捕虜は約10数万人、枕木1本に1人の生命が落されたと言い伝えられるほどの悪条件下での難工事であったらしい。

 前にも述べたように、昭和24年頃までの帰還で空いた収容所に、我々が収容されることになった。北緯55度、冬は零下40℃位まで気温が下がるのに加え、5月の雪解けを待ちかねたように“マシカ”と称するブヨがそれこそ雲霞の如く来襲する。

 その虫が執拗に人間の血を吸う厄介者で、この虫に吸われると顔が手がみるみる腫れ上がってしまう。このマシカを防ぐため、うだるような暑さの中でも“カマルニック”という網をかぶり、手にはコールタールを塗って作業をせねばならなかった。

 ここでの作業は、伐採・建築・材木の貨車への積み込み等であった。

 貨車への材木の積み込み作業は不定期で、列車の入ってくる時間が全く決まっていない。ホームに列車が入ると、真夜中であろうと何時であろうと召集がかかる。

 昼間の作業でくたくたに疲れて寝ていてもおかまいなし、収容所と駅は近かったが、積み込み作業が終わるのにたっぷり2時間はかかる。この間、警備兵に「ブイストレー・ブイストレー(早く早く)」とせきたてられながら作業が続けられる。朝になると、夜中にかり出されたことは考慮に入れられることも無く、決まった時間に決まった作業に出なければならない。

 とんでもない所に連れて来られたものである。この世に地獄というものがあれば、このような悪条件下で労働を強いられる私達のことを言うのではなかろうか。

 好むと好まざるとに関わらず、“神の定め”に従い、この試練に耐えることが唯一命を支える手段であった。このバム鉄道沿線における苦難のラーゲリ生活が、いつ果てることなく続いていった。

 ---- ザプレットナヤ・ゾーナ(立ち入り禁止区域)

 以前の収容所に比べて警戒が数倍強化されました。ここで“ザプレットナヤ・ゾーナ”について説明いたします。

 日本語に訳せば、ただの「立ち入り禁止区域」ですが、私の抑留生活8年を通じて、目に見えるかたちで自由を束縛されたこの区域、この言葉を忘れることはできません。

 即ち、このザプレットナヤ・ゾーナに立ち入ることは、理由の如何を問わず“射殺”されるということです。

 収容所の場合、四隅に高さ4メートル位の望楼があり、機関銃を持った兵隊が昼夜を分かたず監視に当たり、ザポール(塀)3メートル位の高さで囲まれている。

 その塀の両サイド3メートル幅で鉄条網があり、この塀と鉄条網の間を“ザプレットナヤ・ゾーナ”と言い、絶対に立ち入る事はできない。

 この地域の地面は常に耕されており、もし人が立ち入ると足跡がくっきりとつくようにしてあり、夜は煌々と照明されている。

 次は、作業現場でのザプレットナヤ・ゾーナ。例えば伐採作業を行う場合、100メートル四方のゾーナが必ず設営される。この準備が終わるまで、作業は行われない。

 ゾーナの幅は2メートル位、この間の樹木・雑草は全部切り払われ、見通しを良くする。

 いよいよ作業が始まるが慣れない伐採作業のため、倒れる大木の下敷きになるまいと、それこそ一歩ゾーナの外へ出たため射殺された者、また、このゾーナを気にしてウロウロしている間に、倒れてくる大木の下敷きになり命を落す者等、後を絶ちませんでした。

 一生懸命頑張っても、日本人の細腕では50%達成するのがやっとの伐採作業、零下20度を超える悪条件下での労働に耐えかねたあげく、自分の腕を、また、5本の指を、自分の振り上げた斧で断ち切った複数の同僚を私は知っております。

 この人たちの気持ちは、私には痛いほど分かりました。たとえ、かたわ者になっても生き長らえようとした執念がそうさせたものと思います。

 この事件が故意にやったと当局に見られた場合、10日ほどの営倉入りをさせられることもあったようですが、その後は外の作業から開放され、基準食も保障されされたのである。

 しかし、考えてみれば、この代償はあまりにも大きく、不具者としてのハンデが一生涯、本人を苦しめたであろうと思います。このうちの一人は、帰国後もあまり家庭にも仕事にも恵まれず、50歳位で亡くなりました。意志の弱さがその後の人生にも影を落したものと、同情の念を禁じえません。ただひたすら故人の冥福を祈るのみです。

 ---- 作業場までの往復時

 囚人が毎日作業に出る、その行き帰りの厳重な警戒について、一言ふれておきます。

 30~50名の囚人が作業に出る場合、最低でも10名の警備兵が配置される。行進中その隊列の前後に2人ずつ、左右に2人ずつ、これを指揮する隊長と、念入りに軍用犬を連れた兵1人で合計10人と1匹。

 毎朝の出発に先立って、警備隊長から必ず次のような命令がある。

 警備隊長から下される命令(阿部さんの直筆)


 「フニーマーニエ ザクリュチョンヌイ プレドプレジダーユ
 イッチィ ネーラズガバーリュウ シャークレーボ シャークプラーボ
 チダーイ パベーガ カンボーイ ストレリャーユ ベス
 プレドプレジェーニエ ヤーソノ!!」

 これを訳しますと、

 「囚人たちよよく聞け、只今から命令を下す、行進中は話をしてはいけない、一歩左へ出ても一歩右へ出ても、それは逃亡とみなし、予告なしに射殺する、分かったか!!」

 ここで囚人が一斉に、「ヤーソノ!(分かりました!)」と大きな声で答える。声が小さい時は、もう一度やり直しをさせられる。この年中行事のお題目を唱え出発となる。

 行進中、雪道に足を取られ隊列からはみ出た場合でも、警備兵は容赦なく発砲する。伐採作業中でもそうであったように、誤ってゾーナを越えたであろうことが誰の目にも明白である場合でも情け容赦は無い。

 この自衛策として、雪道や雨上がりの道を歩くときには、隣り同士でがっちりとスクラムを組んで歩くようにした。

 射殺が行われた場合、警備兵に咎めがあるどころか、1階級昇進の対象になるという呆れた噂がささやかれていた。

 尊い人間の命を虫けらの如き扱うこのような行為に対して、とめどなく怒りがこみ上げてきました。いついかなる時も“標的”にされているのだという恐怖心と、必ず前後左右をふり返って安全を確かめるという癖が心底身につき、帰国後も数年間は、私の気持ちから離れることがありませんでした。

 






 ※ ソ連から提出された抑留者のデータと、その後のソ連の崩壊にともない放出された公文書のデータは、それぞれの数字が大きく異なります。

 先日、いわゆる「従軍慰安婦問題」、一部の米国下院議員の動きの件で奔走されているすぎやまこういち氏が、「全体主義者の武器はいつも“ウソ”」と述べられていましたが、このソ連のデータでも合致しますね。

 しかも、公文書の数字についても正確であるとは考えられません。囚人列車で運ばれる間の犠牲者は除外して、到着した後の数字しかないからです。また、特務機関や諜報機関の将校などは逮捕直後に裁判を受ける間もなく処刑されています。収容所内であっても、過去に亡くなった者の名前を点呼するなど、およそ正確に記録されていたとは思えません。

 すぎやま氏ご指摘の「全体主義者」という括りで見ますと、ソ連・中国・北朝鮮のやり方はあらゆる点でよく似ていますね。過去のナチスも含めて。

 では、今回はこれくらいにします。次回は興味深い、阿部さんから見たそれぞれの民族性についてや、よく使ったロシア語など、収容所内における諸々のエピソードを予定しています。(ラスト2です)


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【2007/06/29 10:39】 | 【証言】 阿部忠男さんの“シベリア抑留” | トラックバック(0) | コメント(2)
阿部忠男さんの“シベリア抑留”その4 -- 軍事裁判

材木の伐採作業をする強制労働者 ※ 戦勝国が敗戦国を裁くという構図で、関係諸国各地で戦犯裁判が行われました。この不公平な構図もさることながら、ソ連の対日参戦および戦犯裁判は異様でした。各国による戦犯裁判は、ポツダム宣言第10項を根拠にしています。その第10項とは、

 「われらの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対して厳重な処罰を加えらるべし」

 これら戦犯裁判全般の評価は別にして、ソ連に裁判を行う理由があったのでしょうか。日ソ中立条約の有効期間中に一方的破棄をし、終戦間近に滑り込むように参戦、終戦(8月15日)以降も戦闘を続け、戦場となったのは満洲および、北朝鮮地区を含む日本の北方領土内でした。

 日本軍はソ連領土内での戦闘はしておらず、しかも応戦というより防戦敗退でした。ソ連兵の俘虜は当然ながら皆無。日ソ戦は明らかにソ連から突如仕掛けられたものでした。

 そして、戦闘終了後、日本軍の武装解除後に100万人以上の日本人が強制連行されたのです。これは俘虜ではありません、拉致です。

筆者は“シベリア抑留”については、あまりよく調べたことがなかったものですから、阿部さんの手記に出会い、初めてソ連による裁判のことも知りました。

 この、ソ連の戦犯裁判がどうしても不思議でならず、特にいわゆる“BC級裁判”について調べなおしました。そして、それは各国の国内法に基づく裁判であったこと、いわゆる“B・C級”の明確な定義によるものでもなかったこと、それにもましてやソ連のそれは秘密裁判であったことを知りました。(中国も裏で秘密裁判が行われていた)

 これらの裁判全般の復讐劇的な側面の詳細については、他サイトでも多く見られますのでここでは省かせていただきますが、ソ連の場合は、その酷さ異様さを上回る、根本的に卑劣で悪辣なものを感じます。

 そのため阿部さんの手記が、筆者には“遠慮”しているように思えるのです。手記の行間からにじみ出る叫びを読み取るには、あまりにふやけた日本の現実が邪魔です。





□ 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その4 -- 軍事裁判

 ---- 裁判を控えての強制労働

 私達が収容されたのは、労働を目的に集められた収容所であり、作業を拒否する事は絶対に許されない。

 作業内容は、土木・建築・伐採・農場・炭鉱等で、いずれも慣れない重労働が多く、これらの作業には全部ノルマ(作業基準)があり、これを100%遂行する事によって基準食が約束されるが、未遂行者には懲罰食といって主食のパンが減量されるほかスープの濃度がだんだん薄められる。

 この作業基準であるノルマは、ソ連の一般労働者を対象に作られたものであり、体力の劣る日本人には容易に達成できない。

 もちろん100%以上の作業遂行者には“タバフカ”といって、その作業量に応じて食事の量を増やす仕組みだが、何のことはない。未遂行者からへずった分を遂行者の方へまわす、いわゆる“蛸足制度”である。

 満足感を味わんがため身を粉にして働き、連日100%以上の作業量を果たしていた一部の同僚が、過労で倒れ入院のため作業隊から離れていったことからも、ノルマの達成がいかに難しいかお分かりいただけると思います。

 毎日の作業に対するノルマ制度の実態について、若干ふれてみたいと思います。

 毎日誰がどれだけの作業を行ったかを判定する査定官が、これにあたる。百科事典を思わせるノルマ表には、あらゆる作業に対しての作業基準が定められている。これにあたる査定官の権限は大したものであった。

 ところがこれにも裏があって、この査定官をいかに取り込んで有利に作業量を認めさせるか。はっきり言えば、いかにノルマをごまかすかが、その作業班長の腕にかかっていたように思われた。

 来る日も来る日も、過酷な労働とノルマとの闘いが続いた昭和23年の暮れ。一日の労働でくたくたに疲れ寝ている夜中に呼び出され、取調べを受けるようになった。

 どうも裁判にかけるための、前職の洗い出しが始まったようである。何回かの呼び出しの後、本格的な調書作成のため、監獄送りの身となりました。そこで待っていたのは、未決囚としての数ヶ月をおくる独房でした。

 ここでの本格的な取調べの過程で、厳しい拷問を受けた人もあったようですが、私の場合先にも述べたように、密告者による詳しい作業内容の暴露があったものと思われ、厳しい取調べもなく、その確認程度で起訴手続きが終わったようでした。

 4ヶ月に余る未決囚としての独房生活にうんざりしていたある日のこと、やっと運命を決められる裁判当日がやってきました。

 ---- 弁護士なしの裁判

では、ここで軍事裁判の模様を、見たまま感じたままに述べてみたいと思います。

 正面の裁判長席に“中佐”その西側に“上級中尉”と“中尉”の肩章をつけた判事が席を占め、そして左側の六尺机に2名の書記と通訳、弁護士なしの裁判が始まりました。

 国籍・指名・生年月日を告げ、罪状認否が行われました。私の場合、電々調査局での仕事の内容、入手した情報が関東軍情報部に渡されたという事実が克明に述べられ、

 「以上の罪状によりお前を只今より軍法会議にかけるが、何か異議があれば申し述べよ」

 と言われた。

 私はやおら立ち上がり、(落ち着いて、落ち着いて)と自分に言い聞かせながら、次のように述べました。

 「私は日本人であり、満洲電々調査局に勤務、上司の命により職務に忠実に励んだ者であり、何らやましいところは無い。それに、電々調査局の事業内容そのものが、色々の国の無線情報を集め、調査研究することによって、満洲電々の運営を円滑にならしめるための資料を集める事が目的であり、私がたまたまソ連の担当であっただけで、しかも合法的な手段によって情報収集した事が、ソ連の法によって裁かれるのが納得がいかない」

 ここまで言った時、

 「もう良い、君が自分の意志によって直接ソ連の情報を収集していた事が良くわかった。ソ連では上司の指示とか命令は何ら関係が無い。本人がそれを行ったかどうかについて、その責任が問われる。

 ではこれにて結審、判決を言い渡す。

 日本人、阿部忠男、この者はソ連刑法58条6項にて25年の矯正労働を命ず」

 予想だにしなかった判決に、私は思わず大きな声で笑ってしまった。

 「チトウスミヨーシ!(何故笑った、何がおかしい!)」

 顔を赤らめ激怒した裁判官・・・。神聖なる裁判を侮辱したということで怒ったのだと思いましたが、笑ってしまったことを今さら取り消すわけにもいかず、

 「私は、考えだにしなかった意外な判決に、ただおかしくて笑ってしまった。それだけです」

 と、答えた。

 それ以上の追求は無かったが、裁判長は机を思い切り叩いて退席して行った。閉廷も告げずに。

 この判決によって、事実上、戦争犯罪人としての烙印を押され、私の前途には暗雲がかかり、未知の世界への不安と焦燥が広がりました。

 その反面、これはあくまで政策的な人質であり、国際情勢の推移によって遠からず解決を見る日が来るだろうと自分に言い聞かせました。






 ※ 今回の手記にあるように、戦犯裁判にかけられた日本人は約3000名。豚の仔を数えるように囚人列車に乗せられ、収容所に着くとさっそく奴隷労働が始まっています。裁判の開廷前からのことです。

 また、裁判とは無縁の大多数の日本人が奴隷労働に就かされ、10万とも20万ともいわれる死亡者を出しています。これはいったいどういうことでしょう。

 戦犯裁判などとはコジツケもいいところでその実態は、スターリンによる日本人労働者の拉致だったのではないでしょうか。それは戦後の対日政策を有利にするための“人質”でもあったのです。

 ほんの数日の参戦で、ソ連は何を得たのか。あの大戦で領土を増やしたのは、ソ連と中国だけです。共産圏の拡大を見れば、ソ連の一人勝ちだったと言えましょう。そしてそれは戦後の冷戦の前夜だったのです。

 筆者はここで“奴隷労働”という言葉を使いました。それは人間扱いをされていたとは思えないからです。さらに次回の「囚人ラーゲリ」の実態を知れば、疑いようのない“奴隷労働”だったといういうことが分かります。

 
【2007/06/15 21:52】 | 【証言】 阿部忠男さんの“シベリア抑留” | トラックバック(0) | コメント(4)
阿部忠男さんの“シベリア抑留”その3 -- 強制連行
天山山脈 ※ 強制連行された日本人将兵および民間人の数は、ソ連の発表では60万人とされていますが、ソ連崩壊後の資料流出により少なくとも100万人は下りません。もともとのスターリンの指令は「日本人を50万人連れて来い」というものでした。

 また、“日本に帰す”という甘言によって連行されたという証言を裏付けるように、筆者の母は東安からの逃避行の途中で日本兵の大列とすれ違い、その際の会話を覚えています。

 その時17歳の母は、自分たちと逆方向へ行く兵隊さんたちに思わず声をかけています。

 「兵隊さん?どこへ行くの?」
 「日本へ帰るんだ・・・」

 お互いに自分のことで精一杯の状況でした。会話はそれだけでした。兵隊さんたちは嬉しそうに、口々に「日本へ帰るんだ」と言っていたそうです。

 後に母はあの時の光景を思い浮かべ、彼らがシベリアへ送られる途中であったのだと、筆者に何度も悔しそうに話してくれました。もちろんあの時点で誰も、強制連行の事実を知る由もありません。  





□ 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その3 -- 強制連行

 ---- 過酷な囚人列車の旅

 昭和20年、師走も押し迫った28日の真夜中、ハルビン駅でソ連兵から「1・2・3」と豚の仔を数えるようにポンポンと尻を叩かれながら汽車に押し込まれた。

 いよいよソ連行き確実だ。逮捕された事により一応の覚悟はしていたものの、この列車が満州国内を走っている間に何か突発事件でも起きぬものかと、その奇跡を願ったのは私一人だったろうか。

 寝られぬ一夜が過ぎ、やがて列車が急勾配に差し掛かり、あえぎあえぎ速度が落ちていった。囚人列車のため窓の外を見る事はできなかったが、今、満洲の屋根、興安嶺の峠に差し掛かっている事は手に取るように分かった。この山を越えればあと国境まで近い。いよいよ満洲ともお別れかと、前途の不安と恐怖心が交錯し落ち着けない気持ちのまま国境を越えた。

 囚人の護送はどこの国でも厳しいと思いますが、この国ほど徹底しているところはないのではなかろうか。囚人護送用に造られたものであり、窓が小さく鉄格子が張ってあるのですぐ分かる。

 その内部は片側に1mほどの通路があり5つの室に区切られている囚人部屋、警備兵室、桶を置いただけの便所。1部屋の定員は10名になっているが、5割り増しのギュウギュウ詰めにされたのではたまらない。

 外は零下30℃の寒さというのに、逮捕後2週間以上も入浴していないため、各人異様な体臭と便臭でむせかえっている。足を伸ばすのはおろか、腰を下ろし足をかがめた姿勢で身動きも自由に出来ない。

 大小便は朝夕2回、その主要時間一人3分間。便秘してなくても無理な要求であるのに時間とにらめっこしている警備兵は、その途中でも否応なしに立たせてしまう。牛馬でさえ大小便くらい自由に出来るのに、囚人列車の中では人間に排便の自由さえ与えてくれない。

 時間外にもよおして困った挙句、自分の靴の中に用を足す人も見受けられた。私達の常識では到底考えられない事が、ここでは公然と行われていた。1日、2日、の旅ならいざ知らず、何日続くやも知れないシベリアの旅は、今始まったばかりである。
 
 夜明けと共に監視兵によって無造作に放り込まれる300gの黒パン。援ソ物資の残り物と思われる一切れの缶詰。それは命をつなぐにあまりにも心細い量であった。

 栄養失調に加え、不衛生極まりない列車の中は絶望状態に置かれていった。乗車以来1週間、氷に閉ざされたバイカル湖付近を過ぎた頃から、体力の無い者は日増しに気力を失い、わずかな黒パンさえ喉を通らなくなり、ただ水、水と、水を求める者が増えていった。

 これらの人の悲愴な哀願をよそに、警備兵は雑談にふけりこれに応じようとしない。車外に荒れ狂う吹雪のうなりだけが無情に小窓を震わせていた。仕方なく凍りついた窓ガラスに人息でできた氷の花を舐めて、かすかに喉をうるおし我慢せねばならなかった。

 このような悲惨な、そして過酷な扱いを受けながら、1月の16日まで実に20日間の旅は続いた。これこそ私にとって終生忘れる事のできないシベリア横断の記録であります。

 約6000km、新幹線で走れば2日足らずの行程を、これだけの日数をを費やしての輸送に、心身ともにクタクタになり、列車を降ろされた時にはしばらくの間歩行することができなかった。そこに20~30センチ幅の溝があるのに、どうしても跨ぐことができず転んでしまう始末でした。

 ---- たどり着いた収容所 その設備と待遇

 到着したのは中央アジア、カザフスタンの首都アルマ・アタ。南に5000~6000m級の天山山脈がそびえ、1年中雪が山上から消える事はなく、その雄大な眺めは私達のすさんだ気持ちをどれだけ慰めてくれたか知れません。山の向こうは中国、広大なタクラマカン砂漠と続き、その南はインド大陸に通じております。

 収容所に落ち着いて、少しは人間らしい生活ができるものと期待しておりましたが、この願いは見事に裏切られました。

 住まいは、三段式の木製ベットが蚕棚のように広い部屋に並んでいました。個人に与えられた居住範囲は、幅50cm・縦180cm。藁蒲団はおろか毛布一枚与えられませんでした。

 このような窮屈な所で生活ができるのだろうか、それでもあの殺人的な列車輸送中の事を考えれば、足が伸ばせて寝られるだけでも幸せである。

 部屋が広いので2ヶ所に置いてあるペチカ(暖房)は、ほとんどその効果がなかった。それでもお互い、夜はめざしのように体を寄せ合って寝るのでなんとか寒さはしのげた。

 次に困ったのが水でした。収容所内に水道設備は無く、朝当番がバケツ1杯の水を炊事場から貰って来る。これを各人コップ1杯ずつ配給される。このコップ1杯の水を口に含み、その水を手のひらに移して顔を洗い手を洗った。

 日本のような恵まれた環境の下で育った人には、ちょっと理解し難い事だと思いますがこれもなんとかクリアできました。

 便所。これは壮観といおうか、何の囲いも無い。厚板に50cm間隔位に空けられた穴に、20人ほどが並んで用を足す。

 便そうの深さは3~4m位あるが、冬の場合出した糞がすぐに凍結してしまうので、その糞柱がまるで筍のようにぐんぐん伸び上がってくる。1日も放っておくと用を足す穴より上へせり上がって来る。

 毎日ハラペコの生活をしているのに、出る物だけは良く出るものだと感心した。いかに栄養価の少ない、カスの多い物を食べていたかの証であるように思えた。

 時々つるはしを持った掃除人が、立ち上がった糞柱を壊すため便そうに入る。汚い仕事をしてご苦労な事と思われるでしょうが、どっこいこの仕事に就くことは簡単にはいかない。食事が充分与えられるので、希望者はいくらでもある。後で述べますが、この人も収容所の特権階級に属するのである。

 何に困ったといっても、始末する紙が無いのに一番頭を痛めた。仕方なく綿入れの上衣から少しずつ綿を取り出して始末したが、これも限界があり後には雑草や木切れで始末する事もあった。

 本当に紙の無い生活にはお手上げでした。唯一入手可能なのは新聞紙だが、これがまた貴重品である。物を包むとか便所紙に使うなどとんでもない話であり、そのほとんど100%がタバコの巻紙として利用される。

 タバコは1日8gほど毎日支給されるが、このタバコが“マホルカ”といってタバコの葉と茎を一緒に刻んだもの。このタバコを5cm×10cm位に切った新聞紙に巻きつけて、唾でくっつけ紙巻タバコの出来上がりである。

 このタバコの作り方は、抑留経験者なれば誰でも知っておられる事と思います。ソ連の一般労働者は、ほとんどがこのタバコで満足しており、製品化された箱入りタバコなどついぞお目にかからなかった。

 風呂は1週間に一度入浴が許されるが、これはどうも体を洗うのが目的ではなく、衣服の消毒・滅菌が目的だったと思われました。

 入浴の際、必ず頭髪と陰毛が剃り落とされる。これは毛じらみの予防と逃亡防止の一策で、頭髪と陰毛を調べれば一般人でない事がすぐに判るためである。

 入浴時間は約20分、キャラメル大の石鹸をもらい、洗い湯として手桶1杯のお湯をもらい、それで1週間たまった汗まみれの体を洗い、最後に上がり湯を1杯もらう。これで終わりです。滅菌の終わったゴワゴワの衣服を受け取り、下着の交換が行われた。

 “生かさず殺さず”これがソ連当局の私たちに対する基本方針であったのではなかろうかと疑いたくなるほど、300gのパンと燕麦(えんばく)のスープが飽きることなく続いた。

 それは私達が生きていくために必要な最低カロリーであったと思います。飢えるという事は人間にとって最大の悲劇であり、今まで身につけていた教養も、道徳も、名誉も、何の役にも立たなかった。すなわち野生の動物に立ち返って、食べ物や食べる事のみに関心が集まった。

 夏の間、収容所内の空き地に群生していた“あかざ”をはじめ食べられそうな野草はほとんどその姿を消してしまった。そればかりが、羞恥心を忘れてしまった多くの人が、夜明けを待ちかね先を競って炊事場のゴミ箱あさりをするのも珍しいことではなくなった。

 そこまで落ちぶれてはいけないと自分に言い聞かせ、自制することができたが、空腹をまぎらすため備え付けの白湯を多量に飲み、夜中に忙しく便所通いをしたのもこの頃であった。

 こうした環境に置かれた人たちの行動を、非難したり軽蔑したりする事は許されないかも知れませんが、朝みんなに同じように配給される命の糧である同僚のパンを盗み、みんなの前でつるし上げをされた大学教授の哀れな姿が、今もって鮮明に私の記憶に残っております。

 飢えと寒さと重労働、そして不衛生、医者も薬も無い、助かる命も何ら施すすべもなく、栄養失調や得体の知れない発病で今日も1人2人と死んでいく。

 死んだ者はそのままトラックに載せられ、数キロ離れた小高い丘に運ばれ、素っ裸にされて、あらかじめ掘られた穴に放り込まれる。神も仏も無い、この国では死んでしまうと“犬猫”同様に葬られる。

 冬になると表面の土が凍結してコンクリートのようになり、つるはしも受けつけなくなる。この冬に備えて何十という穴が掘られる。

 この穴掘りから死体の埋葬までを何回となくさせられた。そのつど、帰国の日を夢見て、また肉親の事に思いを馳せながら、帰らぬ人となった同僚の無念と哀れを悼むとともに、明日は我が身に迫る運命かと密かに手を合わせ瞑目したものである。

 
 シベリアの大地にも変則ながら四季は巡って来ます。6月に入ると木の芽も雑草も申し合わせたように衣替えするが、9月の声を聴くとすっかり色づき落葉してしまう。

 6月から9月まで4ヶ月の間に春・夏・秋と、めまぐるしい季節の移り変わりがある。名も知らない草花が咲き、木の実が色づき、小鳥がさえずる。これらの自然が唯一、私達のすさんだ気持ちを和ませてくれた。

 また、8年間の抑留生活を通じて、後にも先にも一度だけ“オーロラ”を観賞することができた事は本当に幸運であったと思います。

 夜9時前だったか、用便を済ませ、美しい星空を仰いで郷愁の念に浸っていた時のことでした。一瞬東の空が茜色に輝いたかと思うと、雲の流れのように色の濃淡が刻々と変わる“幻想の世界”が10数分間にわたって繰り広げられた。

 この美しさ壮大さを、私は表現する言葉を知りません。しばし全てを忘れて、宇宙で繰り広げられる一大ショーに陶酔しました。






 ※ このシリーズの最初で、阿部さんご自身に「特務機関」の認識は無いことをお伝えしました。しかし、筆者の調べた範囲では、電々と満鉄の調査部は「特務機関」であったという記述が複数見られるのです。

 また、志願してまで入隊したはずなのに、当時日本に唯一の通信学校で2年間学んだ後に“除隊”した理由は何だったのだろうか。

 その後の電々調査部への入社と直前の除隊には、何らかの関係があったのではないかという疑問がふくらみ、再度確認してみました。

 阿部さんは再度、その認識は無いと答えましたが、当時を思い出すように、電々調査部の管轄が途中から軍に変わったことを話してくれました。また、“除隊”の理由は、軍からの命令であったと。

 阿部さんは、除隊も入社も素直に命令に従っていただけだとおっしゃいました。特務機関の諜報部員と、自分のような“社員”がたくさんいたのだと。

 筆者なりに考えますと、目的を“意識”していた諜報部員と、命令に“従っていた”一社員という違いでしょうか。同じような仕事をしながらも、立場は違っていたということではないかと思います。

 では、今回はここまでとします。次回は、不可解な“軍事裁判”により戦犯の烙印を押されます。それは、現在の民主主義社会における法の下の裁判とは程遠いものでした。

【2007/06/06 17:17】 | 【証言】 阿部忠男さんの“シベリア抑留” | トラックバック(0) | コメント(4)
阿部忠男さんの“シベリア抑留”その2 -- 身柄拘束
満洲国の国旗  ※ 満洲国(満洲帝国)は昭和7年に創建され日本の敗戦とともに消えました。わずか13年という短い運命でしたが、建国以来治安は安定し、毎年100万人もの漢民族が万里の長城を越えて入国したといいます。
 その工業化も素晴らしく発展しましたが、電信電話網も日本とは比べ物にならないほど近代化されていたそうです。(阿部談)

 戦争末期の満洲は、関東軍の南方戦線への転進で将兵や武器弾薬が不足していました。兵員は急遽徴兵したものの新兵ですし、武器弾薬に至っては不足したままで、いわば「張子の虎」でありました。3方面から満洲を取り囲むように侵攻したソ連軍に対して立ち向かえる兵力は無く、朝鮮国境まで退き、間もなく終戦となります。

 それだけに満洲の被害は大きくなりました。また、ソ連軍の規律は無いに等しく、略奪・暴行・虐殺の類は野放しの状態で満洲の産業設備はもちろんの事、産業資材、貴金属、医薬品、衣料品、生活資材に至るまで、そのほとんどのものが収奪されました。この日ソ間の一連の惨禍による日本人の死亡者数は軍民合わせて50万人以上に上ります。
  



□ 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その2 -- 身柄拘束

 ---- 長期抑留者の顔ぶれ

 とにもかくにも終戦を迎え、やれやれこれで日本に帰れると喜んだのもつかの間、「ウラジオ経由で日本に帰す」という甘言にだまされ、なんと65万人もの軍人と一部民間人がシベリアに連行され、ソ連復興のため牛馬の如く働かされたのであり、その間に明らかにされているだけでも7万人の犠牲者が出ました。

 これこそ終戦の条件である「軍事俘虜は速やかに本国に帰還させる」というポツダム宣言の明らかな違反行為であり暴挙であると言えます。

 これらの日本人俘虜は、昭和24年頃までに逐次帰国する事になりますが、私のように戦犯として汚名を着せられた者2800名は、昭和32年頃までシベリアの地に残留を余儀なくされました。

 この2800人の受刑者の数、多いようにも思われますが全抑留者の数からすれば0.5%にも満たないごく限られた人だったと思います。

 では、この長期抑留者とはどのような顔ぶれだったのか、私の知る範囲で明らかにしてみたいと思います。

 ・関東軍司令部の将校
 ・各部隊の上級将校
 ・特務機関・憲兵隊に所属していた将校
 ・国家公安委員会の幹部
 ・大学教授


 等、いずれも錚々たるメンバーで関東軍又は満州国で確固たる地位におられた方々です。これらの人に混じって私達の仲間、電々社員・満鉄社員が約80~100名程いました。 

 それでは、私達のような下っ端の会社員が何故大物と一緒に裁かれたのでしょう。私の歩んできた経歴を明かす事によってその答えを出してみたいと思います。

 私は昭和15年、18歳で通信隊に入隊しました。配属されたのが「特殊無線隊」といってその任務はソ連の軍事無線を傍受し、その情報を得ると共にその電波の発信地を方向探知するという特別な任務を持った部隊でした。

 入隊後、神奈川県にあった通信学校に派遣され、そこでソ連の通信、ロシア語のタイプライター、初歩のロシア語の教育を受けました。専門課程である無線によるロシア文の受信については、手書きで1分間60字、タイプ受信で150字位できるような教育を受けました。

 ロシア語の方は初歩の日常会話程度でしたが、この教育課程で教わった一つの詩が唯一私の頭の中に残っておりますので、これを紹介させていただきます。

 これはソビエトの有名な詩人プーシキンの詩の一部です。これを書いて見る事によって共通文字の多い英語との違い、そして美しい詩の心をを感じ取っていただければと思います。
 
プーシキンの詩(阿部さん直筆)
 

  リュボービイ シィリネエーイ スメールチィ イ ストラアハア
  スメールチィ トーリコ リュボービイ ジェールジツツア 
  ドビイージェツツア フ ジイーズニイ    プーシキン

 (訳) 愛は死よりも強く 死の恐怖よりも強い
     人生は愛によって支えられ 愛によって育まれる  プーシキン

 私達が生きていく上で大きな支えとなっているのが愛であり、それは夫婦の愛、親子の愛、恋人との愛、すべて人生は愛によって支えられ育まれている。


 ---- 身柄拘束 白系ロシア人元従業員の正体

 2年間の軍隊生活を終え、満洲でんでん調査局に入社、仕事の内容が軍隊で習った事、やっていた事の延長で、教育なしですぐに役立つ経験者としてかなり優遇されての入社だった。

 当時、でんでん調査局はハルビンに本部を置き牡丹江、ジャムス、黒河、ハイラルにそれぞれ支部があり昼夜を分かたずソ連の無線情報を収集していました。

 私の勤務したハイラルは興安北省にあり、ホロンバイル大草原のど真ん中、満州里(マンチュウリ、国境の街)まで140km位の所に位置しています。冬の気温は零下30℃位に下がりますが、設備の充実とあいまって快適な勤務をする事ができました。

 仕事は私を含め無線の傍受班10名、ソ連のラジオ放送を速記している白系ロシア人5名、同じく蒙古放送を受けている蒙古人2名、その他翻訳、技術、庶務等30名のスタッフで仲良く与えられた仕事に心底誇りを感じ希望に満ち満ちた、そして充実した毎日を過ごしていました。

 又、敷地内に住宅も完備、外国人をはじめ従業員全員が家族ぐるみの付き合いで楽しい日々を送っておりました。

 これらの夢は8月9日のソ連機の爆撃によって根底から覆されました。
 「ハルビンへ撤収せよ」との命令を受け、当日まで愛用していたアメリカRCA社製の高性能な無線機10台の真空管を金槌で叩き割り、機密書類を何とか焼却し、着の身着のままで軍用列車に乗り込みました。途中再三ソ連機の銃撃を受けながら、何とかハルビンまで後退する事が出来ました。

 ハルビンで終戦を迎え、敗戦国民の屈辱をいやと言う程味わいながら2ヶ月ほど過ごしたある日、どこで居所を突き止めたのか、例のハイラルで一緒に3年間仕事をしていた白系ロシア人の一人“ベンガルト”が、いかめしい赤軍の軍服にピカピカのカピタン(大尉)の肩章をつけ兵隊5人を従え逮捕に来ました。本当にアッと言う間の出来事でした。

 彼は赤軍の将校でありながら、3年間もまんまと私達の組織に潜入して、私達のやっていた仕事の内容やその他の情報が、彼によって筒抜けになっていたという事が分かりました。

 この日の思わぬ身柄の拘束により、私の人生は180度の転換を余儀なくされました。






 ※ この阿部さんの手記は、約10年前に初めて書かれたものだそうです。2ヶ月をかけて思い出し書かれたもので、ご自身の記憶だけがより所ですので、今回のことで取材を重ねるうちに訂正される箇所もありました。細部についてはそのつど修正というかたち(お知らせはしません)にしますが、ひとつプーシキンの詩について、最近になって発見したことがあったそうです。

 阿部さん曰く、「上官から何度も重ねて叩き込まれ、てっきりプーシキンの作品だとばかり思っていました」が、最近になって読んだ『世界の名言集』という本の中に良く似た名言を見つけたそうです。

 前半の「愛は死よりも強く、死の恐怖よりも強い」という部分ですが、作者は小説家の“ツルネーゲフ”とあったそうです。

 どちらが本当の作者なのか興味のあるところですが、ご本人がプーシキンの作品だと教え込まれ、人生の大部分で信じてきたことですから、原文はそのままにしておきますがご理解下さいね。

 3年間仲良く働き、家族ぐるみで親交のあった白系ロシア人・元従業員が、実はソ連のスパイであったとのこと。ソ連コミンテルンは世界中でこのように、時期が来るまでスパイを眠らせておく手法をとっていました。

 阿部さんにそのことを尋ねますと、「二重スパイだったのでしょうね」との見解でした。都合のいい側に付いて、使い分けていたスパイが多くいたようです。あの目まぐるしい情勢の移り変わりの中で、阿部さんたち日本人は呆然と眺めるより他はなかったと。

 それでは今回はこれくらいにしておきたいと思います。次回から舞台はシベリアへと変わります。強制連行の列車内、そして最初に収容されたラーゲリ(収容所)の環境についてまでを予定しております。


【2007/06/01 16:58】 | 【証言】 阿部忠男さんの“シベリア抑留” | トラックバック(0) | コメント(8)
しゃばだば近代国史帖


日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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