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阿部忠男さんの“シベリア抑留” ---- はじめに
 強制連行の途中、乗り換え駅にて
 ※ 大変お待たせいたしました。ようやく阿部忠男さんご本人と電話にて連絡がとれました。これより少しずつ阿部さんの手記を連載したいと思います。
 できるだけ読みやすい形態にしたいので、筆者なりに多少の説明とタイトルを加えました。旧仮名使いや旧漢字は現代のものに変えました。ロシア語表記はカタカナにしました。筆者はロシア語は皆目わかりませんので、阿部さんに電話越しで発音していただき表記しました。間違いがあればご指摘下さい。

 上の写真は「平和祈念展示資料館」様よりお借りしたものです。“シベリア抑留”の実態について参考にさせていただきました。

 ここで阿部さんについて少しご紹介いたします。
 阿部さんは大正11年、愛媛県に生まれました。高等小学校を出て地場産業である今治市のタオル工場にて勤務、18歳(昭和15年)で志願し満洲は新京(旧満洲国の首都で現在の長春)の通信隊に入隊、特殊無線隊に配属されました。その直後に日本に唯一の陸軍通信学校(現、神奈川県相模大野)に派遣され2年間の教育の後に除隊、満洲電信電話株式会社(でんでん調査局)に入社します。

 ここで筆者はこれは「特務機関」ではなかったのかと疑問に思い、阿部さんに確認をいたしましたが、ご本人にはそのような認識はなくあくまで除隊しての入社であったとのことでした。しかし、勤務内容は特務(ソ連の軍用電波を傍受し各種情報を分析)であったとのことです。そのため阿部さんは戦犯としての烙印を押され、その抑留期間は長期に及ぶことになります。

 8年間の抑留生活の後に、昭和28年12月、ナホトカ港より「興安丸」にて第一次帰還(長期抑留者)を果たしますが、昭和24年頃までに帰還した早期帰還者たちの多くがソ連共産党により洗脳されていたことで、阿部さんも疑われ社会復帰に大変な困難が伴いました。

 これについても確認いたしましたが、阿部さんの抑留環境は酷いものでしたので洗脳されるわけがなく、ソ連に対しては憎しみのみであるとのことでした。

 阿部さんとは連絡が取れたばかりです。取材を重ねる中で、色んな話が聞けることと思います。それを少しずつご紹介しながら連載したいと思います。尚、ご本人に確認する前に掲載した「お知らせ」の内容には多少の誤認がありますことをご了承下さい。また、掲載の後に細部を修正することもあろうかと思いますがご理解下さい。



 

□ 阿部忠男さんの“シベリア抑留”その1 (平成19年現在85歳)

 ---- はじめに

 私は終戦直後にソ連官憲より身柄を拘束されシベリア送りになりました。そこで軍事裁判にかけられ、ソ連刑法58条6項により『矯正労働25年』の判決を受けました。そのとき私は23歳で、身分は“満洲電信電話株式会社”の一社員でした。

 それから8年間、20数ヶ国から集められた政治犯と共にシベリア各地の収容所を転々と追い回され、わずか10人位の日本人と出会うこともあり、又日本人3人だけという事もありました。

 明日の命も保証されない、その日その日の空腹と冬の平均気温零下30℃の極寒の中での強制労働という奴隷生活を強いられ、何度死を考えたことか。

死ねばこのような苦しみから解放されるという誘惑に駆られたこともありましたが、「なにくそここで死んでたまるか俺はどんな事があっても生きながらえて祖国日本に帰り、生き証人としてこの非人間的な扱いの実態を伝えねばならない」と深く肝に銘じました。

 ---- 終戦直後の満洲

 昭和20年8月9日、ソ連軍による満洲への攻撃が始まりました。大量の軍用機と戦車、近代兵器により武装した数10万の兵力によって多方面から国境を侵犯して来ました。

 これを迎えうった日本軍は、一部で陣地に立てこもり抵抗した所もあったようですが、ほとんどの国境ではなすすべもなく後退に次ぐ後退を余儀なくされました。

 ではあの精鋭を誇った関東軍が何故こうもみじめな敗北をしたのでしょう。理由は大きく分けて二つあると思います。

 その一つは、当時日本とソ連の間には「日ソ中立条約」(原文では「不可侵条約」)が結ばれており、ソ連が一方的にこれを破りこんなに早く攻めてくる事はないだろうと甘く見ていた事。

 今一つは18年頃より南方での作戦が思うにまかせず被害が増大していった。この補充のため関東軍の主力を転進させてしまい、満洲には補充兵の召集によって兵員の確保はなんとかしたものの、肝心の兵器弾薬がほとんど残されていなかった事が挙げられると思います。

 そして8月の15日、終戦を迎え進入して来たソ連兵は横暴を極めました。略奪、暴行、強姦等・・・。瞬く間に大混乱に陥りました。当時の惨状については多くの引揚者やマスコミによって語りつくされていると思いますので省略いたしますが、60年(原文では50年)を経た現在でもなお残留孤児の問題が解決を見ていない事に胸が痛みます。





 ※ 阿部さんは戦犯の烙印を押され、その抑留生活は長期に及び、また一般の抑留者とは隔離され、多民族の収容所を転々とする間、日本人は常に2~3人であったそうです。

 また、当時日ソ間で結ばれていたのは「中立条約」ですが、多くの人は「不可侵条約」と認識していたようです。もっとも、当時の日本政府は条約を結ぶにあたって「不可侵条約」を希望しており、ソ連が譲らず最終的に「中立条約」で落ち着いたため混同されているのだと思われます。

 次回は、長期抑留者の顔ぶれと阿部さんの特殊無線隊での教育過程、満洲でんでん調査局(ハイラル支部)での生活、そして終戦、ソ連兵による身柄拘束までを予定しております。

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【2007/05/29 21:20】 | 【証言】 阿部忠男さんの“シベリア抑留” | トラックバック(0) | コメント(2)
しばらく更新が遅れます
 ※ なかなか更新ができずにいる中、何度もご訪問いただいて申し訳ありません。実は、只今筆者の手元に、「シベリア抑留」のご経験をもつ阿部忠男さんという方の原稿があり熟読中です。

 その経過で、専門的な用語の意味や読み、その時々の背景など、ご本人に直接質問したいことが山ほど出てきており、その項目はまだまだ増える勢いです。

 また、ご本人がご高齢のため、他の予定エントリーを後回しにしたいと考えております。そのため申し訳ないのですが、まだ、今しばらく更新が遅れますことをお知らせしておきたいと思います。

 実は、筆者の母は終戦を旧満洲国牡丹江の北に位置する「東安(とうあん)」で迎え、今に至るもあまり語り継がれることのない「東安駅爆破事件」の現場で九死に一生を得た経験をもちます。(この件についても追々にと思っておりますが)

 母は当時、満洲電信電話株式会社東安支局で交換手の仕事をしておりました。昭和20年8月9日未明より突然のソ連軍の侵攻により、命辛々の逃避行が始まりますが、その職種ゆえに最後の列車の発車時間ぎりぎりになって突然の避難命令を受けます。

 その後、数々の苦難を乗り越え、抑留生活を経て昭和21年秋に引揚げることができましたが、帰国の後は祖国再建の最中、一主婦であった母は元同僚との交流は全くできずに今に至っておりました。 

 それが最近になってひょんなことから、引越しを重ねた新天地で知人となった阿部さんが、満洲での同じ職場(支部違い)の同僚であったことを知らされたとのことなのです。母にしても、当時直接の面識は無かったにしろ、それは初めての懐かしい同僚との再会ですので、いろいろと話がはずみ、現在一番の友人であるとのことです。

 そんなこんなを電話で聞いているうちに、筆者の興味がますます膨らみ、以前講話されたという地元高齢者大学での講話原稿を送っていただき今に至っているというわけです。

 その内容は、一般に伝えられている「シベリア抑留」とは違い、電信の職種のうちでも旧ソ連専門の軍用無線を傍受し情報を得るという特別な任務についていたために、軍事裁判において25年の矯正労働という判決を下され、多くの日本人抑留者とは隔離されて、他民族混合の別の収容所送りとなったものでした。

 ご本人もこの非人道的な「シベリア抑留」の実態をなんとか後世に伝え残したいと望んでおり、筆者も同じくその架け橋となりたく、拙いブログではありますが近々に掲載したいと思います。また、その掲載方法といたしましては、2通り考えており、そのどちらか一方にするか両方にするかは、阿部さんへの取材の過程で決めたいと思っております。

 近々とはいっても、これから取材が始まりますので予想がつきませんが・・・。できれば、少しずつに分けて・・・やはり2通りになるのかな。(笑)

 ということで、たびたびご訪問下さいます方々へのお知らせでした。

 

 

 

 
【2007/05/22 19:33】 | お知らせ | トラックバック(0) | コメント(2)
聖徳太子 “十七条の憲法”
聖徳太子像(574-622年) ※ 529年、推古天皇の即位にともない翌年に摂政となった聖徳太子は、中国全土を300年ぶりに統一した強大な軍事力をもつ隋の出現で、対等な外交を進めるために国内の改革をすすめた。

 603年、太子は、有力な豪族が役職をしめるこれまでのしくみを改め、生まれや家柄にかかわりなく、国家のためにすぐれた仕事をした人物を役人に採用する「冠位十二階」の制度を取り入れた。

 ついで、604年、太子は「十七条の憲法」を定めた。その内容は、豪族が争いをやめ、人びとが和の精神をもち、天皇を中心に協力していくことなどを求めたもので、公のために奉仕する役人の心がまえと国家の理想が示された。和を重視する考え方は、その後の日本社会の伝統となった。(『新しい歴史教科書』34-35p)

 現代の近代憲法の位置づけ(基本法)から考えると、この「十七条の憲法」は、今でいうその枝葉の法律(国家公務員倫理法)にあたるということのようです。しかし、あの時代ではこれが最高の法律であり、これで十分であったということでしょう。

 学校の規則でもそうですが、条項が多くなるほど規律が乱れているという証のようなもので、聖徳太子が現代を見て嘆く姿が目に浮かぶようです。

 




 □ 憲法十七條 (いつくしき のり とをあまりなな をち)

● 一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。是以、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。 

 ひとつにいはく、やわらかなるをもてたふとしとし、さかふることなきをむねとせよ。ひとみなたむらあり。またさとるひとすくなし。ここをもて、あるいはきみかぞにしたがはず。またさととなりにたがふ。しかれども、かみやはやぎしもむつびて、ことをあげつらふにかなふときは、ことおのづからにかよふ。なにごとかならざらむ。
 

● 二曰、篤敬三寶。三寶者佛法僧也。則四生之終歸、萬國之極宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤悪。能教從之。其不歸三寶、何以直枉。

 ふたつにいはく、あつくさむぽうをうやまへ。さむぽうとはほとけのりほふしなり。すなはちよつのうまれのおはりのよりどころ、よろづのくにのきはめのむねなり。いづれのよ、いづれのひとか、このみのりをたふとびずあらむ。ひと、はなはだあしきものすくなし。よくをしふるをもてしたがふ。それさむぽうによりまつらずは、なにをもてかまがれるをたださむ。


● 三曰、承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。四時順行、萬氣得通。地欲覆天、則致壊耳。是以、君言臣承。上行下靡。故承詔必慎。不謹自敗。

 みつにいはく、みことのりをうけたまはりてはかならずつつしめ。きみをばあめとす。やつこらまをばつちとす。あめはおほひつちはのす。よつのときしたがひおこなひて、よろづのしるしかようことう。つち、あめをおほはむとするときは、やぶるることをいたさむ。ここをもて、きみたまふことをばやつこらまうけたまはる。かみおこなふときはしもなびく。かれ、みことのりをうけたまはりてはかならずつつし。つつしまずはおのづからにやぶれなむ。 


● 四曰、郡※百寮、以禮爲本。其治民之本、要在乎禮。上不禮、而下非齊。下無禮、以必有罪。是以、群臣有禮、位次不亂。百姓有禮、國家自治。 (※=卿の中心部をの中心部と入れ替える)

 よつにいはく、まへつきみたちつかさつかさ、いやびをもてもととせよ。それおほみたからをおさむるがもと、かならずいやびにあり。かみいやびなきときは、しもととのほらず。そもいやびなきときは、かならずつみあり。これをもて、まへつきみたちいやびあるときは、くらひのついでみだれず。おほみたからいやびあるときは、あめのしたおのづからにおさまる。


● 五曰、絶餮棄欲、明辨訴訟。其百姓之訴、一日千事。一日尚爾、況乎累歳。頃治訴者、得利爲常、見賄聽※。便有財之訴、如石投水。乏者之訴、似水投石。是以貧民、則不知所由。臣道亦於此焉闕。 (※=言べんに獻)

 いつつにいはく、あぢはひのむさぼりをたちたからのほしみすることをすてて、あきらかにうたへをさだめよ。それおほみたからのうたへ、ひとひにちわざあり。ひとちすらもなほしかるを、いはむやとしをかさねてをや。このごろうたへをおさむるひとども、くほさをえてつねとし、まひなひをみてはことはりまうすをきく。すなはちたからあるものがうたへは、いしをもてみづになぐるがごとし。ともしきひとのうたへは、みずをもていしになぐるににたり。これをもてまづしきおほみたからは、せむすべをしらず。やつこらまのみちまたここにかけぬ。


● 六曰、懲悪勧善、古之良典。是以无匿人善、見悪必匡。其諂詐者、則爲覆國家之利器、爲絶人民之鋒劒。亦佞媚者、對上則好説下過、逢下則誹謗上失。其如此人、皆无忠於君、无仁於民。是大亂之本也。 

 むつにいはく、あしきことをこらしほまれをすすむるは、いにしへのよきのりなり。これをもてひとのほまれをかくすことなく、あしきことをみてはかならずただせ。それへつらいあざむくものは、あめのしたをくつがへすときうつはものなり、ぉほみたからをたつときつるぎなり。またかだみこぶるもの、かみにむかひてはこのみてしものあやまりをとき、しもにあひてはかみのあやまちをそしる。それこれらのひと、みなきみにいさをしさなく、これおほきなるみだれのもとなり。  


● 七曰、人各有任。掌宜不濫。其賢哲任官、頌音則起。※者有官、禍亂則繁。世少生知。剋念作聖。事無大少、得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此國家永久、社禝勿危。故古聖王、爲官以求人、爲人不求官。 (※=奸の女へんを縦に女ふたつ)

 ななつにいはく、ひとおのおのよさしあり。つかさどることみだれざるべし。それさかしひとつかさによさすときは、ほむるこえすなはちおこる。かだましきひとつかさをたもつときは、わざわひみだれすなはちしげし。よにうまれながらしるひとすくなし。よくおもひてひじりとなる。ことにおほきなりいささけきなく、ひとをえてかならずおさらむ。ときにときおそきことなし。さかしひとにあひておのずからにゆるるかなり。これによりてあめのしたとこめづらにして、くにあやふからず。かれ、いにしへのひじりのきみ、つかさのためにひとをもとめて、ひとのためにつかさをもとめず。


● 八曰、郡△百寮、早朝晏退。公事靡※。終日難盡。是以、遲朝不逮于急。早退必事不盡。 (△=上記:四曰に同じ ※=監の右上の一が古)

 やつにいはく、きみたちつかさつかさ、はやくまいりておそくまかでよ。おほやけのわざいとなし。ひねもすにつくしがたし。ここをもて、おそくまいるときはすむやけきにおよばず。はやくまかづるときはかならずわざつきず。 


● 九曰、信是義本。毎事有信。其善悪成敗、要在于信。群臣共信、何事不成。群臣无信、萬事悉敗。

 ここのつにいはく、まことはこれことはりのもとなり。ことごとにまことあるべし。それよさあしさなりならぬこと、かならずまことにあり。まへつきみまことなくは、よろづのわざことごとくにやぶれむ。  

● 十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫見耳。是非之理、※能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。我獨雖得、從衆同擧。 (※=言べんに巨)

 とをにいはく、心の怒りをたちおもへりのいかりをすてて、ひとのたがふことをいかざれ。ひとみなこころあり。こころおのおのとれることあり。かれよみすればわれはあしみす。われよみすればかれはあしみず。かれかならずおろかにあらず。ともにこれただひとならくのみ。よくあしきことわり、たれかよくさだむべけむ。あひともにかしこくぐなること、みみかねのはしなきがごとし。ここをもて、かれひといかるといふとも、かへりてわがあやまちをおそれよ。われひとりえたりといふとも、もろもろにしたがひていなじくおこなへ。


● 十一曰、明察功過、賞罰必當。日者賞不在功。罰不在罪。執事群△、宜明賞罰。(△=上記:四曰に同じ)

 とをあまりひとつにいはく、いさみあやまりをあきらかにみて、たまひものしつみなふることかならずあてよ。ひごろ、たまひものはいさみにおきてせず。ことをとれるまへつきみたち、たまひものしつみなふることをあきらむべし。


● 十二曰、國司國造、勿斂百姓。國非二君。民無兩主。率土兆民、以王爲主。所任官司、皆是王臣。何敢興公、賦斂百姓。

 とをあまりふたつにいはく、くにのみこともちくにのみやつこ、おほみたからにをさめとらざれ。くににふたりのきみあらず。おほみたからにふたりのあるじなし。くにのうちのおほみたからは、きみをもてあるじとす。よさせるつかさみこともちは、みなこれきみのやつこらまなり。いかにぞあへておほやけと、おほみたからにをさめとらむ。


● 十三曰、諸任官者、同知職掌。或病或使、有闕於事。然得知之日、和如曾識。其以非興聞、勿防公務。

 とをあまりみつにいはく、もろもろのつかさによさせるひと、おなじくつかさことをしれ。あるいはやまひしあるいはつかひとして、ことをおこたることあり。しかれどもしることえるひには、あまなふことむかしよりしれるごとくにせよ。これあづかりきかずといふをもて、おほやけのまつりごとほなさまたげそ。


● 十四曰、郡臣百寮、無有嫉妬。我既嫉人、人亦嫉我。嫉妬之患、不知其極。所以、智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以、五百之乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治國。

 とをあまりよつにいはく、まへつきみたちつかさつかさ、うらやみねたむことあることなかれ。われすでにひとをうらやむときは、ひとまたわれをうらやむ。うらやみねたむうれへ、そのきはまりをしらず。このゆえに、さとりおのれにまさるときはよろこびず。かどおのれにまさるときはねたむ。これをもて、いほとせにしていましいまさかしひとにあふ。ちとせにしてひとりのひじりをまつことをかたし。それさかしひとひじりをえずは、なにをもてかくにををさめむ。


● 十五曰、背私向公、是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同。非同則以私妨公。憾起則違制害法。初章云、上下和諧、其亦是情歟。

 とほあまりいつつにいはく、わたくしをそむきておほやけにゆくは、これやつこらがみちなり。すべてひとわたくしあるときは、かならずうらみあり。うらみあるときはかならずととのほらず。おなじからざるときはわたくしをもておほやけをさまたぐ。うらみおこるときはことわりにたがひのりをやぶる。かれ、はじめのくだりにいへらく、かもしもあまなひととのほれ、といへるは、それまたこのこころなるかな。


● 十六曰、使民以時、古之良典。故冬月有間、以可使民。從春至秋、農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。

 とをあまりむつにいはく、おほみたからをつかふときをもてするは、いにしへのよきのりなり。かれ、ふゆのつきにいとまあらば、もておほみたからをつかふべし。はるよりあきにいたるまでに、なりはひこかひのときなり。おほみたからをつかふべからず。それなりはひせずはなにをかくらはむ。こかひせずはなにをかきむ。


● 十七曰、夫事不可獨斷。必興衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事、若疑有失。故興衆相辨、辭則得理。

 とをあまりななつにいはく、それことひとりさだむべからず。かならずもろともとあげつらふべし。いささけきことはこれかろし。かならずしももろともとすべからず。ただおほきなることをあげつらふにおよびては、もしはあやまりあることをうたがふ。かれ、もろともとあひわきまふるときは、ことすなはちことわりをう。

 原文:『日本古典文学大系版』(岩波書店)
 □ 参考サイト(原文・読み)
 http://www.geocities.com/CapitolHill/8194/17kenpou.html




 ☆ 下記の訳文(直訳ではなくあくまでも大意)は、齋藤武夫先生によるものです。
           齋藤武夫:(さいたま市立芝原小学校 / 自由主義史観研究会副代表)
   
 □ 十七条の憲法

 1.和(協力)

  仲良く助け合うことを大切にし、人と争うことがないようにすること。上に立つ人が、まず和を大切にし、下の者も協力して話し合えれば、自然とものごとはうまくいき立派な政治が進められるのである。


 2.仏教

  厚く三宝を敬いなさい。三宝とは、仏・法(お経に書かれた人の道)・僧(お坊さんのこと)、仏の教えは、命あるものの最後の拠り所であり、すべての国の支えになり、悪人でさえ正しい道にもどすことのできる教えだからである。


 3.天皇に従う(みことのり)

  天皇のお言葉には従わなければならない。天皇は天であり国のリーダーである。お前たちは地である。もし、天地をひっくり返すようなことがあれば、たちまち国はつぶれてしまうであろう。上に立つ者が天皇のお言葉に従えば、下の者もそれに習い、国はひとつにまとまって発展できるだろう。


 4.礼儀正しく

  リーダーこそ礼儀正しくしなさい。そうすれば下の者もそれを見習って、国の政治は正しく進められるのである。


 5.公平

  人々の訴えをよく聞き、公平に判断しなくてはいけない。賄賂をもらって、富める者をひいきするようなことは許されない。貧しい者が頼れないような国であってはならない。


 6.善を行う

  悪をこらしめ、善をすすめる政治でなければならない。リーダーが悪を見逃し、自分で善を行わず、口先だけで自分を良く見せようとするなら、国民は苦しみ、国は滅びてしまうだろう。


 7.実力主義

  国のリーダーこそ、その地位と役割にふさわしい実力がなければならない。家柄や身分で高い地位を与えるのではなく、その人の実力や得意・不得意を考えて、ふさわしい地位につかせ、政治がうまく進められるようにしなさい。


 8.勤勉

  国造りの仕事には暇が無い。朝早く役所に来て、夕方遅くまで仕事をして帰るようにしなさい。


 9.信頼

  国のリーダーならば、形だけリーダーらしくしているのではだめだ。真心を込めて、お互いに信頼しあって仕事をすすめなさい。


 10.人の話を聞く

  国のリーダーは、意見が違うからといって怒るようではいけない。意見が違うたびに、いつも自分が正しく、相手が間違っていると思うようではいけない。お互いに国を思う気持ちは同じだと考え、まず、自分の方が間違っているのではないかと、よく考えることが大事。そして、大勢の意見を聞いて、正しい判断をしなくてはいけない。


 11・賞罰のけじめ

  国のために手柄をたてたら、必ず賞を与え、国のために間違いを犯したら、必ず罰を与えなさい。そのけじめがしっかりすれば、国はまとまり発展するのである。


 12・天皇中心の国

  税は国のためにある。リーダー達が、勝手に人々から税を取るようなことがあったら、これからはそれを禁止する。人々の主人は、天皇ただひとりである。


 13・仕事で支え合う

  リーダーは自分の仕事だけではなく、他のリーダーの仕事も知り、いつでも代わって仕事ができるようにしておかなければならない。誰かが病気で休んだからといって、国の仕事が止まるようなことがあってはいけないからだ。


 14・人をうらやむな

  リーダーにとって一番の間違いの元は、人をうらやみ嫉妬する心だ。才能や実力が自分より上の人を憎らしいと思い、足を引っ張り合うようだと、才能や実力のある人が上に言うことができなくなり、正しい政治が行われ得なくなるだろう。


 15.国のために尽くす

  国のリーダーは、自分を捨てて国のためにすべてを捧げるくらいでないといけない。自分の欲があると人をうらみ、人をうらめば互いに心をひとつにして、国のために尽くせなくなるのである。


 16.国民(おおみたから)を大切に

  普通の人々こそ、国の大元だと考えなくてはいけない。だから、たとえ国のために人々に仕事をさせるときでも、春から秋までの米造りが忙しい時にさせてはならない。冬になって人々の仕事が暇になってからやらせなさい。


 17.大事なことは話し合って決める

  国にとって大切なことは、一人で勝手に決めてはいけない。みんなとしっかり話し合うことが大事である。話し合えば多くの知恵が集まり、必ず正しい判断が見えてくるからである。ただし、小さなことまでいちいち話し合って決めていては、国造りは進まない。しっかりと、その見極めをしなさい。






  
【2007/05/17 13:41】 | 【雑学倉庫】 | トラックバック(0) | コメント(12)
八田與一がアニメになって
 ※ 先日、「《日本人の精神》 李登輝 -- 幻の講演 --」 をエントリーしたばかりだったので、このニュースには驚くやら嬉しいやらでした。でも、きっと一番喜んでいるのは台湾国民だと思います。八田氏のことを知りたい方は、どうぞ上のリンクへ。李登輝前総統自らがご紹介下さいます。

 なんだかこのアニメの出現には、なんだか時代の変わり目を感じてしまうのは筆者だけだろうか。なんだかなんだかなんだかなんだか・・・・わくわくしています。


□ 八田與一氏の生涯、虫プロがアニメ化 台湾に尽くした日本人
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070509/chn070509000.htm

 【烏山頭(台南県)=長谷川周人】日本統治下の台湾で、農業近代化と水利事業に尽くした日本人技師、八田與一氏の生涯がアニメ映画化されることが決まった。65回目の命日にあたる8日、八田氏が築いた台湾中部の烏山頭ダムで行われた慰霊祭に参列した虫プロダクションの伊藤叡社長が明らかにした。

 伊藤社長によると、タイトルは「パーテン ライ(八田がやってきた)!」で、制作費は約1億5000万円。監督は「宇宙戦艦ヤマト」などを手がけた石黒昇氏が担当し、すでに脚本作りに入っている。ストーリーは「貧しい農家に生まれた台湾人少年を主人公とし、彼が助手としてみた八田の生きざまを描いたもの」という。

 劇場公開は来年夏を目指し、北京語版も作成して台湾でも上映する。伊藤社長は「台湾を愛し、台湾に愛された八田氏をアニメ化で現代に伝え、彼の滅私奉公の精神を社会の底辺に広げたい」と意気込みを語った。

 金沢出身の八田氏は1910年に台湾に渡り、干魃(かんばつ)に悩まされていた嘉南平原の潅漑(かんがい)を決意。10年をかけて烏山頭ダムを完成させ、不毛の大地を台湾最大の穀倉地帯に変えた。この功績が地元の尊敬を集め、命日には毎年、地元の人々による慰霊祭が行われている。

 慰霊祭では、顔純左副県長(副知事)が「時代が変わっても八田技師を懐かしむ県民の思いはかわらない」とあいさつ。日本からも約40人が参列し、八田氏の長男、晃夫氏(故人)の綾子夫人と孫にあたる八田修一夫妻らが、地元が建立した八田氏の銅像に手を合わせた。

(2007/05/09 02:50)


□ 八田技師思い「日台の懸け橋に」 友好の会が台北の児童と交流
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20070511101.htm

 【台北10日=宮本南吉】台湾を訪問している「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」(金沢市)の一行は十日、台北市の日本人学校を訪れ、八田與一技師について学んでいる六年生の児童七十六人と、日本の童謡を歌うなどして交流した。
 台北日本人学校では、四年生の時に八田技師について勉強し、六年生の十一月に修学旅行で台南県にある烏山頭(うざんとう)ダムを訪れている。

 八田技師の孫にあたる八田修一さんが「八田技師について知っていることがあれば教えてください」と呼びかけると、児童は手を挙げ、「ウーシャントー水庫(烏山頭ダム)をつくった」「稲の実らないところを米の倉庫にした」などと口々に答えた。

 この後、ハーモニカのもりけんさん、口笛のもくまさあきさん、アコーディオンの昇幹夫さんが「鯉のぼり」「ふるさと」などの曲を演奏し、友好の会一行と児童が一緒に歌った。

 児童の代表は「八田技師の話と楽しい童謡を聞かせてくれてありがとうございます。私たちは八田さんのように日台の懸け橋になります」とあいさつした。

 友好の会の中川耕二さんが学校側に、北國新聞社発行の八田技師の絵本「よいっつぁん夢は大きく」を手渡した。

 一行は十日、帰国した。

 八日から北陸の観光地を訪れている台湾の航空、旅行業者一行は十日、金沢市内入りし、兼六園・金沢城や長町武家屋敷跡を見学した。

 一行は台湾からの観光客誘致に力を入れる県観光連盟と北陸広域観光推進協議会が招いた。八日にチャーター機で能登空港から日本入りし、この日までに輪島や東尋坊、五箇山などを視察した。

 雨の中、金沢の観光地を巡った業者らは「石川は台湾でも人気のある旅行地だが、特に武家屋敷跡はとても日本的なので好まれるだろう」と評価した。その後、県の観光関係者との交流会で友好を深めた。

 県教委の「いしかわを知る講座」は六月十五日から、輪島市の県立生涯学習センター能登分室で開かれ、日本統治時代の台湾で烏山頭ダムを建設した金沢出身の技師、八田與一の生涯などを紹介する。

 六、七月の講座は計四回で、いずれも午後一時半から。受講費は無料で、各回ごとに申し込みを受け付け、定員の四十人に達し次第締め切る。問い合わせは能登分室=0768(26)2360=まで。講座内容と講師各氏は次の通り。

 ▽6月15日 「八田與一の仕事」松田章一金沢ふるさと偉人館長▽同26日 「アンサンブル金沢20年」山田正幸オーケストラ・アンサンブル金沢GM▽7月10日 「金沢城の魅力」木越隆三金沢城調査研究所副所長▽同21日 「太鼓昨今」浅野昭利浅野太鼓文化研究所理事長

(2007/05/11 04:32)







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【2007/05/09 13:22】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(4)
日本の子どもたちの顔を見たかった
 ※ 「李登輝さんは若い人たちが好きなのよ」「彼はとてもチャーミングでしょ?」と言う金美齢さんの声が耳から離れません。李登輝先生は昨年訪日の予定が体調を崩されて頓挫しておりました。お年を考えると心配でしたが、昨年のスカラシップの時も退院間もないお体で「日本の子どもたちの顔を見たかった」と笑顔を見せてくれました。

 その後、台湾の総統選を控えて新党を立ち上げたというニュースに触れ、その精神力の強さに明治の志士がダブって感服するばかり。そしてこのたびのニュース。後藤新平賞受賞おめでとうございます。

 これは、直前の訪日計画のニュースときっと関係があるのだと、ひとりほくそえんでおりました。後藤新平の会をその時初めて知ったのですがほんとにいいタイミング。自然体の李登輝先生だからこそ、ついてまわる無理のない幸運なのだと思いました。「奥の細道」の旅の実現、今度こそと祈っております。

 ついでに今年のスカラシップのニュースと、昨年保存しておいた同ニュースをここに並べておきました。この「日本の子どもたちの顔を見たかった」という言葉にノックアウトでしたから。

 しかし。読売新聞の「中国の反発は必至だ」はよけいな言葉だと思います。まるで反発を期待するかのようなその言葉。そこだけが宙に浮いてます。



□ 後藤新平賞に李登輝氏 台湾近代化への貢献を評価
http://www.sankei.co.jp/culture/bunka/070508/bnk070508006.htm

 後藤新平の会(粕谷一希代表幹事)は8日、日本の近代化の過程でスケールの大きな政策を構想・実行した後藤新平の生誕150年を記念して創設した後藤新平賞の第1回受賞者に、前台湾総統の李登輝氏を選んだ。後藤の仕事と精神を継承して台湾の近代化の発展に貢献したことが評価された。授賞式は6月1日午前10時、東京・六本木の国際文化会館岩崎小弥太記念ホールで行われる。

(2007/05/08 19:45)



□ 台湾の李登輝前総統、5月下旬~6月に訪日計画http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070503i317.htm

 【台北=石井利尚】台湾の中央通信は3日、李登輝前総統(84)が5月下旬から6月にかけて日本訪問を計画している、と伝えた。

 関係筋によると、李氏は東京や東北地方を訪れることを希望しているが、具体的な日程は体調などを見て最終決定するという。計画が実現すれば、2004年末以来の訪日となるが、中国の反発は必至だ。

 李氏は昨年9月、6日間の日程で東京などを訪問する準備を進めていたが、「健康上の問題」を理由に延期していた。

(2007年5月4日0時44分 読売新聞)



□ 日台青少年スカラシップ 李登輝前総統を表敬
http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070327/wdi070327002.htm

 【台北=長谷川周人】日本と台湾の青少年が相互理解と交流を図る第4回「日台文化交流青少年スカラシップ」(フジサンケイ ビジネスアイ、産経新聞社主催、行政院新聞局共催)に参加した17人は26日、台北郊外で李登輝前総統(84)を表敬訪問した。李氏は「日本にはまれなる特殊な文化がある。真をもって面する世界一正直なのが日本人なのだ」と話し、中学生から大学生までの参加者を「国を愛せ。人民を愛せ」と叱咤(しった)激励した。

(2007/03/27 15:20)

□ 受賞者14人が李登輝氏と面会 日台交流・青少年スカラシップ


李登輝前総統 平成18年(2006)3月

 

【台北=長谷川周人】日本と台湾の中高生と大学生の相互理解を深める「日台文化交流 青少年スカラシップ」(フジサンケイ ビジネスアイ、産経新聞社主催、行政院新聞局共催)の第3回の受賞者14人が28日、台北市内で李登輝前総統(83)と面会した。

 李氏は今月中旬、風邪の症状を訴えて入院し、24日に退院したばかりだったが、「日本の子どもたちの顔を見たかった」と約1時間半にわたり熱弁をふるった。

 李氏は「国を離れて国を知る。台湾に来て日本がいい国だと目覚めたのではないか」と切り出し、「戦後60年の間に忘れ去られた日本精神」の大切さを訴えた。また国家指導者の条件について、「信念と理想を持ち、困難があっても貫く心が重要だ。人はいずれ死ぬ。限りある時間の中で、精神的なものをどう残すかを考えるべきだ」と語った。

 上智大の向原緑さんは「日本を愛する台湾の人々と出会い、日本人として誇りと自信を取り戻した」と話し、福岡県立太宰府高の鳥羽裕美子さんも「日本統治時代を乗り越え、なお日本に向く熱い思いに戸惑いすら感じた」と感慨深げだった。

(2006/03/28 22:47)sankei




 ※ 続けてこんなニュースを発見しました。お元気そうで何よりです。


□ 「金沢再訪は来年」 台湾・李登輝氏、元気 「奥の細道」訪問、今年は秋田まで
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20070510102.htm

 台湾前総統の李登輝氏は九日、台北市郊外で北國新聞社の取材に応じ、今年五月終わりから六月初めに予定している訪日について「今年は東京から秋田ぐらいまで『奥の細道』を訪ね、来年、金沢を訪れたい」と語った。
 李氏は来年、奥の細道の後半部分を旅する中で金沢へ足を運びたいとし、「金沢では八田與一、鈴木大拙、西田幾多郎について語りますよ」と述べ、講演したい意向を示した。

 昨年、体調を崩し、五回入院したという李氏はこの日、「(心臓の)カテーテル手術を受け、非常に元気。心臓のポンプの力が強い。まだ何年か持ちますよ」と力のある声で語った。 

【2007年5月10日02時42分更新】




 ※ 関連記事です。
 

□ 李登輝前台湾総統、3テーマで講演へ…訪日前に会見
 http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070524id03.htm

 【台北=石井利尚】台湾の李登輝前総統(84)は23日、30日からの日本訪問を前に読売新聞などと会見し、6月9日までの訪問中、「日本の教育と私」「後藤新平と私」「2007年とその後の世界情勢」の三つのテーマで講演することを明らかにした。

 「世界情勢」の講演については、東アジアでの日本と中国の主導権争いや台湾の情勢についても言及する意向を示した。

 李氏は、総統退任後の2度の訪日では、中国政府の反発などに配慮し、講演や記者会見を行わなかった。今回は記者会見も行う。 
(2007年5月24日13時7分 読売新聞)





   

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【2007/05/09 12:35】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(0)
《日本人の精神》 李登輝 -- 幻の講演 --
「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは 「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは
李 登輝 (2003/03)
小学館
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※いつも気の向くままに数冊の本をハシゴ読みする。1冊の本を一気に読みきるほどの速読術も根気も無い筆者は、今日も思いつくままぶつぶつ独り言つぶやきながらハシゴ虫食い読み。この本も洩れなく発売後間もなく嬉々として購入したわりには読みきれていなかったこと判明。そういえば寝不足の頭で何度も居眠りしながらなかなか読み進めなかったことを思い出した。改めて途中から読み返し、その魂のこもった内容に目からウロコが落ちました。(笑)

 読み進みながら(これはぜひとも紹介せねば)と頭をよぎり、紙切れ挿みながらまた読み進めておりましたが、最後まで読み終えて、当初引用するつもりでいた本文は全部伏せておくことに決めました。なぜなら。この本を「引用」などという小技で紹介することは、筆者には無理、おこがましいってこと、独り言つぶやいてしまいましたから。よって内容はタイトルや下に引用する識者らの感想で想像力膨らませて下さいませ。これも数人だけにとどめておきますが。

 しかしそれではあんまりでしょう。したがいまして付録として掲載されている、慶応大学三田祭(平成14年)での、外圧により実現しなかった「幻の講演」の原稿を、全文というわけにはまいりませんが引用させて頂きます。外圧に屈した「武士道」を忘れた当時の日本政府に抗議を込めて。



□ 『日本人の精神』 (慶応大学三田祭・幻の講演原稿) ―― 初出「産経新聞」 2002.11.19日付

◆ 日本人の「自己否定」に心を痛める

 ※この項目は割愛させて頂きました。

◆ 日本人技師・八田興一が台湾に残したもの


八田興一


 台湾で最も愛される日本人の一人、八田興一(はった よいち)について説明しましょう。

 八田興一といっても、日本では誰もピンとこないでしょうが、台湾では嘉義台南平野15万町歩(1町歩はおよそ1ヘクタール)の農地と60万人の農民から神のごとく祭られ、銅像が立てられ、ご夫妻の墓が造られ、毎年の命日は農民によりお祭りが行われています。彼が造った烏山頭(うざんとう)ダムとともに永遠に台湾の人民から慕われ、その功績が称えられるでしょう。

 八田興一氏は1886年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校を経て1910年に東大の土木工学科を卒業しました。卒業後まもなく台湾総督府土木局に勤め始めてから、56歳で亡くなるまで、ほぼ全生涯を台湾で過ごし、台湾のために尽くしました。

 1895年に日本の領土になったころ、台湾は人口約300万人、社会の治安が乱れ、アヘンの風習、マラリアやコレラほかの伝染病などが原因で、きわめて近代化の遅れた土地であり、歴代3代の台湾総督は抗日ゲリラ討伐に明け暮れた時代でありました。

 第4代の児玉(源太郎)総督が民政長官の後藤新平氏を伴って赴任した1898年ごろに、台湾の日本による開発が初めて大いに発展しました。

 八田興一氏が台湾に赴任するのは、後藤新平時代が終了した1906年以降のことです。後藤新平時代に近代化が大いに進んだとはいえ、以前があまりに遅れていたこともあり、八田氏が精力を傾けることになる河川水利事業や土地改革はまだまだ極めて遅れていました。

 台湾に赴任してまもなく、台北の南方、桃園台地を灌漑(かんがい)する農業水路の桃園大●(シュウ=●=土ヘンに川)の調査設計を行い1916年に着工、1921年に完成しましたが、灌漑面積は3万5千町歩でありました。これが今日の石門ダムの前身であります。

 この工事の途中から旧台南州嘉南大●(シュウ=同上)水利組合が設立され、八田氏は総督府を退職して組合に入り、10年間をその水源である烏山頭貯水池事務所長として、工事実施に携わりました。

 嘉南平野15万町歩を灌漑するために、北に濁水渓幹線、南に烏山頭ダム幹線の二大幹線を築造し、曽文渓からの取水隧道(ずいどう)によってダムに1億6000万トンの貯水を行ったものであり、土堰堤(どえんてい)築造工法としてセミハイドロリックフィル(反射水式)工法が採用されました。

 この工事の完成によってほとんど不毛のこの地域15万町歩に毎年8万3000トンの米とサトウキビその他の雑作が収穫されるようになりました。その時分では東洋一の灌漑土木工事として、10年の歳月と(当時のお金で)5千4百万円の予算で1930年にこの事業を完成したときの八田興一氏は、なんと44歳の若さでありました。

 嘉南大シュウの完成は世界の土木界に驚嘆と称賛の声を上げさせ、「嘉南大シュウの父」として60万人の農民から畏敬の念に満ちた言葉で称えられました。

 八田興一氏への恩を忘れないようにしたのは何でしょうか? 古川勝三氏の著作からの引用ですが、八田興一氏があの若さでこの偉大な仕事を通じて台湾に残したものが3つあると思います。

 一つは嘉南大シュウ。不毛の大地といわれた嘉南平野を台湾最大の穀倉地帯に変えた嘉南大シュウを抜きにして八田氏は語れません。
 二つ目は八田氏の独創的な物事に対する考え方です。今日の日本人が持ち得なかった実行力と独創性には目を見張るものがあります。
 三つ目は八田氏の生き方や思想は、我々に日本的なものを教えてくれます。

 これら諸点について具体的な諸事実を並べて話しましょう。


一、まず嘉南大シュウの特徴についてみましょう。

 ①灌漑面積は15万町歩、水源は濁水渓系統5万2千町歩、烏山頭系9万8千町歩。灌漑方式は3年輪作給水法。
 ②烏山頭ダムの規模、堰堤(えんてい)長1273メートル、高さ56メートル、給水量1億5000万トン、土堰堤はセミハイドロリックフィル工法採用。
 ③水路の規模、給水路1万キロ、排水路6000キロ、防水護岸堤防228キロ。

 このような巨大な土木工事をわずか32歳で設計に取りかかり、34歳で現場監督として指揮をした八田氏の才能には頭が下がります。戦後の日本における近代農業用水事業の象徴である愛知用水の10倍を超える事業なんだと考えれば、うなずけるものと思います。

 そして烏山頭は東洋唯一の湿地式堰堤であり、アメリカ土木学会は特に「八田ダム」と命名し、学会市場で世界に紹介したものです。

 しかし嘉南大シュウが完成しても、それですべてが終わったというわけにはいきません。ハードウェアは完成しましたが、それを維持管理し有機的に活用するためのソフトウェアが大切です。農民はその大地を使って農作物を作り、生産力を上げなければ嘉南大シュウは生きたものになりません。

 農民の技術指導が連日、組合の手によって繰り返されました。その甲斐あって3年目には成果が顕著になってきました。かくして不毛の地、嘉南平野は台湾の穀倉地帯に変貌を遂げたのです。

 その成果には、

 ①農民が被る洪水、干ばつ、塩害の三重苦が解消したこと。
 ②3年輪作給水法によって全農民の稲作技術が向上したこと。
 ③買い手のない不毛の大地が給水によって地価が二倍、三倍の上昇を招き、全体では9千5百40万円もの価値を生んだ。この金額は当時の全工事費を上回る金額であった。
 ④農民の生活はこれによって一変し、新しい家の増築や子供の教育費に回す余裕がでてきた――ことがあげられます。

二、次は八田氏の独創的なものの考え方を述べなければなりません。以上述べた嘉南大シュウの巨大な工事に対して、当時として常識はずれの独創的方法が採用されました。

 その一つはセミハイドロリックフィル工法の採用です。この方法は東洋では誰も手がけたことがなく、アメリカでさえもこのような大きな規模の工事では採用されていなかった。この工法を採用したのには、それなりの理由がありました。

 まず地震です。この地帯は断層があちこちに発生しており、地震強度は6以上もあります。この工法は粘土による中心羽金層を堰堤(えんてい)の中心に造り、浸透水を遮断して堰堤の決壊を防ぐアースダム方式です。この工法を遂行するには、300万トンの大量の土砂と中心羽金層を造る微細な粘土を必要としますが、この地域にはこれを供給する場所がありました。

 この未経験の工法を採用するに当たり、徹底的な机上の研究とアメリカ視察を行いました。そして、この工法の採用と設計が間違いでない確信を持って工事にとりかかったのです。

 また、コンクリートコアの高さと、余水吐をめぐって、セミハイドロリックフィルダムの権威者ジャスチンと大論争しますが、自説を譲らず、設計どおりに構築しました。70年経過した今日でも、堰堤は1億トン以上の水を堰(せ)きとめて、八田ダムの正確性を証明しています。

 二つ目は大型土木機械の使用です。労働力のあまっている時代としては常識はずれでした。大型機械の使用については組合や当時の請負業者が反対していました。購入予算は4百万円に達し、堰堤工事と烏山頭隧道工事費の25%にあたります。

 八田氏の意見は、これだけの堰堤を人力で造っていては10年どころか20年かかってもできない。工期の遅れは15万町歩の土地が不毛の土地のまま眠ることになる。高い機械で工期が短縮できれば、それだけ早く金を生む。結果的には安い買い物になる――というものでした。

 この考え方は当時としては偉大な見識と英断と見なければいけないでしょう。これら大型土木機械はその後の基隆港の建設と台湾開発に非常な威力を発揮しました。

 三つ目は烏山頭職員宿舎の建設です。「良い仕事は安心して働ける環境から生まれる」という信念のもとに、職員用宿舎200戸の住宅をはじめ、病院、学校、大浴場を造るとともに、娯楽の設備、弓道場、テニスコートといった設備まで建設しました。

 それ以外にまたソフトウェアにも気を配り、芝居一座を呼び寄せたり、映画の上映、お祭りなど、従業員だけでなく家族のことも頭に入れて町づくりをしています。工事は人間が行うのであり、その人間を大切にすることが工事も成功させるという思想が、八田氏の考えでした。

 四つ目は3年輪作給水法の導入です。15万町歩のすべての土地に、同時に給水することは、1億5000万トンの貯水量を誇るとはいえ、烏山頭ダムと濁水渓からの取水量だけでは、物理的に不可能でした。

 ならば当然その給水面積を縮小せざるを得ないと考えるのが普通ですが、八田氏の考えは違っていました。土木工事の技術者はダムや水路を造りさえすれば、それで終わりであると八田氏は考えなかったのです。

 ダムや水路は農民のために造るのであれば、15万町歩を耕す農民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に増え、生活の向上ができて初めて工事の成功があると考えていました。

 そしてそのためには、すべての土地を50町歩ずつ区画し、150町歩にまとめて一区域にして、水稲、サトウキビ、雑穀と3年輪作栽培で、水稲は給水、サトウキビは種植期だけ給水、雑穀は給水なしという形で、一年ごとに従事栽培する方法を取りました。給水路には水門がつけられ、50町歩一単位として灌漑してきたのです。


◆ ソーシャル・ジャスティスを実践

 最後に、雄大にして独創的工事を完成させた八田興一とはどんな人だったのか、そこに焦点を当てて考えて見ましょう。

 八田興一氏は技術者として抜群に優れていたばかりではなく、人間としても優れていました。肩書きや人種、民族の違いによって差別しなかったのです。天性ともいえるかもしれませんが、これを育んだ金沢と云う土地、いや日本という国でなければかかる精神がなかったと思います。

 嘉南大シュウの工事では10年間に134人もの人が犠牲になりました。嘉南大シュウ完成後に殉工碑が建てられ、134人の名前が台湾人、日本人の区別なく刻まれていました。

 関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必要に迫られたことがありました。そのとき、八田氏は幹部のいう「優秀な者を退職させると工事に支障がでるので退職させないでほしい」という言葉に対し、「大きな工事では優秀な少数の者より、平凡な多数の者が仕事をなす。優秀な者は再就職が簡単にできるが、そうでない者は失業してしまい、生活できなくなるではないか」といって優秀な者から解雇しています。八田氏の人間性をあらわす言葉でしょう。八田氏の部下思いや、先輩や上司を大事にすることでは、数え切れないほどエピソードがあります。

 八田氏は1942年3月、陸軍からの南方開発派遣要員として招聘されます。その年の5月7日、1万4000トンの大型客船「大洋丸」に乗ってフィリピンへ向かう途中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃に遭い、大洋丸が沈没。八田氏もこのため遭難しました。享年56歳でした。

 妻の八田外代樹(とよき)は3年後、戦争に敗れた日本人が一人残らず(台湾から)去らねばならなくなったときに、烏山頭ダムの放水口に身を投じて八田氏の後を追いました。御歳46歳でした。

 私の畏友、司馬遼太郎氏は『台湾紀行』で、八田氏について、そのスケールの大きさをつぶさに語りつくしています。

 私は八田興一によって表現される日本精神を述べなければなりません。何が日本精神であるか。八田氏の持つ多面的な一生の事績を要約することによって明瞭になります。

 第一のものは、日本を数千年の長きにわたって根幹からしっかりと支えてきたのは、そのような気高い形而上的価値観や道徳観だったのではないでしょうか。

 国家百年の大計に基づいて清貧に甘んじながら未来を背負って立つべき世代に対して、「人間いかに生きるべきか」という哲学や理念を八田氏は教えてくれたと思います。「公に奉ずる」精神こそが、日本および日本人本来の精神的価値観である、といわなければなりません。

 第二は、伝統と進歩という一見相反するかのように見える二つの概念を如何にアウフヘーベン(止揚)すべきかを考えてみます。

 現在の若者はあまりにも物質的な面に傾いているため、皮相な進歩にばかり目を奪われてしまい、その大前提となる精神的な伝統や文化の重みが見えなくなってしまうのです。

 前述した八田氏の嘉南大シュウ工事の進展過程では、絶えず伝統的なものと進歩的なものを適当に調整しつつ工事を進めています。3年輪作灌漑を施工した例でも述べたように、新しい方法が取られても、農民を思いやる心の中には伝統的な価値観、「公義」すなわち「ソーシャル・ジャスティス」には些かも変わるところがありません。

 まさに永遠の真理であり、絶対的に消え去るようなことはないものです。日本精神という本質に、この公義があればこそ国民的支柱になれるのです。

 第三は、八田氏夫妻が今でも台湾の人々によって尊敬され、大事にされる理由に、義を重んじ、誠をもって率先垂範、実践躬行する日本的精神が脈々と存在しているからです。日本精神の良さは口先だけじゃなくて実際に行う、真心をもって行うというところにこそあるのだ、ということを忘れてはなりません。

 いまや、人類社会は好むと好まざるとにかかわらず、「グローバライゼーション」の時代に突入しており、こんな大状況の中で、ますます「私はなにものであるか?」というアイデンティティーが重要なファクターになってきます。この意味において日本精神という道徳体系はますます絶対不可欠な土台になってくると思うのです。

 そしてこのように歩いてきた皆さんの偉大な先輩、八田興一氏のような方々をもう一度思い出し、勉強し、学び、われわれの生活の中に取り入れましょう。

 これをもって今日の講演を終わらせてもらいます。ありがとうございました。



□ 私は本書をこう読んだ

 ●阿川弘之・・・作家
 「昔の日本の良いところは台湾に残ってゐる」とは、よく言はれることだが、それをしっかり身につけた代表的人物をひとり選ぶとすれば、やはり李登輝前総統であらう。忠誠心、勇気、礼儀正しさ、慈愛の心等々、その「良いところ」を総合象徴するものとして、李登輝先生はいつも、新渡戸稲造の著書『武士道』をお挙げになる。かつて台湾総督府の農業関係技師をつとめた新渡戸博士のやうなり理想家肌の学者、技師、教育者たちが、20世紀前半、台湾のせいねんたちの胸に、直接間接、台湾近代化、自由化、大発展の希望の灯をともしたのである。本国の日本で、昔の良さが失はれつつあるこんにち、今度は私たちが、台湾の人から理想の灯をともしてもらはねばならぬ。「日本人よ、やまとごころを取り戻せ」と、前総統が諄々説いて止まない此の一冊は、21世紀の日本人必読の書と讃へても過言ではあるまい。

 ●石原慎太郎・・・作家
 国家ヘの愛情が失われて久しい。政治も、行政も、経済も、外交も、社会全体が朽ち果てていく今の日本の姿を、多くの日本人はただ、ただ、傍観するのみである。台湾の李登輝前総統――私の知己で敬愛する政治家のひとり――がそんな日本にメッセージを投げかけてくれた。『「武士道」解題』は情けない現代日本人への警世の書である。

 ●金美齢・・・台湾総統府国策顧問
 日本人クリスチャン新渡戸稲造が英語で著した『武士道』を、台湾人クリスチャン李登輝が日本語で読み解く。二人の国際人が考えるノーブレス・オブリージュ。このストイックな精神が日本を再生させ、台湾を自立させる。これこそ21世紀のバイブルである。

 ●小林よしのり・・・漫画家
 「存在の虚無」になど惑わされず、自分の存在をこの時代に刻み込みたい、命を大きく使ってみたいと願う若者にとって、必読の書である。敗戦後、占領統治によって破壊された日本の教養が、李登輝という偉人の中には、明瞭に残っているのだから。

 ※以降省略させて頂きました。


 



 

 

 

 

 
【2007/05/07 17:08】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(0)
《憲法記念日》 「新憲法」制定は日本の悲願?
 ※ 現在の日本国憲法は、1946年11月3日公布、1947年5月3日に施行され、ただの一度も改正されることなく、今年60周年を迎えました。

 「憲法記念日」を翌日に控えた5月2日のこと、下に引用したように「新憲法大綱案」のニュースが飛び込んできました。今、国会で「改正法案」の綱引きの最中であるのに、それを飛び越えた「新憲法」論議の出現に多くの国民が驚いたことと思います。
 
 そこで、今回は現行憲法(日本国憲法)の成り立ちについて調べなおしてみたところ、興味深い「数字の一致」が見えてきました。では以下の数字(月日)を、じっと目を凝らして見つめてみて下さい。

 ○  4月29日  東京裁判「起訴状」 公布
 ○  5月 3日  東京裁判 開廷
 ○ 11月 3日  日本国憲法 公布
 ○ 12月23日  東京裁判 死刑執行

 何故ここで「東京裁判」であるのかと奇異に思われた方は、現行憲法がGHQ占領下政策のもとに制定されたものであることを踏まえ、拙エントリー「世界の識者が見た東京裁判」をご参考下さい。

 もうほとんどの方が気づかれたことと思いますが、それぞれ、日本の祝日と記念日に重ねられております。「重ねられて」というのがミソでございます。

 では、その「重ねられて」を実感してみましょう。

 ○  4月29日  東京裁判「起訴状」 公布 -- 昭和天皇誕生日
 ○  5月 3日  東京裁判 開廷 -- (現行)憲法記念日
 ○ 11月 3日  日本国憲法 公布 -- 明治天皇誕生日
 ○ 12月23日  東京裁判 死刑執行 -- 今上天皇誕生日

 現行憲法を平和憲法と教えられてきた国民の多くは、憲法の改正や新憲法論議は「不穏な動き」として映ることでしょう。

 確かに、憲法9条の文言は平和そのものです。9条を守ろうとする護憲派の論調で目立つものに「9条があったからこそ平和を守れたんだ」というのがあります。果たしてそうなのでしょうか。もしそれが本当なら、どうして世界中のすべての国家が採用しないのでしょうか。

 この怪しげな「憲法記念日」をきっかけに、更に論議が深まり、日本の正義の回復と「新憲法記念日」制定の日を待ち、その推移を見守りたいと思います。願わくば筆者の目の黒いうちに。 

 

□ 防衛軍に国益条項… 超党派議員が「新憲法大綱案」
http://www.sankei.co.jp/seiji/seisaku/070502/ssk070502003.htm

 超党派の保守系国会議員有志でつくる「新憲法制定促進委員会準備会」(座長・古屋圭司自民党衆院議員)は2日、現憲法を全面改正するための「新憲法大綱案」をまとめた。準備会は「党派を超えて団結し、新憲法の制定に向けて具体的な行動を開始する」(提案趣意書)方針で、大綱案を改正論議のたたき台と位置づけている。

 大綱案は、平和主義を堅持し、「防衛軍」の保持と集団的自衛権の行使を容認した。武力攻撃やテロ、大規模災害時への備えとして首相に一時的に非常措置権を与える「国家非常事態条項」の新設を盛り込んだ。

 また、「国家の主権、独立および名誉を護持し、国民の生命・自由・財産を保全することが国家の最重要の役割」として、国の領域の保全や資源、環境の保護を促す国益条項を創設することを打ち出した。

 天皇については、象徴天皇制を維持しつつ元首と明記する。また、昨年の皇室典範改正問題の混乱を踏まえ、現憲法で「世襲」(第2条)と定める皇位継承について、世襲に加え「皇統に属する男系男子」の要件を新憲法に明記することにした。

 前文は、歴史や伝統的価値観など国の特性、国柄を継承発展させていくことを宣言するものと位置づけ、国民主権の議会制民主主義▽基本的人権の尊重と、国民が権利や自由を公共に役立てる▽国の主権・独立・名誉の擁護と世界平和の希求-などを国の基本原理とした。

 「準備会」は自民党の萩生田光一、今津寛、民主党の松原仁、笠浩史、

国民新党の亀井郁夫、無所属の平沼赳夫-の各氏ら国会議員25人で構成。3日午後1時から東京都千代田区平河町の砂防会館別館で開かれる民間憲法臨調主催の公開憲法フォーラムで正式発表する。

(2007/05/02 16:35)


□【正論】東京工業大学名誉教授・芳賀綏 先人たちの無念さ生かせない憲法草案
http://www.sankei.co.jp/news/060103/morning/seiron.htm

無色無味な前文など必要ない

≪味気ない文嘆いた犬養健≫

 昨秋、自民党の結党五十年に際し、久しい懸案の新憲法草案が発表された。議論百出すべき年明けだ。冒頭の「前文」を読むうち、敗戦の翌年の議場がよみがえった。

 第一次吉田内閣のもとで現憲法案が衆議院を通過した昭和二十一年八月二十四日、本会議で賛成討論に立った議員の一人、犬養健(日本進歩党)は、演説の冒頭部分で憲法前文に言及して述べた。

 「これを一読致しますにつけ、われわれは、口語体としてのわが日本語が、殊に法律に関して用いらるる場合、いかに未(いま)だ成熟の途にあるかを痛感致したのでありまして、将来とも幾多の文学の天才が出現致し、あらゆる形において縦横の表現を試み、これによってわれらの日本語に、さらに多角的にして豊富なる魅力を加えんことを期待致すのであります(拍手)」

 憲法原案が日本製でないことを言外に言い、味気ない、魅力のない日本文であることを嘆いたものだ。

 そして貴族院本会議でいよいよ憲法が成立する十月五日、改正案特別委の委員長報告に立った安倍能成(哲学者、元文相)の発言は一段と率直だった。「前文については、特にその文章の生硬未熟なことが指摘せられまして、また内容としては、さらに積極的な雄健明朗な、これからの日本国民を立たしめるような、そういう性格を与えるための内容の改正や充実も提案されましたが、これは政府の容るるところとはならなかったのでありました」

≪素案無視した自民党の愚≫

 このように、急ごしらえ憲法の底の浅さと生煮え加減を、とりわけ前文について批判した良識の声が、改正の機会には当然生かされるはずだった。前文は「雄健明朗」な内容になって国民の高朗な志が表明され、「英文直訳体としては文句なしの模範文」などと皮肉られた現行前文と違って、豊かに蓄積された日本語の伝統の粋が示されるかと思った。

 今度の自民党案ではその期待がかなえられたか。否。「象徴天皇制は、これを維持する」などと、現憲法からの事務引き継ぎ風の投げやりな文言を含んで、依然として総体にぎこちなく、生気がない。起草者たちの声が響かず、国づくりの感激が伝わらない。各章各条の要点を掃き寄せた“ご用とお急ぎ”向け便覧を、コンピューターの作った声が伝えるような無感動なものだ。六十年昔の先人の批判に応える英知の重みや味わいを感じない。

 新憲法起草委員会の素案では、前文で日本の国土、自然、歴史、文化など国の生成発展に言及し、格調ある文章にすると目指していたはずだが、聞けば党大会での発表前に排除されてしまったという。前文が無色無味化したことの苦しい弁明か、「各国に共通の普遍の原理を掲げるのだから日本的な色合いは不要」といった説明も聞かれた。“普遍の原理”の根本議論に立ち入る紙幅はないが、仮に普遍の原理にせよ日本人が日本語で謳(うた)うのである。

 国際人・新渡戸稲造の表現を借りるなら“民族の音色(ねいろ)”が、静かな裡(うち)にも凛(りん)として響き、みずみずしい日本文になるのが自然である。

≪民族の個性白眼視する気風≫

 昭和三十年代のテレビで宮沢喜一氏(当時参議院議員)がいみじくも「英語で話すことは英語で考えることですから、英語で話していると日本がはみ出してしまいます」と語った通りの“日本はみ出し文体”の残像を引きずる粗雑な文章で新憲法とは無理だ。

 日本はみ出し様式を安易に踏襲したことについて、“日本人らしさ”におごるのは不要(不可?)という意味の説明もあったが、日本人らしさはことさら誇示されるのではない。背伸びし、ふんぞり返った自己顕示ではなく、民族の心のヒダの深みからおのずとにじみ出るものだ。“国柄”の自然の流露である。「文は人なり」なのだ。

 戦後の教育では、二言目には“個性的な人間”を育てるというくせに、民族や国の個性を白眼視し、ユニークな国語の持ち味への鈍感さを放置するのは、ひどい矛盾撞着(どうちゃく)ではないか。素案にありながら否定された重要部分は、憲法の根本原理や個々の条章が実践される舞台としての国土と、国民の人となりが育んだ伝統を一言に語るもので、どんな人間たちがどんな環境で憲法を生み、担うかを、潤いのある文体で表明することは危険でも過激でもない。

 内外各方面に対する政治的配慮から、それすら抑制するというのなら、いっそ前文のない憲法で出直したらどうだ。明治憲法は、表現は簡潔雄渾、前文など付いていなかった。(はが やすし)

(2006.1.3)






   

  

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【2007/05/04 08:36】 | 【祝日・記念日】 | トラックバック(1) | コメント(6)
ウクライナの教科書と伝統文化
 ウクライナ国旗
 ※一言でウクライナ(人)を形容するなら、「自国の伝統を大切にする素朴な国民性を持った国あるいは国民である」と述べたのは、在ウクライナ日本大使の馬渕睦夫氏。
 さて、ウクライナとはどんな国なんだろうか、どこにあるのだろうかと思われた方、筆者と同類であります。

 ウクライナは、旧ソ連から悲願の独立(1991)を果たしてまだ16年、それ以前もずっと他国(帝政ロシア・ポーランド・リトアニアなど)の支配を受け続けたという苦難の歴史があります。にもかかわらず、その伝統文化を守り続けたことに、馬渕大使は驚き感銘を受けます。そして、そのことが「国家(民族)の存亡」において、いかに大切な要素であるかを知ります。

 今回筆者は、現在ウクライナの教科書で、日本の伝統文化がことのほか詳しく紹介され、教材として高く評価されていること、また、自国の伝統文化を守ることの大切さを、以前馬渕大使が話されていたことを思い出し、調べなおしてみました。以下、馬渕大使のお話のまとめとインタビュー記事です。 

  □ 小学5年生の教科書
 
 約2センチもの厚みの「外国文学」の教科書で、ヨーロッパ文学(ゲーテ・アンデルセンなど)に混じって日本文学(松尾芭蕉)が含まれている。(東洋からは日本だけ)

 ○○について、例えば何をどう教えるかということについて、それぞれのしっかりとしたカリキュラムがある。
 
 《松尾芭蕉の場合》

 ・自然を人格化するのは日本文学の特徴である。
 ・自然はインスピレーションの基であって、自然の描写によって日本人は自分の気持ちを表す。
 ・平凡の中に日本人は美を探す。
 ・精神性と物理的な世界との間の調和を日本人は大切にする。
 などを調べ上げて、それをもとに松尾芭蕉の俳句を学習する。(わび・さび・もののあはれ、など)
 
  □ 高校2年生の教科書

 川端康成の『千羽鶴』が必須科目となっている。
 その経緯は、川端康成のノーベル文学賞の受賞演説「美しい日本の私」の中の(自分は日本の「美」により生まれた)に注目し、その「美」を学ぼうということから採用されるに至った。
  
 『千羽鶴』からは、「小説における民族的な倫理感および「美(学)」の原理を学ぶ」とあり、そこから日本の国民性を評価してくれている。つまり、倫理感が高い・教養があり規律正しい・人間関係を重視する・相手を尊敬し伝統を大切にする、国民だと見てくれている。

  □ 馬渕大使 談

 「本来『千羽鶴』の時代の日本人はそうだったが、現在はどうか。考えると少し恥ずかしくなるんです」
 

 ●馬渕大使がウクライナの教育を実感した時の話

 昨年のウクライナにおける「日本月間」(3ヶ月)で、40種の様々な日本の文化行事を紹介した時のこと、取材に来た有名新聞(デニ紙)が日本特集の冊子を作ってくれたのだが、その表紙(ぞうりと扇子の写真)のタイトルが「調和」の一言だった。
 なぜなら、事前のインタビューの中で、大使がこの文化月間のテーマ、メッセージが「調和」であることを述べていたからであるが、彼らが素直に「調和」を理解できるのは上記のように小学生の頃から学んできたからに他ならない。
 
 文化行事は結局大成功に終わり、大使は最後の挨拶でなぜ成功したかについて、「ウクライナの方々の日本文化に対する関心の高さが最大の原因です」と述べた。

 現在ウクライナの大学で、日本語を学ぶ学生の数は2000人にのぼる。因みに、近隣国のイタリア語を学ぶ学生の数は、半分の1000人である。

  □ 馬渕大使 談

 「なぜ日本の文化に関心を持てるのかというと、ウクライナの人々が自国の伝統文化を非常に大切にしているからなのです。ですから、他国に対しても関心を持ち、それを評価し、あるいは尊敬することができるのです。
 そう考え日本のことをふり返ってみると、自虐史観とかと言われています。結局これのどこに問題があるかというと、自虐史観で教育を受けますと、他国に対する尊敬も出てこないと、つまり自国の伝統文化を大切にしようという気持ちが育たないと、他国のそれを大切にしようという気持ちがそもそも出てこないわけです。
 ですから、もし今、この戦後の自虐史観の教育が行われているとしたら、これは日本を、ますます世界から孤立させていく教育ではないか、という心配をしているわけなんです」

  □ ウクライナにおける日本の援助の効果について

 援助の額としては非常に少ないにもかかわらず、評価は非常に高い。
例えば、わずか4~500万円の援助(草の根人間の安全保障基金)であっても、とても感謝してくれると同時に、ウクライナの人々はそれをきっかけに自分たちも何かしなければいけないということを口にし、また、実際に行動をおこす。
 いわば「呼び水効果」(持続的発展)がある。これは、ウクライナの文化水準・倫理感の高さを表している。


 ※ 以下、「在ウクライナ大使館」HPからの長い引用になるが、いつか削除されるかと思うともったいないので全文引用させて頂いた。


□ 馬淵大使による日・ウクライナ関係に関するインタビュー記事http://www.ua.emb-japan.go.jp/J/Relations/ukrslovo.htm

「ウクラインスケ・スローヴォ」(ウクライナの言葉)新聞
2007年2月14日~20日付第7号
著者:リュドミーラ・チェチェリ

ウクライナの宝物と日本のかぎりない優しさについて

一年と少し前に在ウクライナ特命全権大使に馬渕睦夫氏が任命された。これまで日・ウ国交樹立以降、日本の対ウクライナ無償資金供与の総額は143.8百万ドルに達し、うち、昨年だけで総額204,941ドルに上る6つの無償協力プロジェクトが行われた。チェルノブイリ関係及び医療分野のプロジェクトが2つ、障害児教育のプロジェクトが1つ、教育機関に対する援助が2つ、ホームレス関連の援助が1つである。また、昨年は文化無償としてドネツク国立オペラ・バレエ劇場に対し630千ドル相当の照明機材が寄贈されるとともに、ウクライナ国立工科大学「KPI」にウクライナ日本センターが開設された。

日本とウクライナは地理的には遠く位置するが共通点が1つある。それは両国民が長年の歴史の中で様々な民族の文化を取り入れ豊かでユニークな文化を作りだしたことだ。そして、このことが両国の文化に対する相互尊敬と相互理解の基盤となっている。

今日のゲストは馬渕睦夫在ウクライナ特命全権大使です。


貴館が行っているイベントには何度も参加させて頂いています。貴大使は他国の大使と違ってウクライナ語を話されますね。



 ウクライナ語は勉強を始めたばかりですので、通訳を介さずに全てのご質問に答えられるかまだ自信がありません。実はウクライナ大使に任命されることを知ってすぐウクライナ語を習い始めました。なぜなら15年前独立したウクライナ国民にとってウクライナ語はウクライナ国民のアイデンティティーの基礎であるからです。ウクライナとその国民をより深く理解するためにウクライナ語を学んでいます。



大使にとってウクライナ語は難しいですか。



 確かにウクライナ語は外国語なのでその意味で難しいですが、ウクライナ語の響きがとても気に入っています。ウクライナ語の音楽なような調べを聞くと心が温かくなります。



ウクライナ語の歌も聞いていらっしゃいますか。



 はい。特に民謡が好きです。民謡には時に悲哀を感じますが、その悲しみは絶望的なものではなく肯定的な悲しみで、耳に心地よい悲しみですね。この肯定的な悲しみこそが両国の民謡の共通点だと思います。



ウクライナの第一印象はいかがでしたか。良かった点と悪かった点をお教えください。



 最初に感じたのは、ウクライナは非常に豊かな国だということです。ウクライナは広大で肥沃な国土、豊かな天然資源、優れた人材に恵まれています。また、ウクライナ人は自国の文化、歴史を大切にしています。だからこそウクライナは豊かな国だと思うのです。

 例えばキエフです。素晴らしい偉大な都市です。建築だけでなく街のもつ雰囲気も素晴らしいと思います。このような美しい都市にはきっと心のきれいな人々が住んでいると思います。ウクライナ国民の魂の現れではないでしょうか。

 勿論欠点はどの都市・国にもあるもので、良い点に目を向けた方がいいと思っています。あえて欠点を挙げるとすれば、ウクライナの美しさを気づかないウクライナ人がいるということでしょうか。



幼い頃、現在の職業を選んでこのような世界を目にすると考えておられましたか



 私は中学校3年生、14歳ぐらいの時、国連副事務総長のラルフ・バンチ氏に関する興味深いドキュメンタリーを見ました。彼はパレスチナ住民の救援に精力的に活動した人間です。このドキュメンタリーを見て私の世界観が全く変わりました。平和や世界の幸福のために何かしたいと思ったのです。



それで現在の道を選ばれたのでしょうか。



 正直に言うとその時は外交官になりたいとは思いませんでした。ただ世界に出て平和のために色々な人と一緒に働きたいと思いました。



今では世界や自分にとって新しい国を知るという喜びが出てきて...



 そうですね。他の国の文化に触れることができて本当に嬉しく思います。人々と出会い、彼らがどのように何のために生きているのか、どのように考えているのか理解する機会を得ることが出来ました。そして彼らの抱える問題、時には不幸を見ることもありますが、彼らのお陰でこれら全てを感じとり自分の世界観を広げることができました。これにより私の人生が豊かになったと思っています。



芸術家、政治家として活躍しているウクライナ人女性をどのように思われますか



 ウクライナは男女不平等な社会だとは思いません。例えば、ウクライナでは女性の政治家は非常に積極的に活動し、成功しています。例えば、ティモシェンコ元首相が良い例です。

 また、ウクライナには芸術活動に携わる女性も沢山おられますが、昨年、当館が「日本月間」を開催した際、芸術分野で活躍している女性が数多く参加して下さいました。イベント参加者は男性より女性がずっと多かったです。



ウクライナ人はウクライナがEU加盟すること望んでいますが、右につきどのようにお考えですか



 ウクライナ人がEUに加盟したいと思う気持ちはよく分かります。例として次のような歴史的事実を挙げましょう。キエフ・ルーシはヨーロッパの偉大な国で、私が知っている限り、キエフは当時ヨーロッパの一番大きな都市で、4万人の人口を擁し約400の教会が町にはありました。おそらく当時、一人当たりの教会数は最も多かったのではないでしょうか。
 勿論、ウクライナ人のヨーロッパ志向については理解していますが、ヨーロッパの国々以外にも世界には日本を含め協力関係を築くことができる国があることを決して忘れないで欲しいと思います。ウクライナがEUに加盟する際にもウクライナ人は自分たちの独自性を失って欲しくないと思います。



日本もウクライナも同じ悲劇を体験しています。ウクライナではチェルノヴィリ原発事故、日本では広島と長崎が原子爆弾によって壊滅されました。ウクライナで事故が発生した際、日本は真っ先に我が国に援助してくれた国の1つで、最大の援助国ですね。



 そうです。日本人は真摯にチェルノヴィリ被災者に共感しています。62年前日本は原子爆弾による悲劇にあいました。他の国民ではなく日本人こそがウクライナとその痛み・悲しみに共感できると思っています。だからこそ日本による援助は他の国の援助と異なるのだと思います。



先ごろ「ウクライナにおける日本月間」が終了しました。数あるイベントのうち何が一番印象に残りましたか



 実は、ウクライナでは日本文化に深い関心を寄せる人の数が非常に多いということが一番印象に残りました。また、それはなぜかということを自分なりにじっくり考えて答えを見つけました。
 私が思うには、ウクライナ人は自国の文化と伝統を尊敬し大切にしているからこそ、他の民族の習慣や文化に深い関心を示しているのです。「日本月間」の行事を終えて東京の外務省に報告書を送りましたが、「日本月間」の成功の要因はウクライナ人の日本文化に対する深い関心であったと報告しました。



日・ウ間の双方向の観光の可能性についてどのように考えていらっしゃいますか。また、最近日本からの観光客、またウクライナからの観光客の数は多いでしょうか。



 私は両国の観光産業、特に日本人観光客招致は将来性があると思っています。それは先ほど申し上げたようにウクライナは美しい国で豊かな観光資源があるからです。

 海外を訪れる日本人観光客の数は1700万人にも上ります。うち約5万人がスロバキア、14万人がチェコ、6万人がポーランドを訪れています。昨年ウクライナを訪れた日本人は約5-6千人ですが、将来は5万人程度まで増えてほしいと思っており、また、それは可能だと思います。
 私は日本人観光客がウクライナの素晴らしい景色や風景を見たり、買い物をしたりするだけでなく、ウクライナ人の生活やウクライナ民族のもてなしの心、ウクライナ人が自国の文化を大切にしていることなどを感じてほしいと思います。私の考えでは、観光とは何か物質的なことだけでなく、他の国民の独自性やオリジナリティーに触れる事だと思っています。



ウクライナのどこに行かれましたか。どこが一番印象的でしたか。



 リヴィフ、チェルニギフ、ジトミル、チェルノヴィリ地帯、オデッサを訪問しましたし、先日、イワノ・フランキフシクから帰ってきたばかりです。どの町も気に入りました。それぞれ異なりますが、全て独特の魅力があります。



ウクライナではお友達が出来ましたか。



 はい。友人を数多く得ることが出来ました。それは個人的な関係だけではなく、大使館が行なう様々な行事を積極的に手伝って下さる日本語講師や日本語を勉強している学生たちも含まれます。そういう意味で、リュドミーラさんも私のお友達ですね。日本をよくご理解下さり数多くの日本文化事業をウクライナ人にご紹介して下さっています。



余暇はいかがお過ごしですか



 よく聞かれる質問ですが、私にとっては仕事と趣味は同じもので、全て私の人生です。つまり、仕事でも暇な時間に何かをしている時も、常により良い人間になりたいと考えています。



お好きなウクライナ料理(日本料理)は何ですか? 最近ウクライナでは日本料理レストランがどんどん増えていますが、それらは本当の日本料理と言えるでしょうか



 好きなウクライナ料理はたくさんあります。全ての名前は思い出せないですが、一番好きなのは多分ボルシチです。ボルシチを食べると「これぞウクライナ」と思います。勿論日本料理も好きで、一番好きなのは寿司です。

 確かに、日本料理レストランが数多くできました。キエフだけでその数は約40軒に達していると伺っています。残念ながら、全ての店に日本人シェフがいる訳ではありませんが、ウクライナ人コックが日本料理を作ろうとしていることは良いことだと思っています。

 それに関連して2月末にキエフでレストラン・フェスティバルが行なわれますが、公邸で働いている私の個人的なシェフが伝統的な日本料理の作り方をご紹介します。右はウクライナ人調理師のための日本料理講習会です。



インタビュー終了後、馬渕在ウクライナ日本国特命全権大使は有名な日本の作家、芥川龍之介の短編集『蜘蛛の糸』を私にプレゼントして下さり、特に日本を理解する上で『神々の微笑』という作品を必ず読むようにと仰った。実をいうと翻訳者イワン・ジューブ氏による短編集は既に何度も読んでおり自分の友人などにも薦めている。これを読むと、日本に対して愛情がわき上がる。自国を本当に愛している人間だけがこのような素晴らしい作品を生み出すことができるのではないだろうか。

(了)



 



 ☆松尾芭蕉の関連本

 ☆川端康成の関連本

 ☆芥川龍之介の関連本

【2007/05/02 17:44】 | 【ウクライナ】 | トラックバック(0) | コメント(2)
しゃばだば近代国史帖


日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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Author:娑婆妥場
この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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