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台湾の帰属は未確定
 ※記事は、中国側は台湾が中国の一部だとする根拠の一つに「カイロ宣言」を挙げているが、それは「宣言」ではなく法的拘束力に欠ける「プレス・コミュニケ(公報)」であり、台湾の帰属は講和条約以降、「未確定」であるという台湾の主張(論争)が、台湾の教科書に反映されたという内容。
 もとより、「カイロ宣言」や「ヤルタ会談」は、連合国の一方的な日本の領土への不法介入ですから、法的拘束力は無いものと思われますが。



□歴史再評価、台湾で一歩 教科書刷新
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/061221/chn061221000.htm

 【台北=長谷川周人】台湾の高校歴史教科書が、今年9月から使われている改訂版で様変わりした。古代王朝に始まる「大中国主義」の歴史観を貫くこれまでに対し、改訂版では台湾史を中国史から切り離し、系統的に学ぶ。日本の台湾統治が「章」として初めて取り上げられ、インフラ整備などプラスの側面にも言及されている。史実を客観視しようとする姿勢は、台湾の歴史再評価を促す一歩となりそうだ。

 改訂版は台湾の独自性を強調する陳水扁政権の教育指針を反映している。最大野党・中国国民党は「中華民国が中国全土の正統政権」という建前から教科書の改訂について「祖国の歴史を分断するものだ」と反発してきた。

 しかし、民主化と「台湾化」が進む中、李登輝前総統は1997年、中学1年の教育課程に「認識台湾(台湾を知る)」という科目を導入。実質的に初めて授業で台湾史が取り上げられた。この第二弾として陳政権は高校生が必修科目で使う歴史教科書の抜本改定に踏み切った。

 新しい教科書は8冊が当局検定を通過し、うち5冊が実用化されたが、国民党政権下ではタブー視されてきた軍による住民弾圧の「二・二八事件」(1947年)や民主化活動家が弾圧された美麗島事件(1979年)などを詳述。一方で台湾独立の根拠となる「地位未確定論」にも言及している。

 台湾の主権は一般に「満州、台湾、澎湖諸島は中華民国に返還される」とした「カイロ宣言」(43年)を踏まえ、この履行を日本が受諾した「ポツダム宣言」(45年)、さらに領有権放棄を明言したサンフランシスコ講和条約(52年)などにより、確定的になったと認識されている。

 この解釈が中国が台湾領有権を主張する根拠ともなるが、台湾の研究者による調査では、カイロでの合意は法的拘束力に欠ける「プレス・コミュニケ(公報)」であって「宣言」でなく、台湾の帰属は講和条約以降、「未確定」という主張が台湾で広がっている。実際、署名された「宣言文」の存在は確認されていない。


日本統治時代も「章」に

 これを踏まえ、龍騰文化が出版した教科書は「カイロ宣言は署名がなく、国際法上の効力を具有しない」と記し、他の4冊も主権帰属にかかわる論争の存在を明記するようになった。

 日本統治時代(1895~1945年)を扱う章は、5教科書ともB5版で30ページから54ページのスペースを割き、史実としての植民地時代を直視しようとしている。翰林の教科書が「50年の植民統治で台湾は同時に植民地化と近代化を経験をした」が書き出すように、評価は肯定、否定の両論併記だ。




 公式教材となった新高校歴史教科書の出版社は次の通り。()内は日本統治時代を扱うページ数。三民書局(30)、南一書局(47)、泰宇出版(48)、翰林出版(54)、龍騰文化(53)。画数順。




 ≪戴宝村・政治大学専任教授(教育部教科書検定委員会主任委員)≫

 

教育原理にかなう

 歴史教育の原理とは、ある人々のその土地における生活の累積と体験を教えることだ。にもかかわらず、われわれが行ってきた教育は、政治的な理由から中国大陸の歴史ばかりを教え、教育原理に背を向けてきた。しかし、こうして台湾史が正式に教科書に編入された結果、教育原理にかなうよう変わった。

 さらに新しい教科書では、学生に台湾史を理解させることにより、台湾のアイデンティティーと歴史を比較できるようになった。世界的にみても最大脅威であり、密接な関係がある中華人民共和国の歴史はとても重要だが、台湾人が台湾史を理解することも重要なのだ。

 例えば、国民党政権下の台湾では、一貫して「カイロ宣言」をもって台湾は「中国に回帰した」と強調されてきた。だが、多くの研究はあれは宣言ではなく、一種の備忘録であったと指摘している。国民党教育を受けた成人は今だに「カイロ宣言」というが、(新しい教科書を使う)将来の学生は、これは宣伝のようなもので、サンフランシスコ講和条約によって台湾の帰属が日本から離れたことがより明確に理解できる。

 日本統治時代に関しても、中国的な民族主義の立場に立てば、日本の台湾統治は搾取と解釈されるが、台湾人からみる日本時代は違う。日本が行った建設は台湾に大きな影響を与え、進歩につながったことは肯定するに値する。これも動員された台湾人による建設であり、台湾人の努力の結果でもあるからだ。

 確かに(日本統治時代をめぐる)評価のあり方はそれぞれだが、審査する側から言えば、極端に感情的(な表現)でない限り、受け入れられる。したがって著者は、台湾という自由社会を代表し、一定の個人的な観念を盛り込むことにもなっている。

(2006/12/21 08:01)

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【2007/04/29 09:39】 | 【資料庫】新聞・ニュースストック | トラックバック(0) | コメント(0)
ある台湾女性の半生が語る日台の心
台湾国旗 ※評論家・鳥居民氏による【正論】の論説記事を紹介します。内容は、台湾政府駐日代表、許世楷さんの夫人、盧千恵さんの著書『私のなかのよき日本』の紹介。

 台湾は、皆さんもご存知、大東亜戦争における日本の敗戦とともに日本ではなくなった国です。かつて司馬遼太郎氏は「台湾に生まれた悲哀」という言葉で表現しましたが、現在の台湾は、中国から「一つの中国」という圧力を受け、世界で未だ「国家」として認められず、国連にも加盟できずにいます。
 日本はサンフランシスコ講和条約で、台湾への統治権を放棄しました。しかし、中国への「返還」も「割譲」もされておりません。現在の中国の成り立ちについて、戦前の中国自体が一つの国家として体を成していなかったことや、講和条約の不備にも問題があったと思われます。
 戦後台湾に独立する気運はあったが実行できず、中途半端な状態で今に至っていることは、台湾を放棄せざるを得なかった日本にとっても後ろめたい気がします。


 昨年の秋、筆者は東京外語大の学園祭に、台湾人留学生の屋台を訪ねました。夕暮れ時に差しかかった頃でしたので、客足がまばらであったことをいいことに、初対面の彼ら彼女らと親しく会話を楽しむことができました。
 その時に写真を10数枚撮らせていただき、後日プレゼントすることを約束し、学園祭の最終日に再訪したところ、またまた夕方になってしまい屋台は片付けられた後で無人。残念ながら再会はできず、学園祭の実行委員に写真を預けて帰りました。
 彼らの名も訊かず、筆者も名乗っておらず、写真はきっと届けられたと信じますが、ブログに掲載する許しを頂いておりません。残念ながら、お蔵入りです。
 もしや心当たりの留学生の方がいらっしゃいましたら、コメント欄の下にある「管理者にだけ表示を許可する」にチェックを入れて、ご連絡頂けると有難いです。(こちらから問い合わせすると断りにくいでしょうし・・)
 話がそれました。ごめんなさい。では、以下引用です。


□【正論】評論家・鳥居民 ある台湾女性の半生が語る日台の心
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070429/srn070429000.htm

 ■「自由と繁栄の弧」の一員となる

 ≪台湾の民主化と独立を≫

 1冊の本を紹介したい。台湾政府駐日代表、許世楷さんの夫人、盧千恵さんが書いた『私のなかのよき日本』(草思社)である。

 私は盧千恵さんと長い交友がある。昨年夏に会ったときに半生の思い出、そして台湾と日本とのあいだの運命的な繋(つな)がりを書いてみたらと勧めた。

 それから2度、3度、彼女から進捗(しんちょく)の状況を聞いていたのだが、校正が終わったと電話があったのが3月はじめだった。

 ところで、この3月は不快な月だった。本欄の読者も同じ思いだったにちがいない。

 アメリカの大新聞の論説委員たちが安倍晋三首相の主張に噛(か)みついた。安倍氏は歴史問題の虚構を是正しようとしただけであったにもかかわらず、それらのアメリカ人は尊大な態度で、日本人はいまだに悔い改めていないと言わんばかりの言いぐさを並べ立てた。

 政府が我慢し、反論しなかったのは、日米両国が争えば、仕掛けた罠(わな)に落ちたと北京政府がほくそ笑むだけと承知していたからであろう。

 盧千恵さんの本がわが家に届いたのは、うっとうしいかぎりと思っていたその3月の末だった。だが、その本をひろげたとき、胸のなかの不快さは瞬時に消え失せた。

 半世紀昔のことになる。1956年に台湾・台中の高校を卒業して間もない19歳のきれいなやせた娘が国際基督教大学に入学した。卒業して、彼女は早稲田大学大学院に留学していた同じ台中生まれの青年、許世楷さんと結婚した。夫とともに台湾の民主化と独立のための運動に参加したがために、国民政府の旅券を失った。2人の子を育て、専門の児童文学の研究をしながら、台湾の専制政治が倒れるまで、34年のあいだ故国に帰ることなく、台湾の民主化のためにさまざまな活動をした。

 ≪自由を尊ぶ日本人の姿≫

 彼女は花好きだ。庭の花の手入れを老後の日課にしていた祖父を見習ってのことであろう。現在は「いけばなインターナショナル」に参加し、毎月の例会に出席している。その昔、子供を寝かしつけたあとに夫と話し合ったのは、故郷の花の芳香と色彩の思い出であり、栴檀(せんだん)の紫色の花のことだった。帰国した夫妻は奉仕活動をおこない、台湾東部の山のなかにある原住民のための学校でしばらくのあいだ教えた。宿舎の前の小道に咲き誇る山百合の花の美しさを彼女は忘れることができない。同じようにはっきり覚えているのは、留学したばかりのときに大学宿舎の洗面所の鏡の前のよく磨かれたグラスに挿されていた小さな花だ。

 ところで、この本の読者がなによりもうれしく思うのは自由を尊ぶ日本人の思い出を記してある個所であろう。そのとき全盛を極めていた台湾の独裁政権が日本政府に申し入れをして、盧千恵さんの夫を強制送還させようと図った。許世楷さんの大学の恩師をはじめ、何人もの日本人がそんなでたらめなことをさせてなるものかと奔走した。

 彼の同志たちも、彼らが世話になっていた大学教授たちが政府各機関を回って、台湾の牢屋(ろうや)に彼らを入れさせないために、努力をしてくれたのである。

 このような極限の状況のなかで日本人の真心を知った台湾人は多くないだろう。

 ≪価値観を共有する隣国≫

 台湾と日本との関係は間口は広く、奥行きも深いのだから、台湾人の日本人像はそれぞれ違うのだろうとだれもが思うだろう。盧千恵さんのこの本が台湾のある経済雑誌の昨年おこなったアンケートを再録しているのを読んだとき、その回答を得る。

 「旅行したい国」の1位が日本、「移住したい国」の1位が日本、それだけでもうれしい。ところで、「尊敬する国」の1位が日本(47・5%)、2位がアメリカ(40・3%)なのだ。

 男女を含めて20歳以上の1000人の台湾人のアンケートの回答結果である。そして、この本を読み終えたとき、そのアンケート結果は正しいのだとだれもが得心する。

 読後に私が思い浮かべたのは「『自由と繁栄の弧』をつくる」という麻生太郎外務大臣の主張である。麻生氏は次のように説明する。「自由と繁栄の弧」は民主主義と人権と法の支配がある自由の価値を大切にする国々によって構成される。麻生氏は地理上の定義はしていないが、この本を読んだすべての人は、台湾こそ「自由と繁栄の弧」の一員だと確信しよう。絶対多数の台湾人が切望しているのも、晴れて「自由と繁栄の弧」の一員となることなのである。(とりい たみ)

(2007/04/29 05:06) 



□台湾週報での同著紹介記事
http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/07/070417a.htm

   新刊紹介:『私のなかのよき日本』~台湾駐日代表夫人の回想五十年

 「一九五五年、十八歳の私は国際基督教大学(ICU)に留学するために、はじめて日本にやってまいりました」とのまえがきで始まるこの本は、日本における台湾の外交窓口機関である台北駐日経済文化代表処(大使館に相当)の許世楷(コー・セーカイ)駐日代表の夫人、盧千恵(ロー・チェンフイ)さんの筆によるものだ。

 まえがきは、「それから三十数年、台湾の独立と民主化運動にかかわったことから国民党政府のブラックリストに載せられ、台湾に帰ることができませんでした」と続く。なんと、かつて「ブラックリスト」に載せられた夫婦が、いま駐日代表と代表夫人を務めている。盧千恵さんはどんな女性で、台湾とはいったいどんな国なのか。

 ICUの四期生として日本に留学し、卒業後に助手として大学に残った盧千恵さんは、早稲田大学に留学してきた許世楷青年と知り合う。台湾を思う心に共鳴した二人は、台湾の民主化を求め、台湾独立運動と係わるようになった。その活動によって1962年に当時の中華民国大使館からパスポートを没収され、台湾に帰れなくなってしまった。

 当時の台湾は戒厳令の真っ只中、苦難の時代を台湾のために許世楷・盧千恵夫妻が正義と信念を貫き通せたのは、日本で影から支えてくれた厚い友情があったからだった。その間にも盧千恵さんは政治受難者の救援活動や渡米して「独立運動の声」アナウンサー、「台湾公論報」の記者などを務めた。

 1972年に許世楷氏が日本で書いた「台湾共和国憲法草案」が、戒厳令が解かれて間もない台湾で鄭南榕氏が主宰する「自由時代」という雑誌に掲載され、それが引き金となって「叛乱罪」に問われた鄭南榕氏は100%の言論の自由を求め、壮絶な焼身自殺遂げる。この事件がきっかけとなり、世論が高まり、1992年に刑法100条(内乱罪)が改正され、言論の自由が確保され、ブラックリストが解除され、許世楷・盧千恵夫妻は30数年ぶりの帰国を果たす。

 台湾に帰国後、盧千恵さんは玉山神学院、台湾文化学院などで児童文学を教えていた。ところが、2004年、突然「大使」夫人となって再び来日することに……。台湾は時代も政権も変わり、民主的な国となり、新憲法制定は政府の目標となっていた。

 いま盧千恵さんは駐日代表夫人として、「東京フォルモサ婦人会」の会長を務め、代表処の女性職員と館員夫人らをまとめ、台日交流に励んでいる。

 本書第一章では、台湾人から見た日本の魅力と、日本人に見てほしい台湾の魅力が非常に簡潔かつ豊富にまとめられていて、そこには台日両国への親しみが湧いてくる。盧千恵さんの女性らしい優しい語り口調から聞く、台湾と日本の交流は、こんなに温かいものなのかと感じられることだろう。

 そして、本書の最後を盧千恵さんはこう締めくくる、「たとえ嵐が吹き荒れていても、海の深いところでは、水は変わらぬ速さで流れていると言います。表立った政治的な波とかかわりなく、深い海のなかの水のように、台湾と日本の親しい関係を、途絶えることなく繋げていくことができればと、自らのなかに日本的なるものを発見した私は切に願っております」と。

『私のなかのよき日本』~台湾駐日代表夫人の回想五十年
著者:盧千恵…ロー・チェンフイ
出版社:草思社 
定価:1600円+税
2007年4月16日 初版発行

                                   《2007年4月17日》








 


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【2007/04/29 09:00】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(0)
《昭和の日》 昭和天皇のあゆみ
昭和天皇・香淳皇后 ※ いよいよ本年(平成19年)より、“4月29日”が「みどりの日」改め《昭和の日》となります。
 その趣旨は
 『激動の日々を経て復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす』
             (「みどりの日」は5月4日に移る) 
 昭和天皇のお誕生日は、明治34年(1901)4月29日、 ちょうど20世紀に入った年でもあります。(先人は、「ミヨの年」と親しまれた)                            

 そこで今回は、昭和天皇を偲び、そのあゆみをふり返りたいと思います。


《第124代天皇・昭和天皇のあゆみ》

□ 大正天皇の第一皇子として、明治34年(1901)4月29日ご生誕。称号を迪宮(みちのみや)、お名前は裕仁(ひろひと)と命名。(ご生母は貞明皇后)

 -- ご養育 --
 お生まれになって間もなく、枢密顧問宮の川村住義(かわむらすみよし)伯爵が御養育掛主任となり、生後70日目から麻布の自邸にお預かりしてご養育に当たった。
 ご養育の基本方針は、心身の健康を第一とし天性を曲げず、人を尊ぶ性格と克己心を養い、わがままな習慣をつけぬよう配慮された。

 -- ご教育 --
 明治41年(1908)4月1日、学習院初等科にご入学。明治天皇の特旨により、乃木希典陸軍大将が学習院院長を兼任。
 大正3年5月4日、東宮御学問所開設。乃木大将の発案により設置され、総裁には東郷平八郎元帥が就任。特に倫理担当の杉浦重剛は、①三種の神器②五箇条の御誓文③教育勅語を核とした「帝王学」を進講した。

□ 明治45年(1912)7月30日、明治天皇崩御。当時皇太子であった嘉仁(よしひと)親王(大正天皇)が即位されたのにともない、皇太子となられた。(11歳)

□ 大正10年(1921)11月25日から、大正天皇のご病気のため天皇のご公務を代行する摂政に就任。(20歳)

□ 大正13年(1924)1月26日、久邇宮良子(くにのみやながこ)女王(香淳皇后)とご結婚。(23歳)

□ 大正15年(1926)12月25日、大正天皇崩御。大日本帝国憲法と皇室典範の定めるところにより、ただちに皇位を継承。(25歳)
 その当日、年号を「大正」から「昭和」に改めた。昭和の出典は漢籍の『書経』にある「百姓昭明、協和万邦」から。(国民の和合と世界の平和を願う理想が込められた)

 -- 同年の御製 --
    山山の色はあらたにみゆれども わがまつりごといかにあるらむ

 ●昭和6年(1931)9月 満州事変
 ●昭和8年(1933)3月 国際連盟脱退

□ 昭和8年(1933)12月23日、皇太子継宮(つぐのみや)明仁親王(今上陛下)ご誕生。(32歳)

 -- 同年の御製 --
    あめつちの神にぞいのるあさなぎの 海のごとくに波たたぬ世を

 ●昭和12年(1937)7月 盧溝橋事件 支那事変 

□ 昭和15年(1940)6月、紀元2600年につき、伊勢神宮・畝傍稜(うねびりょう)・橿原(かしはら)神宮などへご親拝。(神武天皇にまつわる御陵と神宮)

 ●昭和16年(1941)12月8日 英米に宣戦布告

   「開戦の詔書」 

 ●昭和20年(1945)8月14日 ポツダム宣言受諾

   8月15日、「終戦の詔書」を玉音放送。
   -- 終戦時の御製 --
      爆撃にたふれゆく民の上をおもひ いくさとめけり身はいかならむとも
      身はいかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて
      国がらをただ守らんといばら道 すすみゆくともいくさとめけり

□ 昭和21年(1946)2月、神奈川県の復興状況をご視察、以来29年8月まで全国巡幸を行った。(45歳)
 (しばらくアメリカの統治下にあった沖縄を除く全都道府県を巡られた。その全行程距離は33000km、総日数165日)

   -- お言葉 --
  「国民が戦争によって痛手を受けました。新しい時代に、国民の気持ちを何とか和らげたい、日本の発展のために努力してもらいたいと思って各地を廻った」

   -- 同年の御製 --
      ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ 松ぞををしき人もかくあれ  
 

 ●昭和27年(1952)4月28日 サンフランシスコ講和条約発効(独立主権回復)

   -- その日の御製 --
      風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし 八重桜咲く春となりけり

□ 昭和34年(1959)4月10日、皇太子明仁親王・正田家の美智子様(現皇后陛下)ご結婚。

□ 昭和35年(1960)2月23日、皇長孫・浩宮徳仁親王(現皇太子殿下)ご誕生。

   -- 同年の御製 --
      さしのぼる朝日の光へだてなく 世を照らさむぞわがねがひなる

 ●昭和39年(1964)10月10日 東京オリンピック 開会
 ●昭和45年(1970)3月14日 大阪万国博覧会 開会

   -- 同年の御製 --
      戦をとどめえざりしくちおしさ ななそぢになる今もなほおもふ
      よろこびもかなしみも民と共にして 年はすぎゆきいまはななそぢ

 ●昭和47年(1972)5月15日 沖縄返還

□ 昭和47年6月24日、年代の確かな歴代天皇の中で、ご在位期間最長を記録。(16619日)
   -- お言葉 --
  「一日一日を国のため、つとめとして送っているうちに今日にいたった」

□ 昭和60年(1985)7月13日、年代の確かな歴代天皇の中で、最長寿となられた。(84歳3ヶ月)
   -- お言葉 --
  「いつの間にかこうなった、大したことではない」

□ 昭和61年(1986)東京両国の国技館で政府主催「ご在位60年記念式典」

   -- お言葉 --
  「今ここに昭和の60年の歳月を顧み、先の戦争による国民の犠牲を思うとき、なお胸が痛み改めて平和の尊さを痛感します」

□ -- 昭和62年の御製 --
     思はざる病となりぬ沖縄を たづねて果たさむつとめありしを

□ -- 昭和63年(終戦記念日)の御製 -- 
     やすらけき世を祈りしもいまだならず くやしくもあるかきざしみゆれど
      
□ 昭和64年(1989)1月7日、百十一日間に及ぶご闘病の末、崩御。この間、一千万人にのぼるお見舞い記帳が寄せられた。(87歳)

□ 平成元年(1989)2月24日、東京新宿御苑にて「大喪の礼」。海外から164カ国、国連をはじめ22の国際機関の代表が参列。(うち国家元首55名)

 御陵は東京八王子の武蔵野稜。


 

※ 今年は紀元2667年になります。この万世一系の天皇を頂く日本の歴史の中で、ただ一度きりの敗戦の経験をした日本は、昭和の時代にその背骨をへし折られた感があります。

 約6年半のGHQ占領下戦時政策の間に、何を失い何を得たのか、独立主権を回復して以来、どれだけのものを取り戻せたのか取り戻せなかったのか。その答えが現在の日本の姿に現れているといえましょう。

 「昭和の日」を迎えるにあたって、あらためて先帝陛下のあゆみをふり返るとき、その時々に残されたお歌やお言葉の中に、一貫して平和への希求と国民への温かいまなざしがあります。

 戦後失った(薄れた)ものの中で最も尊いものは何かと考えるとき、この国が悠久の昔から、天皇を中心として成り立ってきたという「記憶」ではないかと思うに至ります。

 激動の「昭和」という時代は、先帝陛下とともにあった先人たちの無私の闘いの時代であり、戦争には負けても、日本という国を残して下さったのです。心からの感謝とご尊敬を申し上げたい。そして、この国の将来に思いをいたし、次世代へ、より良き日本を渡したい。

 

 因みに、独立を回復した4月28日こそが、本当の「終戦記念日」であり、先帝陛下のお誕生日の前日に合わせたものであると、容易に推察することができましょう。











【2007/04/26 06:25】 | 【祝日・記念日】 | トラックバック(0) | コメント(2)
「ご覧なさい。これが殖民地の学校かな?」
蔡焜燦氏
 ※ 司馬遼太郎著「台湾紀行」の“老台北”こと蔡焜燦氏が、来日されているとのこと。今月いっぱい滞在されるようだ。“来日”というより里帰りか。80歳になってなお、精力的な行動力に脱帽です。どうか、いつまでもお元気な姿を見せて下さいますよう、日台関係が一日も早く正常化されますよう、ご祈念いたしております。
 蔡先生のお話を聞いているだけで、元気倍増です!




■蔡焜燦氏 母校を訪ねて 日本統治下の学校教育に誇り
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070421/chn070421001.htm


 台湾を代表する「愛日家」として知られる蔡焜燦(さいこんさん)氏(80)が、戦前の日本統治下で義務教育を受けた清水(きよみず)公学校を訪ねた。赤レンガ造りのモダンな校舎から伝わってくるのは、当時、台湾の将来を築く人材育成のため、日本本土にもない先進の教育設備を注ぎ込んだ日本人の熱意だ。蔡氏は「これが殖(植)民地の学校だろうか」という随想を発表するほどに、この学校を誇りとしているが、思い出の地をめぐりながら、愛日家ゆえに抱く複雑な思いものぞかせた。

 (台中県清水鎮 長谷川周人)

 清水公学校を訪れるきっかけとなったのは、蔡氏が復刻した同校の「総合教育読本」だった。この学校では昭和10年、校内有線放送や16ミリ映画などを使った最新の視聴覚教育が始まった。その副読本として童謡や神話などを集めた「総合教育読本」は日本文化の凝縮だった。蔡氏の随想のエッセンスとともに同書を産経新聞文化面で紹介したところ、大きな反響を呼んだ。

 当時の日本教育には、「民衆を隷属させた日本軍国主義による暗黒の一ページ」(中国外交部報道官)という批判もある。が、蔡氏は「『公』と『誠』を重んじる日本教育は台湾発展の源となった」と反駁(はんばく)する。


            ◇           ◇

 「ご覧なさい。これが殖民地の学校かな?」。校門をくぐると蔡氏が、ちゃめっ気たっぷりにいった。

 瓦ぶきの屋根を支える白亜の洋風円柱。見上げた天井は和風建築のヒノキ造り。廊下かられんが造りのアーチをくぐれば、芝生を敷き詰めた中庭が広がり、南洋の常緑樹、榕樹(ガジュマル)が木陰をつくって涼風を呼ぶ。その優美なたたずまいを目の当たりにし、うなるほかなかった。

 「手洗い場で使った水を散水に使い、リサイクルの観念を教えた。教室には白木造りの神棚があり、朝礼後の礼拝で作法を習い、掃除当番を通じて公共心を養った。発案者の川村秀徳校長は400枚ものレコードを集め、校内有線放送や映画による視聴覚授業でときめく子供心を立体的に育てた。これが72年前に日本人が台湾で作った学校なのです」


            ◇           ◇

 新校舎の落成から半年足らず昭和10年4月21日早朝、大地震が台湾中部を襲った。震源に近い清水一帯でも家屋が倒壊し、死者320人を超す大惨事となったが、新校舎はびくともしなかったという。

 「おやじは土をこねて急ごしらえのかまどをつくり、粥を炊いて被災者に配った」。「減私奉公の日本精神に生きる父親」の姿を脳裏に焼き付け、見舞金を贈られた昭和天皇に親近感を抱いたという蔡氏は、図らずも地震を通じて「愛日家」としての第一歩を踏み出すこととなった。

 蔡氏は高台にある地震の慰霊碑から清水を見下ろしながら、静かにこう語った。「いつか私が死んだら、遺骨は3つに分けて散骨させる。葬式はしない。そして『拝啓 おやじの友人の皆様 父はあの世で待っているそうです』と息子に公告を出させます」

            ◇           ◇

 「粋だろう」と言わんばかりの蔡氏に、日本へ託す言葉を期待したが、続きはない。代わりに、脱いだ上着をひょいと肩にかけ、こう歌った。

 ♪ふるさとの山の青さよ、尊さよ なんで頭がこう下がる あの木、あの森、あのせせらぎも みんな昔の夢が住む

 (「ふるさとの灯」作詞・西條八十、作曲・早乙女光)

 「愛国心をはぐくんだ日本教育は、激動の戦後を乗り越える心の糧。しかし、行き場を失った愛国心ほど悲哀に満ちたものはない」。ある親日派長老はこういって肩を落とすが、戦後日本が領有権を放棄した後の「台湾」は、世界に法的存在が認められず、蔡氏には日本教育でたたき込まれた「愛すべき祖国」を持てないでいる。




■「日本人よ胸を張れ!」“老台北”蔡焜燦氏語る
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070424/chn070424002.htm


 司馬遼太郎著「台湾紀行」に博識の“老台北”として登場する著名な台湾の実業家、蔡焜燦(さいこんさん)氏(80)が23日、東京・大手町の産経新聞東京本社を夫人の李明霞さん(81)とともに訪れ、「心のふるさとは京都だ」などと、1時間あまりにわたって日本への思いを語った。

 戦前の台湾で教育を受けた日本語世代の一人で、自ら「愛日家」と称する蔡氏は、自信を失いかけた日本人に事あるごとに、「日本人よ胸を張れ!」と激励するなど、民間レベルで長年にわたって日台交流を実践してきた。

 こうした労苦に対し、日本人の有志を代表する形で産経新聞社とフジサンケイ ビジネスアイはこの日、蔡氏と夫人に感謝状と記念品を贈った。

 蔡氏と夫人は京都、大阪を経由して5月1日に台湾に戻る予定。

 ≪講演要旨≫

 「“愛日家”というのは私の造語だ。現在の私たちは元日本人としか言えないが、首から上は今でもニッポン的。おばあちゃん(蔡夫人)は寝言も日本語。にぎりずしが大好きで、昨夜も寝言で『小鰭(こはだ)』などと言っていた」

 「司馬遼太郎先生から以前、心のふるさとはあるかと聞かれたとき、京都と答えた。昭和20(1945)年、終戦後に京都府美山町(現南丹市)で2カ月ほど炭焼きをしていた。今も京都の黒瓦の建物や五重塔を見るだけで落ち着く。ふるさとに帰ってきたつもりだ」

 「(昭和8年に蔡氏が入学した台湾台中の母校の)清水(きよみず)公学校は、日本全国どこにもなかった校内有線放送設備や16ミリ映画の映写設備があった。その副読本だった『総合教育読本』を卒業生や日本の方々に読んでもらいたいと思い、復刻版を(自費で)出版した。日本の方々に、もっと自信を持ってもらいたいからだ」

 「これが植民地の学校だろうか。植民地、植民地といって(統治時代の問題など)でたらめなことをいう人がいるが、(副読本は)日本人が当時、こんなにも高い教育を台湾で行った事実の証明ではないか」

 「昨日(22日)に靖国神社の春季例大祭に初めて参加した。今年から4月29日は『昭和の日』になった。その日に私たちが日本にいることは、感慨深い」


☆台湾のWHO加盟を支持する集いで披露された蔡焜燦さんのメッセージ
日本李登輝友の会メルマガ『日台共栄』第519号より

【メッセージ】日本の皆様、ありがとう[台北 蔡焜燦]

 五月一日、無事台湾に帰って参りました。日本滞在中はたくさんの方にお
目にかかれて大変嬉しゅうございました。靖国神社の例大祭にも初めて参列
でき、司馬遼太郎先生の墓参にも参り、本当に心温まる旅でした。

 さて、台湾は堂々とした一つの国であるにもかかわらず、中国の理不尽な
妨害でWHOに加盟できないため、必要な情報が入って来ず、本当に困って
います。

 しかし、だからと言って台湾は一方的に情報の提供を求めているわけでは
ありません。これまで積極的に対外的な医療協力を行ってきています。一昨
年の南インド洋大津波災害における復興活動、昨年二月のフィリピン土石流
災害に際しては緊急援助隊の派遣と物資の搬送、鳥インフルエンザに対する
防疫物資の提供と台湾国際医療チームの派遣など、数え上げればきりがあり
ません。

 四年前のサーズ、つまり「中国肺炎」ですが、あの時のことを思い出して
ください。中国政府が発生を隠蔽して対策を怠り、WHOからの情報もない
中、台湾は最善を尽くし、影響を最小限に食い止めました。

 皆さん、サーズウィルスや鳥インフルエンザが国境や人種を見分けます
か。

 本日は日本李登輝友の会の主催により、日本の皆様が台湾人と一緒に台湾
のWHO加盟支持の集いを開かれるとの報に接し、私は目から汗が出ていま
す。これが日本です。これが武士道の国日本なのです。だから台湾の友人な
のです。

 今日の東京は雨だそうですが、そのような中を駆けつけていただき、遠く
台北から深く御礼を申し上げます。日本の皆様、ありがとう。

 二〇〇七年五月六日

                        台北 蔡 焜燦




■【台湾有情】総統府に日本人の軌跡
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070126/chn070126002.htm

 日本から訪れた知人を案内したついでに、一般参観者に混じって総統府を見学した。取材で内部まで出入りする機会はあるものの、総統府が観光客や住民に見せる“表の顔”に触れるのは初めてだけに、興味があった。

 総統府の裏側にある出入り口では、来訪者はまず金属探知機で身体検査を受ける。カメラのほか携帯電話も持ち込みは許されず、自動小銃を構えた憲兵があたりに、にらみを利かせている。出迎えてくれた案内役のボランティアは親日的ないわゆる「日本語世代」で、開口一番、こう言った。

 「日本は台湾を植民地にしていない。疫病を一掃し、高いレベルの教育環境を整えたのです。イギリスやフランスの植民地とは違います」

 内部に入って、まず目に飛び込んできたのは、歴代総統を紹介する大型パネル。日本の総督19人の顔写真も総統と同じ扱いで掲げられていた。解説に耳を傾ければ、社会基盤整備など日本の政策が台湾の発展を促した功績として熱く語られる。

 歴史認識では日本に厳しい中国通の知人は押し黙った末に、別れ際にようやく口を開いた。「戦後、われわれが自ら封印した日本人の軌跡が台湾では今なお生きていた。しかも権力の中枢である総統府に…。北京ではおよそ考えられない」。

 総統府の一般開放は週日の午前9時~正午。日本人は旅券が必要です。(長谷川周人)

(2007/01/26 08:34)















☆その他台湾関連本
【2007/04/25 03:50】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(1)
“サヨンの鐘”
 文字:愛国乙女サヨン遭難之地 
  ※左写真の文字:『愛国乙女サヨン遭難之地』
 
 今回は、台湾の日本統治時代。

 1938(昭和13)年、東北部宜蘭県の山奥にあるタイヤル族のリヨヘン社(村)で、学校の教師を勤めていた日本人警官と当時17歳の少女サヨンの悲しくも美しいお話。
 その話を知った台湾総督から集落へ、後にサヨンの篤行(とっこう)を称える鐘が贈られた。

 渡辺はま子が歌う「サヨンの鐘」が台湾中に流行し、1943(昭和18)年には、同名の映画(主演:李香蘭)も封切られた。
 この話には諸説あり、ここでは台湾在住のフリーライターでカメラマンの片倉佳史氏のレポートを紹介します。


□ “サヨンの鐘”  (文章:片倉佳史)
http://my.so-net.net.tw/katakura/kyodo/0105.html
《台湾と日本---少女の秘話歌い継ぐ》

 台湾の東北部・宜蘭県に武塔という集落を訪ねた。ここはタイヤル族の人々が住む村で、戦前の愛国美談「サヨンの鐘」の舞台に近い。

 時は1938年。この土地に赴任していた日本人巡査のもとに召集令状が届いた。当時十七歳の少女サヨン・ハヨンは自ら巡査の荷物運びを申し出て、暴風雨の中を同行した。しかし、激流と化した南澳渓の橋の上で不運にも足を踏み外してしまう。

 後になって台湾総督から集落へ、サヨンの篤行をたたえる鐘が贈られた。

 この話は植民地・台湾の人々の“皇民化”を示す格好の宣伝材料となっていった。古賀政男作曲・西条八十作詞で渡辺はま子の歌う「サヨンの鐘」が流行し、四三年には同名の映画も封切られた。ちなみにこの映画の主演は李香蘭。こうして「愛国乙女」と位置づけられたサヨンの名は一気に知れ渡っていった。

 集落のはずれには当時の石碑が残っていた。この石碑は戦後、台湾における日本色の払拭をもくろんだ国民党政権によって倒されたが、破壊だけは免れた。現在は再び道路の脇に立てられており、傍らには中国語で書かれた真新しい石碑まで設けられている。

 石碑をカメラに収めていると、畑仕事帰りらしい老婦人に日本語で声をかけられた。この一帯の人々はタイヤル語と日本語を併用していることが少なくない。集落内を散策していても、流暢な日本語で声をかけられることは珍しくなかった。

 老婦人によれば、サヨンの物語は今でも語り継がれ、この集落の人間なら誰でもその歌を歌うことができるのだそうだ。後に小学校を訪ねたところ、「サヨンの鐘」は郷土唱歌として、中国語に訳した上で音楽教材にもなっているという。

 「愛国乙女」と称された、はかない少女の物語。その物悲しいメロディーは、今もこの土地で歌い継がれている。




       『サヨンの鐘』      (おそらく)タイヤル族の男性による歌が聴けます

  作詞:西条八十
  作曲:古賀政男
  歌 :渡辺はま子

  (一)

  嵐吹きまく 峰ふもと
  流れ危うき 丸木橋
  渡るは誰ぞ 麗(うるわ)し乙女 
  紅き くちびる ああ サヨン

  (二)

  晴れの戦いに 出てたまう
  雄々しき師の君 懐かしや
  坦う荷物に 歌さえほがら
  雨は降る降る ああサヨン

  (三)

  散るや嵐に 花ひとえ
  消えて哀しき 水けむり
  蕃社の森に 小鳥は鳴けど
  何故に帰らぬ ああサヨン

  (四)

  清き乙女の 真心を
  誰か涙に 偲ばざる
  南の島のたそがれ 深く
  鐘は鳴る鳴る ああサヨン







 映画『サヨンの鐘』主演・李香蘭









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【2007/04/24 11:56】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(0)
世界の識者が見た東京裁判
※先日、拙ブログにて取り上げた「マンモハン・シン・インド首相の国会演説」の中で、パール判事についての言及がありました。それは、日本人にとって忘れてはならぬエピソードのひとつ・・・筆者はつい本棚の中から『パール判事の日本無罪論』を手に取り、パラパラと読み返していました。

 東京裁判については、いまだに賛否両論があること自体が筆者には不思議でなりません。完膚なきまでに焦土と化し敗戦した日本には、あの時点であの一方的な裁判に甘んじるほかなかっただろうが、後々まで今もなお踏襲し続ける理由がどこにあるのだろうか。

 裁判自体が間違いであったと、その裁判側の最高司令官までもが認めているのだから、にっこり笑って「そうですね」と胸を張っていればいいのではないか。いまだに水に流せないでいるのは、日本の態度、姿勢に問題があるように思います。

 少しだけ、『パール判事の日本無罪論』の中から引用させて頂きます。


□ 「パール判決文より」
 復讐の欲望を満たすために、たんに法律的な手続きを踏んだにすぎないというようなやり方は、国際正義の観念とはおよそ縁遠い。こんな儀式化された復讐は、瞬時の満足感を得るだけであって、究極的には後悔をともなうことは必然である。

□ 靖国神社 パール博士顕彰碑 碑文

 ラダ・ビノード・パール博士の顕彰碑

 時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には  

 また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には

 その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら 

 過去の賞罰の多くに

 そのところを変えることを要求するであろう

□ 世界の識者が見た東京裁判
● ダグラス・マッカーサー(米・連合国最高司令官)
 日本は、絹産業以外には、国有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
 もしこれらの原料の供給が断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。
(1952年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会の答弁にて『東京裁判 日本の弁明』より)

● C.A.ウィロビー将軍(米・GHQ参謀第二部長)
 この裁判は歴史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、自分の息子には軍人になることを禁じるつもりだ。・・・(なぜ東京裁判に不信感を持ったかと言えば)日本が置かれていた状況と同じ状況に置かれたならば、アメリカも日本と同様戦争に訴えていたに違いないと思うからである。
(東京裁判終結後、離日の挨拶に訪れたレーリング判事に対する言葉・ベルト・ファン・A・レーリング『The Tokyo Trial and Beyond』)

● ベルト・ファン・A・レーリング判事(蘭・東京裁判オランダ代表判事)
 国際裁判所が、正義に基づいて処罰を加えることを求められているにもかかわらず、自ら正義の法理を適用しているか否かを審査する機能や義務さえ与えられないで、単に戦勝国の最高司令官の定めた法規を適用しなければならない。かようなことを本裁判所が認めるとすれば、それは国際法のためにこのうえなく有害なことをしたことになるだろう。
(『勝者の裁き』)

● ウェッブ(オーストラリア・東京裁判裁判長)
 私は日本が九千万人の住む小さな土地で耕作できる面積はそのうち十五%にすぎず、外部から激しい貿易制限や規制を受けていたとの弁護士の論述に多くの正論と酌量の余地を認めた。私は米国なり英国なりが同じような状況におかれたらどのように反応したか、それどころか国民がどのような反応をすることを望んだか考えてみた。米国も英国も日本が1941年におかれたような状況におかれれば、戦争に訴えていたかも知れないのである。
(『天皇の陰謀』)

《政治家ほか》
● ハーバート・フーバー(米・元大統領)
 もしわれわれが日本人を挑発しなかったならば決して日本人から攻撃を受ける様なことはなかったであろう。
(『東京裁判 日本の弁明』)

● チャールズ・リンドバーグ(米・飛行家・大佐)
 ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋でも日本人に行ってきたのである。・・・地球の片側で行われた蛮行はその反対側で行われても、蛮行であることには変わりが無い。『汝ら人を裁くな、裁かれざらん為なり』。この戦争はドイツ人や日本人ばかりではない、あらゆる諸国民に恥辱と荒廃をもたらしたのだ。
(『リンドバーグ第二次大戦日記(下)』)

● エドウィン・O・ライシャワー博士(米・元駐日アメリカ大使、ハーバード大学教授)
 軍事法廷はかく裁いた。だが歴史は、それとは異なる裁きを下すだろうことは明らかである。
(『将軍の裁判 マッカーサーの復讐』日本版裏表紙に寄せた文章より)

● 毛沢東(中・中国共産党主席)
(昭和39年、社会党の佐々木更三委員長が、毛沢東主席に「中国国民に多大の損害をもたらして申し訳ない」と挨拶したところ)
 何も申し訳なく思うことはありませんよ、日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではないですか。皆さん、皇軍の力なしには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう。
(『毛沢東思想万歳(下)』)

● 小平(中・中国共産党副主席)
 日本は中国を助けたことになっている。・・・日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、我々は日本軍の後方に広がった。・・・皆さんだけを責めるのは不公平だと思う。
(「中国との友好交流20年の感想」三岡健次郎 平成7年6月30日 中国政経懇談会)

● K・R・ナラヤナン(インド・大統領)
 博士の有名な反対判決は、勝者側の偏狭なナショナリズムと政治的復讐とを退け、それよりも平和そして国家間の和解と親善のために努力すべきことを説いた、感銘深い呼びかけでありました。博士はまた、そのように行動されたことにより、インドと日本との友好と理解のシンボルとなったのであります。
(1997年10月16日 京都のパール博士顕彰碑建立の際に寄せたメッセージ)

《法律専門家・学者》
● プライス(米・陸軍法務官)
 東京裁判は、日本が侵略戦争をやったことを懲罰する裁判だが、無意味に帰すからやめたらよかろう。なぜならそれを訴追する原告アメリカが、明らかに責任があるからである。ソ連は日ソ中立条約を破って参戦したが、これはスターリンだけの責任ではなく、戦後に千島・樺太を譲ることを条件として、日本攻撃を依頼し、これを共同謀議したもので、これはやはり侵略者であるから、日本を侵略者呼ばわりして懲罰しても精神的効果はない。
(1945年12月のニューヨーク・タイムズ紙にて 『東京裁判の正体』)

● カール・ヤスパース(独・哲学者)
 私はどう考えても、一つの民族だけが、戦争の責罪を負わなければならない義務はないと思う。“自分に罪は無い”などと言うのは、薄っぺらで、ごまかしの道徳意識だ。これこそひとりよがりというものだ。その証拠には、彼らはすでに、次の戦争の準備をし、これを促進しているではないか。
・・・いっそ明白なる暴力の方がましである。その方が正直で我慢しやすい。そこに存在したものは戦勝国の強権ばかりであった。それは人類の将来の平和のために、無益なばかりか、極めて有害な存在となった。
(『戦争の責罪』)

● ジョージ・フリードマン教授(米・ディッキンソン大学)
 まともで教育のある人びとがなぜパールハーバーを攻撃する道を選んだのか。こういうことを理解せずに、ただそれを非難する人びとがいる。彼らこそが戦争をもっとも起こしやすい人びとなのだ。当時の日本の指導者たちをモンスターにしたり、日本の置かれた悲劇的な立場を考えもせずに発言する人びとを英雄視したりしても、何の解決にもならない。解決どころか、このような態度そのものが問題なのだ。
(「パールハーバーを忘れるな」『VOICE』19991年12月号)






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【2007/04/16 23:49】 | 【昭和】占領下 | トラックバック(0) | コメント(3)
ゾルゲ関連ニュース
リヒャルト・ゾルゲ

■“ゾルゲ事件”対日工作 中国人工作員が関与
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070413/chn070413001.htm
 【上海=前田徹】20世紀で最も成功したスパイ事件とされるリヒャルト・ゾルゲの対日スパイ網構築が当時、ソ連コミンテルンに属していた中国人工作員によって行われていたことを示す自伝が見つかった。自伝は文化大革命で迫害を受け失明した著者が革命秘話として書いたものだ。上海でゾルゲから直接、対日工作を指示されたことや日本では近衛内閣顧問の尾崎秀実(ほつみ)と協力していたなど事件の貴重な裏話がつづられている。

◇自伝で告白 尾崎秀実とも協力



 著者は著名な経済学者で中国国際文化書院院長をしていた故・陳幹笙氏で、問題の自伝は「四个時代的我」(四つの時代の私)だ。同書は1988年に7000部出版されたが、一般市販されず大半が散逸している。

 218ページある同書は陳氏の戦前、戦後を通じた人生の思い出話の体裁をとっているが、1920年代半ばから1930年代後半について書いた「革命のため危険を避けず」「日本、ソ連、米国への放浪」の2章がゾルゲ事件に関連した内容になっている。

 陳氏は米とドイツで農業経済、歴史を学んだ後、26年にソ連コミンテルン(国際共産主義運動)に加わった。その後、上海でコミンテルン工作員として活動を始め、表向き蒋介石率いる国民政府所属社会科学院で学者として従事する一方、対国民政府工作と同時にゾルゲとともに対日工作に関与する様子が描かれている。

 ゾルゲとの出会いは29年、陳氏同様にコミンテルン工作員で、ドイツ紙特派員の肩書で上海に滞在していたアグネス・スメドレーからの紹介だった。その際、ゾルゲがソ連赤軍第4部諜報(ちょうほう)員であり、陳氏が指示を受ける立場であることも示唆している。また、ゾルゲが当時、国民党の軍事情報収集に力を入れており、蒋介石側近で後に台湾国防部長になった何応欽将軍ら国民政府軍中枢に情報源を得ていたことも明かされている。

 ただし陳氏は具体的諜報活動やその成果については一切触れず、ゾルゲと駅で密会し、2人で西安へ重要任務に向かったというようなあいまいな内容に徹している。

 一方、上海での抗日工作や対国民政府工作が難しくなった34年冬、ゾルゲはスメドレーを通じて陳氏に日本で活動するよう指示、陳氏は即座に妻とともに来日した。表向きは東洋文庫での中国関係文献調査となっているが、実際はゾルゲの指示で日本の国策会社だった南満州鉄道株式会社での情報収集に従事し、その際、当時、朝日新聞記者だった尾崎秀実の支援を受けていたことも書いている。

 また、出会いについては29年に朝日新聞上海支局員だった尾崎をスメドレーから紹介されたことも記している。

 陳氏の日本での情報活動がいかに緊張をともなったものだったかは、35年4月、モスクワから上海経由で来日予定だったウォルトンという名の極東情報局員との密会が頓挫したエピソードに描かれている。ウォルトンは上海治安当局に3冊のパスポート所持を理由にスパイ容疑で逮捕されていたことを知った陳氏は着の身着のままで妻にも知らせず横浜から上海行き客船に飛び乗っている。

 陳氏はスメドレーらによって匿(かく)まわれた後、モスクワに脱出し、新たに米国での抗日宣伝の任務を与えられるのだが、このさい中国共産党コミンテルン代表だった康生らの計らいで「仕事の必要性から中国共産党に入党した」と書いており、当時の中共がいかにモスクワの強い影響下にあったかを示す記述ともなっている。

 また、米国での工作は当時、アジア問題の最高権威とされた「太平洋問題調査会(IPR)」の機関誌編集者を表向きの仕事としながら、康生の指令に従ってニューヨークにあった海外中国人向け雑誌の抗日宣伝活動に傾注した。

 戦後、米国ではいわゆる「マッカーシズム(赤狩り)」が吹き荒れ、同機関誌のオーウェン・ラティモア編集長に対しスパイ疑惑が突きつけられ、その真偽がいまも謎とされているが、陳氏は「ラティモアは私がモスクワから派遣された工作員であることを知らなかった」と自伝で明言している。

■ゾルゲ事件 第二次大戦中の1941年9月から翌年6月にかけてソ連赤軍第4部の諜報(ちょうほう)員だったリヒャルト・ゾルゲら17人がスパイ容疑で検挙された。グループの中に近衛文麿内閣の中国問題顧問で満鉄顧問だった尾崎秀実が含まれていたことから大きな注目を浴びた。グループは34年から検挙されるまで約400件の情報をモスクワに流し、最も成功したスパイ事件とされる。ゾルゲと尾崎は44年処刑された。

(2007/04/13 10:26)




【2007/04/13 11:22】 | 【資料庫】新聞・ニュースストック | トラックバック(0) | コメント(0)
産経新聞朝刊“朝の詩”より 『戦友』
※産経新聞朝刊に“朝の詩”というコーナーがあり、読者からの投稿作品を紹介しています。選者は詩人の新川和江さん。平成17年4月5日に掲載された作品を、桜が散ってしまわないうちにご紹介しましょう。


東郷寺の桜




戦友               群馬県 上原安男(83)
 


無事帰れたら

花見をしようや

盛大にな

そう言った彼は

戦死した

相槌を打ってた五人も

戦死した

どういう訳か私だけ

生還した

いま花を見ながら

空に叫ぶ

おい 花が咲いたぞ

空から見えるか

君たちが築いた

平和の国の桜花が








【2007/04/13 05:34】 | 【詩・言乃葉】 | トラックバック(0) | コメント(0)
マンモハン・シン・インド首相の国会演説
インド国旗※インドと日本は歴史的・文化的に、遠い昔からとても深い関わりがあります。仏教の伝来や交流は誰でもピンと来るでしょうが、インドの独立に日本の協力が欠かせなかったことや、昭和天皇崩御の際にインド全土で1週間喪に服したことをどれだけの日本人が知っているでしょうか。近代において、タゴール、チャンドラ・ボース、パール判事、ネール首相等の名から連想する事柄を踏まえて、マンモハン・シン首相の心のこもった演説を受け止めたいと思います。

    平成18年12月15日
日印首脳会談(全体会合)

 上の写真は総理官邸ホームページからお借りしたものです。マンモハン・シン首相の演説の翌日に行われた、日本・インド首脳会談(全体会合)の模様です。実に親しげで和やかなムードが伝わってきますね。演説の内容を知れば、それはごもっともなことだと合点がいくからなお嬉し。
 演説は、昨年の12月14日、インド・シン首相夫妻歓迎行事の後に国会で行われました。


■マンモハン・シン・インド首相演説(全文)

河野洋平衆議院議長閣下
扇千景参議院議長閣下
安倍晋三内閣総理大臣閣下
衆議院議員ならびに参議院議員の皆様
著名な指導者の皆様ならびにご列席の皆様 

 この威厳のある議会において演説の機会を得ましたことは栄誉なことと認識しております。我々二カ国の国民が互いに寄せる善意と友情の表れです。

 ご列席の皆様
 日本とインドは文明的にも近い国であります。我々の最も古い絆を形成するのが、共通する遺産でもある仏教です。二つの文化は歴史を通して交流し、豊かさを増してきました。1000年余り前、インドの僧侶ボディセナ(菩提僊那)は、東大寺の大仏開眼供養に参列するため奈良を訪れました。近代においては、タゴールと岡倉天心が、アジアの偉大なる両国の間に理解の新しい架け橋を築きました。

 科学技術の発展に基づく明治維新以降の日本の近代化と、戦後に日本再建の基となった活力と気概は、インドの初代首相であるジャワハルラル・ネールに深い影響を与えました。ネール首相は、インドが日本と緊密な絆を結び、その経験から学ぶことを望みました。

 インドが日本からのODA(政府開発援助)の最初の受益国になるよう尽力されたのは、当時の岸信介総理大臣でした。今日、インドは日本のODAの最大の受益国であり、こうした援助に我々は深く感謝しております。

 日本の工業は、自動車や石油化学などインド産業の発展のために貴重な役割を果してきました。90年代の初頭、インドが深刻な経済危機に陥った時期、日本は迷うことなく支援し続けてくださいました。

 1952年、インドは日本との間で二国間の平和条約を調印し、日本に対するすべての戦争賠償要求を放棄しました。戦後、ラダ・ビノード・パル判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています。

 こうした出来事は、我々の友情の深さと、歴史を通じて、危機に際してお互いに助け合ってきた事実を反映するものです。

 日本を訪れるたびに、お国の発展を見て真に鼓舞され、寛大さに心を打たれます。私は、1992年の訪日を決して忘れることがないでしょう。それは、インドの財務相として初の両国間の訪問でした。

 1991年に前例のない経済危機に対処した際、日本から送られた支援に謝意を述べるための訪日でした。古い型を打破し、グローバル化しつつある世界での競争に備えるべく経済を開放し、新たな前進への道を乗り出す機会を、あの危機は我々に与えたのでした。当時、弾力性や献身といった長所、あるいは逆境にあって如何に機会を創造するかといったことを日本から学ぼうとして、我々は日本に目を向けたのでした。

 新生インドの首相として、今日、私は日本に戻ってまいりました。過去15年間、インド経済は年率平均6パーセントを上回る成長を遂げてきました。近年は一層弾みがつき、成長率は年間8パーセント以上に加速しています。現在、インドの投資率は対GNP比で30パーセントに相当します。1990年代初頭に立ち上げた広範な経済改革の結果、インド経済は、経済のグローバル化と多極化の進む世界の出現によってもたらされた課題やチャンスを受けいれる柔軟性を身につけました。

 インドは、開かれた社会、開かれた経済として前進を続けています。民主的な政体の枠組みの中でインドを変容させようとする我々の努力が成功を収めることは、アジアと世界の平和と発展にとって極めて重要です。これまでに、10億を超える人々が民族や文化など多元的な要素を抱えた民主主義の枠組みの中で貧困を撲滅し、社会と経済を現代化しようと試みた例は全くありません。

 インドは、現在、持続的な高度成長の波に乗っていると思います。サービス主導型かつ技術先導型の経済によるグローバル経済との統合という新しいモデルを開発してきました。今日、インドは、情報技術、バイオテクノロジー、医薬品など、知識を基礎とする分野で主要な役割を担う国として台頭してきました。道路、鉄道、電気通信、港湾、空港などから成る物理的および社会的インフラを拡大し現代化するため、大規模な投資が行われています。こうした発展は、インドの製造業の競争力と生産性を大いに高めるでしょう。

 インドと日本が両国間の結びつきを急速に発展させるための土台は、こうした経過と国際的な筋書きの変化によって生まれました。二つの古代文明にとって、戦略的かつグローバルな関係を含む、強固で今日的な関係を構築する時が到来したと思います。それは、アジアと世界にとって大変重要な意味をもつでしょう。

 我々は、自由、民主主義、基本的権利、法の支配という普遍的に擁護された価値を共有するアジアの二つの大国です。両国間に存在するこの共通の価値と膨大な経済的補完性を活用し、互いに相手国を最重要と認める強固なパートナーシップを築いていかなければなりません。

 また、新たな国際秩序の中で、インドと日本は国力に見合った均衡の取れた役割を演じなければならないという点でも、考え方を共有しています。日印間の強い絆は、開かれた包容力のあるアジアを構築し、地域の平和と安定を強化するための重要な要素です。

 経済関係が二国間関係の基盤となるべきであり、この分野での結びつきを強力に推し進めることが必要です。日印間の貿易や投資は、到底その可能性を発揮しているとはいえません。それとは対照的に、インドと中国、インドと韓国の貿易は好調で、昨年は両国との貿易がおよそ40パーセントの伸びを示しました。中国との貿易は日印貿易の3倍近くに膨らんでおり、韓国との貿易も日印貿易とほぼ肩を並べています。

 経済協力の可能性を十分に生かすには、両国の政府、経済界、産業界の積極的な努力が必要です。
 将来、このパートナーシップを築くことができる最も重要な分野は、知識経済であると信じています。両国の経済構造、比較的得意な分野の均衡状態、人口動態の違いなどを考えれば納得できるでしょう。

 科学技術の分野でも、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、生命科学、情報通信技術といった将来の成長分野での提携を加速させていく必要があります。インドのソフト産業と日本のハード産業は、相乗効果を活用しながら発展しなければなりません。

 心ある賢人同士のパートナーシップは、人事の交流をより盛んにすることを意味します。私は、インドにおいて日本語を学ぶ学生の数が増えることを願っています。日本語は、既にインドの中等教育で外国語の選択科目として導入されています。明日、安部総理大臣と私は、「将来への投資構想」を立ち上げます。今後数年の間に何千人ものインドの若者が日本語を学ぶことができるようにしたいと望んでいます。

 相互が関心を持っているもう一つの分野は、エネルギーの安全保障です。アジア地域全体として、エネルギー供給の安全を保障し、エネルギー市場を効率的に機能させることが必要です。

 我々は貿易とエネルギーの流れを確保するために、シーレーンを保護することを含めた、防衛協力の促進に同等の関心をよせています。
 日本と同様にインドも、増加するエネルギー需要に対応するため、原子力が現実的でクリーンなエネルギー資源だと考えています。これを実現させるために、国際社会による革新的で前向きな取り組みが軌道に乗るよう、我々は日本の支援を求めます。

 テロは平和に対する共通の脅威で、開かれた我々の社会の調和と組織を脅かします。テロには多くの側面があり、その原因も多様で、地理的な境界も無視されるという複雑な問題なのです。我々が力を合わせないかぎり、テロとの戦いには勝てません。

 私は、国連と国連安全保障理事会が今日の情勢に対応できるものになるよう、その活性化と改革に向けて両国が協力してきたことをうれしく思います。両国は国連とさまざまな国連関係機関の効率強化に関心を持っています。この意味において、今、我々が置かれているグローバル化された世界で、各国の相互依存関係を秩序正しく公正に運営していくべく、両国の協力関係を強化しなければなりません。

 アジアで最大の民主主義国と最も発達した民主主義国である両国は、お互いの発展と繁栄に利害関係を有しています。我々は、インドの経済環境が投資のしやすいものになるよう努める決意です。日本企業に是非インドにおけるプレゼンスを拡大していただきたいのです。安部総理大臣と私は、二国間の投資、貿易、テクノロジーの流れを増大させるべく、包括的経済連携協定の締結につながる交渉を開始します。

 我々のパートナーシップは、アジア全域に「優位と繁栄の弧」を創出する可能性を秘めています。それは、アジア経済共同体の形成の基礎となるものです。

 こういった日印間のパートナーシップを拡大させたいという希望や抱負は、あらゆるレベルでの交流を増すことによってのみ現実のものとなります。我々はハイレベルでの「エネルギー対話」を設置することで合意していますが、このような機会がさらに多くの分野で設置されるべきであり、とりわけ貿易と産業分野では不可欠です。

 ご列席の皆様、
 いかなる戦略的パートナーシップにおいても、その礎となるのは人々の友情です。日本の若者の間で映画『踊るマハラジャ』が人気を博していると聞き、うれしく思っています。インドの子供たちは、日本のロボット『踊るアシモ』を見て歓声を上げていました。また、日本ではインド料理店の数が驚異的に増えているようですし、インドでも寿司と天婦羅への人気が高まってきたことは間違いありません。

 2007年は日印友好年であり、日印観光交流年でもあります。さらに、両国を結ぶ航空便の大幅な増便も望んでいます。老いも若きも多くの日本人がインドを訪れ、古代と現代のインドが放つ数多くの輝きをご自身の目で見てほしいと思います。

 インドと日本の新たなパートナーシップという構想は、本日、その決定的瞬間を迎えました。私の訪日はこの構想を具体化するためであり、21世紀をアジアの世紀にするために我々が努力して演じている役割に、将来の世代が感謝することができるようにするためなのです。

 ご清聴、ありがとうございました。




□ 関連記事:インド国会における安倍総理大臣演説

■衆議院インターネット審議中継で、演説の映像(同時通訳)を観ることができます。
※「案件名」に「マンモハン・シン・インド首相夫妻歓迎会」と記入して検索をクリックして下さい。
http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.cfm?ex=VL

■インド独立のエピソード参考
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog002.htm
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog338.html

■ラダ・ビノード・パール判事/極東軍事裁判 参考
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-pal.htm

ラダ・ビノード・パール判事


■タゴール、岡倉天心の参考
http://www.yorozubp.com/0210/021028.htm

■映画「ムトゥ 踊るマハラジャ」の参考
http://www.k-inet.com/~brown/muthu/

■インド国歌(直訳)-汝は我らの運命定めし者- 作詞・作曲 ラビンドラナート・タゴール
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/6544/india.htm

それは 我らの運命定めし者
その名は 心を呼び覚ます
パンジャブ シンジャブ グジャラート マラータ
ドラビダ ウトカラ ベンガルの心を
その名は ビンディヤとヒマラヤの山々に響き
ヤムナー川と ガンジス川の
清らかなる 流れに混じり合う

皆が その名だけを唱い賛える
皆が その恵みだけを祈る
皆が それを賛え唱う

その手の中にある 全ての人々が救われし民
それは 我らの運命定めし者
勝利 勝利 勝利
その汝(インド)に勝利あれ






【2007/04/11 03:50】 | 【演説・講演・論文・コラム】 | トラックバック(0) | コメント(0)
アユタヤのサムライ
タイ王国国旗 ※本年、日本とタイ王国は修好120周年を迎えます。去る平成19年4月3日、安倍総理は総理大臣官邸で、タイ王国のスラユット・チュラノン・タイ首相と首脳会談を行いました。
 120年前の明治20年当時、欧米列強の支配圏は地球の陸地の約84%にまで拡大していました。アジアで植民地化されていない国は、シャム(現タイ王国)と日本だけだったのです。
 しかし、シャムは植民地化されていなかったとはいえ、国境を仏領インドシナ(現ベトナム)と英領ビルマ(ミャンマー)に囲まれ、フランスと英国の緩衝地帯とされていただけで厳密には主権国家とは言えない状態でした。
 あ。今回はその話ではありません。それよりもっと昔のお話。今をさかのぼること350年以上前(安土桃山時代)にタイを舞台に活躍した日本人(山田長政)を題材に、タイで映画が制作されることになったそうです。実に楽しみですね、公開されたらぜひ観たいと思います。
 

■「山田長政」タイで初映画化、主演は日本人の大関さん
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070330i501.htm(リンク切れ)

 【バンコク=田原徳容】江戸時代にタイに渡り、アユタヤ王朝で傭兵(ようへい)隊長として活躍したとされる山田長政を主人公とした映画が、タイで初めて制作されることになった。

 政情不安が続くタイでは、クーデターを非難する外国に対する反発の声が強く、愛国心をあおる映画が人気を呼んでいるが、ノッポーン・ワルティン監督(45)は「国籍に関係なくタイに尽くしてくれた人の心を今こそ伝えたい」と、排他的でない映画を目指す考えだ。

 タイトルは「YAMADA―THE SAMURAI OF AYUTHAYA」。故黒沢明監督の「乱」など日本映画に感銘を受けたノッポーン監督が3年前、「日本とタイの文化が融合する人物を撮ろう」と山田長政の存在に着目した。大学教授3人と歴史資料を検討し、タイと日本の修好120年を迎える今年、脚本を完成させた。6月から西部カンチャナブリ県で撮影を開始し、来春の完成、上映を目指している。

 長政役には、タイの舞台で活躍する日本人俳優、大関正義さんを「悲しそうな目つきがいい」と、口説き落とした。映画は主に長政がタイに来て間もない青年時代に焦点を絞り、文化の違いにとまどいながらも日本人の誇りを失わず、ビルマ(現ミャンマー)軍などとの戦いに勝ってアユタヤ国王の信頼を得る、というストーリーだ。大関さんはタイの武術を操る役柄をこなすため、古式のムエタイなどの特訓を受けている。

 山田長政については、具体的史料が少なく、存在そのものが伝説化している側面もあり、日本では、度々小説や映画の題材となった。だが、タイでは歴史教科書に登場するものの、これまで採り上げられることがほとんどなかったという。

 タイでは、アユタヤの王が外敵と戦う映画「キング・ナレスワン」が大ヒット中。クーデターへの国際的非難の中、“タイはタイ人が守る”との愛国心をあおるメッセージが共感を呼んでいる。そんな時だけに、ノッポーン監督は「王室とのかかわりや政治的背景よりも、タイ文化になじむ努力を重ねながら、日本人らしい忠誠心の高さを維持した人間的な部分を強く表現したい」と強調している。

(2007年3月30日3時3分 読売新聞)




■長政役に抜擢された大関正義さん
http://825.fm/blog/thailand.php?itemid=4281

■六昆王 山田長政 ―17世紀アユタヤの日本人たち―
http://www.thai-square.com/special/vol41/sp41.htm

■タイ王国国歌
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/6544/thai.htm

タイ王国は タイ国民の血肉を集めてできている
タイの領土は すべて国民のものであり
タイ国民の 団結と愛で維持されている
タイは 平和を愛するが 闘いを恐れはしない
タイの独立を 誰からも侵害させはしない
そのような時には 全ての血を捧げ
勝利の時まで闘い抜くであろう
タイ王国に栄光あれ





史実 山田長政


【2007/04/09 13:48】 | 【タイ王国】 | トラックバック(0) | コメント(4)
“10円でございます”
台湾国旗※このお話は「謝小姐の台湾日記」からの引用ですが、すでにHPへのリンクは切れているようです。お話のページだけが残っている状態ですが、いつ消えてしまうか不安なので、ほぼ全文を引用させて頂きました。文章自体は「村上龍ジャパンメイルメディア」に掲載されていたものだそうですがそこもリンクが切れているようです。引用に不都合がありましたら、本人様からのご連絡があれば削除致します。

「10円でございます。」
http://homepage1.nifty.com/MYO/sub16/sub16.htm


 現在も台湾には山地原住民と呼ばれる人々が住んでいます。
 遥か昔、中国大陸から人々が渡って来る以前に台湾に住んでいた人々の呼称で山地同胞、または原住民とも呼ばれています。原住民という表現は、日本ではあまり良い意味では用いられていませんが台湾では、古くからここに住んでいる、ということを意味し、最近では名誉ある言葉として自らを称しています。ちなみに台北原人等の呼称もこのように用いられています。

 ここでは150年位前までは原住民と平地人との間では争いが絶えませんでした。具体的には、平地人が原住民の住んでいる山に許可なく進入した場合は殺されたりしました。それは、他族の者が許可なく自らの地に進入した場合、首を取ることは構わない、という厳しい掟があったためです。そのため、平地人は柵と交易所を作り原住民との間に距離をおき、互いの自治を認め合い平和を保ちました。

 1895年の下関条約にて清国は台湾を日本に譲り渡し、それ以降台湾は日本の領土となり植民地政策が行われることになりました。植民地政策下では原住民の人々は高砂族と呼ばれ、日本も清国と同様に彼らに対して隔離政策を行いました。当時、高砂族の中には8種類の部族がありましたが、この部族間ではほとんど交流がなく、閉鎖的な社会を築いていました。

 しかし、日本政府は清政府と異なり、積極的に部族の中に入り調査をしました。そして、その後、日本文化の導入(皇民化政策)を始めたのです。また、高砂族の住んでいた原生林を国有地とし木材を伐採し、その運搬に高砂族の人々を酷使したのです。その急激な文化の導入や搾取に反発が数々おこりました。1930年の霧社事件が有名です。高砂族は、伝統や自然の神に対して畏敬の念を持たず、自らの文化を押し付ける日本人に対して抵抗しました。しかし、その後、高砂族の反乱は日本軍によって鎮圧されました。

 日本政府による植民地政策は、台湾での教育制度を根付かせ、一般家庭の子供たちも公学校へ通うようになりました。そこでの授業内容は、まず第一に国語として日本語を教えられました。そして、両親、天皇陛下を敬い、夫婦は円満でなければならないという教育勅語をとにかく丸暗記させれました。高砂族の住んでいる地区も例外ではなく、公学校ができ上記のような教育が行われました。

 高砂族は部族ごとに言語が異なっていたため部族間での交流はほとんどなかったのですが、日本語という共通語ができたため変化しはじめました。それまでは異なる部族間では言語によるコミュニケーションは不可能でしたが日本語という共通な言語がそれを可能にしたのです。不思議なことです。日本語が台湾での共通の言葉となったのです。部族間の交流も今まで以上に活発になりました。時代は過ぎ、台湾は中華民国となり、国語は日本語から北京語に変わりました。しかし、現在でも老齢者は小さいときに学んだ日本語で会話をします。

 制度的な事柄に関しても以前は、大部分の山地が山地管制区域と指定され、民間人は許可なく進入してはいけなかったのですが、10年位前から段階的に規制は解除され現在は殆どが自由に進入可能な区域となりました。

 外国人に関しても、以前は進入不可能であった区域が開放され許可があれば入山可能になりました。

 学問の世界では情報は国境を越え忽ちに伝わるようで、台湾原住民地区規制開放の情報は日本の生物学者に伝わり、日本から2人の学者が訪れてきました。生物学とは何の関係もない私にその案内役が頼まれたのです。貝類学者で有名な波部忠重博士の学者仲間、台湾の台湾大学医学部教授張寛敏博士の教え子の妹です。入山許可とか面倒な申請があり、忙しい兄にかわり、私が同行する事になったのです。案内役を頼まれた私は2人の生物学者と共に原住民の住んでいる山に車で向かいました。

 そこは テンタナというところです。テンタナとは天に続くという意味です。 その2人の生物学者はホソガワギセルの亜種イシザキギセルというカタツムリの調査のためにここを訪れました。

 イシザキギセルは京都帝国大学から台北帝国大学に赴任した黒田徳米先生が70年前に発見したのものだそうです。70年も前に日本の学者の方は首をとられる覚悟で山岳地帯に調査をしたのでしょう。

 入山許可等の申請は、警察局でパスポートを渡して費用を支払い、許可証をもらうという形で簡単に済みました。入山道路の入り口には警官が立っていて、入山には許可書とパスポートを見せる必要がありました。しかし、私たちの車以外は、警官に止められることもなく、次々と入山して行きました。
 なぜ、私たちの車だけが止められなければならないのか、私は疑問に思い、警官に尋ねました。警官が答えるには、他の車を運転しているのは警官の親戚、山地同胞の人々とのことでそういった車は既に全て暗記してしまっているらしく、そうでない車だけを止めればよいということでした。私は自分の人相が悪いので止められたのではと勘違いしていましたが、そうではないことがわかり安心しました。

 入山し、車から降りると学者たちは生物の採集を始めました。その様子はまるでごみ拾いをしているようでした。私は次第に疲れを感じ始めましたが、それとは裏腹に山の谷間にあるテンタナは素晴らしい景色でした。天まで届く空も澄みきり、空気も非常に新鮮でした。

 それから私たちは村に到着し、とある商店に向かいました。すると、店の中から白い半袖のシャツを着て眼鏡を掛けた叔父さんがニコニコしながら出てきました。小さい頃、学校の帰りがけによく見かけた自転車の荷台にお菓子を積んで売っているやさしい叔父さんと同じ目をしていました。

 学者達はアイスボックスを覗いて、二言、三言、言葉を交わして何を買うか選んでいました(このとき学者たちは当然日本語を使っていました)。学者たちが買うものが決まったので、私は幾らですかと北京語で尋ねました。何故なら、この叔父さんの部族が日常的に用いている言葉がわかりませんでしたし、もし仮にわかったとしても私はその言葉を喋ることができなかったからです。

 すると、店の叔父さんは「1つ5円、2つで10円でございます。」とニコニコしながら背骨をまっすぐに伸ばして日本語で答えたのでした。私はそのこと自体に驚きましたが、そのあとの学者たちの態度を見てさらに驚きました。まるで天皇陛下から勲章を受け取る時のように、直角に礼をしてアイスを受け取っていたのです。

「あ、ありがとうございます。」

学者たちはそのように言い、私がお金を支払うまでその姿勢を崩しませんでした。

 店を出て、道を歩きながらモナカアイスを食べている学者たちに私はさきほどのことについて尋ねてみました。すると、学者たちは「日本で10円でございますなんて、いまどき聞けない、10円のように安いものなんか絶対、10円、としか言わない。10円です。とも言わない」
「美しい言葉だ、美しい習慣だ」「まさか台湾の山奥にきて日本語を聞けるとは思わなかったし、それにこんなに美しい日本語を聞けるとは思わなかった、タイムスリップしたような気になる。」と感動した様子で口々に言いました。

 学者たちの感動は続いたようで、そのあとの採集の時、何回か「10円でございます」と神妙につぶやいていました。

 私は日本語の「ございます」を丁寧語として理解していますが、「ございます」という言葉を使ったことはありませんでした。

 学者たちは「美しい言葉だ」と言いました。丁寧語だと私が思っていたのは美しい言葉でもあったのです。私の感覚では丁寧語と美は別なカテゴリーに所属するものでした。少なくとも北京語ではそうです。ところがこの学者たちは「ございます」を聞いて美しいと言いました。
「美しい」という言葉は辞書を調べれば意味自体はわかります。しかし、そういった言葉が用いられた時の感情やそれに関わる背景などは会話を重ねないとわからないのでしょう。

 台湾人である原住民の人が、日本語の美しい言葉を使い、その言葉に日本人が感動するという事は私にとって驚きでした。日本人は美しい言葉に接すると感動するように思いました。原住民も美しい言葉だと感じているからこそ「ございます」を使ったに違いないと私は信じています。

 原住民と日本人の間に共通しているものがあるとしたら、言葉の使い方に敏感に反応する、ということではないでしょうか?日本と台湾の原住民の世界には古くからの美しいものが存続していますがこういったことも、言葉の使い方に敏感に反応する、ということに由来しているように思います。

 台北では日々美しい建築や文化習慣が消えて逝くような気がします。美しい言葉を話す原住民や美しいものを感じる日本人だからこそ美しいものを残す事ができるのではないでしょうか。美しいものとそうでないものを敏感に感じるということや、美しいものを大切なものとして子孫に残そうとする姿勢など、日本人と原住民は美への意識が強いように思います。

 帰り道、学者たちは採集したイシザキギセルを見ながら「10円でございます」とつぶやいていました。もし、今回の採集で新種が発見されたならきっと美しい新種のカタツムリはジュウエンマイマイと命名されるに違いありません。








【2007/04/06 04:39】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(0)
しゃばだば近代国史帖


日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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