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陛下の健やかなることを祈って 
 ※ スロベニアのインダス/EBM系アーティストが出したアルバム「Volk」(National Anthems 国歌集)より。だそうです。今日は天皇誕生日。メロディ・アレンジが聴く人によってはお嫌かもしれませんが、筆者は表現者の『君が代』への愛着に驚き感動しました。言霊すら感じ素直に感謝です。



□Laibach / Volk - Nippon
 


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【2008/12/23 17:41】 | 【祝日・記念日】 | トラックバック(0) | コメント(0)
《憲法記念日》 「新憲法」制定は日本の悲願?
 ※ 現在の日本国憲法は、1946年11月3日公布、1947年5月3日に施行され、ただの一度も改正されることなく、今年60周年を迎えました。

 「憲法記念日」を翌日に控えた5月2日のこと、下に引用したように「新憲法大綱案」のニュースが飛び込んできました。今、国会で「改正法案」の綱引きの最中であるのに、それを飛び越えた「新憲法」論議の出現に多くの国民が驚いたことと思います。
 
 そこで、今回は現行憲法(日本国憲法)の成り立ちについて調べなおしてみたところ、興味深い「数字の一致」が見えてきました。では以下の数字(月日)を、じっと目を凝らして見つめてみて下さい。

 ○  4月29日  東京裁判「起訴状」 公布
 ○  5月 3日  東京裁判 開廷
 ○ 11月 3日  日本国憲法 公布
 ○ 12月23日  東京裁判 死刑執行

 何故ここで「東京裁判」であるのかと奇異に思われた方は、現行憲法がGHQ占領下政策のもとに制定されたものであることを踏まえ、拙エントリー「世界の識者が見た東京裁判」をご参考下さい。

 もうほとんどの方が気づかれたことと思いますが、それぞれ、日本の祝日と記念日に重ねられております。「重ねられて」というのがミソでございます。

 では、その「重ねられて」を実感してみましょう。

 ○  4月29日  東京裁判「起訴状」 公布 -- 昭和天皇誕生日
 ○  5月 3日  東京裁判 開廷 -- (現行)憲法記念日
 ○ 11月 3日  日本国憲法 公布 -- 明治天皇誕生日
 ○ 12月23日  東京裁判 死刑執行 -- 今上天皇誕生日

 現行憲法を平和憲法と教えられてきた国民の多くは、憲法の改正や新憲法論議は「不穏な動き」として映ることでしょう。

 確かに、憲法9条の文言は平和そのものです。9条を守ろうとする護憲派の論調で目立つものに「9条があったからこそ平和を守れたんだ」というのがあります。果たしてそうなのでしょうか。もしそれが本当なら、どうして世界中のすべての国家が採用しないのでしょうか。

 この怪しげな「憲法記念日」をきっかけに、更に論議が深まり、日本の正義の回復と「新憲法記念日」制定の日を待ち、その推移を見守りたいと思います。願わくば筆者の目の黒いうちに。 

 

□ 防衛軍に国益条項… 超党派議員が「新憲法大綱案」
http://www.sankei.co.jp/seiji/seisaku/070502/ssk070502003.htm

 超党派の保守系国会議員有志でつくる「新憲法制定促進委員会準備会」(座長・古屋圭司自民党衆院議員)は2日、現憲法を全面改正するための「新憲法大綱案」をまとめた。準備会は「党派を超えて団結し、新憲法の制定に向けて具体的な行動を開始する」(提案趣意書)方針で、大綱案を改正論議のたたき台と位置づけている。

 大綱案は、平和主義を堅持し、「防衛軍」の保持と集団的自衛権の行使を容認した。武力攻撃やテロ、大規模災害時への備えとして首相に一時的に非常措置権を与える「国家非常事態条項」の新設を盛り込んだ。

 また、「国家の主権、独立および名誉を護持し、国民の生命・自由・財産を保全することが国家の最重要の役割」として、国の領域の保全や資源、環境の保護を促す国益条項を創設することを打ち出した。

 天皇については、象徴天皇制を維持しつつ元首と明記する。また、昨年の皇室典範改正問題の混乱を踏まえ、現憲法で「世襲」(第2条)と定める皇位継承について、世襲に加え「皇統に属する男系男子」の要件を新憲法に明記することにした。

 前文は、歴史や伝統的価値観など国の特性、国柄を継承発展させていくことを宣言するものと位置づけ、国民主権の議会制民主主義▽基本的人権の尊重と、国民が権利や自由を公共に役立てる▽国の主権・独立・名誉の擁護と世界平和の希求-などを国の基本原理とした。

 「準備会」は自民党の萩生田光一、今津寛、民主党の松原仁、笠浩史、

国民新党の亀井郁夫、無所属の平沼赳夫-の各氏ら国会議員25人で構成。3日午後1時から東京都千代田区平河町の砂防会館別館で開かれる民間憲法臨調主催の公開憲法フォーラムで正式発表する。

(2007/05/02 16:35)


□【正論】東京工業大学名誉教授・芳賀綏 先人たちの無念さ生かせない憲法草案
http://www.sankei.co.jp/news/060103/morning/seiron.htm

無色無味な前文など必要ない

≪味気ない文嘆いた犬養健≫

 昨秋、自民党の結党五十年に際し、久しい懸案の新憲法草案が発表された。議論百出すべき年明けだ。冒頭の「前文」を読むうち、敗戦の翌年の議場がよみがえった。

 第一次吉田内閣のもとで現憲法案が衆議院を通過した昭和二十一年八月二十四日、本会議で賛成討論に立った議員の一人、犬養健(日本進歩党)は、演説の冒頭部分で憲法前文に言及して述べた。

 「これを一読致しますにつけ、われわれは、口語体としてのわが日本語が、殊に法律に関して用いらるる場合、いかに未(いま)だ成熟の途にあるかを痛感致したのでありまして、将来とも幾多の文学の天才が出現致し、あらゆる形において縦横の表現を試み、これによってわれらの日本語に、さらに多角的にして豊富なる魅力を加えんことを期待致すのであります(拍手)」

 憲法原案が日本製でないことを言外に言い、味気ない、魅力のない日本文であることを嘆いたものだ。

 そして貴族院本会議でいよいよ憲法が成立する十月五日、改正案特別委の委員長報告に立った安倍能成(哲学者、元文相)の発言は一段と率直だった。「前文については、特にその文章の生硬未熟なことが指摘せられまして、また内容としては、さらに積極的な雄健明朗な、これからの日本国民を立たしめるような、そういう性格を与えるための内容の改正や充実も提案されましたが、これは政府の容るるところとはならなかったのでありました」

≪素案無視した自民党の愚≫

 このように、急ごしらえ憲法の底の浅さと生煮え加減を、とりわけ前文について批判した良識の声が、改正の機会には当然生かされるはずだった。前文は「雄健明朗」な内容になって国民の高朗な志が表明され、「英文直訳体としては文句なしの模範文」などと皮肉られた現行前文と違って、豊かに蓄積された日本語の伝統の粋が示されるかと思った。

 今度の自民党案ではその期待がかなえられたか。否。「象徴天皇制は、これを維持する」などと、現憲法からの事務引き継ぎ風の投げやりな文言を含んで、依然として総体にぎこちなく、生気がない。起草者たちの声が響かず、国づくりの感激が伝わらない。各章各条の要点を掃き寄せた“ご用とお急ぎ”向け便覧を、コンピューターの作った声が伝えるような無感動なものだ。六十年昔の先人の批判に応える英知の重みや味わいを感じない。

 新憲法起草委員会の素案では、前文で日本の国土、自然、歴史、文化など国の生成発展に言及し、格調ある文章にすると目指していたはずだが、聞けば党大会での発表前に排除されてしまったという。前文が無色無味化したことの苦しい弁明か、「各国に共通の普遍の原理を掲げるのだから日本的な色合いは不要」といった説明も聞かれた。“普遍の原理”の根本議論に立ち入る紙幅はないが、仮に普遍の原理にせよ日本人が日本語で謳(うた)うのである。

 国際人・新渡戸稲造の表現を借りるなら“民族の音色(ねいろ)”が、静かな裡(うち)にも凛(りん)として響き、みずみずしい日本文になるのが自然である。

≪民族の個性白眼視する気風≫

 昭和三十年代のテレビで宮沢喜一氏(当時参議院議員)がいみじくも「英語で話すことは英語で考えることですから、英語で話していると日本がはみ出してしまいます」と語った通りの“日本はみ出し文体”の残像を引きずる粗雑な文章で新憲法とは無理だ。

 日本はみ出し様式を安易に踏襲したことについて、“日本人らしさ”におごるのは不要(不可?)という意味の説明もあったが、日本人らしさはことさら誇示されるのではない。背伸びし、ふんぞり返った自己顕示ではなく、民族の心のヒダの深みからおのずとにじみ出るものだ。“国柄”の自然の流露である。「文は人なり」なのだ。

 戦後の教育では、二言目には“個性的な人間”を育てるというくせに、民族や国の個性を白眼視し、ユニークな国語の持ち味への鈍感さを放置するのは、ひどい矛盾撞着(どうちゃく)ではないか。素案にありながら否定された重要部分は、憲法の根本原理や個々の条章が実践される舞台としての国土と、国民の人となりが育んだ伝統を一言に語るもので、どんな人間たちがどんな環境で憲法を生み、担うかを、潤いのある文体で表明することは危険でも過激でもない。

 内外各方面に対する政治的配慮から、それすら抑制するというのなら、いっそ前文のない憲法で出直したらどうだ。明治憲法は、表現は簡潔雄渾、前文など付いていなかった。(はが やすし)

(2006.1.3)






   

  

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【2007/05/04 08:36】 | 【祝日・記念日】 | トラックバック(1) | コメント(6)
《昭和の日》 昭和天皇のあゆみ
昭和天皇・香淳皇后 ※ いよいよ本年(平成19年)より、“4月29日”が「みどりの日」改め《昭和の日》となります。
 その趣旨は
 『激動の日々を経て復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす』
             (「みどりの日」は5月4日に移る) 
 昭和天皇のお誕生日は、明治34年(1901)4月29日、 ちょうど20世紀に入った年でもあります。(先人は、「ミヨの年」と親しまれた)                            

 そこで今回は、昭和天皇を偲び、そのあゆみをふり返りたいと思います。


《第124代天皇・昭和天皇のあゆみ》

□ 大正天皇の第一皇子として、明治34年(1901)4月29日ご生誕。称号を迪宮(みちのみや)、お名前は裕仁(ひろひと)と命名。(ご生母は貞明皇后)

 -- ご養育 --
 お生まれになって間もなく、枢密顧問宮の川村住義(かわむらすみよし)伯爵が御養育掛主任となり、生後70日目から麻布の自邸にお預かりしてご養育に当たった。
 ご養育の基本方針は、心身の健康を第一とし天性を曲げず、人を尊ぶ性格と克己心を養い、わがままな習慣をつけぬよう配慮された。

 -- ご教育 --
 明治41年(1908)4月1日、学習院初等科にご入学。明治天皇の特旨により、乃木希典陸軍大将が学習院院長を兼任。
 大正3年5月4日、東宮御学問所開設。乃木大将の発案により設置され、総裁には東郷平八郎元帥が就任。特に倫理担当の杉浦重剛は、①三種の神器②五箇条の御誓文③教育勅語を核とした「帝王学」を進講した。

□ 明治45年(1912)7月30日、明治天皇崩御。当時皇太子であった嘉仁(よしひと)親王(大正天皇)が即位されたのにともない、皇太子となられた。(11歳)

□ 大正10年(1921)11月25日から、大正天皇のご病気のため天皇のご公務を代行する摂政に就任。(20歳)

□ 大正13年(1924)1月26日、久邇宮良子(くにのみやながこ)女王(香淳皇后)とご結婚。(23歳)

□ 大正15年(1926)12月25日、大正天皇崩御。大日本帝国憲法と皇室典範の定めるところにより、ただちに皇位を継承。(25歳)
 その当日、年号を「大正」から「昭和」に改めた。昭和の出典は漢籍の『書経』にある「百姓昭明、協和万邦」から。(国民の和合と世界の平和を願う理想が込められた)

 -- 同年の御製 --
    山山の色はあらたにみゆれども わがまつりごといかにあるらむ

 ●昭和6年(1931)9月 満州事変
 ●昭和8年(1933)3月 国際連盟脱退

□ 昭和8年(1933)12月23日、皇太子継宮(つぐのみや)明仁親王(今上陛下)ご誕生。(32歳)

 -- 同年の御製 --
    あめつちの神にぞいのるあさなぎの 海のごとくに波たたぬ世を

 ●昭和12年(1937)7月 盧溝橋事件 支那事変 

□ 昭和15年(1940)6月、紀元2600年につき、伊勢神宮・畝傍稜(うねびりょう)・橿原(かしはら)神宮などへご親拝。(神武天皇にまつわる御陵と神宮)

 ●昭和16年(1941)12月8日 英米に宣戦布告

   「開戦の詔書」 

 ●昭和20年(1945)8月14日 ポツダム宣言受諾

   8月15日、「終戦の詔書」を玉音放送。
   -- 終戦時の御製 --
      爆撃にたふれゆく民の上をおもひ いくさとめけり身はいかならむとも
      身はいかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて
      国がらをただ守らんといばら道 すすみゆくともいくさとめけり

□ 昭和21年(1946)2月、神奈川県の復興状況をご視察、以来29年8月まで全国巡幸を行った。(45歳)
 (しばらくアメリカの統治下にあった沖縄を除く全都道府県を巡られた。その全行程距離は33000km、総日数165日)

   -- お言葉 --
  「国民が戦争によって痛手を受けました。新しい時代に、国民の気持ちを何とか和らげたい、日本の発展のために努力してもらいたいと思って各地を廻った」

   -- 同年の御製 --
      ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ 松ぞををしき人もかくあれ  
 

 ●昭和27年(1952)4月28日 サンフランシスコ講和条約発効(独立主権回復)

   -- その日の御製 --
      風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし 八重桜咲く春となりけり

□ 昭和34年(1959)4月10日、皇太子明仁親王・正田家の美智子様(現皇后陛下)ご結婚。

□ 昭和35年(1960)2月23日、皇長孫・浩宮徳仁親王(現皇太子殿下)ご誕生。

   -- 同年の御製 --
      さしのぼる朝日の光へだてなく 世を照らさむぞわがねがひなる

 ●昭和39年(1964)10月10日 東京オリンピック 開会
 ●昭和45年(1970)3月14日 大阪万国博覧会 開会

   -- 同年の御製 --
      戦をとどめえざりしくちおしさ ななそぢになる今もなほおもふ
      よろこびもかなしみも民と共にして 年はすぎゆきいまはななそぢ

 ●昭和47年(1972)5月15日 沖縄返還

□ 昭和47年6月24日、年代の確かな歴代天皇の中で、ご在位期間最長を記録。(16619日)
   -- お言葉 --
  「一日一日を国のため、つとめとして送っているうちに今日にいたった」

□ 昭和60年(1985)7月13日、年代の確かな歴代天皇の中で、最長寿となられた。(84歳3ヶ月)
   -- お言葉 --
  「いつの間にかこうなった、大したことではない」

□ 昭和61年(1986)東京両国の国技館で政府主催「ご在位60年記念式典」

   -- お言葉 --
  「今ここに昭和の60年の歳月を顧み、先の戦争による国民の犠牲を思うとき、なお胸が痛み改めて平和の尊さを痛感します」

□ -- 昭和62年の御製 --
     思はざる病となりぬ沖縄を たづねて果たさむつとめありしを

□ -- 昭和63年(終戦記念日)の御製 -- 
     やすらけき世を祈りしもいまだならず くやしくもあるかきざしみゆれど
      
□ 昭和64年(1989)1月7日、百十一日間に及ぶご闘病の末、崩御。この間、一千万人にのぼるお見舞い記帳が寄せられた。(87歳)

□ 平成元年(1989)2月24日、東京新宿御苑にて「大喪の礼」。海外から164カ国、国連をはじめ22の国際機関の代表が参列。(うち国家元首55名)

 御陵は東京八王子の武蔵野稜。


 

※ 今年は紀元2667年になります。この万世一系の天皇を頂く日本の歴史の中で、ただ一度きりの敗戦の経験をした日本は、昭和の時代にその背骨をへし折られた感があります。

 約6年半のGHQ占領下戦時政策の間に、何を失い何を得たのか、独立主権を回復して以来、どれだけのものを取り戻せたのか取り戻せなかったのか。その答えが現在の日本の姿に現れているといえましょう。

 「昭和の日」を迎えるにあたって、あらためて先帝陛下のあゆみをふり返るとき、その時々に残されたお歌やお言葉の中に、一貫して平和への希求と国民への温かいまなざしがあります。

 戦後失った(薄れた)ものの中で最も尊いものは何かと考えるとき、この国が悠久の昔から、天皇を中心として成り立ってきたという「記憶」ではないかと思うに至ります。

 激動の「昭和」という時代は、先帝陛下とともにあった先人たちの無私の闘いの時代であり、戦争には負けても、日本という国を残して下さったのです。心からの感謝とご尊敬を申し上げたい。そして、この国の将来に思いをいたし、次世代へ、より良き日本を渡したい。

 

 因みに、独立を回復した4月28日こそが、本当の「終戦記念日」であり、先帝陛下のお誕生日の前日に合わせたものであると、容易に推察することができましょう。











【2007/04/26 06:25】 | 【祝日・記念日】 | トラックバック(0) | コメント(2)
しゃばだば近代国史帖


日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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Author:娑婆妥場
この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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