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和ませてくれてありがとう台湾の学生さん
 ※ 先月の10月14日、台湾の中央大学で或る歌謡祭が催された。題して『大熱唱!組曲「ニコニコ」』。同大学のアニメファン258名がアニメソング・メドレーのカラオケを作って大合唱しています。(笑)

 何だか憂鬱になるといつも日台友好の話題を求めてしまうのですが、今回見つけたこの映像はすごい!これだからますます台湾が好きになっちゃうんですねー。

 この映像がニコニコ動画に登場するや、アクセス急騰なんだそうな。筆者はニコニコ動画のユーザーではないのですが、YouTubeで偶然見つけて・・。早速ググッてみると、12月22日の次期歌謡祭には日本からも参加しようという動きがあったりして。(笑)

 これ、どこがすごいかって、日本人(アニメファン)でもこのメドレーを歌いこなせる人は少ないと思いますよ。聴いているだけで舌を噛みそうな超高速メロディーにびっくり。それを異国の人が日本語で!? ・・優秀な学生さんたちに脱帽です。

 ほんとにありがとう。感動しました。来月参加する日本人有志の皆さんも素晴らしい。土産動画を期待しています。(笑)



 □せっかくだから台湾人258人で一緒に組曲『ニコニコ動画』を歌ってみた!
 

□日本人が台湾人にお返しの組曲作ってみた
 



 ※ 早速のお返し動画にまたまたびっくり!こんなユニークな交流ができるのかと、インターネットという情報ツールがどれほど革命的なものなのかを再確認させられました。しかも誰が扇動したものでもなく、これは自然発生的な発想です。いやはや、久々の嬉しい驚きでした。

 
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【2007/11/14 10:07】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(0)
美しい日本語を話す会ではない、守る会だ
 ※ テレビでは「小沢党首が辞意表明」と騒いでいる。安倍前総理の辞意表明の時は天地がひっくり返る思いをしたが今回は何とも思わない。福田政権が誕生して以来、日本は何が起きても不思議ではない状況となっているからだ。

 安倍前総理は一国の「主権」を意識して舵取りをしていた。しかし福田総理にそんな意識は無い。目先に吊り下げられた「毒ニンジン」にホイホイ食いつく餓鬼畜生の類だからだ。それは小沢党首もしかり。

 スキを見せて日本に他国の謀略を蔓延らせた張本人たちが、いい気になっているところに毒が回ってきただけのこと。日本の主権などどうでもいいのだ。毒が回るまでにたらふく私腹を肥やせれば「勝ち組」だとでも思っているのでしょう。ご本人は毒が明るみに出る前に下野したいのですかね。

 しかし、こんな風に他国の謀略で政界が混乱するのは御免だ。一刻も早く消えて欲しかった小沢さんですが、謀略で消されることには憤慨する。少しでも大和民族の欠片が残っているのなら、一蓮托生、福田さん一派も道連れにしていただきたい。そして政界再編のカチンコ鳴らしましょうよ。もはや自民党の崩壊なくして「戦後体制からの脱却」は成し得ないのだから。

 ちょこっと触れるだけのつもりがずいぶん回り道してしまいました。日本の主権を確かなものにし、日本再生を果すべき政治家の頂点に立つ両党首が、ままごと政治に始終し国を危うくしているので本当は一大事なのですね。



 さて今回は下に引用の記事に注目したかったのです。産経新聞の「台湾有情」シリーズは毎回感動させてくれます。そしていつも申し訳なく思ってしまう。しかし、もうのんびりと申し訳なく思っている場合じゃない。

 先の大戦で敗戦したことで日本ではなくなった台湾に、「日本語世代」と呼ばれる日本を懐かしんでくれる人たちがおられます。日本が急激に日本らしさを失う一方で、台湾の「元日本人」の方々は日本らしさを残し守ろうとして下さってきた。

 そのひとつ、象徴とも言うべき「美しい日本語」が、当の日本では急激に壊れてきている。それは、若者が造語・アレンジするからだけではない。

 その原因を思いつくままに列記してみると、常用漢字を故意に減らしたこと、漢字教育での量を減らしたこと、国語教育の質・量、共に減らしたこと、書き順を不問にしてしまったこと、書道教育を怠る学校が増えたこと、古文教育を減らしたことなどが挙げられる。

 また、学校教育の中で先生と生徒の垣根が取り払われ、まるで友だち関係のような会話を許しているようだ。教壇を無くした平坦な教室で敬語も使われないとなると、「先生の立場」を放棄したも同然で学級崩壊を誘うようなものである。

 学校の外はというと、新聞やテレビのテロップを見て漢字が少なくなったことに気付く人は多いと思う。やたらとテロップが多いのも気になる。アナウンサーと呼ばれる方々の砕けすぎた言葉遣いも大いに気になります。あの大新聞と呼ばれる社説の意味不明な「作文」のような珍文にも失笑してしまう。

 そして、無用に外来語っぽいカタカナ語が多いことも気になります。そのカタカナ語にカッコ付きで日本語の説明を加えるくらいなら、カタカナ語は必要ないと思うのですが・・。

 まだまだ思いつくことが頭に浮んでいるのですが、馬鹿馬鹿しくなってきたのでこのぐらいにしますが。要するに日本語の崩壊はすでに笑い事ではない域にあると思うのです。

 「男らしさ」「女らしさ」「子供らしさ」も曖昧になり、昔「男言葉」として女性には使われることがなかった言葉が女性や子供の間で氾濫し、たった今もテレビで某有名アナウンサーが「・・・じゃねえか」だなんて・・。脱力してしまいます。

 そういう筆者も、つい「壊れ言葉」を使ってしまうことしばしばで・・。

 「美しい日本語を話す会ではない、守る会だ」と一喝

 のくだりを読んで、恥ずかしくなりました。日本語には「言霊」があると言われていますし、筆者もそう感じています。「美しい日本語」を、せめて挨拶言葉をまず大事にしたい。

 「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」「ありがとうございます」等々、これだけでも気持ちの良い会話が始められる。

 昔は知らない人同士でも、挨拶だけは常識でした。挨拶するだけで気持ちが良くなるものです。

 「こんにちは」
 「いい天気ですね」

 「さようなら」
 「お元気で」

 「美しい日本語」の定番、この挨拶からまず始めましょう。

 



■ 【外信コラム】台湾有情 「日本語世代」 2007.11.5 02:27
http://sankei.jp.msn.com/world/china/071105/chn0711050227000-n1.htm
 
「待ちわびた歌会の日のうれしさは遠足に行くわらべの如し」。日本統治時代を生きた「日本語世代」は積年の思いを日本語に託すことがある。紹介した一首は、短歌を愛する台湾の人々が集う「台湾歌壇」の会員が、月に一度の歌会に寄せた思いを詠ったものだ。

 そんな彼らが先月、日本の九州を拠点とする短歌結社「牙」のメンバーと台北市内で交流する機会を持った。「靖国の春の例祭参りたり声高々と歌ふ君が代」。自ら「元日本人」とまで言い切る日本語世代には、靖国神社への深く複雑な思いがある。「台湾にはこういう人が…。日本人として感動した」。牙を主宰する歌人で、この日の短歌を評した石田比呂志氏も驚きを隠せなかった。

 台湾には、川柳や俳句を愛する人々の集いもある。「美しい日本語」を勉強し続ける「友愛グループ」の会合では、「美しい日本語を話す会ではない、守る会だ」と一喝された。日本の文化が、日本人の心が、これほど多くの人に大切にされている所もないだろう。

 その彼らも平均年齢が80歳を超え、活動にも徐々に制約が出てきた。北部の基隆では11月上旬、日本時代の基隆中学の同窓生で作る「堵南会」が会員の高齢化から、10年続いた会報の発刊に終止符を打った。次世代が彼らの思いを引き継ぐとしても、残された時間はあとわずかである。   (長谷川周人)





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【2007/11/05 10:10】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(6)
八田與一がアニメになって
 ※ 先日、「《日本人の精神》 李登輝 -- 幻の講演 --」 をエントリーしたばかりだったので、このニュースには驚くやら嬉しいやらでした。でも、きっと一番喜んでいるのは台湾国民だと思います。八田氏のことを知りたい方は、どうぞ上のリンクへ。李登輝前総統自らがご紹介下さいます。

 なんだかこのアニメの出現には、なんだか時代の変わり目を感じてしまうのは筆者だけだろうか。なんだかなんだかなんだかなんだか・・・・わくわくしています。


□ 八田與一氏の生涯、虫プロがアニメ化 台湾に尽くした日本人
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070509/chn070509000.htm

 【烏山頭(台南県)=長谷川周人】日本統治下の台湾で、農業近代化と水利事業に尽くした日本人技師、八田與一氏の生涯がアニメ映画化されることが決まった。65回目の命日にあたる8日、八田氏が築いた台湾中部の烏山頭ダムで行われた慰霊祭に参列した虫プロダクションの伊藤叡社長が明らかにした。

 伊藤社長によると、タイトルは「パーテン ライ(八田がやってきた)!」で、制作費は約1億5000万円。監督は「宇宙戦艦ヤマト」などを手がけた石黒昇氏が担当し、すでに脚本作りに入っている。ストーリーは「貧しい農家に生まれた台湾人少年を主人公とし、彼が助手としてみた八田の生きざまを描いたもの」という。

 劇場公開は来年夏を目指し、北京語版も作成して台湾でも上映する。伊藤社長は「台湾を愛し、台湾に愛された八田氏をアニメ化で現代に伝え、彼の滅私奉公の精神を社会の底辺に広げたい」と意気込みを語った。

 金沢出身の八田氏は1910年に台湾に渡り、干魃(かんばつ)に悩まされていた嘉南平原の潅漑(かんがい)を決意。10年をかけて烏山頭ダムを完成させ、不毛の大地を台湾最大の穀倉地帯に変えた。この功績が地元の尊敬を集め、命日には毎年、地元の人々による慰霊祭が行われている。

 慰霊祭では、顔純左副県長(副知事)が「時代が変わっても八田技師を懐かしむ県民の思いはかわらない」とあいさつ。日本からも約40人が参列し、八田氏の長男、晃夫氏(故人)の綾子夫人と孫にあたる八田修一夫妻らが、地元が建立した八田氏の銅像に手を合わせた。

(2007/05/09 02:50)


□ 八田技師思い「日台の懸け橋に」 友好の会が台北の児童と交流
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20070511101.htm

 【台北10日=宮本南吉】台湾を訪問している「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」(金沢市)の一行は十日、台北市の日本人学校を訪れ、八田與一技師について学んでいる六年生の児童七十六人と、日本の童謡を歌うなどして交流した。
 台北日本人学校では、四年生の時に八田技師について勉強し、六年生の十一月に修学旅行で台南県にある烏山頭(うざんとう)ダムを訪れている。

 八田技師の孫にあたる八田修一さんが「八田技師について知っていることがあれば教えてください」と呼びかけると、児童は手を挙げ、「ウーシャントー水庫(烏山頭ダム)をつくった」「稲の実らないところを米の倉庫にした」などと口々に答えた。

 この後、ハーモニカのもりけんさん、口笛のもくまさあきさん、アコーディオンの昇幹夫さんが「鯉のぼり」「ふるさと」などの曲を演奏し、友好の会一行と児童が一緒に歌った。

 児童の代表は「八田技師の話と楽しい童謡を聞かせてくれてありがとうございます。私たちは八田さんのように日台の懸け橋になります」とあいさつした。

 友好の会の中川耕二さんが学校側に、北國新聞社発行の八田技師の絵本「よいっつぁん夢は大きく」を手渡した。

 一行は十日、帰国した。

 八日から北陸の観光地を訪れている台湾の航空、旅行業者一行は十日、金沢市内入りし、兼六園・金沢城や長町武家屋敷跡を見学した。

 一行は台湾からの観光客誘致に力を入れる県観光連盟と北陸広域観光推進協議会が招いた。八日にチャーター機で能登空港から日本入りし、この日までに輪島や東尋坊、五箇山などを視察した。

 雨の中、金沢の観光地を巡った業者らは「石川は台湾でも人気のある旅行地だが、特に武家屋敷跡はとても日本的なので好まれるだろう」と評価した。その後、県の観光関係者との交流会で友好を深めた。

 県教委の「いしかわを知る講座」は六月十五日から、輪島市の県立生涯学習センター能登分室で開かれ、日本統治時代の台湾で烏山頭ダムを建設した金沢出身の技師、八田與一の生涯などを紹介する。

 六、七月の講座は計四回で、いずれも午後一時半から。受講費は無料で、各回ごとに申し込みを受け付け、定員の四十人に達し次第締め切る。問い合わせは能登分室=0768(26)2360=まで。講座内容と講師各氏は次の通り。

 ▽6月15日 「八田與一の仕事」松田章一金沢ふるさと偉人館長▽同26日 「アンサンブル金沢20年」山田正幸オーケストラ・アンサンブル金沢GM▽7月10日 「金沢城の魅力」木越隆三金沢城調査研究所副所長▽同21日 「太鼓昨今」浅野昭利浅野太鼓文化研究所理事長

(2007/05/11 04:32)







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【2007/05/09 13:22】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(4)
日本の子どもたちの顔を見たかった
 ※ 「李登輝さんは若い人たちが好きなのよ」「彼はとてもチャーミングでしょ?」と言う金美齢さんの声が耳から離れません。李登輝先生は昨年訪日の予定が体調を崩されて頓挫しておりました。お年を考えると心配でしたが、昨年のスカラシップの時も退院間もないお体で「日本の子どもたちの顔を見たかった」と笑顔を見せてくれました。

 その後、台湾の総統選を控えて新党を立ち上げたというニュースに触れ、その精神力の強さに明治の志士がダブって感服するばかり。そしてこのたびのニュース。後藤新平賞受賞おめでとうございます。

 これは、直前の訪日計画のニュースときっと関係があるのだと、ひとりほくそえんでおりました。後藤新平の会をその時初めて知ったのですがほんとにいいタイミング。自然体の李登輝先生だからこそ、ついてまわる無理のない幸運なのだと思いました。「奥の細道」の旅の実現、今度こそと祈っております。

 ついでに今年のスカラシップのニュースと、昨年保存しておいた同ニュースをここに並べておきました。この「日本の子どもたちの顔を見たかった」という言葉にノックアウトでしたから。

 しかし。読売新聞の「中国の反発は必至だ」はよけいな言葉だと思います。まるで反発を期待するかのようなその言葉。そこだけが宙に浮いてます。



□ 後藤新平賞に李登輝氏 台湾近代化への貢献を評価
http://www.sankei.co.jp/culture/bunka/070508/bnk070508006.htm

 後藤新平の会(粕谷一希代表幹事)は8日、日本の近代化の過程でスケールの大きな政策を構想・実行した後藤新平の生誕150年を記念して創設した後藤新平賞の第1回受賞者に、前台湾総統の李登輝氏を選んだ。後藤の仕事と精神を継承して台湾の近代化の発展に貢献したことが評価された。授賞式は6月1日午前10時、東京・六本木の国際文化会館岩崎小弥太記念ホールで行われる。

(2007/05/08 19:45)



□ 台湾の李登輝前総統、5月下旬~6月に訪日計画http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070503i317.htm

 【台北=石井利尚】台湾の中央通信は3日、李登輝前総統(84)が5月下旬から6月にかけて日本訪問を計画している、と伝えた。

 関係筋によると、李氏は東京や東北地方を訪れることを希望しているが、具体的な日程は体調などを見て最終決定するという。計画が実現すれば、2004年末以来の訪日となるが、中国の反発は必至だ。

 李氏は昨年9月、6日間の日程で東京などを訪問する準備を進めていたが、「健康上の問題」を理由に延期していた。

(2007年5月4日0時44分 読売新聞)



□ 日台青少年スカラシップ 李登輝前総統を表敬
http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070327/wdi070327002.htm

 【台北=長谷川周人】日本と台湾の青少年が相互理解と交流を図る第4回「日台文化交流青少年スカラシップ」(フジサンケイ ビジネスアイ、産経新聞社主催、行政院新聞局共催)に参加した17人は26日、台北郊外で李登輝前総統(84)を表敬訪問した。李氏は「日本にはまれなる特殊な文化がある。真をもって面する世界一正直なのが日本人なのだ」と話し、中学生から大学生までの参加者を「国を愛せ。人民を愛せ」と叱咤(しった)激励した。

(2007/03/27 15:20)

□ 受賞者14人が李登輝氏と面会 日台交流・青少年スカラシップ


李登輝前総統 平成18年(2006)3月

 

【台北=長谷川周人】日本と台湾の中高生と大学生の相互理解を深める「日台文化交流 青少年スカラシップ」(フジサンケイ ビジネスアイ、産経新聞社主催、行政院新聞局共催)の第3回の受賞者14人が28日、台北市内で李登輝前総統(83)と面会した。

 李氏は今月中旬、風邪の症状を訴えて入院し、24日に退院したばかりだったが、「日本の子どもたちの顔を見たかった」と約1時間半にわたり熱弁をふるった。

 李氏は「国を離れて国を知る。台湾に来て日本がいい国だと目覚めたのではないか」と切り出し、「戦後60年の間に忘れ去られた日本精神」の大切さを訴えた。また国家指導者の条件について、「信念と理想を持ち、困難があっても貫く心が重要だ。人はいずれ死ぬ。限りある時間の中で、精神的なものをどう残すかを考えるべきだ」と語った。

 上智大の向原緑さんは「日本を愛する台湾の人々と出会い、日本人として誇りと自信を取り戻した」と話し、福岡県立太宰府高の鳥羽裕美子さんも「日本統治時代を乗り越え、なお日本に向く熱い思いに戸惑いすら感じた」と感慨深げだった。

(2006/03/28 22:47)sankei




 ※ 続けてこんなニュースを発見しました。お元気そうで何よりです。


□ 「金沢再訪は来年」 台湾・李登輝氏、元気 「奥の細道」訪問、今年は秋田まで
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20070510102.htm

 台湾前総統の李登輝氏は九日、台北市郊外で北國新聞社の取材に応じ、今年五月終わりから六月初めに予定している訪日について「今年は東京から秋田ぐらいまで『奥の細道』を訪ね、来年、金沢を訪れたい」と語った。
 李氏は来年、奥の細道の後半部分を旅する中で金沢へ足を運びたいとし、「金沢では八田與一、鈴木大拙、西田幾多郎について語りますよ」と述べ、講演したい意向を示した。

 昨年、体調を崩し、五回入院したという李氏はこの日、「(心臓の)カテーテル手術を受け、非常に元気。心臓のポンプの力が強い。まだ何年か持ちますよ」と力のある声で語った。 

【2007年5月10日02時42分更新】




 ※ 関連記事です。
 

□ 李登輝前台湾総統、3テーマで講演へ…訪日前に会見
 http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070524id03.htm

 【台北=石井利尚】台湾の李登輝前総統(84)は23日、30日からの日本訪問を前に読売新聞などと会見し、6月9日までの訪問中、「日本の教育と私」「後藤新平と私」「2007年とその後の世界情勢」の三つのテーマで講演することを明らかにした。

 「世界情勢」の講演については、東アジアでの日本と中国の主導権争いや台湾の情勢についても言及する意向を示した。

 李氏は、総統退任後の2度の訪日では、中国政府の反発などに配慮し、講演や記者会見を行わなかった。今回は記者会見も行う。 
(2007年5月24日13時7分 読売新聞)





   

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【2007/05/09 12:35】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(0)
《日本人の精神》 李登輝 -- 幻の講演 --
「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは 「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは
李 登輝 (2003/03)
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※いつも気の向くままに数冊の本をハシゴ読みする。1冊の本を一気に読みきるほどの速読術も根気も無い筆者は、今日も思いつくままぶつぶつ独り言つぶやきながらハシゴ虫食い読み。この本も洩れなく発売後間もなく嬉々として購入したわりには読みきれていなかったこと判明。そういえば寝不足の頭で何度も居眠りしながらなかなか読み進めなかったことを思い出した。改めて途中から読み返し、その魂のこもった内容に目からウロコが落ちました。(笑)

 読み進みながら(これはぜひとも紹介せねば)と頭をよぎり、紙切れ挿みながらまた読み進めておりましたが、最後まで読み終えて、当初引用するつもりでいた本文は全部伏せておくことに決めました。なぜなら。この本を「引用」などという小技で紹介することは、筆者には無理、おこがましいってこと、独り言つぶやいてしまいましたから。よって内容はタイトルや下に引用する識者らの感想で想像力膨らませて下さいませ。これも数人だけにとどめておきますが。

 しかしそれではあんまりでしょう。したがいまして付録として掲載されている、慶応大学三田祭(平成14年)での、外圧により実現しなかった「幻の講演」の原稿を、全文というわけにはまいりませんが引用させて頂きます。外圧に屈した「武士道」を忘れた当時の日本政府に抗議を込めて。



□ 『日本人の精神』 (慶応大学三田祭・幻の講演原稿) ―― 初出「産経新聞」 2002.11.19日付

◆ 日本人の「自己否定」に心を痛める

 ※この項目は割愛させて頂きました。

◆ 日本人技師・八田興一が台湾に残したもの


八田興一


 台湾で最も愛される日本人の一人、八田興一(はった よいち)について説明しましょう。

 八田興一といっても、日本では誰もピンとこないでしょうが、台湾では嘉義台南平野15万町歩(1町歩はおよそ1ヘクタール)の農地と60万人の農民から神のごとく祭られ、銅像が立てられ、ご夫妻の墓が造られ、毎年の命日は農民によりお祭りが行われています。彼が造った烏山頭(うざんとう)ダムとともに永遠に台湾の人民から慕われ、その功績が称えられるでしょう。

 八田興一氏は1886年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校を経て1910年に東大の土木工学科を卒業しました。卒業後まもなく台湾総督府土木局に勤め始めてから、56歳で亡くなるまで、ほぼ全生涯を台湾で過ごし、台湾のために尽くしました。

 1895年に日本の領土になったころ、台湾は人口約300万人、社会の治安が乱れ、アヘンの風習、マラリアやコレラほかの伝染病などが原因で、きわめて近代化の遅れた土地であり、歴代3代の台湾総督は抗日ゲリラ討伐に明け暮れた時代でありました。

 第4代の児玉(源太郎)総督が民政長官の後藤新平氏を伴って赴任した1898年ごろに、台湾の日本による開発が初めて大いに発展しました。

 八田興一氏が台湾に赴任するのは、後藤新平時代が終了した1906年以降のことです。後藤新平時代に近代化が大いに進んだとはいえ、以前があまりに遅れていたこともあり、八田氏が精力を傾けることになる河川水利事業や土地改革はまだまだ極めて遅れていました。

 台湾に赴任してまもなく、台北の南方、桃園台地を灌漑(かんがい)する農業水路の桃園大●(シュウ=●=土ヘンに川)の調査設計を行い1916年に着工、1921年に完成しましたが、灌漑面積は3万5千町歩でありました。これが今日の石門ダムの前身であります。

 この工事の途中から旧台南州嘉南大●(シュウ=同上)水利組合が設立され、八田氏は総督府を退職して組合に入り、10年間をその水源である烏山頭貯水池事務所長として、工事実施に携わりました。

 嘉南平野15万町歩を灌漑するために、北に濁水渓幹線、南に烏山頭ダム幹線の二大幹線を築造し、曽文渓からの取水隧道(ずいどう)によってダムに1億6000万トンの貯水を行ったものであり、土堰堤(どえんてい)築造工法としてセミハイドロリックフィル(反射水式)工法が採用されました。

 この工事の完成によってほとんど不毛のこの地域15万町歩に毎年8万3000トンの米とサトウキビその他の雑作が収穫されるようになりました。その時分では東洋一の灌漑土木工事として、10年の歳月と(当時のお金で)5千4百万円の予算で1930年にこの事業を完成したときの八田興一氏は、なんと44歳の若さでありました。

 嘉南大シュウの完成は世界の土木界に驚嘆と称賛の声を上げさせ、「嘉南大シュウの父」として60万人の農民から畏敬の念に満ちた言葉で称えられました。

 八田興一氏への恩を忘れないようにしたのは何でしょうか? 古川勝三氏の著作からの引用ですが、八田興一氏があの若さでこの偉大な仕事を通じて台湾に残したものが3つあると思います。

 一つは嘉南大シュウ。不毛の大地といわれた嘉南平野を台湾最大の穀倉地帯に変えた嘉南大シュウを抜きにして八田氏は語れません。
 二つ目は八田氏の独創的な物事に対する考え方です。今日の日本人が持ち得なかった実行力と独創性には目を見張るものがあります。
 三つ目は八田氏の生き方や思想は、我々に日本的なものを教えてくれます。

 これら諸点について具体的な諸事実を並べて話しましょう。


一、まず嘉南大シュウの特徴についてみましょう。

 ①灌漑面積は15万町歩、水源は濁水渓系統5万2千町歩、烏山頭系9万8千町歩。灌漑方式は3年輪作給水法。
 ②烏山頭ダムの規模、堰堤(えんてい)長1273メートル、高さ56メートル、給水量1億5000万トン、土堰堤はセミハイドロリックフィル工法採用。
 ③水路の規模、給水路1万キロ、排水路6000キロ、防水護岸堤防228キロ。

 このような巨大な土木工事をわずか32歳で設計に取りかかり、34歳で現場監督として指揮をした八田氏の才能には頭が下がります。戦後の日本における近代農業用水事業の象徴である愛知用水の10倍を超える事業なんだと考えれば、うなずけるものと思います。

 そして烏山頭は東洋唯一の湿地式堰堤であり、アメリカ土木学会は特に「八田ダム」と命名し、学会市場で世界に紹介したものです。

 しかし嘉南大シュウが完成しても、それですべてが終わったというわけにはいきません。ハードウェアは完成しましたが、それを維持管理し有機的に活用するためのソフトウェアが大切です。農民はその大地を使って農作物を作り、生産力を上げなければ嘉南大シュウは生きたものになりません。

 農民の技術指導が連日、組合の手によって繰り返されました。その甲斐あって3年目には成果が顕著になってきました。かくして不毛の地、嘉南平野は台湾の穀倉地帯に変貌を遂げたのです。

 その成果には、

 ①農民が被る洪水、干ばつ、塩害の三重苦が解消したこと。
 ②3年輪作給水法によって全農民の稲作技術が向上したこと。
 ③買い手のない不毛の大地が給水によって地価が二倍、三倍の上昇を招き、全体では9千5百40万円もの価値を生んだ。この金額は当時の全工事費を上回る金額であった。
 ④農民の生活はこれによって一変し、新しい家の増築や子供の教育費に回す余裕がでてきた――ことがあげられます。

二、次は八田氏の独創的なものの考え方を述べなければなりません。以上述べた嘉南大シュウの巨大な工事に対して、当時として常識はずれの独創的方法が採用されました。

 その一つはセミハイドロリックフィル工法の採用です。この方法は東洋では誰も手がけたことがなく、アメリカでさえもこのような大きな規模の工事では採用されていなかった。この工法を採用したのには、それなりの理由がありました。

 まず地震です。この地帯は断層があちこちに発生しており、地震強度は6以上もあります。この工法は粘土による中心羽金層を堰堤(えんてい)の中心に造り、浸透水を遮断して堰堤の決壊を防ぐアースダム方式です。この工法を遂行するには、300万トンの大量の土砂と中心羽金層を造る微細な粘土を必要としますが、この地域にはこれを供給する場所がありました。

 この未経験の工法を採用するに当たり、徹底的な机上の研究とアメリカ視察を行いました。そして、この工法の採用と設計が間違いでない確信を持って工事にとりかかったのです。

 また、コンクリートコアの高さと、余水吐をめぐって、セミハイドロリックフィルダムの権威者ジャスチンと大論争しますが、自説を譲らず、設計どおりに構築しました。70年経過した今日でも、堰堤は1億トン以上の水を堰(せ)きとめて、八田ダムの正確性を証明しています。

 二つ目は大型土木機械の使用です。労働力のあまっている時代としては常識はずれでした。大型機械の使用については組合や当時の請負業者が反対していました。購入予算は4百万円に達し、堰堤工事と烏山頭隧道工事費の25%にあたります。

 八田氏の意見は、これだけの堰堤を人力で造っていては10年どころか20年かかってもできない。工期の遅れは15万町歩の土地が不毛の土地のまま眠ることになる。高い機械で工期が短縮できれば、それだけ早く金を生む。結果的には安い買い物になる――というものでした。

 この考え方は当時としては偉大な見識と英断と見なければいけないでしょう。これら大型土木機械はその後の基隆港の建設と台湾開発に非常な威力を発揮しました。

 三つ目は烏山頭職員宿舎の建設です。「良い仕事は安心して働ける環境から生まれる」という信念のもとに、職員用宿舎200戸の住宅をはじめ、病院、学校、大浴場を造るとともに、娯楽の設備、弓道場、テニスコートといった設備まで建設しました。

 それ以外にまたソフトウェアにも気を配り、芝居一座を呼び寄せたり、映画の上映、お祭りなど、従業員だけでなく家族のことも頭に入れて町づくりをしています。工事は人間が行うのであり、その人間を大切にすることが工事も成功させるという思想が、八田氏の考えでした。

 四つ目は3年輪作給水法の導入です。15万町歩のすべての土地に、同時に給水することは、1億5000万トンの貯水量を誇るとはいえ、烏山頭ダムと濁水渓からの取水量だけでは、物理的に不可能でした。

 ならば当然その給水面積を縮小せざるを得ないと考えるのが普通ですが、八田氏の考えは違っていました。土木工事の技術者はダムや水路を造りさえすれば、それで終わりであると八田氏は考えなかったのです。

 ダムや水路は農民のために造るのであれば、15万町歩を耕す農民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に増え、生活の向上ができて初めて工事の成功があると考えていました。

 そしてそのためには、すべての土地を50町歩ずつ区画し、150町歩にまとめて一区域にして、水稲、サトウキビ、雑穀と3年輪作栽培で、水稲は給水、サトウキビは種植期だけ給水、雑穀は給水なしという形で、一年ごとに従事栽培する方法を取りました。給水路には水門がつけられ、50町歩一単位として灌漑してきたのです。


◆ ソーシャル・ジャスティスを実践

 最後に、雄大にして独創的工事を完成させた八田興一とはどんな人だったのか、そこに焦点を当てて考えて見ましょう。

 八田興一氏は技術者として抜群に優れていたばかりではなく、人間としても優れていました。肩書きや人種、民族の違いによって差別しなかったのです。天性ともいえるかもしれませんが、これを育んだ金沢と云う土地、いや日本という国でなければかかる精神がなかったと思います。

 嘉南大シュウの工事では10年間に134人もの人が犠牲になりました。嘉南大シュウ完成後に殉工碑が建てられ、134人の名前が台湾人、日本人の区別なく刻まれていました。

 関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必要に迫られたことがありました。そのとき、八田氏は幹部のいう「優秀な者を退職させると工事に支障がでるので退職させないでほしい」という言葉に対し、「大きな工事では優秀な少数の者より、平凡な多数の者が仕事をなす。優秀な者は再就職が簡単にできるが、そうでない者は失業してしまい、生活できなくなるではないか」といって優秀な者から解雇しています。八田氏の人間性をあらわす言葉でしょう。八田氏の部下思いや、先輩や上司を大事にすることでは、数え切れないほどエピソードがあります。

 八田氏は1942年3月、陸軍からの南方開発派遣要員として招聘されます。その年の5月7日、1万4000トンの大型客船「大洋丸」に乗ってフィリピンへ向かう途中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃に遭い、大洋丸が沈没。八田氏もこのため遭難しました。享年56歳でした。

 妻の八田外代樹(とよき)は3年後、戦争に敗れた日本人が一人残らず(台湾から)去らねばならなくなったときに、烏山頭ダムの放水口に身を投じて八田氏の後を追いました。御歳46歳でした。

 私の畏友、司馬遼太郎氏は『台湾紀行』で、八田氏について、そのスケールの大きさをつぶさに語りつくしています。

 私は八田興一によって表現される日本精神を述べなければなりません。何が日本精神であるか。八田氏の持つ多面的な一生の事績を要約することによって明瞭になります。

 第一のものは、日本を数千年の長きにわたって根幹からしっかりと支えてきたのは、そのような気高い形而上的価値観や道徳観だったのではないでしょうか。

 国家百年の大計に基づいて清貧に甘んじながら未来を背負って立つべき世代に対して、「人間いかに生きるべきか」という哲学や理念を八田氏は教えてくれたと思います。「公に奉ずる」精神こそが、日本および日本人本来の精神的価値観である、といわなければなりません。

 第二は、伝統と進歩という一見相反するかのように見える二つの概念を如何にアウフヘーベン(止揚)すべきかを考えてみます。

 現在の若者はあまりにも物質的な面に傾いているため、皮相な進歩にばかり目を奪われてしまい、その大前提となる精神的な伝統や文化の重みが見えなくなってしまうのです。

 前述した八田氏の嘉南大シュウ工事の進展過程では、絶えず伝統的なものと進歩的なものを適当に調整しつつ工事を進めています。3年輪作灌漑を施工した例でも述べたように、新しい方法が取られても、農民を思いやる心の中には伝統的な価値観、「公義」すなわち「ソーシャル・ジャスティス」には些かも変わるところがありません。

 まさに永遠の真理であり、絶対的に消え去るようなことはないものです。日本精神という本質に、この公義があればこそ国民的支柱になれるのです。

 第三は、八田氏夫妻が今でも台湾の人々によって尊敬され、大事にされる理由に、義を重んじ、誠をもって率先垂範、実践躬行する日本的精神が脈々と存在しているからです。日本精神の良さは口先だけじゃなくて実際に行う、真心をもって行うというところにこそあるのだ、ということを忘れてはなりません。

 いまや、人類社会は好むと好まざるとにかかわらず、「グローバライゼーション」の時代に突入しており、こんな大状況の中で、ますます「私はなにものであるか?」というアイデンティティーが重要なファクターになってきます。この意味において日本精神という道徳体系はますます絶対不可欠な土台になってくると思うのです。

 そしてこのように歩いてきた皆さんの偉大な先輩、八田興一氏のような方々をもう一度思い出し、勉強し、学び、われわれの生活の中に取り入れましょう。

 これをもって今日の講演を終わらせてもらいます。ありがとうございました。



□ 私は本書をこう読んだ

 ●阿川弘之・・・作家
 「昔の日本の良いところは台湾に残ってゐる」とは、よく言はれることだが、それをしっかり身につけた代表的人物をひとり選ぶとすれば、やはり李登輝前総統であらう。忠誠心、勇気、礼儀正しさ、慈愛の心等々、その「良いところ」を総合象徴するものとして、李登輝先生はいつも、新渡戸稲造の著書『武士道』をお挙げになる。かつて台湾総督府の農業関係技師をつとめた新渡戸博士のやうなり理想家肌の学者、技師、教育者たちが、20世紀前半、台湾のせいねんたちの胸に、直接間接、台湾近代化、自由化、大発展の希望の灯をともしたのである。本国の日本で、昔の良さが失はれつつあるこんにち、今度は私たちが、台湾の人から理想の灯をともしてもらはねばならぬ。「日本人よ、やまとごころを取り戻せ」と、前総統が諄々説いて止まない此の一冊は、21世紀の日本人必読の書と讃へても過言ではあるまい。

 ●石原慎太郎・・・作家
 国家ヘの愛情が失われて久しい。政治も、行政も、経済も、外交も、社会全体が朽ち果てていく今の日本の姿を、多くの日本人はただ、ただ、傍観するのみである。台湾の李登輝前総統――私の知己で敬愛する政治家のひとり――がそんな日本にメッセージを投げかけてくれた。『「武士道」解題』は情けない現代日本人への警世の書である。

 ●金美齢・・・台湾総統府国策顧問
 日本人クリスチャン新渡戸稲造が英語で著した『武士道』を、台湾人クリスチャン李登輝が日本語で読み解く。二人の国際人が考えるノーブレス・オブリージュ。このストイックな精神が日本を再生させ、台湾を自立させる。これこそ21世紀のバイブルである。

 ●小林よしのり・・・漫画家
 「存在の虚無」になど惑わされず、自分の存在をこの時代に刻み込みたい、命を大きく使ってみたいと願う若者にとって、必読の書である。敗戦後、占領統治によって破壊された日本の教養が、李登輝という偉人の中には、明瞭に残っているのだから。

 ※以降省略させて頂きました。


 



 

 

 

 

 
【2007/05/07 17:08】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(0)
ある台湾女性の半生が語る日台の心
台湾国旗 ※評論家・鳥居民氏による【正論】の論説記事を紹介します。内容は、台湾政府駐日代表、許世楷さんの夫人、盧千恵さんの著書『私のなかのよき日本』の紹介。

 台湾は、皆さんもご存知、大東亜戦争における日本の敗戦とともに日本ではなくなった国です。かつて司馬遼太郎氏は「台湾に生まれた悲哀」という言葉で表現しましたが、現在の台湾は、中国から「一つの中国」という圧力を受け、世界で未だ「国家」として認められず、国連にも加盟できずにいます。
 日本はサンフランシスコ講和条約で、台湾への統治権を放棄しました。しかし、中国への「返還」も「割譲」もされておりません。現在の中国の成り立ちについて、戦前の中国自体が一つの国家として体を成していなかったことや、講和条約の不備にも問題があったと思われます。
 戦後台湾に独立する気運はあったが実行できず、中途半端な状態で今に至っていることは、台湾を放棄せざるを得なかった日本にとっても後ろめたい気がします。


 昨年の秋、筆者は東京外語大の学園祭に、台湾人留学生の屋台を訪ねました。夕暮れ時に差しかかった頃でしたので、客足がまばらであったことをいいことに、初対面の彼ら彼女らと親しく会話を楽しむことができました。
 その時に写真を10数枚撮らせていただき、後日プレゼントすることを約束し、学園祭の最終日に再訪したところ、またまた夕方になってしまい屋台は片付けられた後で無人。残念ながら再会はできず、学園祭の実行委員に写真を預けて帰りました。
 彼らの名も訊かず、筆者も名乗っておらず、写真はきっと届けられたと信じますが、ブログに掲載する許しを頂いておりません。残念ながら、お蔵入りです。
 もしや心当たりの留学生の方がいらっしゃいましたら、コメント欄の下にある「管理者にだけ表示を許可する」にチェックを入れて、ご連絡頂けると有難いです。(こちらから問い合わせすると断りにくいでしょうし・・)
 話がそれました。ごめんなさい。では、以下引用です。


□【正論】評論家・鳥居民 ある台湾女性の半生が語る日台の心
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070429/srn070429000.htm

 ■「自由と繁栄の弧」の一員となる

 ≪台湾の民主化と独立を≫

 1冊の本を紹介したい。台湾政府駐日代表、許世楷さんの夫人、盧千恵さんが書いた『私のなかのよき日本』(草思社)である。

 私は盧千恵さんと長い交友がある。昨年夏に会ったときに半生の思い出、そして台湾と日本とのあいだの運命的な繋(つな)がりを書いてみたらと勧めた。

 それから2度、3度、彼女から進捗(しんちょく)の状況を聞いていたのだが、校正が終わったと電話があったのが3月はじめだった。

 ところで、この3月は不快な月だった。本欄の読者も同じ思いだったにちがいない。

 アメリカの大新聞の論説委員たちが安倍晋三首相の主張に噛(か)みついた。安倍氏は歴史問題の虚構を是正しようとしただけであったにもかかわらず、それらのアメリカ人は尊大な態度で、日本人はいまだに悔い改めていないと言わんばかりの言いぐさを並べ立てた。

 政府が我慢し、反論しなかったのは、日米両国が争えば、仕掛けた罠(わな)に落ちたと北京政府がほくそ笑むだけと承知していたからであろう。

 盧千恵さんの本がわが家に届いたのは、うっとうしいかぎりと思っていたその3月の末だった。だが、その本をひろげたとき、胸のなかの不快さは瞬時に消え失せた。

 半世紀昔のことになる。1956年に台湾・台中の高校を卒業して間もない19歳のきれいなやせた娘が国際基督教大学に入学した。卒業して、彼女は早稲田大学大学院に留学していた同じ台中生まれの青年、許世楷さんと結婚した。夫とともに台湾の民主化と独立のための運動に参加したがために、国民政府の旅券を失った。2人の子を育て、専門の児童文学の研究をしながら、台湾の専制政治が倒れるまで、34年のあいだ故国に帰ることなく、台湾の民主化のためにさまざまな活動をした。

 ≪自由を尊ぶ日本人の姿≫

 彼女は花好きだ。庭の花の手入れを老後の日課にしていた祖父を見習ってのことであろう。現在は「いけばなインターナショナル」に参加し、毎月の例会に出席している。その昔、子供を寝かしつけたあとに夫と話し合ったのは、故郷の花の芳香と色彩の思い出であり、栴檀(せんだん)の紫色の花のことだった。帰国した夫妻は奉仕活動をおこない、台湾東部の山のなかにある原住民のための学校でしばらくのあいだ教えた。宿舎の前の小道に咲き誇る山百合の花の美しさを彼女は忘れることができない。同じようにはっきり覚えているのは、留学したばかりのときに大学宿舎の洗面所の鏡の前のよく磨かれたグラスに挿されていた小さな花だ。

 ところで、この本の読者がなによりもうれしく思うのは自由を尊ぶ日本人の思い出を記してある個所であろう。そのとき全盛を極めていた台湾の独裁政権が日本政府に申し入れをして、盧千恵さんの夫を強制送還させようと図った。許世楷さんの大学の恩師をはじめ、何人もの日本人がそんなでたらめなことをさせてなるものかと奔走した。

 彼の同志たちも、彼らが世話になっていた大学教授たちが政府各機関を回って、台湾の牢屋(ろうや)に彼らを入れさせないために、努力をしてくれたのである。

 このような極限の状況のなかで日本人の真心を知った台湾人は多くないだろう。

 ≪価値観を共有する隣国≫

 台湾と日本との関係は間口は広く、奥行きも深いのだから、台湾人の日本人像はそれぞれ違うのだろうとだれもが思うだろう。盧千恵さんのこの本が台湾のある経済雑誌の昨年おこなったアンケートを再録しているのを読んだとき、その回答を得る。

 「旅行したい国」の1位が日本、「移住したい国」の1位が日本、それだけでもうれしい。ところで、「尊敬する国」の1位が日本(47・5%)、2位がアメリカ(40・3%)なのだ。

 男女を含めて20歳以上の1000人の台湾人のアンケートの回答結果である。そして、この本を読み終えたとき、そのアンケート結果は正しいのだとだれもが得心する。

 読後に私が思い浮かべたのは「『自由と繁栄の弧』をつくる」という麻生太郎外務大臣の主張である。麻生氏は次のように説明する。「自由と繁栄の弧」は民主主義と人権と法の支配がある自由の価値を大切にする国々によって構成される。麻生氏は地理上の定義はしていないが、この本を読んだすべての人は、台湾こそ「自由と繁栄の弧」の一員だと確信しよう。絶対多数の台湾人が切望しているのも、晴れて「自由と繁栄の弧」の一員となることなのである。(とりい たみ)

(2007/04/29 05:06) 



□台湾週報での同著紹介記事
http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/07/070417a.htm

   新刊紹介:『私のなかのよき日本』~台湾駐日代表夫人の回想五十年

 「一九五五年、十八歳の私は国際基督教大学(ICU)に留学するために、はじめて日本にやってまいりました」とのまえがきで始まるこの本は、日本における台湾の外交窓口機関である台北駐日経済文化代表処(大使館に相当)の許世楷(コー・セーカイ)駐日代表の夫人、盧千恵(ロー・チェンフイ)さんの筆によるものだ。

 まえがきは、「それから三十数年、台湾の独立と民主化運動にかかわったことから国民党政府のブラックリストに載せられ、台湾に帰ることができませんでした」と続く。なんと、かつて「ブラックリスト」に載せられた夫婦が、いま駐日代表と代表夫人を務めている。盧千恵さんはどんな女性で、台湾とはいったいどんな国なのか。

 ICUの四期生として日本に留学し、卒業後に助手として大学に残った盧千恵さんは、早稲田大学に留学してきた許世楷青年と知り合う。台湾を思う心に共鳴した二人は、台湾の民主化を求め、台湾独立運動と係わるようになった。その活動によって1962年に当時の中華民国大使館からパスポートを没収され、台湾に帰れなくなってしまった。

 当時の台湾は戒厳令の真っ只中、苦難の時代を台湾のために許世楷・盧千恵夫妻が正義と信念を貫き通せたのは、日本で影から支えてくれた厚い友情があったからだった。その間にも盧千恵さんは政治受難者の救援活動や渡米して「独立運動の声」アナウンサー、「台湾公論報」の記者などを務めた。

 1972年に許世楷氏が日本で書いた「台湾共和国憲法草案」が、戒厳令が解かれて間もない台湾で鄭南榕氏が主宰する「自由時代」という雑誌に掲載され、それが引き金となって「叛乱罪」に問われた鄭南榕氏は100%の言論の自由を求め、壮絶な焼身自殺遂げる。この事件がきっかけとなり、世論が高まり、1992年に刑法100条(内乱罪)が改正され、言論の自由が確保され、ブラックリストが解除され、許世楷・盧千恵夫妻は30数年ぶりの帰国を果たす。

 台湾に帰国後、盧千恵さんは玉山神学院、台湾文化学院などで児童文学を教えていた。ところが、2004年、突然「大使」夫人となって再び来日することに……。台湾は時代も政権も変わり、民主的な国となり、新憲法制定は政府の目標となっていた。

 いま盧千恵さんは駐日代表夫人として、「東京フォルモサ婦人会」の会長を務め、代表処の女性職員と館員夫人らをまとめ、台日交流に励んでいる。

 本書第一章では、台湾人から見た日本の魅力と、日本人に見てほしい台湾の魅力が非常に簡潔かつ豊富にまとめられていて、そこには台日両国への親しみが湧いてくる。盧千恵さんの女性らしい優しい語り口調から聞く、台湾と日本の交流は、こんなに温かいものなのかと感じられることだろう。

 そして、本書の最後を盧千恵さんはこう締めくくる、「たとえ嵐が吹き荒れていても、海の深いところでは、水は変わらぬ速さで流れていると言います。表立った政治的な波とかかわりなく、深い海のなかの水のように、台湾と日本の親しい関係を、途絶えることなく繋げていくことができればと、自らのなかに日本的なるものを発見した私は切に願っております」と。

『私のなかのよき日本』~台湾駐日代表夫人の回想五十年
著者:盧千恵…ロー・チェンフイ
出版社:草思社 
定価:1600円+税
2007年4月16日 初版発行

                                   《2007年4月17日》








 


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【2007/04/29 09:00】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(0)
「ご覧なさい。これが殖民地の学校かな?」
蔡焜燦氏
 ※ 司馬遼太郎著「台湾紀行」の“老台北”こと蔡焜燦氏が、来日されているとのこと。今月いっぱい滞在されるようだ。“来日”というより里帰りか。80歳になってなお、精力的な行動力に脱帽です。どうか、いつまでもお元気な姿を見せて下さいますよう、日台関係が一日も早く正常化されますよう、ご祈念いたしております。
 蔡先生のお話を聞いているだけで、元気倍増です!




■蔡焜燦氏 母校を訪ねて 日本統治下の学校教育に誇り
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070421/chn070421001.htm


 台湾を代表する「愛日家」として知られる蔡焜燦(さいこんさん)氏(80)が、戦前の日本統治下で義務教育を受けた清水(きよみず)公学校を訪ねた。赤レンガ造りのモダンな校舎から伝わってくるのは、当時、台湾の将来を築く人材育成のため、日本本土にもない先進の教育設備を注ぎ込んだ日本人の熱意だ。蔡氏は「これが殖(植)民地の学校だろうか」という随想を発表するほどに、この学校を誇りとしているが、思い出の地をめぐりながら、愛日家ゆえに抱く複雑な思いものぞかせた。

 (台中県清水鎮 長谷川周人)

 清水公学校を訪れるきっかけとなったのは、蔡氏が復刻した同校の「総合教育読本」だった。この学校では昭和10年、校内有線放送や16ミリ映画などを使った最新の視聴覚教育が始まった。その副読本として童謡や神話などを集めた「総合教育読本」は日本文化の凝縮だった。蔡氏の随想のエッセンスとともに同書を産経新聞文化面で紹介したところ、大きな反響を呼んだ。

 当時の日本教育には、「民衆を隷属させた日本軍国主義による暗黒の一ページ」(中国外交部報道官)という批判もある。が、蔡氏は「『公』と『誠』を重んじる日本教育は台湾発展の源となった」と反駁(はんばく)する。


            ◇           ◇

 「ご覧なさい。これが殖民地の学校かな?」。校門をくぐると蔡氏が、ちゃめっ気たっぷりにいった。

 瓦ぶきの屋根を支える白亜の洋風円柱。見上げた天井は和風建築のヒノキ造り。廊下かられんが造りのアーチをくぐれば、芝生を敷き詰めた中庭が広がり、南洋の常緑樹、榕樹(ガジュマル)が木陰をつくって涼風を呼ぶ。その優美なたたずまいを目の当たりにし、うなるほかなかった。

 「手洗い場で使った水を散水に使い、リサイクルの観念を教えた。教室には白木造りの神棚があり、朝礼後の礼拝で作法を習い、掃除当番を通じて公共心を養った。発案者の川村秀徳校長は400枚ものレコードを集め、校内有線放送や映画による視聴覚授業でときめく子供心を立体的に育てた。これが72年前に日本人が台湾で作った学校なのです」


            ◇           ◇

 新校舎の落成から半年足らず昭和10年4月21日早朝、大地震が台湾中部を襲った。震源に近い清水一帯でも家屋が倒壊し、死者320人を超す大惨事となったが、新校舎はびくともしなかったという。

 「おやじは土をこねて急ごしらえのかまどをつくり、粥を炊いて被災者に配った」。「減私奉公の日本精神に生きる父親」の姿を脳裏に焼き付け、見舞金を贈られた昭和天皇に親近感を抱いたという蔡氏は、図らずも地震を通じて「愛日家」としての第一歩を踏み出すこととなった。

 蔡氏は高台にある地震の慰霊碑から清水を見下ろしながら、静かにこう語った。「いつか私が死んだら、遺骨は3つに分けて散骨させる。葬式はしない。そして『拝啓 おやじの友人の皆様 父はあの世で待っているそうです』と息子に公告を出させます」

            ◇           ◇

 「粋だろう」と言わんばかりの蔡氏に、日本へ託す言葉を期待したが、続きはない。代わりに、脱いだ上着をひょいと肩にかけ、こう歌った。

 ♪ふるさとの山の青さよ、尊さよ なんで頭がこう下がる あの木、あの森、あのせせらぎも みんな昔の夢が住む

 (「ふるさとの灯」作詞・西條八十、作曲・早乙女光)

 「愛国心をはぐくんだ日本教育は、激動の戦後を乗り越える心の糧。しかし、行き場を失った愛国心ほど悲哀に満ちたものはない」。ある親日派長老はこういって肩を落とすが、戦後日本が領有権を放棄した後の「台湾」は、世界に法的存在が認められず、蔡氏には日本教育でたたき込まれた「愛すべき祖国」を持てないでいる。




■「日本人よ胸を張れ!」“老台北”蔡焜燦氏語る
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070424/chn070424002.htm


 司馬遼太郎著「台湾紀行」に博識の“老台北”として登場する著名な台湾の実業家、蔡焜燦(さいこんさん)氏(80)が23日、東京・大手町の産経新聞東京本社を夫人の李明霞さん(81)とともに訪れ、「心のふるさとは京都だ」などと、1時間あまりにわたって日本への思いを語った。

 戦前の台湾で教育を受けた日本語世代の一人で、自ら「愛日家」と称する蔡氏は、自信を失いかけた日本人に事あるごとに、「日本人よ胸を張れ!」と激励するなど、民間レベルで長年にわたって日台交流を実践してきた。

 こうした労苦に対し、日本人の有志を代表する形で産経新聞社とフジサンケイ ビジネスアイはこの日、蔡氏と夫人に感謝状と記念品を贈った。

 蔡氏と夫人は京都、大阪を経由して5月1日に台湾に戻る予定。

 ≪講演要旨≫

 「“愛日家”というのは私の造語だ。現在の私たちは元日本人としか言えないが、首から上は今でもニッポン的。おばあちゃん(蔡夫人)は寝言も日本語。にぎりずしが大好きで、昨夜も寝言で『小鰭(こはだ)』などと言っていた」

 「司馬遼太郎先生から以前、心のふるさとはあるかと聞かれたとき、京都と答えた。昭和20(1945)年、終戦後に京都府美山町(現南丹市)で2カ月ほど炭焼きをしていた。今も京都の黒瓦の建物や五重塔を見るだけで落ち着く。ふるさとに帰ってきたつもりだ」

 「(昭和8年に蔡氏が入学した台湾台中の母校の)清水(きよみず)公学校は、日本全国どこにもなかった校内有線放送設備や16ミリ映画の映写設備があった。その副読本だった『総合教育読本』を卒業生や日本の方々に読んでもらいたいと思い、復刻版を(自費で)出版した。日本の方々に、もっと自信を持ってもらいたいからだ」

 「これが植民地の学校だろうか。植民地、植民地といって(統治時代の問題など)でたらめなことをいう人がいるが、(副読本は)日本人が当時、こんなにも高い教育を台湾で行った事実の証明ではないか」

 「昨日(22日)に靖国神社の春季例大祭に初めて参加した。今年から4月29日は『昭和の日』になった。その日に私たちが日本にいることは、感慨深い」


☆台湾のWHO加盟を支持する集いで披露された蔡焜燦さんのメッセージ
日本李登輝友の会メルマガ『日台共栄』第519号より

【メッセージ】日本の皆様、ありがとう[台北 蔡焜燦]

 五月一日、無事台湾に帰って参りました。日本滞在中はたくさんの方にお
目にかかれて大変嬉しゅうございました。靖国神社の例大祭にも初めて参列
でき、司馬遼太郎先生の墓参にも参り、本当に心温まる旅でした。

 さて、台湾は堂々とした一つの国であるにもかかわらず、中国の理不尽な
妨害でWHOに加盟できないため、必要な情報が入って来ず、本当に困って
います。

 しかし、だからと言って台湾は一方的に情報の提供を求めているわけでは
ありません。これまで積極的に対外的な医療協力を行ってきています。一昨
年の南インド洋大津波災害における復興活動、昨年二月のフィリピン土石流
災害に際しては緊急援助隊の派遣と物資の搬送、鳥インフルエンザに対する
防疫物資の提供と台湾国際医療チームの派遣など、数え上げればきりがあり
ません。

 四年前のサーズ、つまり「中国肺炎」ですが、あの時のことを思い出して
ください。中国政府が発生を隠蔽して対策を怠り、WHOからの情報もない
中、台湾は最善を尽くし、影響を最小限に食い止めました。

 皆さん、サーズウィルスや鳥インフルエンザが国境や人種を見分けます
か。

 本日は日本李登輝友の会の主催により、日本の皆様が台湾人と一緒に台湾
のWHO加盟支持の集いを開かれるとの報に接し、私は目から汗が出ていま
す。これが日本です。これが武士道の国日本なのです。だから台湾の友人な
のです。

 今日の東京は雨だそうですが、そのような中を駆けつけていただき、遠く
台北から深く御礼を申し上げます。日本の皆様、ありがとう。

 二〇〇七年五月六日

                        台北 蔡 焜燦




■【台湾有情】総統府に日本人の軌跡
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070126/chn070126002.htm

 日本から訪れた知人を案内したついでに、一般参観者に混じって総統府を見学した。取材で内部まで出入りする機会はあるものの、総統府が観光客や住民に見せる“表の顔”に触れるのは初めてだけに、興味があった。

 総統府の裏側にある出入り口では、来訪者はまず金属探知機で身体検査を受ける。カメラのほか携帯電話も持ち込みは許されず、自動小銃を構えた憲兵があたりに、にらみを利かせている。出迎えてくれた案内役のボランティアは親日的ないわゆる「日本語世代」で、開口一番、こう言った。

 「日本は台湾を植民地にしていない。疫病を一掃し、高いレベルの教育環境を整えたのです。イギリスやフランスの植民地とは違います」

 内部に入って、まず目に飛び込んできたのは、歴代総統を紹介する大型パネル。日本の総督19人の顔写真も総統と同じ扱いで掲げられていた。解説に耳を傾ければ、社会基盤整備など日本の政策が台湾の発展を促した功績として熱く語られる。

 歴史認識では日本に厳しい中国通の知人は押し黙った末に、別れ際にようやく口を開いた。「戦後、われわれが自ら封印した日本人の軌跡が台湾では今なお生きていた。しかも権力の中枢である総統府に…。北京ではおよそ考えられない」。

 総統府の一般開放は週日の午前9時~正午。日本人は旅券が必要です。(長谷川周人)

(2007/01/26 08:34)















☆その他台湾関連本
【2007/04/25 03:50】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(1)
“サヨンの鐘”
 文字:愛国乙女サヨン遭難之地 
  ※左写真の文字:『愛国乙女サヨン遭難之地』
 
 今回は、台湾の日本統治時代。

 1938(昭和13)年、東北部宜蘭県の山奥にあるタイヤル族のリヨヘン社(村)で、学校の教師を勤めていた日本人警官と当時17歳の少女サヨンの悲しくも美しいお話。
 その話を知った台湾総督から集落へ、後にサヨンの篤行(とっこう)を称える鐘が贈られた。

 渡辺はま子が歌う「サヨンの鐘」が台湾中に流行し、1943(昭和18)年には、同名の映画(主演:李香蘭)も封切られた。
 この話には諸説あり、ここでは台湾在住のフリーライターでカメラマンの片倉佳史氏のレポートを紹介します。


□ “サヨンの鐘”  (文章:片倉佳史)
http://my.so-net.net.tw/katakura/kyodo/0105.html
《台湾と日本---少女の秘話歌い継ぐ》

 台湾の東北部・宜蘭県に武塔という集落を訪ねた。ここはタイヤル族の人々が住む村で、戦前の愛国美談「サヨンの鐘」の舞台に近い。

 時は1938年。この土地に赴任していた日本人巡査のもとに召集令状が届いた。当時十七歳の少女サヨン・ハヨンは自ら巡査の荷物運びを申し出て、暴風雨の中を同行した。しかし、激流と化した南澳渓の橋の上で不運にも足を踏み外してしまう。

 後になって台湾総督から集落へ、サヨンの篤行をたたえる鐘が贈られた。

 この話は植民地・台湾の人々の“皇民化”を示す格好の宣伝材料となっていった。古賀政男作曲・西条八十作詞で渡辺はま子の歌う「サヨンの鐘」が流行し、四三年には同名の映画も封切られた。ちなみにこの映画の主演は李香蘭。こうして「愛国乙女」と位置づけられたサヨンの名は一気に知れ渡っていった。

 集落のはずれには当時の石碑が残っていた。この石碑は戦後、台湾における日本色の払拭をもくろんだ国民党政権によって倒されたが、破壊だけは免れた。現在は再び道路の脇に立てられており、傍らには中国語で書かれた真新しい石碑まで設けられている。

 石碑をカメラに収めていると、畑仕事帰りらしい老婦人に日本語で声をかけられた。この一帯の人々はタイヤル語と日本語を併用していることが少なくない。集落内を散策していても、流暢な日本語で声をかけられることは珍しくなかった。

 老婦人によれば、サヨンの物語は今でも語り継がれ、この集落の人間なら誰でもその歌を歌うことができるのだそうだ。後に小学校を訪ねたところ、「サヨンの鐘」は郷土唱歌として、中国語に訳した上で音楽教材にもなっているという。

 「愛国乙女」と称された、はかない少女の物語。その物悲しいメロディーは、今もこの土地で歌い継がれている。




       『サヨンの鐘』      (おそらく)タイヤル族の男性による歌が聴けます

  作詞:西条八十
  作曲:古賀政男
  歌 :渡辺はま子

  (一)

  嵐吹きまく 峰ふもと
  流れ危うき 丸木橋
  渡るは誰ぞ 麗(うるわ)し乙女 
  紅き くちびる ああ サヨン

  (二)

  晴れの戦いに 出てたまう
  雄々しき師の君 懐かしや
  坦う荷物に 歌さえほがら
  雨は降る降る ああサヨン

  (三)

  散るや嵐に 花ひとえ
  消えて哀しき 水けむり
  蕃社の森に 小鳥は鳴けど
  何故に帰らぬ ああサヨン

  (四)

  清き乙女の 真心を
  誰か涙に 偲ばざる
  南の島のたそがれ 深く
  鐘は鳴る鳴る ああサヨン







 映画『サヨンの鐘』主演・李香蘭









テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【2007/04/24 11:56】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(0)
“10円でございます”
台湾国旗※このお話は「謝小姐の台湾日記」からの引用ですが、すでにHPへのリンクは切れているようです。お話のページだけが残っている状態ですが、いつ消えてしまうか不安なので、ほぼ全文を引用させて頂きました。文章自体は「村上龍ジャパンメイルメディア」に掲載されていたものだそうですがそこもリンクが切れているようです。引用に不都合がありましたら、本人様からのご連絡があれば削除致します。

「10円でございます。」
http://homepage1.nifty.com/MYO/sub16/sub16.htm


 現在も台湾には山地原住民と呼ばれる人々が住んでいます。
 遥か昔、中国大陸から人々が渡って来る以前に台湾に住んでいた人々の呼称で山地同胞、または原住民とも呼ばれています。原住民という表現は、日本ではあまり良い意味では用いられていませんが台湾では、古くからここに住んでいる、ということを意味し、最近では名誉ある言葉として自らを称しています。ちなみに台北原人等の呼称もこのように用いられています。

 ここでは150年位前までは原住民と平地人との間では争いが絶えませんでした。具体的には、平地人が原住民の住んでいる山に許可なく進入した場合は殺されたりしました。それは、他族の者が許可なく自らの地に進入した場合、首を取ることは構わない、という厳しい掟があったためです。そのため、平地人は柵と交易所を作り原住民との間に距離をおき、互いの自治を認め合い平和を保ちました。

 1895年の下関条約にて清国は台湾を日本に譲り渡し、それ以降台湾は日本の領土となり植民地政策が行われることになりました。植民地政策下では原住民の人々は高砂族と呼ばれ、日本も清国と同様に彼らに対して隔離政策を行いました。当時、高砂族の中には8種類の部族がありましたが、この部族間ではほとんど交流がなく、閉鎖的な社会を築いていました。

 しかし、日本政府は清政府と異なり、積極的に部族の中に入り調査をしました。そして、その後、日本文化の導入(皇民化政策)を始めたのです。また、高砂族の住んでいた原生林を国有地とし木材を伐採し、その運搬に高砂族の人々を酷使したのです。その急激な文化の導入や搾取に反発が数々おこりました。1930年の霧社事件が有名です。高砂族は、伝統や自然の神に対して畏敬の念を持たず、自らの文化を押し付ける日本人に対して抵抗しました。しかし、その後、高砂族の反乱は日本軍によって鎮圧されました。

 日本政府による植民地政策は、台湾での教育制度を根付かせ、一般家庭の子供たちも公学校へ通うようになりました。そこでの授業内容は、まず第一に国語として日本語を教えられました。そして、両親、天皇陛下を敬い、夫婦は円満でなければならないという教育勅語をとにかく丸暗記させれました。高砂族の住んでいる地区も例外ではなく、公学校ができ上記のような教育が行われました。

 高砂族は部族ごとに言語が異なっていたため部族間での交流はほとんどなかったのですが、日本語という共通語ができたため変化しはじめました。それまでは異なる部族間では言語によるコミュニケーションは不可能でしたが日本語という共通な言語がそれを可能にしたのです。不思議なことです。日本語が台湾での共通の言葉となったのです。部族間の交流も今まで以上に活発になりました。時代は過ぎ、台湾は中華民国となり、国語は日本語から北京語に変わりました。しかし、現在でも老齢者は小さいときに学んだ日本語で会話をします。

 制度的な事柄に関しても以前は、大部分の山地が山地管制区域と指定され、民間人は許可なく進入してはいけなかったのですが、10年位前から段階的に規制は解除され現在は殆どが自由に進入可能な区域となりました。

 外国人に関しても、以前は進入不可能であった区域が開放され許可があれば入山可能になりました。

 学問の世界では情報は国境を越え忽ちに伝わるようで、台湾原住民地区規制開放の情報は日本の生物学者に伝わり、日本から2人の学者が訪れてきました。生物学とは何の関係もない私にその案内役が頼まれたのです。貝類学者で有名な波部忠重博士の学者仲間、台湾の台湾大学医学部教授張寛敏博士の教え子の妹です。入山許可とか面倒な申請があり、忙しい兄にかわり、私が同行する事になったのです。案内役を頼まれた私は2人の生物学者と共に原住民の住んでいる山に車で向かいました。

 そこは テンタナというところです。テンタナとは天に続くという意味です。 その2人の生物学者はホソガワギセルの亜種イシザキギセルというカタツムリの調査のためにここを訪れました。

 イシザキギセルは京都帝国大学から台北帝国大学に赴任した黒田徳米先生が70年前に発見したのものだそうです。70年も前に日本の学者の方は首をとられる覚悟で山岳地帯に調査をしたのでしょう。

 入山許可等の申請は、警察局でパスポートを渡して費用を支払い、許可証をもらうという形で簡単に済みました。入山道路の入り口には警官が立っていて、入山には許可書とパスポートを見せる必要がありました。しかし、私たちの車以外は、警官に止められることもなく、次々と入山して行きました。
 なぜ、私たちの車だけが止められなければならないのか、私は疑問に思い、警官に尋ねました。警官が答えるには、他の車を運転しているのは警官の親戚、山地同胞の人々とのことでそういった車は既に全て暗記してしまっているらしく、そうでない車だけを止めればよいということでした。私は自分の人相が悪いので止められたのではと勘違いしていましたが、そうではないことがわかり安心しました。

 入山し、車から降りると学者たちは生物の採集を始めました。その様子はまるでごみ拾いをしているようでした。私は次第に疲れを感じ始めましたが、それとは裏腹に山の谷間にあるテンタナは素晴らしい景色でした。天まで届く空も澄みきり、空気も非常に新鮮でした。

 それから私たちは村に到着し、とある商店に向かいました。すると、店の中から白い半袖のシャツを着て眼鏡を掛けた叔父さんがニコニコしながら出てきました。小さい頃、学校の帰りがけによく見かけた自転車の荷台にお菓子を積んで売っているやさしい叔父さんと同じ目をしていました。

 学者達はアイスボックスを覗いて、二言、三言、言葉を交わして何を買うか選んでいました(このとき学者たちは当然日本語を使っていました)。学者たちが買うものが決まったので、私は幾らですかと北京語で尋ねました。何故なら、この叔父さんの部族が日常的に用いている言葉がわかりませんでしたし、もし仮にわかったとしても私はその言葉を喋ることができなかったからです。

 すると、店の叔父さんは「1つ5円、2つで10円でございます。」とニコニコしながら背骨をまっすぐに伸ばして日本語で答えたのでした。私はそのこと自体に驚きましたが、そのあとの学者たちの態度を見てさらに驚きました。まるで天皇陛下から勲章を受け取る時のように、直角に礼をしてアイスを受け取っていたのです。

「あ、ありがとうございます。」

学者たちはそのように言い、私がお金を支払うまでその姿勢を崩しませんでした。

 店を出て、道を歩きながらモナカアイスを食べている学者たちに私はさきほどのことについて尋ねてみました。すると、学者たちは「日本で10円でございますなんて、いまどき聞けない、10円のように安いものなんか絶対、10円、としか言わない。10円です。とも言わない」
「美しい言葉だ、美しい習慣だ」「まさか台湾の山奥にきて日本語を聞けるとは思わなかったし、それにこんなに美しい日本語を聞けるとは思わなかった、タイムスリップしたような気になる。」と感動した様子で口々に言いました。

 学者たちの感動は続いたようで、そのあとの採集の時、何回か「10円でございます」と神妙につぶやいていました。

 私は日本語の「ございます」を丁寧語として理解していますが、「ございます」という言葉を使ったことはありませんでした。

 学者たちは「美しい言葉だ」と言いました。丁寧語だと私が思っていたのは美しい言葉でもあったのです。私の感覚では丁寧語と美は別なカテゴリーに所属するものでした。少なくとも北京語ではそうです。ところがこの学者たちは「ございます」を聞いて美しいと言いました。
「美しい」という言葉は辞書を調べれば意味自体はわかります。しかし、そういった言葉が用いられた時の感情やそれに関わる背景などは会話を重ねないとわからないのでしょう。

 台湾人である原住民の人が、日本語の美しい言葉を使い、その言葉に日本人が感動するという事は私にとって驚きでした。日本人は美しい言葉に接すると感動するように思いました。原住民も美しい言葉だと感じているからこそ「ございます」を使ったに違いないと私は信じています。

 原住民と日本人の間に共通しているものがあるとしたら、言葉の使い方に敏感に反応する、ということではないでしょうか?日本と台湾の原住民の世界には古くからの美しいものが存続していますがこういったことも、言葉の使い方に敏感に反応する、ということに由来しているように思います。

 台北では日々美しい建築や文化習慣が消えて逝くような気がします。美しい言葉を話す原住民や美しいものを感じる日本人だからこそ美しいものを残す事ができるのではないでしょうか。美しいものとそうでないものを敏感に感じるということや、美しいものを大切なものとして子孫に残そうとする姿勢など、日本人と原住民は美への意識が強いように思います。

 帰り道、学者たちは採集したイシザキギセルを見ながら「10円でございます」とつぶやいていました。もし、今回の採集で新種が発見されたならきっと美しい新種のカタツムリはジュウエンマイマイと命名されるに違いありません。








【2007/04/06 04:39】 | 【台湾】 | トラックバック(0) | コメント(0)
しゃばだば近代国史帖


日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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