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ブラジル日本人移民の美徳
 ※ ブラジルへの最初の移民は明治41年のことなんだそうですが、実は筆者の親戚に中にも、戦後一大決心をしてブラジルへ移民し、その後運良く帰国を果たした人たちがいます。胡椒の栽培で当てて大金を持ち帰ったものの、日本で相次いで詐欺にあい事業はことごとく失敗、無一文からやり直したそうです。その時に拾ってくれた企業が松下電器。「中途入社を受け入れてくれて有難かった」と、松下の社風を絶賛しておりました。松下だけだったそうですから。

 母の叔母の家族でしたので、初めてブラジル移民の話を聞いた時(昭和51年)は本当に驚いた。と同時にぐっと歴史を身近に感じたことを思い出します。今はその叔母も亡くなり何となく交流が途絶えていますが、素敵な方々だったことを下記記事を読んで思い出しました。



□【もう一つの日本】(2)100年前の地元記者驚かせた「清潔と規律」
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071211/trd0712111256004-n1.htm
2007.12.11 12:56

 「ブティックひまわり」「寿し安」「木村理髪店」「明石屋宝石店」…。ちょうちん型の街灯が続く街路に、漢字の看板があふれていた。書店には「少年マガジン」や岩波文庫が並ぶ。ブラジル最大の都市サンパウロの中心部にある日系人街「リベルダーデ」を歩くと、まるで日本の地方都市の商店街に紛れ込んだような錯覚に陥る。

 南北1キロの街路に約400軒。近年は中国、韓国系の店が増え、東洋人街とも呼ばれるが、海外で日系人街として成り立っているのは、ここと米ロサンゼルスのリトル・トーキョーだけという。

 突然、赤い大鳥居が姿を現した。本物の神社ではないが、参道のような赤い欄干の陸橋が続いている。

 その名も「大阪橋」。大阪万博を翌年に控えた昭和44年、大阪市とサンパウロ市が商都同士という縁から、姉妹都市提携したことを記念して命名されたという。近くにはたこ焼き屋もあった。

 地下鉄駅の売店ではポルトガル語の新聞に混じり、邦字新聞2紙が福田内閣やプロ野球の動向を伝えていた。街で出会った2世の女性が言った。

 「ここではたいがいのことは日本語でできますし、白いご飯や梅干し、のりもあります。でも1世がブラジルへ渡ったときは、ご飯もおしょうゆもおみそもなかった。この街も日系社会も、みんな日系人が100年かけて築き上げてきたのです」

 明治41(1908)年4月28日、午後5時55分。ブラジルへの最初の移民船「笠戸丸」は全国から集まった移民165家族781人を乗せ、神戸港を離れた。ブラジル日系社会初の6世、大西エンゾ優太ちゃん(2)の5代前の先祖で、鹿児島県出身の川畑徳之助さん、カネギクさん夫婦もその中にいた。

 西回りでアフリカ南端の喜望峰を望み、「蚕棚」と呼ばれた2段ベッドで寝起きして52日目の6月18日、サンパウロに近いサントス港へ着いた。当時の地元紙「コレイオ・パウリスターノ」は、洋服に鳥打帽、白手袋で正装した日本人の姿を初めて見て、こう書いた。

 《このように清潔で規律正しい移民はいまだかつて見たことがない》

 ブラジルの地元紙は、日本人移民の識字率が9割に上ることや、大食堂に一度に入ることができないため「残りの者は静かに廊下で順番を待っていた」こと、「驚くことに彼らの去った後には一つのタバコの吸殻もつばもなかった」ことを列挙し、こんな観察まで残した。

 《夫が妻を信用することはわれわれの予想外で、日本貨幣を妻に携帯させていることなど、その美徳はうらやましい》

 移民は州内の6つのコーヒー農園に分かれ、契約労働者として働いた。当時のブラジルは1888年に黒人奴隷を廃止して20年しか経っておらず、そもそも日本人移民が歓迎されたのは、奴隷廃止で労働力が足りなくなったためだった。白人の農園主や支配人の中には、日本人を奴隷のように扱う者もいた。

 過酷な労働と低収入に見切りをつけた移民たちは相次いで農園を出た。優太ちゃんの先祖、川畑さん夫婦も1年後に農園を離れて、漁師になったり、バタタ(ジャガイモ)を植えたりして働いた。カネギクさんは30歳で、徳之助さんは46歳で異国の土となった。

 「ブラジルへ苦労しにきたわけです」

 優太ちゃんの祖父、中村パウロ修さん(64)はしんみりと言う。

 あとには、農園で生まれた2人の姉妹が残された。妹は今年3月に95歳で亡くなった時江さん。優太ちゃんの直接のルーツであり、高祖母(ひいひいおばあさん)にあたる。7歳の時から家事手伝い、子守に追われ、学校にも通えなかったという。

 時江さんの長女は、時江さんの両親と同じ笠戸丸移民だった竹内喜左衛門さんの長男、満次さん(80)と結婚した。ブラジル生まれの満次さんは、父親が始めたレンガ工場を成功させ、サンパウロ西郊のタボン・ダ・セーラ市の副市長まで務めた。市のメーンストリートは「キザエモン・タケウチ通り」と名づけられている。

 満次さんは「親父たち初期移民はポルトガル語も話せず、食べ物も合わない中で一生懸命に働いた。その苦労があって、日系社会があるのです」。

 大阪橋は、勤勉や規律といった100年前の地元記者を驚かせた日本人の美徳の上に架かっているのかもしれない。

 文・写真 徳光一輝



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【2007/12/11 17:57】 | 【資料庫】新聞・ニュースストック | トラックバック(0) | コメント(0)
凛とした日本人たれ
 ※ けじめを撤回した小沢さんのけじめの無さだけ覚えておこう。と、道草はここまでにして。

 最近、産経のサイトの形態が変わって以来、閲覧し難くなって記事を見落としがちなのですが。下に引用の記事も危うく見落とすところでした。

 敗戦直後のエピソードですが、2つ目の「焼き場の少年」の写真とカメラマンのコメントを以前どこかのブログで見たことがあり、その強烈な印象から保存しておりましたので、記事の最後に掲載します。ほかの2件は初めて知るエピソードでした。

 一面の焼け野原、壊滅的な敗戦からたちまち世界第二の経済大国となった日本を見て、諸外国は「奇跡」だと驚愕した。私たちのおじいちゃんやおばあちゃんが、その奇跡を起こしたのです。

 その先人たちは特別な人間ではありません。その頃の日本人としては、ごく平均的な普通の日本人たちだったのです。そのごく普通の日本人が持っていた大切なものを、現在の日本人が失ったのか忘れているだけなのか。



□ 【やばいぞ日本】第4部 忘れてしまったもの(1)一片のパン「幼いマリコに」
http://sankei.jp.msn.com/life/education/071106/edc0711060344001-n1.htm

 81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。

 親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、「義理、恩、おかげさま、国のために」に、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。

 手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と2人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。

 東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。

 彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。

 彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。

 彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2カ月しかいなかった。再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。そして、1974年、日系人として初めてハワイ州知事に就任した。

 のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。

 「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」

 記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。筆者は少年と同年齢の蛯原康治同協会事務局長(70)。五百旗頭(いおきべ)真(まこと)防衛大学校長が4月の講演で、元知事と少年の交流を紹介した。それを聞いた蛯原氏は「毅然(きぜん)とした日本人の存在を知ってもらいたかったため」と語った。記者は経緯を確認したかった。

 アリヨシ氏の手紙は「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。

 「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。すべてのことは容易に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」

 凛(りん)とした日本人たれ。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。


 ■厳しい時代に苦闘と気概の物語

 終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。

 原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。素足が痛々しい。オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学館発行)でこう回想している。

 「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。(略)少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足下の燃えさかる火の上に乗せた。(略)私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。私はカメラのファインダーを通して涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」

 この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。フジテレビ系列の「写真物語」が先月放映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。フジテレビによると、その内容はこうだった。

 「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)、「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。

 1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。

 オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。


 激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。「ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきりに訴えていた。どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい」

 それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨(せいさん)な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。オダネル氏は「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。

 苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛…。

 こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際NGO)救援物資などのためだった。

 当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。日本がララ物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。

 こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。(中静敬一郎)





 ※ こういう日本人が平均的であった、かつての日本が大東亜戦争を戦った理由を「侵略のため」だと言うのはもうやめて頂きたい。軍国主義だったと非難するのも的が外れている。戦争中だったのだから、軍事態勢を敷くのは当然。

 先の大戦で世界を相手に資源の無い日本が、3年8ヶ月も戦えたことも奇跡です。負けるのは当たり前です。ですが、戦わなければ日本は滅んでいたのです。あの物量差で3年8ヶ月です。立派じゃないですか、奇跡の国ですよ。普通の国なら数ヶ月もつかどうかでは?

 勝てば官軍、負ければ賊軍。ということで、日本がすべて悪かったことにされただけです。60年も過ぎたんだ。もういいじゃないか、目を覚ましても。

 今のような腑抜けた生活ができるのは、そんな先人たちのお陰だということ、ほとんどの人が意識していませんね。

 今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。

 しかし、いつまで戦わなくていられるか。もう、先人の遺してくれたお弁当の底が見えているのではないでしょうか。


 
 焼き場に立つ少年
 カメラマン・ジョー・オダネル氏のコメント

「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
10歳くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中にしょっています。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも足は裸足です。
少年は焼き場のふちまでくると硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクをした男たちがおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子がすでに死んでいることに初めて気づいたのです。
男たちは幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がりました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気がついたのは。
少年があまりにきつく噛みしめているため、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。
背筋が凍るような光景でした。」



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【2007/11/07 07:14】 | 【資料庫】新聞・ニュースストック | トラックバック(0) | コメント(0)
懺悔できないアメリカ
エノラ・ゲイ






 ※ 昭和20(1945)年8月6日、広島に原爆を投下した米B29爆撃機「エノラ・ゲイ」のティベッツ機長が亡くなった。彼は軍人としての任務をまっとうしたに過ぎず、何ら批判を受けるべき立場にはないが、さぞかし辛い想いをされたと思われる。謹んでご冥福を祈りたい。

 史上唯一の原爆投下という歴史的大罪の首謀者はルーズベルトでありトルーマンだ。アメリカはいまだにその罪を認めない。認めない罪は終わらない。終わらないからティベッツ氏は葬儀も墓石も辞退したのだ。彼一人に罪を背負わせたアメリカ。いつまでとぼけるつもりだろう。

 「気に留めていない」ってジョンドロー。選んだ言葉が怖すぎる。よけいに意識しているのが分かる。ティベッツさん、最後に爆弾落としてくれてありがとう。辞退という爆弾。でもまだアメリカ、だめみたい。





□ 原爆投下「エノラ・ゲイ」ティベッツ機長が死去
http://sankei.jp.msn.com/world/america/071102/amr0711020121001-n1.htm


 抗議避け、葬儀・墓石を辞退

 【ワシントン=山本秀也】1945年(昭和20年)8月6日、広島に原爆を投下した米B29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機長を務めたポール・ティベッツ退役准将(当時大佐)が1日、オハイオ州コロンバスの自宅で死去した。92歳だった。

 AP通信によると、抗議の対象となることを避けたいとの遺言で、葬儀は行われず、墓石も設けられない。原爆投下には「戦争を早期に終結させるため、任務をまっとうした」との立場を終生貫いた。

 15年2月、イリノイ州出身。陸軍航空士官として、「空の要塞(ようさい)」と呼ばれたB29の試験飛行にかかわり、作戦要員として原爆開発のための「マンハッタン計画」に参加した。「エノラ・ゲイ」はティベッツ氏の母の名から命名された。

 トルーマン大統領の決断を受け、濃縮ウラン型原爆「リトル・ボーイ」を搭載して14人のクルーとともにテニアン島を発進、人類初の原爆を広島に投下した。

 米国家安全保障会議(NSC)のジョンドロー報道官は、同氏の死去にあたり「気に留めていない」としてコメントを避けた。

 




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【2007/11/02 11:14】 | 【資料庫】新聞・ニュースストック | トラックバック(0) | コメント(2)
台湾の帰属は未確定
 ※記事は、中国側は台湾が中国の一部だとする根拠の一つに「カイロ宣言」を挙げているが、それは「宣言」ではなく法的拘束力に欠ける「プレス・コミュニケ(公報)」であり、台湾の帰属は講和条約以降、「未確定」であるという台湾の主張(論争)が、台湾の教科書に反映されたという内容。
 もとより、「カイロ宣言」や「ヤルタ会談」は、連合国の一方的な日本の領土への不法介入ですから、法的拘束力は無いものと思われますが。



□歴史再評価、台湾で一歩 教科書刷新
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/061221/chn061221000.htm

 【台北=長谷川周人】台湾の高校歴史教科書が、今年9月から使われている改訂版で様変わりした。古代王朝に始まる「大中国主義」の歴史観を貫くこれまでに対し、改訂版では台湾史を中国史から切り離し、系統的に学ぶ。日本の台湾統治が「章」として初めて取り上げられ、インフラ整備などプラスの側面にも言及されている。史実を客観視しようとする姿勢は、台湾の歴史再評価を促す一歩となりそうだ。

 改訂版は台湾の独自性を強調する陳水扁政権の教育指針を反映している。最大野党・中国国民党は「中華民国が中国全土の正統政権」という建前から教科書の改訂について「祖国の歴史を分断するものだ」と反発してきた。

 しかし、民主化と「台湾化」が進む中、李登輝前総統は1997年、中学1年の教育課程に「認識台湾(台湾を知る)」という科目を導入。実質的に初めて授業で台湾史が取り上げられた。この第二弾として陳政権は高校生が必修科目で使う歴史教科書の抜本改定に踏み切った。

 新しい教科書は8冊が当局検定を通過し、うち5冊が実用化されたが、国民党政権下ではタブー視されてきた軍による住民弾圧の「二・二八事件」(1947年)や民主化活動家が弾圧された美麗島事件(1979年)などを詳述。一方で台湾独立の根拠となる「地位未確定論」にも言及している。

 台湾の主権は一般に「満州、台湾、澎湖諸島は中華民国に返還される」とした「カイロ宣言」(43年)を踏まえ、この履行を日本が受諾した「ポツダム宣言」(45年)、さらに領有権放棄を明言したサンフランシスコ講和条約(52年)などにより、確定的になったと認識されている。

 この解釈が中国が台湾領有権を主張する根拠ともなるが、台湾の研究者による調査では、カイロでの合意は法的拘束力に欠ける「プレス・コミュニケ(公報)」であって「宣言」でなく、台湾の帰属は講和条約以降、「未確定」という主張が台湾で広がっている。実際、署名された「宣言文」の存在は確認されていない。


日本統治時代も「章」に

 これを踏まえ、龍騰文化が出版した教科書は「カイロ宣言は署名がなく、国際法上の効力を具有しない」と記し、他の4冊も主権帰属にかかわる論争の存在を明記するようになった。

 日本統治時代(1895~1945年)を扱う章は、5教科書ともB5版で30ページから54ページのスペースを割き、史実としての植民地時代を直視しようとしている。翰林の教科書が「50年の植民統治で台湾は同時に植民地化と近代化を経験をした」が書き出すように、評価は肯定、否定の両論併記だ。




 公式教材となった新高校歴史教科書の出版社は次の通り。()内は日本統治時代を扱うページ数。三民書局(30)、南一書局(47)、泰宇出版(48)、翰林出版(54)、龍騰文化(53)。画数順。




 ≪戴宝村・政治大学専任教授(教育部教科書検定委員会主任委員)≫

 

教育原理にかなう

 歴史教育の原理とは、ある人々のその土地における生活の累積と体験を教えることだ。にもかかわらず、われわれが行ってきた教育は、政治的な理由から中国大陸の歴史ばかりを教え、教育原理に背を向けてきた。しかし、こうして台湾史が正式に教科書に編入された結果、教育原理にかなうよう変わった。

 さらに新しい教科書では、学生に台湾史を理解させることにより、台湾のアイデンティティーと歴史を比較できるようになった。世界的にみても最大脅威であり、密接な関係がある中華人民共和国の歴史はとても重要だが、台湾人が台湾史を理解することも重要なのだ。

 例えば、国民党政権下の台湾では、一貫して「カイロ宣言」をもって台湾は「中国に回帰した」と強調されてきた。だが、多くの研究はあれは宣言ではなく、一種の備忘録であったと指摘している。国民党教育を受けた成人は今だに「カイロ宣言」というが、(新しい教科書を使う)将来の学生は、これは宣伝のようなもので、サンフランシスコ講和条約によって台湾の帰属が日本から離れたことがより明確に理解できる。

 日本統治時代に関しても、中国的な民族主義の立場に立てば、日本の台湾統治は搾取と解釈されるが、台湾人からみる日本時代は違う。日本が行った建設は台湾に大きな影響を与え、進歩につながったことは肯定するに値する。これも動員された台湾人による建設であり、台湾人の努力の結果でもあるからだ。

 確かに(日本統治時代をめぐる)評価のあり方はそれぞれだが、審査する側から言えば、極端に感情的(な表現)でない限り、受け入れられる。したがって著者は、台湾という自由社会を代表し、一定の個人的な観念を盛り込むことにもなっている。

(2006/12/21 08:01)

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【2007/04/29 09:39】 | 【資料庫】新聞・ニュースストック | トラックバック(0) | コメント(0)
ゾルゲ関連ニュース
リヒャルト・ゾルゲ

■“ゾルゲ事件”対日工作 中国人工作員が関与
http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/070413/chn070413001.htm
 【上海=前田徹】20世紀で最も成功したスパイ事件とされるリヒャルト・ゾルゲの対日スパイ網構築が当時、ソ連コミンテルンに属していた中国人工作員によって行われていたことを示す自伝が見つかった。自伝は文化大革命で迫害を受け失明した著者が革命秘話として書いたものだ。上海でゾルゲから直接、対日工作を指示されたことや日本では近衛内閣顧問の尾崎秀実(ほつみ)と協力していたなど事件の貴重な裏話がつづられている。

◇自伝で告白 尾崎秀実とも協力



 著者は著名な経済学者で中国国際文化書院院長をしていた故・陳幹笙氏で、問題の自伝は「四个時代的我」(四つの時代の私)だ。同書は1988年に7000部出版されたが、一般市販されず大半が散逸している。

 218ページある同書は陳氏の戦前、戦後を通じた人生の思い出話の体裁をとっているが、1920年代半ばから1930年代後半について書いた「革命のため危険を避けず」「日本、ソ連、米国への放浪」の2章がゾルゲ事件に関連した内容になっている。

 陳氏は米とドイツで農業経済、歴史を学んだ後、26年にソ連コミンテルン(国際共産主義運動)に加わった。その後、上海でコミンテルン工作員として活動を始め、表向き蒋介石率いる国民政府所属社会科学院で学者として従事する一方、対国民政府工作と同時にゾルゲとともに対日工作に関与する様子が描かれている。

 ゾルゲとの出会いは29年、陳氏同様にコミンテルン工作員で、ドイツ紙特派員の肩書で上海に滞在していたアグネス・スメドレーからの紹介だった。その際、ゾルゲがソ連赤軍第4部諜報(ちょうほう)員であり、陳氏が指示を受ける立場であることも示唆している。また、ゾルゲが当時、国民党の軍事情報収集に力を入れており、蒋介石側近で後に台湾国防部長になった何応欽将軍ら国民政府軍中枢に情報源を得ていたことも明かされている。

 ただし陳氏は具体的諜報活動やその成果については一切触れず、ゾルゲと駅で密会し、2人で西安へ重要任務に向かったというようなあいまいな内容に徹している。

 一方、上海での抗日工作や対国民政府工作が難しくなった34年冬、ゾルゲはスメドレーを通じて陳氏に日本で活動するよう指示、陳氏は即座に妻とともに来日した。表向きは東洋文庫での中国関係文献調査となっているが、実際はゾルゲの指示で日本の国策会社だった南満州鉄道株式会社での情報収集に従事し、その際、当時、朝日新聞記者だった尾崎秀実の支援を受けていたことも書いている。

 また、出会いについては29年に朝日新聞上海支局員だった尾崎をスメドレーから紹介されたことも記している。

 陳氏の日本での情報活動がいかに緊張をともなったものだったかは、35年4月、モスクワから上海経由で来日予定だったウォルトンという名の極東情報局員との密会が頓挫したエピソードに描かれている。ウォルトンは上海治安当局に3冊のパスポート所持を理由にスパイ容疑で逮捕されていたことを知った陳氏は着の身着のままで妻にも知らせず横浜から上海行き客船に飛び乗っている。

 陳氏はスメドレーらによって匿(かく)まわれた後、モスクワに脱出し、新たに米国での抗日宣伝の任務を与えられるのだが、このさい中国共産党コミンテルン代表だった康生らの計らいで「仕事の必要性から中国共産党に入党した」と書いており、当時の中共がいかにモスクワの強い影響下にあったかを示す記述ともなっている。

 また、米国での工作は当時、アジア問題の最高権威とされた「太平洋問題調査会(IPR)」の機関誌編集者を表向きの仕事としながら、康生の指令に従ってニューヨークにあった海外中国人向け雑誌の抗日宣伝活動に傾注した。

 戦後、米国ではいわゆる「マッカーシズム(赤狩り)」が吹き荒れ、同機関誌のオーウェン・ラティモア編集長に対しスパイ疑惑が突きつけられ、その真偽がいまも謎とされているが、陳氏は「ラティモアは私がモスクワから派遣された工作員であることを知らなかった」と自伝で明言している。

■ゾルゲ事件 第二次大戦中の1941年9月から翌年6月にかけてソ連赤軍第4部の諜報(ちょうほう)員だったリヒャルト・ゾルゲら17人がスパイ容疑で検挙された。グループの中に近衛文麿内閣の中国問題顧問で満鉄顧問だった尾崎秀実が含まれていたことから大きな注目を浴びた。グループは34年から検挙されるまで約400件の情報をモスクワに流し、最も成功したスパイ事件とされる。ゾルゲと尾崎は44年処刑された。

(2007/04/13 10:26)




【2007/04/13 11:22】 | 【資料庫】新聞・ニュースストック | トラックバック(0) | コメント(0)
GHQ占領下 元日本人検閲官の証言
■毎日新聞
<郵便検閲>GHQ批判を英訳した 元日本人検閲官が証言

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060315k0000m040160000c.html(リンク切れ)

 占領時代に連合国軍総司令部(GHQ)が行った検閲を巡り、検閲官として日本人の雇用を示す資料を毎日新聞が入手し、元検閲官2人が実態を証言した。郵便検閲は無作為抽出した郵便物を対象に、GHQ批判などが書かれた手紙を英訳した。

 GHQ側は、日本人検閲官に「日本人の生活や考えを知るため」と目的を説明し、業務を口外しないよう指示していた。元検閲官は「人の信書を開封した痛みはずっとある。生きているうちに敗戦の現実を伝えたい」と証言の動機を語る。また、見つかった資料について専門家は「米軍が残しにくい資料で、極めて貴重」と言う。

 GHQの民間検閲部門は、占領下の情報統制のため新聞や雑誌のメディア検閲の一方、大規模な郵便検閲も実施。東京、大阪、福岡の検閲所などで4000人が従事、大半は日本人とされる。

 証言したのは、東京中央郵便局の民間検閲支局に勤めた、元朝日新聞記者の渡辺槙夫さん(82)と、主婦の横山陽子さん(77)。大学在学中、生計や学資のため公募試験を受け、検閲官となった。

 2人によると、東京での郵便検閲は、個人信書を3階、法人関係を4階で行った。2人のいた3階には、検閲官が30以上の机に約10人ずついた。管理職を除き大半が日本人で、無作為抽出した手紙などを閲覧した。

 占領軍への批判や意見、米兵の動向のほか、復員▽物価や食料難▽公職追放▽労働組合▽企業の経営状態▽政治や共産党の動きなどの事項を訳した。開封した手紙は検閲済みの文字入りテープを張り、郵便局に戻した。横山さんは「1日300通見た日もある」と証言した。

 資料は、横山さんが保存していた辞令書など。辞令書は48年2月3日付で、GHQの民間検閲支局が横山さんを、3段階あった検閲官の初級の「Jr・Examiner」から中級の「Examiner」に昇格させたのを明記。月給も1727円から2080円にした。【野倉恵】

 【GHQの郵便検閲】占領地の世論把握や連合国への批判防止などを目的に、45年10月から49年にかけ、新聞、出版物、郵便などの検閲を東京、大阪、福岡で行った。ピーク時約8700人いたとされる従事者は大半が日本人とされる。国立国会図書館所蔵の米国陸軍省関連資料によると、当時年間24億~30億通だった手紙などの国内郵便物は、年間で最大1億5000万通が検閲されたとみられる。

 ◇日本人証言は貴重
 占領下の検閲問題に詳しい山本武利・早大教授(メディア史) 初めて見る資料で貴重だ。占領下の検閲は、GHQ検閲部門CCDや検閲行為自体、存在しないものとされてきたことを念頭に置く必要がある。49年のCCD廃止までに全信書の5~10%が検閲されたとみられるが、自ら証言する検閲官の日本人はほとんどいない。米軍の機密機関による非公然活動で、米軍は日本人の雇用を明確に示す公的文書は残せなかった。

 ◇1日で300通見た日も…元検閲官
 連合国軍総司令部(GHQ)が行った郵便検閲。占領下に生きる糧を得るため、多くの日本人が協力した。元検閲官は、信書の秘密を侵した痛みと向き合いつつ、戦後を生きてきた。その経歴を自ら語る人はほとんどいなかったが、「歴史を証言したい」と重い事実を話した。【野倉恵】

 ▽元朝日新聞記者、渡辺槙夫さん(82)は1946年12月から約2年半、東京中央郵便局の検閲所に勤めた。幼いころ満鉄社員の父を亡くし、家族は終戦で資産を失った。学徒出陣し、南方沖に派遣され幾度も死にかけた。それだけに友人に仕事を紹介されても「米軍の下で働くのは強い抵抗があった」。

 個人の私信を扱う検閲所は500人以上の日本人検閲官がいた。「隠匿物資の情報を翻訳し、後日現場が摘発を受けたのを新聞で知った」こともある。

 横山陽子さん(77)は46年8月から1年10カ月、同じ検閲所に勤めた。学徒動員から戻り、入学した女子大の学費が10倍に急騰。学資稼ぎと両親を支えるため人づてに就職した。初日に日系人の上司が言った。「(検閲で)日本人の生活や考え方が分かり、より良い占領政策がとれる。裏切りと思われるから仕事のことを外で言うな」

 1日ではがきを中心に300通見た日もある。 《小豆を送って。枕の中に入れれば見つからない。米は芯(しん)の方に入れて》。「食べるのに必死な人々の叫び。子供を抱え、高物価を嘆く主婦の声が忘れられない」

 同僚の検閲官が1通をこっそり渡しに来たことがある。横山さんが米国に住むおばにあてた手紙だった。「戦後の食料難を嘆き、いっそ共産党に入りたいと書いたためか」。このままだと翻訳対象になると知らせてくれた。持ち込まれた郵便物の数はチェックされているため、同僚の所属する班の責任者に断り、家に持ち帰って書き直した。

 「ここまでやったという痛みが消えない。占領、敗戦の現実をいま伝えなければと思った」。渡辺さんは49年春、GHQ民間検閲部門を退職し、朝日新聞社に就職した。「手紙で国民の生々しい現実に触れた経験を生かさなければ」と考え、記者になった。横山さんは「終戦後は言論が自由と言われたが、『なぜ人さまのものを』とよく泣いた。多くの人と同じく自分も懸命に生きる中、携わった仕事自体が敗戦の現実。一つ一つの歴史のかけらは言わなければ消えてしまう」と話す。

(毎日新聞) - 3月15日3時12分更新 (2006年)




◎参考サイト:産経Web【教育を考える】
2005.08.04
■【戦後60年 歴史の自縛】(3)GHQ「ウォー・ギルト・プログラム」
http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/etc/050804jibaku_etc.html

刷り込まれた「罪の意識」

 さきの大戦を日本の「侵略戦争」ととらえ、指導者が諸外国に謝罪を繰り返すのもやむを得ないと考える日本人が少なくないのはなぜか。その出発点に、占領期の連合国軍総司令部(GHQ)による検閲と「戦争への罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」(文芸評論家の江藤淳)であるGHQ指令「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の存在がある。

検閲は、極東国際軍事裁判(東京裁判)に関して徹底的に行われ、「リベラル派」の雑誌『世界』(岩波書店)も論文の全文掲載禁止処分を受けていたことが、三日、わかった。GHQにより、同盟通信や朝日新聞なども発行停止や掲載禁止などの処分を受けているが、『世界』への検閲処分が判明したのは初めてだ。

 掲載禁止になったのは、東京裁判開廷直前の昭和二十一年四月、『世界』第四号に掲載予定だったS・Kによる「文明の審判-戦争犯罪人裁判」。理由は、「連合国の戦犯裁判政策の批判」にあたるとされた。

 論文は、連合国がニュルンベルク裁判や東京裁判を実施するに当たり、それまでの国際法の概念になかった「平和に対する罪」「人道に対する罪」を創出、戦争を計画・遂行した「個人」の責任を問おうとしていることに疑問を示し、次のように記していた。

 「日米開戦直後、国防安全の必要からアメリカ政府がとった日本人の奥地強制移住措置の如きも、そのアメリカ国内法上の合法性如何にかかわらず、もしも我々が、これを人道に対する犯罪と看做(みな)した場合には、ルーズヴェルト大統領の責任を訴追することができるといふことになる」

 結局、論文は日の目を見なかった。資料を発掘した明星大戦後史教育センターの勝岡寛次は、処分後の『世界』について「これに懲りて占領軍にすり寄り、二度とこのような論調で東京裁判を論じようとはしなくなった」と指摘する。

 GHQ総司令官のマッカーサーは昭和二十一年元日、「いまやすべての人が、不当な規制を受けることなく、宗教の自由と表現の権利を享受できる」との声明を出したが、実態は違う。

 GHQは二十年九月十日、検閲のスタートとなる「新聞報道取締方針」を発令。同月二十一日には「新聞条例」を発令してGHQ批判を禁止。六日後には、「新聞と言論の自由に関する新措置」によって、日本の新聞をマッカーサーの管理下に置いた。

 GHQは検閲で日本側の主張を封じ込める一方、日本人に米国の「歴史認識」を植え付けた。

 まず用語狩りを徹底した。特に「大東亜戦争」は、検閲で日本軍部を非難する論文で使われても例外なく削除を命じた。代わって「太平洋戦争」の呼称を定着させた。

 二十年十二月八日。GHQは、真珠湾攻撃から四周年にあたるこの日、全国の新聞に連載記事「太平洋戦争史」(GHQ民間情報教育局提供)を掲載させた。

 連載は十回にわたり、満州事変から終戦に至るまでの「日本の悪行」を強調する内容で、「真実なき軍国日本の崩壊、奪う『侵略』の基地、国民の対米憎悪をあおる」(八日付朝日新聞)、「隠蔽(いんぺい)されし真実、今こそ明らかに暴露 恥ずべし、南京の大悪虐暴行沙汰(さた)」(読売新聞)といった見出しが躍った。

 この間の事情を研究している政党職員の福冨健一が「二十年十二月八日は東京裁判史観が始まった日だ。『太平洋戦争史』は進歩主義や左翼思想と結びついて次第に日本に定着し、堂々と教科書に記述されるまでになった」と指摘するように、「侵略」という用語も周到に盛り込まれた。

 放送も大きな役割を担った。GHQの指導下、九日からNHKラジオは「真相はかうだ」を開始。「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにしたもので、週一回、日曜午後八時から十回放送された。

 少年の素朴な問いに、反軍国主義思想の文筆家が答える形式のドラマだ。「日本を破滅と敗北に導いた軍国主義者のリーダーの犯罪と責任を日本の聴取者の心に刻ませる」(民間情報教育局ラジオ課)目的で、内容は一方的なものだった。

 「原子爆弾の投下は、戦いをなお続けようとするなら、日本は迅速かつ徹底的な破壊を被るという連合国側の予告を、日本の指導者が無視し、何ら回答しなかったため」「戦時中の軍指導者たちが戦争犯罪人の指名を受けるのは当然」…。

 「真相はかうだ」は問答形式の「真相箱」に改められ、さらに四十一週間続く。一方、「太平洋戦争史」は翌年四月に単行本として出版されベストセラーとなる。出版前に、文部省が「各学校は各々これを購入の上、教材として適宜利用せらるべきものとす」という通達を出していた。

 GHQが実施したメディアと、公教育を通じた宣伝工作は、六十年後の今も日本人の歴史認識を縛っている。(敬称略)

                   ◇

≪検閲知らなかった国民≫

 「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は、二十年十月二日付のSCAP(連合国軍総司令官)の一般命令第四号に基づくもので、GHQ民間情報教育局が主体となって実施した。同命令の趣旨は「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」。「太平洋戦争史」連載も「真相はかうだ」放送も命令に沿ったものだった。

 ノンフィクション作家の保阪正康は、これらのGHQ製記事や番組について、「日本政府が国民に知らせず、隠蔽していた歴史事実を明らかにした『功』の部分もある」としつつ、こう言う。

 「そこで示された史観の発想やトーンは東京裁判の起訴状や判決文と見事に符合する。戦後のさまざまな昭和史記述の本もこの史観を下敷きに、なぞっている」

 戦時中の言論統制もあって「情報」に飢えていた日本人は、GHQが計画的に与えた米国製の歴史認識を吸収し、これが「歴史の真実」として定着していった。

 二十一年にGHQの諮問機関メンバーとして来日し、日本の労働基本法策定に携わったヘレン・ミアーズは著書『アメリカの鏡・日本』(GHQにより日本では発禁)の中で、占領軍による検閲に疑問を呈している。

 「私たち自身が日本の歴史を著しく歪曲(わいきょく)してきた。だから、政治意識の高い日本人から見れば、日本の教科書の『民主的改革』は、私たちが意図しているようなものではなく、単に日本人の国家意識とアメリカ人の国家意識を入れ替えるにすぎない」

 GHQは「東京裁判批判」「検閲制度への言及」「占領軍が憲法を起草したことに対する批判」など三十項目もの掲載発行禁止対象を定めた検閲指針を定め、厳しくメディアを取り締まった。国民は検閲を受けていることすら知らされなかった。

 検閲は発禁・発行停止を恐れる側の自主規制へとつながっていく。原爆投下への批判や占領政策への注文を掲載していた朝日新聞は、二十年九月十八日に二日間の発行停止を命じられた。

 民間のシンクタンク、日本政策研究センター所長の伊藤哲夫によると、朝日は二十二日付の社説では、それまでの報道姿勢を一変させ、「今や我軍閥の非違、天日を蔽(おお)ふに足らず。(中略)軍国主義の絶滅は、同時に民主主義化の途である」と書くようになった。

                   ◇

 明星大教授の高橋史朗は、GHQのプログラムの目的について「東京裁判が倫理的に正当であることを示すとともに、侵略戦争を行った日本国民の責任を明確にし、戦争贖罪(しよくざい)意識を植えつけることであり、いわば日本人への『マインドコントロール計画』だった」と指摘する。

 むろん、GHQによる「罪の意識」の刷り込みがいかに巧妙であっても、二十七年四月の独立回復以降は日本人自らの責任であり、他国のせいにはできないという意見もある。

 「だました米国とだまされた日本のどっちが悪いか、という話。だいたい、歴史観の問題で、だまされたという言い分が通用するのか」

 現代史家の秦郁彦は、占領政策を過大視することに疑問を示す。

 一方、ジャーナリストの櫻井よしこは、日本人が戦後、自らの責任で東京裁判史観を軌道修正できなかったことを反省しつつ、こう語る。

 「二度と他国の謀略に敗北し、二度と自国の歴史、文化、文明、価値観、立場を理由なく否定されたり、曲げられたりすることのないように、しっかりと歴史を見ていくことがこれからの課題だと思う」(敬称略)

                   ◇

≪GHQの検閲指針(検閲対象となった主な事例)≫

 ・連合国軍総司令官(司令部)に対する批判
 ・極東国際軍事裁判(東京裁判)批判
 ・GHQが憲法を起草したことへの批判
 ・検閲制度への直接・間接の言及
 ・米、ソ、英、中国に対する批判
 ・朝鮮人に対する直接・間接の一切の批判
 ・他の連合国に対する批判
 ・連合国の戦前の政策に対する批判
 ・ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
 ・戦争擁護、軍国主義、ナショナリズムの宣伝
 ・神国日本、大東亜共栄圏の宣伝
 ・戦争犯罪人の一切の正当化および擁護
 ・占領軍兵士と日本女性との交渉
 ・占領軍軍隊に対する批判





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【2007/01/05 17:39】 | 【資料庫】新聞・ニュースストック | トラックバック(0) | コメント(0)
旧日本軍の名誉回復

■産経新聞:イザ!
日本の名誉64年ぶり回復 宣教師殺害は現地人犯行
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/27701/

(2006.11/15 12:14)

 先の大戦中の1942年に日本占領下のニューギニア(現パプアニューギニア)で、日本軍が英国国教会宣教師ビビアン・レドリッチさん=当時(37)=を殺害したとされた事件について、レドリッチさんの地元、英中部リトルボーデンの教会が14日までに、現地住民による犯行だったことを明らかにした。

 同教会は、実行犯らの家族など関係者が全員死亡したことを理由に、約64年ぶりに日本の「名誉回復」を確認。日本軍のレドリッチさん殺害を前提に、日本の教会が送った和解を呼び掛ける教会内の展示物を見直す考えを示した。

 同教会によると、レドリッチさんは他の宣教師11人とともに42年7月、ニューギニアで活動中に殺害された。2002年に現地住民がレドリッチさんら2人の殺害について、自分の家族による犯行だったと現地の英国国教会の司祭に明かした。

 残りの10人については依然として、日本軍が殺害したとされているが「明確な証拠はない」(同教会)という。(ロンドン 共同)

※他、ニュースソース見当たらず


◎参考サイト:東亜連盟戦史研究所
【国民のための戦時国際法講義1~2大日本帝国の遵法精神】より引用 http://touarenmeilv.ld.infoseek.co.jp/from1to2wlaw.htm

2、大日本帝国の遵法精神

..........日清・日露の両戦役では日本陸軍は国際法学者の有賀長雄博士を法律顧問として従軍させて戦時(交戦)法規を徹底的に厳守し、世界各国から惜しみない賞賛を浴びた。戦時国際法の適用に関し軍の指揮官に助言する法律顧問を軍隊に配置することは、一九七七年の国際的武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書八十二条に初めて規定されたが、我が国はこれに先立つこと八十三年前に法律顧問の従軍を実践したのである。この成果は絶大であった。

 日清戦争を観戦したフランスの国際法学者ポール・フォーシーユは、日本が文明国であることを世界に知らしめた有賀長雄の名著「日清戦役国際法論」に寄せた序言の中において、

 「日本は独り内部の法制に於いて世界最文明国の班列に達したるに非ず。国際法の範囲に於いても亦同然たり。経験は日本政府が能く其の採択する所の文明の原則を実行するに堪うるを表示せり。すなわち日本は清国に対する一八九四年の戦争に於いてこの事を証明したり。この戦役に於いて日本は敵の万国公法を無視せしに拘らず自ら之を尊敬したり。日本の軍隊は至仁至愛の思想を体し、常に慈悲を以て捕虜の支那人を待遇し、敵の病傷者を見ては未だかつて救護を拒まざりき。日本は尚未だ一八六八年十二月十一日のセントピータスブルグ宣言に加盟せずと雖も、無用の苦痛を醸すべき兵器を使用することを避け、又敢えて敵抗せざる住民の身体財産を保護することに頗る注意を加えたり。日本はいずれの他の国民も未だかつて為さざる所を為せり。其の仁愛主義を行うに熱心なる、遂に不幸なる敵地住民の租税を免じ、無代価にて之を給養するに至れり。兵馬倉皇の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、凡そ生霊を救助するの策は挙げて行わざるなし。見るべし日本軍隊の通過する所必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを。」

と日本政府と日本軍を褒め称えた。
フランスのフィガロ紙従軍記者とイリュストラシオン紙従軍記者は、

「余等は日本帝国の如き慈愛心に富める民あるを、この広大な地球上に発見し得るかを怪しむなり」

と驚嘆し、 

「ひるがえって清軍を見よ。日本軍卒の一度、彼等の手に落つや、あらゆる残虐の刑罰をもって、これを苦しむるにあらずや。或いは手足を断ち、或いは首を切り、睾を抜く、その無情、実に野蛮人にあらざればよくすべきの業にあらず、しかし日本はこれあるにかかわらず暴に酬ゆるに徳をもってす。流石に東洋君子国たるに愧じずと云うべし。」

と述べて清軍の残虐行為を非難し、日本軍の遵法精神を「大日本帝国軍隊は世界に対して誇るに足る名誉を有する」と大絶賛したのであった。(以下略)

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【2007/01/05 15:13】 | 【資料庫】新聞・ニュースストック | トラックバック(0) | コメント(0)
訃報・ゾルゲの元上司
リヒャルト・ゾルゲ ※リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge 1895~1944)
 1918ドイツ独立社会党(のち共産党)に入り、25コミンテルン情報書記局員となり、ソ連邦共産党に入党。 30上海で在中国諜報機関を組織。33(S8)横浜で対日諜報機関を創立。近衛文麿ら政界の上層部と親しかった満鉄嘱託の尾崎秀実より情報を入手、ソ連に送った。 41年10月検挙され、44年11月7日巣鴨で尾崎と共に死刑に処せられた。 <コンサイス日本人名事典>

※尾崎秀実がゾルゲと出会ったのは1928(昭和3)年11月、朝日新聞の特派員記者として上海支局に勤務していた頃。満鉄調査部委託職員となったのは1939年(昭和14年)6月1日、東京支社に勤務。
 ゾルゲ(及び尾崎秀実)の墓は東京都府中市多磨霊園内にある。

■産経新聞
ボリス・グジ氏(旧ソ連のスパイ、ゾルゲの元上司)

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/33325/

 ボリス・グジ氏(旧ソ連のスパイ、ゾルゲの元上司)27日、モスクワで死去、104歳。1930年代にソ連軍の秘密情報部員リヒャルト・ゾルゲの日本での活動を指導し、暗号電文を受信した。

 タス通信によると、02年にロシア南ウラル地方のウファで生まれ、23年にソ連の情報機関入り。34~36年、後のソ連国家保安委員会(KGB)要員として日本に滞在、帰国後はソ連軍参謀本部情報総局(GRU)に移り、ゾルゲらの日本での活動を支えた。37年に解任され、バスの運転手として働いた。定年後は歴史研究にも従事、ロシアの情報機関関係者の長老的存在として知られた。(共同)

(2006/12/30 07:52)

■毎日新聞
訃報:ボリス・グジさん104歳=ゾルゲ担当の元スパイ

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/fu/news/20061230k0000m060096000c.html
 ボリス・グジさん104歳(1930年代に活動した旧ソ連の元スパイ)タス通信などによると27日、モスクワの病院で死去。死因は明らかにされていないが、老衰とみられる。

 34~36年、日本に滞在し対日情報活動に従事。帰国後、ソ連赤軍参謀本部情報局次長として、日本で活動したソ連の大物スパイ、リヒャルト・ゾルゲに指示を出した。37年にスターリンの粛清で軍から追放され、バス運転手などを務めた。60年代末以降、スパイ関係本の著者や映画作家に助言を与えた。元ソ連スパイの最長老格とされ、ロシア連邦保安庁(FSB)から勲章を受けている。【モスクワ杉尾直哉】

毎日新聞 2006年12月29日 22時40分 (最終更新時間 12月29日 22時56分)

■朝日新聞
旧ソ連のスパイ、ゾルゲの元上司のボリス・グジさん死去

http://www.asahi.com/obituaries/update/1229/001.html

2006年12月29日23時42分
 ボリス・グジさん(旧ソ連のスパイ、ゾルゲの元上司)が27日、モスクワで死去、104歳。

 30年代、ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)でゾルゲの担当官を務め、モスクワから活動を支援した。イタル・タス通信によると、34年から36年まで日本に滞在した後、GRU極東部で日本を担当した。100歳を過ぎて、ゾルゲについて「比類ない才能」と称賛する一方で「無神経さや気まぐれが致命傷となった」などの証言を残した。




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【2007/01/05 14:20】 | 【資料庫】新聞・ニュースストック | トラックバック(0) | コメント(0)
しゃばだば近代国史帖


日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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