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皇后陛下のお言葉の中から-壁崩壊後のベルリン訪問時のご印象
歩み 皇后陛下お言葉集歩み 皇后陛下お言葉集
(2005/10/08)
宮内庁侍従職

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 ※ 「御即位十年に当たっての記者会見」より、平成十一年十一月十日、在日外国報道協会代表質問より皇后陛下の御言葉をお一つご紹介致します。


 

質問― 両陛下はこの十年間に何度か外国をご訪問されましたが、当時の最も印象深い思い出や、ハプニングについてお話をお聞かせ下さい。また、そうした機会を体験されて、日本が国際的役割の中で世界に発信した方がよいと思われるメッセージは何だとお考えでしょうか。


 皇后陛下― 十年間に訪れたどの国においても、幾つかの懐かしい再会があり、たくさんの新しく印象深い巡り会いがありました。遠い国々を訪ね、そこに母国におけると同じく、心を通い合わせることのできる人々を見いだすことは本当に嬉しく楽しいことでした。

 それぞれの旅に思い出があり、その中から最も印象深い一つを選ぶことは難しいのですが、今、陛下もお触れになりましたように私も壁崩壊後のベルリン訪問は、とりわけ深い印象とともに思い出します。

 今から十年前のちょうど今ごろ、テレビのニュースで朝の光を一杯に受けたブランデンブルグ門に群がる人々の笑顔を見、その明るい光景に強く心打たれてから四年後、陛下のお伴をしてベルリンを訪れ、ワイツゼッカー大統領ご夫妻とベルリンのディープゲン市長ご夫妻とともに、ブランデンブルグ門を通りました。その後壁の周辺を歩き、そこで亡くなった幾人かの方々のお墓を見、この壁とともにあった三十年近くに及ぶ世界の歴史と、その壁のために命を失った人々と、また運命をたがえた多くの人々の上に思いを致しました。忘れることのできない旅の一日でした。

 二つ目の質問である、日本が世界に発信すべきメッセージについては、これはさまざまであってよいのだと思います。また、私は幾つかの国を訪問する機会を得る中で、一国が発信するメッセージは、必ずしも言葉や行動により表現されるものばかりとは限らず、例えば一国の姿や、たたずまい、勤勉というような、その国の人々が長い年月にわたって身につけた資質や、習性というものも、その国が世界に向ける静かな発信になり得るのではないかと考えるようになりました。その意味で、日本が国際的な役割を十分に果たしていく努力を重ねる一方で、国内においても、日本が平和でよい国であることができるよう、絶えず努力を続けていくことも、大切なことではないかと考えています。



 
 ※ 1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊。その日突如として東ドイツ政府が、東ドイツ市民に対して旅行の自由化を発表したことから、なだれ現象のように西側へ渡る大群集の様を、筆者もテレビで目撃した記憶が今も生々しい。ハンマーを振り下ろし嬉々として壁をぶち壊す人々を見て、世界中が歓喜の声を上げた。

 今、北京オリンピックを控えた中国へ、世界中の視線が集まっています。息をつめて見つめる多くの人々の胸に、あの「ベルリンの壁崩壊」の記憶が蘇っているのではないでしょうか。

 さて、今や現場を知る者には「長野事件」と呼ばれる先の聖火リレーでの様で、あの日は日本国の主権を踏みにじられ法治国家としての前提を揺るがせた大事件としての自覚があります。一方で政府は胡 錦濤 国家主席の訪日を前に、いまだその自覚がないようです。

 長野での中国人留学生たちの傍若無人な様を思い出すと、全体主義に手繰られた哀れを感じると同時に恐怖を覚えました。日本の警察は手も足も出せず、中国人による不法行為を黙認した。それは警備の算段を誤ったためなのか、政府の意向が反映したものだったのか。これを放置することは、中国にその日から主権移譲したことになるまいか。今からでも遅くはない、被害者は警察に届けを出して欲しいと思います。

 ひるがえって中国人当事者たちは何と思ったか。自国での「愛国無罪」が他国である日本で通用すると思い込んだとしたら大変なことになる。警察はその威信にかけて粛々と法に委ねるべきである。もしや胡 錦濤の訪日時においても同様の警備に及べば、我が国の法治国家としての体裁は完全に崩壊する。やめてくれ。

 さらに我々は、在日中国人の方々全部が全部だとは思わないが、中共政府からの糸で容易に手繰られ得る存在であることを目の当たりにしました。彼らは祖国を離れても恐怖政治の影響下にあるということだ。彼らの多くは中共を信じていないという。中共が大嫌いだという。しかし、祖国への愛国心は当然に持っている。中共は嫌でも、愛国心を持つことはごく自然なことなのだから。

 そんな彼らに、筆者は、敵対するのではなくこう語りかけたい。「あなたは中共を信じられるのですか?」と。天安門事件で中共は何をしたか思い出して欲しい。彼ら自身が、もしくは、彼らの両親や親戚が、あの事件を覚えているはずです。今日本にいて、この自由の国で、天安門事件や文化大革命の真実を調べることは容易なこと。どうか、あなた自身が真の自由に目覚め、祖国の開放と民主化に心を傾けて下さい、と。

 ところで、もう一つだけご紹介したい皇后陛下のお言葉があります。マスコミの方々は心して耳を傾けるように。


□平成五年 お誕生日に際し宮内記者会質問に対する文書回答

 質問― 最近目立っている皇室批判記事についてどう思われますか。



 皇后陛下― どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います。今までに私の配慮が充分でなかったり、どのようなことでも、私の言葉が人を傷つけておりましたら、許していただきたいと思います。

 しかし、事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であっては欲しくはありません。

 幾つかの事例についてだけでも、関係者の説明がなされ、人々の納得を得られれば幸せに思います。






 ※ この翌年のお誕生日(11/20)の朝、皇后陛下は倒れられ、失語の状態で後の六ヶ月を過ごされた。その間も、倒れられた当日以降の公務はすべてお出ましになられました。

 天皇皇后両陛下は、長野事件を見てどのように思われたでしょうか。胡 錦濤訪日の際の謁見は、筆者にはどうにも許し難く、陛下に痛く申し訳なく思います。我々の声は政府には届かないのか。福田現政権においての胡 錦濤の訪日には絶対反対です。どうにかならんのか?

 同日にダライ・ラマ法王と会談されるなら大歓迎ですが。





 
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【2008/05/03 06:55】 | 【御皇室】 | トラックバック(0) | コメント(2)
昭和天皇の戦中生活について描かれた手記を発見と-東京新聞
昭和天皇・香淳皇后 ※ 先日の「昭和の日」(4.29)、東京新聞朝刊一面トップでの記事(26・27面記事は新聞から転載)です。ネット上を探してみると他にFNNニュース(フジテレビ)がとり上げていました。FNNでは動画もご覧になれます。

 しかし手記といえば誰の手に委ねられるかで扱いも変わること、先般の「富田メモ」の扱いで記憶に新しいのです。どうかそのまま歪めることなきよう、と見守りたい。

 昭和天皇のお人柄についてはこれまでにも多くの史料や著述等があり、「富田メモ」での報道内容では大きく乖離した違和感を持ちました。その疑惑に対しスクープした日経新聞は払拭のための史料公開を拒絶したままになっています。

 



【FNNニュース】
昭和天皇の戦争中の生活がうかがえる侍従武官の手記が見つかる


 戦争中の昭和天皇の生活がうかがえる侍従武官の手記が見つかった。
 食事について、「一汁二菜、お香物位(おこうのものぐらい)」と記されるなど、質素を好んだ昭和天皇がしのばれる。
 「宮殿炎上」と題されたこの手記は、1936年から日米開戦前年の1940年まで、軍部との連絡役である侍従武官を務めた山澄 貞次郎元海軍少将が、終戦後に記したもの。
 手記には、昭和天皇の戦争中の生活について、「何事にも堅実簡素を尊ばれる」などと書かれ、食事は「白米を召し上がらず、七分づきのご飯に、一汁二菜、お香物位で、皆が想像するように、山海の珍味を並べる王者のお食事とは全く違う。私は、金持ち連中は少しは自重しろと憤慨した」と記されている。
 また、何事にも仰々しいことを嫌う昭和天皇が、側近らに対して、「なかなか趣旨が徹底しないのは困ったものだ」などと苦言を呈していたエピソードもつづられていて、その人柄がしのばれる。


【東京新聞:一面】
□昭和天皇の戦中生活描く 海軍侍従武官の手記発見
-2008年4月29日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008042902007452.html

 日中戦争開始前年から昭和天皇(一九〇一-八九年)の海軍侍従武官を務めた故山澄貞次郎(やまずみていじろう)氏(七六年に七十九歳で死去)の手記を遺族が見つけた。昭和天皇の知られざる人柄や質素な生活ぶりが、側近の目を通して描かれた貴重な資料として注目される。 

 手記は「随筆 宮殿炎上」。山澄氏は三六(昭和十一)年五月-四〇年十一月の四年半、軍部との連絡役を担う海軍侍従武官(計三人)の一人として昭和天皇に仕えた当時の様子などを、終戦後の四八年につづった。

 まず昭和天皇の「人間宣言」について「事実は決してそんな変化があった訳ではなく」「以前から決して御自身を神と思召していらっしゃりもしない」と説明。四六年から始めた全国巡幸を「機会があったら今度の戦争について国民にわびたい、日本再建の努力に力づけをしたいと思召していらっしゃったのが御主旨(しゅし)」と記す。

 生活ぶりは「何事にも堅実簡素を尊ばれる」とし、好況の当時でさえ食事は「白米は召し上がらず、七分づきのご飯に一汁二菜、お香物位で、皆が想像するように、山海の珍味を並べる王者のお食事とは全く違う。私は金持ち連中は少しは自重しろと憤慨した」。

 下着も「すっかり切れるまで洗濯して召される」。ぜいたく品は使わず、品質が悪くても国産品や代用品を利用、腕時計は国産のニッケル物。写真を見る際は「包装やアルバムの体裁などは何でも良く、仰々しいのを殊にお嫌いになった」と明かす。

 軍服姿の真夏の執務でも扇風機を使わず、冬の葉山御用邸の滞在は「御避寒」とされていたが「実際は筑波おろしの寒風を突いて連日荒けた海上にお出ましになる御鍛練であって(生物研究の)御趣味でなければ決してできない」と振り返る。

 昭和史に詳しい作家・半藤一利さんの話 昭和天皇の暮らしぶりを示す詳細な描写がある。人々が興味を持つ内容で今まで書かれていなかったことが書かれており、天皇の生活を具体的に示す記録として興味深い。

【東京新聞:26面】
□戦時下の側近がペン 誤った昭和天皇像憂う


☆「随筆 宮殿炎上」発見
 太平洋戦争に向けて軍靴の音が高まる中、海軍侍従武官として四半世紀にわたり、昭和天皇に仕えた山澄貞次郎(やまずみていじろう)氏。終戦から二年半余たった手記では、天皇の日常生活に関する間違った伝聞や憶測を憂い、その素顔を書き残して興味深い。主なものを紹介したい。(生活部・杉戸祐子、特報部・野呂法夫、一面参照) =原文は《》。一部省略、現代仮名遣いに。

■「几帳面」気配りの執務

 《まことに惜しくてたまらない》―。手記は山澄氏が終戦後の一九四六(昭和21)年、出征先の南太平洋・ブーゲンビル島から帰還する途中、前年五月の空襲で皇室の中心的施設「明治宮殿」(豊明殿など)が全焼したことを知った無念さから始まっている。

 山澄氏は祖父、父も海軍の重鎮という「海軍一家」に生まれた。戦艦「陸奥」の艦長も務め、終戦時は少将。退官後は神奈川県逗子市に住んだ。

 手記は長男の故暉(あきら)さん(二〇〇四年死去)の妻康子さん(八〇)=同市=が遺品から見つけた。「復員省」と印刷されたB5の縦書き用紙六十一枚に、「心を清める」「陛下の御食事」など十九項目にわたる。

【御言葉】

 《陛下がおやすみになることを「御格子(みこうし)」、魚を「お万那(おまな)」》。山澄氏は御所で使われていた言葉を記録した。

 そばは「そもじ」、酒は「おすすり」。昭和天皇は自身を「朕(ちん)」ではなく「わたし」、皇后(香淳皇后)を「ながみや(良宮)」。娘の内親王らは両陛下を「おもうさま」「おたあさま」、側近は天皇を「お上(かみ)」と呼んだ。

 お印は昭和天皇が「若竹」、香淳皇后は「桃」。《皇后陛下は桃にちなんだ玩具をお集めになってすでに数百個》《ご印章の因縁であろうか、お上の御性質が竹のように素直で清廉で、皇后さまが桃のように豊かでふっくらしていらっしゃる》

 正月に自分の干支の日があれば飴を出す習慣があった。侍従らの詰め所では盆に山盛りの飴が三つも四つも出て、一同なめながら祝い話をした。

【映画】

 昭和天皇は新聞は切り抜きを読むとされたが、《東京の主要六種類と大阪二種類を、約二十分間フォルマリン消毒をして差し上げた》

 映画はお好きで、ベルリン五輪の「民族の祭典」や音楽映画「未完成交響曲」、ディアナ・ダービン主演の「オーケストラの少女」、ハンセン病をテーマにした「小島の春」など当時の主なものはほとんど鑑賞された。

 長女の村木淳さん(八一)=同市=によると、山澄氏は退官後も葉山御用邸(同県葉山町)に滞在された天皇の将棋やコントラクトブリッジ(カードゲーム)の相手をした。

 天皇は日中戦争以来、皇居内でのゴルフは中止したが、遊びの腕前ををこう明かす。《ゴルフのハンディが二十二、玉突きが二十五ぐらい、将棋が素人仲間の上の下(六級)》

【東京新聞:27面】
■海底採集 船酔い無縁


【御謹言の片鱗】

 昭和天皇の執務ぬりは《万事几帳面》。普段は背広姿だが、陸海軍大臣から報告を受ける際にはその軍服に着替え、《一日に三度も四度もお召替えになることは珍しくない》。夏に廊下のガラス戸も少ししか開けず《大切な国務関係の書類を飛ばしたり無くしたりするのをお気使った》

 村木さんによると、山澄氏は生前「政務室は密室で暑く、自分たちは汗だくだったが、その中でお上はきちんとしておられた」と話していた。

 一方で宮内省の役人への苦言も吐露する。《地位環境を利用して不当の権力をふるい、威張り散らした者もいた。その言動が陛下のご意志そのものであるように誤られていたのは遺憾》

【花梨】

 両陛下の御殿の庭に大きな花梨があった。山澄氏は三七年暮れ、《三つも頂戴すれば一つぐらいは芽が出るでございましょう》と、実を頂いた。

 花梨は桃と違い、小さな実がたくさん入っていることを知らなかった。《この無知が当分、両陛下のお笑いの種になり、赤面の至りであった》

 花梨は自宅の庭で増え、苗木数本を皇后陛下に献上した後日談も。《御殿の花梨は戦災で焼けてしまい、献上した第二世の花梨が、今は吹上御苑にすくすくと大きく育っているとのことだ》

 吹上御苑には毎年夏、滋賀県からゲンジボタルが献上された。生物学者の天皇は単なる慰めではなく、何とか繁殖させようと苦心され、流水に放って研究もされた。

 ヒドロゾアなどの採集は面目躍如だ。海軍侍従武官が船長になり、十五トンの葉山丸で葉山沖に出て300メートル以上の海底で網を引いた。《海上が荒れても陛下は少しも構わず、船に弱い侍従はすぐ酔ってしまうが陛下はまことにお強く、酔ったご経験がお有りにならない。薬は侍従がお世話になるのが落ちであった》

【皇太子殿下の玩具】

 皇太子さま(現天皇陛下)の思い出もある。学習院初等科入学前に東宮仮御所で独立した生活を送るため、両陛下の元を離れるお別れの内宴が三七年三月の夕に開かれ、皇太子さまから御所で遊んだ玩具が側近に贈られた。

 《「山澄、山澄、アア山荒らし」と仰せられた。私が海軍の侍従武官だからとて「ノラクロ」が乗っている船の玩具など、小さい物八個を賜ったが、体の大きな小出侍従には、最も似合った犬の玩具を賜って大笑いをなさった可愛らしい御姿を今でもはっきり覚えている》《これらの玩具を見ると、私たち一般の生活と大差ない御生活様式であるのがわかる》

【酒と煙草】

 昭和天皇は飲酒も喫煙もされなかったが、出征者の慰問に心を砕く。侍従武官が戦地入りする御差遣(ごさけん)で重要な役目が特注の酒などの下賜(かし)だった。

 二九年、若槻礼次郎元首相が御陪食(ごばいしょく)の際、「良いお酒でございます」と申し上げたところ、天皇は「今日は特に理研酒(合成酒)を用意したのだが」と大笑いされたという逸話を引いて記す。《御慰問の酒と違い、御陪食の際、外国人など別の場合を除いて、理研酒のようなものをお用いになるのは有りがちのこと》

【お田植え】

 宮中の儀式で大切なのが、両陛下が皇居内で行う養蚕や米作り。《御自ら農家の苦心と努力とを御体験なさっていらっしゃることと、その意義を国民は知るべきだ》と訴えて締めくくる。




 

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【2008/05/03 03:32】 | 【御皇室】 | トラックバック(0) | コメント(0)
しゃばだば近代国史帖


日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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娑婆妥場

Author:娑婆妥場
この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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