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盧武鉉とは如何なる大統領だったのか
※ 盧武鉉前韓国大統領のご冥福を祈りつつ、以下に引用の大磯先生に同意。氏の自殺の一報が出た時に筆者の頭をよぎったものは・・ここには書きませんが、いまだ報道が錯綜してますね。ひとつ言えることは、お亡くなりになったことを非常に残念に思っております。



 話が変わりますが、鳩山民主党代表との党首討論が終わりました。想像通りでしたが、真摯に討論をという姿勢の麻生首相に対して、鳩山代表はそこには知らんぷりを決め込み言いたい放題、学級崩壊ならず討論崩壊の様相。首相が言ってもいない言葉を言ったかのような断言を繰り返して、印象操作に徹してました。おそらく、今後の報道での“切り貼り”を意識してのことだと思われます。 

  麻生太郎vs鳩山由紀夫 2009年5月27日党首討論 発言全文

 しかし、こうも相手の話をなかったことにして、或いは、あったとして、批判の“物語”を瞬時に創作できる能力というのは、どういう精神構造なんでしょう。まあ、こういう手法は国会を見ていれば、野党揃い踏み(改革クラブ以外)でやっており、いつも筆者の脳みそを、?!!???マークで充満させてくれますが。

 筆者ならたぶん発狂状態、いや聞いているだけで発狂しそうになるので、生涯出来ないと思います。言ってもいないことを「何てことを言うのか!」と批判なんかできませんよ。そして指摘されても無視、批判しっ放し。多重人格というか、脳みそが複数あって、スイッチを瞬時に変えるとかしないと無理!げにおそろしや。息を吐くように・・・、ですかね。あー。マスコミもそうでしたね。ていうか左派揃い踏み。絶対にマネできんわ。

 あまりといえばあまりの党首討論でしたが、またやってもらいたいです。どんどんやって欲しい。鳩山代表の言質をたっぷり残すことは好いことです。それと、妄言吐きまくったあと、仲間たちにニコニコで迎えられ労ってもらってたシーンも。ネ。



 ちょっと道草食いすぎました。大磯先生のコラムをここに記録しておきたかったのです。およそ月一のペースで掲載されてますので、興味をもたれた方にはぜひバックナンバーも推奨です。ではどうぞ。

 

 


□ 国際政策コラム<よむ地球きる世界>No.121
    by 大礒正美(国際政治学者、シンクタンク大礒事務所代表)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/5562/column/latest121.html
平成21年5月24日

       反日韓国を完成した盧武鉉大統領の末期(まつご)

 5月23日早朝に自殺した前の韓国大統領は、韓国にとって最低最悪の大統領であった。日韓両国でそう認識している人は決して少なくないはずだ。

 死んだ人を鞭打たないというのが日本の文化であり、つい1年前まで隣国の大統領だった人物ならなおさらというのが普通であろう。

 しかし我が国の公人は別として、日本国民としては哀悼の意を表した上で事実は事実として確認しておくべきである。それは、この大統領が韓国民を反日の極にまでマインドコントロールした張本人だったということだ。

 一般にはその前の金大中(キムデジュン)大統領から左派政権が10年続き、北朝鮮寄りの太陽政策が推進され、反動で日米には厳しく対するという時代になったとされる。しかし実際には、日本に対して高飛車に出る政策は更にその前、文民政権初代の金泳三(キムヨンサム)大統領から公然と打ち出されていた。

 金泳三氏は日本の歴史認識を大きな問題とし、中国の江沢民国家主席との会談で、「悪ガキ(ポルジャンモリ)はしつけ直さなければならない」と焚きつけたことで知られる。おそらくマッカーサーが「日本の民主主義は12歳」と言い放った有名なフレーズを、うろ覚えのまま悪用したのだろうと思われる(日本人は、ではない、為念)。

 この時代から数えても三代15年間、韓国の指導者は自国民に対し、日本を子供扱いし、歴史を歪曲する日本右翼に抗議するのが愛国だと教え、加速度的に何もかも日本が悪くて自国は正しく、現在の諸問題の根源はすべて過去の日本にあると責任転嫁してきた。

 自殺した盧武鉉氏は、そうした日本敵視の集大成をやってのけた大統領である。

 当コラムで指摘したことがあるが、外国での演説で「日本の存在自体が世界の不幸だ」とまで極言し、一国の指導者としての資質と彼を大統領に当選させた韓国民のレベルを疑わせるに至った。

 竹島を不法占領していながら逆に国民感情を煽り続け、はては日本海の名称まで不法だとして世界に抗議を繰り広げた。ネットで常時「日本海 Sea of Japan」を検索して「間違いだから東海に直せ」と申し入れる政府機関を創設した。

 そして究極の愚行は、歴史的に日本と協力した過去の政治家を調べ上げ、その子孫から資産を没収するという法律を制定したことである。これはもう法治国家とは言えず、前近代への逆戻りというしかない。民主主義かどうかという以前のレベルである。

 しかし韓国では、ほとんどの大統領が退任後に横領などの罪に問われていることからして、韓国独特の「反近代」的な土壌があるのだと考えざるを得ない。

 また同氏は大学進学せずに弁護士となるなど教育が偏っており、漢字や英語で多面的な政治、歴史などを学んだことがないのではないかと疑われる。

 同氏は在任中に妻が600万ドルの資金提供を受け、その一部が子息のアメリカ留学資金に充てられたのではないかという容疑をかけられていた。
 これは金大中大統領が5億ドルを私的に調達して北の独裁者に贈り、その見返りに首脳会談をしてもらったのに比べると、金額が小さすぎるという感じが否めない。

 盧武鉉大統領も、別の目的でもっと多額の裏金を必要としたのではないだろうか。同氏の死で捜査が終了し、すべてが闇に葬られるとしたら、いちばんの被害者は韓国の国民ということではないだろうか。

 当コラムでは3年前、「反省しない国民性」を批判した(「憂慮すべき韓国の夢想自大主義」06/01/14)。左派教育が浸透した韓国で、前大統領哀悼の盛り上がりが中道の李明博(イミョンバク)現大統領に対してどういう方向を要求することになるのか、日本もアメリカも無関心ではいられない。

 マッカーサーが今日の韓国を見たら、何が何歳と評するだろうか?
(おおいそ・まさよし 09/05/24)

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【2009/05/27 17:48】 | 【演説・講演・論文・コラム】 | トラックバック(0) | コメント(6)
肝心なことは「働く」ってことなんだよ - 麻生太郎



麻生太郎講演「これからの日本、そして地域に求められること・・・」(伊勢原青年会議所設立30周年記念/2008.2.17)より部分抜粋。

 『中東和平-平和と繁栄の回廊』

........パレスチナ というところが中近東にあります イスラエルとドンパチやっているところですが
1948年 今から役60年ぐらい前に ここにイスラエルという国ができました
以来 パレスチナとの紛争は ずーっと今日まで続いて・・・ 
すべてのテロというものは まずはここから起こったと言ってもいいぐらい

それに対して多くの人々は 「イスラム教とユダヤ教との宗教戦争だ」
とよく言ってるが それは嘘だ........



※ 前々回のポスト安倍をめぐっての総裁選に敗れてから、昨年9月首相に就任するまでの約1年間に怒涛の全国地方行脚を敢行。その麻生講演は先々で好評を博し、日を追うごとに依頼が殺到したと記憶しています。上の動画は、下の動画(これが実寸ソース)の一部を抜粋し、より解りやすく編集されています。いや~秀逸!

 ところで、これら麻生首相によるところの外交実績を、お約束のようにマスコミは報道しなかった。あの昨年末から年始にかけての、イスラエルによるガザ爆撃、そして再び停戦となったあたりの報道を思い出すと、いかに的外れであったかが分かる。いや、的外れというより意図的にスルーしていたということか。あの停戦は麻生外交によりもたらされていた。そして誰もが絶望視していた中東和平が、今度こそ実現へと向かいつつある。

 この動画を見ていて感じたことがある。それは、この麻生発案による対中東政策の始まりは、安倍政権下の外務大臣時代から始まっており、福田政権下で入閣せずとも継続され現在に至っている。これはまさしく自民党外交政策の継続であったからだ。外交安全保障の考え方が大きく違う民主党との政権交代を、マスコミは軽々しく煽らないでいただきたい。

 下の動画は完全版です。他にもたくさん興味深いお話が満載なので貼っておきましたよ^^。

 


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【2009/04/13 09:03】 | 【演説・講演・論文・コラム】 | トラックバック(0) | コメント(0)
BBCニュース - ダボス会議
ダボス会議にて(09-1-31) ※ 何とかひとつ更新します。(コメントにお返事もせず申し訳ありません。。)

 日本のマスコミ報道の偏向が際立ってきております。これではジャーナリズムというよりテロリズムだと思うのは筆者だけでしょうか。

 マスメディアの中で特に新聞・テレビ業界の方々はどうお考えなのでしょうか。今のポジションや報酬にしがみつくことが、私たちの国を滅ぼすことに直結しているとの危機感はないのでしょうか。

 特にテレビ業界の方々!生放送で気骨ある叛乱を起こしてみませんか?政界再編の前にジャーナリスト再編やりませんか?NHKを含めて地上波の中で、公平な番組がちらほら見られるのは、関東地区では「テレビ東京」だけのようですが、これも極一部だけです。これ、広げられませんか?

 地上波テレビの生き残りは、この再編しかないだろうと思いますがどうでしょう。みなさん高額報酬なんぞかなぐり捨ててフリーになり、手弁当でテレビ東京に押しかけ入社しませんか?そこで本来のジャーナリズムを発揮しませんか?たとえばの話ですがね。

 現在の地上波テレビの低迷は、日本人が見ていて気分が悪くなるような偏向報道だらけだからじゃないかな。気づいていないとも思えないんだけど、早く手を打ったほうがいいんじゃないかなー。




 ■BBCニュース-Japan announces Asia aid package の翻訳 

Japan announces Asia aid package
http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/davos/7862424.stm

Prime Minister Taro Aso: 'I have decided on an economic stimulus package'
Japan's PM Taro Aso has announced a 1.5 trillion yen ($17bn;£11.6bn) aid package to help Asian countries weather the economic downturn.


The money will be spent over three years on infrastructure projects and promoting trade.

It is hoped the proposed funding, which will be finalised at a summit later this year, will boost regional growth.

Mr Aso called on wealthy nations to help smaller countries and warned against protectionism.

Asia's banks have weathered the financial crisis better than their European and US counterparts.

But the region's export-dependent economies have been hit as the global downturn saps demand for consumer goods.

"Japan is ready to provide ODA (overseas development assistance) of not less than 1.5 trillion yen or about $17bn in total," Mr Aso told the World Economic Forum in Davos.

"It will be necessary to strengthen regional cooperation towards strengthening Asia's growth potential and expanding domestic demand," Mr Aso said.

Mr Aso also said that Japan's development assistance would be on the precondition "that the flow of trade and investment not be prohibited".

"We will resolutely fight all protectionism," he said.



 

日本がアジア援助包括案を発表 (507 :エージェント・774:2009/02/07(土) 21:03:42 ID:gixAKp1v)

日本の首相麻生太郎氏は、アジアの国が景気悪化を乗り切るのを助けるための1兆5000億円の包括案を発表した。

資金はインフラ計画や貿易の促進に3年間費やされる。
今年最後のサミットで提案される資金の供給が、先進国の成長を伸ばすことが
期待される。

麻生氏は、より小さい国々を助けるように富裕国に呼びかけるとともに
保護貿易主義に警告を発した。
アジアの銀行はかつての財政危機をヨーロッパやアメリカよりも
上手く乗り切った。

しかし、輸出に依存する国々は世界的な経済低下の中
消費財の需要が低下し、ダメージを受けた。
「日本はODAについては総額1兆5000億円以上の支援をする用意がある」
麻生氏はダボス会議でこう発言した。

「アジア自身の成長力の強化と需要を拡大させるためにも
地域内協力の強化が必要だ」
と麻生氏は述べた。

また、麻生氏は日本が開発援助をする条件として
「貿易と投資の流れが阻害されないこと」
とした。

「我々は全ての保護貿易主義と断固として戦っていくつもりだ」
と麻生氏は述べた。



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【2009/02/19 05:43】 | 【演説・講演・論文・コラム】 | トラックバック(0) | コメント(0)
「テロ支援国家」とは我が国のことである
西村眞吾衆議院議員 ※ 北朝鮮を「テロ支援国家」と呼ぶのはおかしい。どこから見ても「テロ国家」そのもの。そして、我が国こそが真の「テロ支援国家」である。今こそ迷走米国には直ちに、この腰抜け日本国を「テロ支援国家」としてこっぴどく制裁するぞと脅してもらいたい。その際当然、北朝鮮を「テロ国家」と正しく指定し直し更なる制裁の強化をお忘れなく。

 なんと米国の北朝鮮のテロ国家指定解除を福田首相は前向きに評価したという。もう開いた口がふさがりません。。これを評価するのは金正日ぐらいでしょ?国民は怒り心頭。日本の北への制裁解除がそれを後押しした。福田さんは拉致問題についても国民を裏切った。

 これでもまだ福田さんを担ぎ上げる自民党はあまりに国民の意識と乖離している。幕末明治の危機には草莽の志士が日本を救った。今般の危機も、お偉いさんがたではなく、若手の草莽に期待したい。戦後体制の利権に浸るお偉い方はもうこれ以上の恥を晒さないで引っ込んでちょーだい。それともオリにぶち込まれたいのか。

 なーんてひとりつぶやいているときに、またしても西村代議士のこの論文!政治家ならこれくらいの見識、あって当たり前ではないでしょうか。福田脳では国が持ちません。







□この無防備国家・・・文世光事件の教訓 - 西村眞吾の時事通信(平成20年6月24日)
http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi

 昨日、我が国の覚醒剤の卸売り値段が、従来の10倍になっていることを知らされた。卸が10倍なら末端価格でも確実に跳ね上がっている。

 この事実は、我が国に持ち込まれる覚醒剤の量が激減していることを示している。つまり、覚醒剤を積んでいる船が我が国に入港するのが困難になっているのだ。これは、明らかに北朝鮮の船の我が国への入港を禁じた対北朝鮮制裁の成果である。

 そして、この制裁以降、北朝鮮が、新たな資金獲得手段としてたばこの密造や保険金詐欺をしているという情報が入ってきた。

 このように、我が国の対北朝鮮制裁は、確実に効いており、資金獲得を困難にすることで北朝鮮の独裁体制を追い詰めている。このことを今再確認しておくべきである。

 もっとも、覚醒剤の値段は、捕まえる方と捕まる方しか知らない闇の世界のことで、一般には我が国の対北朝鮮制裁と結びつけて考えられていない。

 しかし、ここに事態の本質がある。つまり、北朝鮮独裁体制は「闇の世界」そのものであり、覚醒剤の値段と密接に結びついているのである。

(私が、覚醒剤取締法違反被告事件の弁護をした25年ほど前の記憶では、覚醒剤の末端価格は、0.03グラムつまり耳かき軽く一杯分が3~5000円だったと思う。またこの頃、1キログラムの覚醒剤を警察が押収すれば、多量の覚醒剤押収としてテレビで報道され新聞に載った。しかしその後キログラム単位の押収量程度ではマスコミに報道されなくなり、対北朝鮮制裁前には、覚醒剤1~3トンの押収でやっと報道されるまでになっていたのである。その頃0.03グラム5000円として1トンの覚醒剤売買でいくらの金が「闇の世界」に入っていたか計算していただきたい。)

 以上の通り、覚醒剤の価格変動から我が国の対北朝鮮制裁の効果を確認できるとともに、反対に我が国が如何に「闇の世界」に無防備であるかも身にしみて分かるのである。

 即ち、我が国政府は、今まで禁制品の覚醒剤が我が国社会に如何にして持ち込まれているかに無関心なまま放置し、覚醒剤による異常な犯罪が起こる度に驚き、「覚醒剤が主婦や学生層にまで蔓延してきた」と呆然とするだけで、万景峰号を始めとする北朝鮮船を厳しく捜索することはなかったのである。

 その我が国政府が、この度また、制裁の全体としての効果を確認した形跡もなく、対北朝鮮制裁緩和に動き始めた。

 また、全く別の角度ではあるが、我が国への1000万人移民受けいれ計画なるものを提唱する与党幹部も現れている。

 つまり、国内における拉致を許し放置した無防備体制をそのままにして「開放」に進もうとしているのだ。

 この無防備体制のつい最近の例は、本年4月26日の長野市である。この日、4000人ほどの「中国人留学生」により長野市が「中国人民解放区・無法地帯」になったが、政府にこの事態が突きつける警告を理解し責任を感じる者はいないようである。
 
 では、この状態で、我が国に外国人1000万人を受け入れればどうなるのか。

 この受け入れ推進論者は、我が国家を安い労働力を受け入れる中小企業だと思っているのであろう。つまり、論者は、我が国家と企業・株式会社の運用と経営を同じ次元でしか見られないのである。

 しかし、我が国は、会社ではない。

 一つの国家にして一つの文明である。

 従って、我が国の国民を「労働力」という観点からだけで把握してはならない。国民は一つの貴重な「文明の担い手」である。この観点から教育の再興も可能となるのである。従って、1000万人移民受け入れは、類い希に見る亡国の愚論である。一種の日本民族抹殺論、一種の民族浄化論、と言ってもよい。もちろん、その結果が出たときには論者は責任をとらない。

 ここにおいて、昭和四十九年八月十五日の「文世光事件」を再び想起することの意義がある。

 この事件の時に国際的非難を受けた我が国の体制はそのまま現在に受け継がれているからである。

 文世光事件は、我が国が無防備国家であること、そして、そのことが他国の大統領狙撃をもたらしたことを示している。つまり、我が国が知らないまま内外への「テロ基地」となり「テロ支援国家」になっていたことを示しているのである。

 この度、制裁が緩和されれば、ここに逆戻りする。

 さて、文世光事件の概要は以下の通りである。

 1974年、大阪の在日韓国人文世光(日本名南条世光、当時22歳)は在日朝鮮総連生野支部政治部長の金浩龍の指導により北朝鮮工作員となり、朝鮮総連系病院である東京都足立区の赤不動病院に偽装入院して共産主義教育と狙撃訓練を受け、その頃大阪湾に入港した万景峰号の船内で北朝鮮労働党の工作員から韓国の朴大統領の狙撃を指令される。

 その後、文世光は、大阪府警の高津派出所から警官のピストルを奪い、日本人吉井行雄になりすましてそのパスポートを取得し、奪ったピストルを持って韓国に入国する。そして、ソウルにおいて八月十五日に大統領出席のもとで行われる光復節の記念行事会場に日本政府高官として入場して、演壇に立っていた朴大統領を狙撃した。弾は大統領には当たらなかったが横にいた大統領夫人に当たり同人を死亡せしめた。

 捕らえられた文世光は同年十二月二十日に死刑に処せられるが、その直前に朴大統領と韓国国民に謝罪すると共に「朝鮮総連に騙された」との発言を録音テープに遺した。

 この文世光事件は、北朝鮮のテロにもかかわらず、韓国の日本に対する国民感情を国交断絶寸前まで悪化せしめ、北朝鮮に日本人をして対南テロを行わせるうま味を実感させた。以後、北朝鮮による、日本人拉致と、工作員の日本人化教育が活発になる。あの「日本人蜂谷真一・真由美親子」による大韓航空機爆破事件は、文世光事件の一つの帰結である。

 そこで、この文世光事件を可能にした我が国の体制であるが、これが現在も全く改まっていないのである。つまり、無防備体制が改まっていない。

 韓国政府は、事件から三十年を経てから外交文書を公表した。それによると、韓国政府は事件の三ヶ月前に朝鮮総連の規制を求める口述書を日本政府に提出していたのだ。何故なら、口述書によると、一九五三年から七四年の四月までに、日本から韓国に入国して検挙された北朝鮮スパイは二百二十名に達していたからである。

 韓国政府は、文世光事件を受けて、日本政府が口述書で韓国が要請したとおりの措置を執っていれば事件は防げたとした上で、日本政府に強制捜査と犯人引き渡し、朝鮮総連の反韓国的活動の取り締まりを求めた。

 しかし、時の田中内閣は、日中の次は日朝の国交回復と位置づけて、文に朴大統領を狙撃せしめた朝鮮総連生野支部の金浩龍を逮捕せず、文の狙撃訓練場となった赤不動病院にも工作活動の母体である朝鮮総連にも強制捜査に入らず、文に対する最終的な狙撃指令の場所となった万景峰号も日本に入港するにまかせて放置した。

 田中内閣は、「日朝国交樹立=賠償利権」に目がくらみ、韓国政府の当然の要請をすべて無視して、「不作為」を決め込んだのである。

 従ってその時、韓国の朴大統領が、日本を韓国赤化工作基地と非難したことは極めて適切である。

 仮にあの時に、日本政府が当然に為されるべき上記の措置をすべて実施するとともに、北朝鮮の工作活動を防ぎ得なかった我が国体制の欠陥是正、即ち、「スパイ防止法」の制定を実現しておれば、北朝鮮の工作活動が把握できるようになった。

 そして、北朝鮮の為すがままに実行された日本人拉致やビルマのアウンサン廟の爆破、さらに、大韓航空機爆破も防ぎ得たのである。

 しかし、あれから三十四年、日本政府はひたすら不作為を貫いてきた。従って、日本の無防備体制は何も変わっていない。

 今の福田内閣はあの時の田中内閣と同様に、日朝国交樹立と賠償利権をねらう勢力(超党派)に押されて、我が国をねらう核を持つ「闇の世界」を容認して制裁の緩和に踏み出そうとしている。

 しかし、福田内閣は、ここ数年間の拉致被害者救出国民運動の力と広がりを見くびってはならない。

 政府は変わらなくとも、国民は決定的に変わってきている。

 国民は、皆、今我が国が「闇の世界」を容認すれば、拉致された被害者をその闇から助け出すことができなくなると分かっている。

 従って、現内閣が、日朝宥和に進めば内閣の支持率が上昇するなどと考えているとすれば、全くの見当違いである。決然と、我が国の拉致被害者解放要求を貫いてこそ内閣の存在理由が明確になるのである。存在理由の明確化は、支持率を上昇させる。

 国民は、多くの同胞の拉致の悲劇を目の当たりに経験し、最近の長野で発生した無法地帯を観て、これ以上の無防備体制の継続に耐え難くなっている。

 国民は、港の岸壁で朝鮮総連の赤旗と音楽に歓迎され、デッキで「喜び組」が手を振って入港する万景峰号など見たくもない。


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【2008/06/25 13:29】 | 【演説・講演・論文・コラム】 | トラックバック(0) | コメント(0)
『大日本帝国下の朝鮮半島』近代化の真実
水間政憲氏 ※ 水間政憲氏の転載フリー・レポートです。

 本日、韓国大統領選挙の投開票が始まりました。保守系候補が有力だとのことで当初は期待したのですが、何やら「公約」でとんでもないことを言っているようで、どっちにしろ日本への影響は変わりそうにないですね。日本の政治の未熟を棚に上げて言えた義理ではないですが、韓国もなかなか成熟できない国ですね。

 水間氏のレポートはどれも問題の根幹を突いており、これらの歴史認識を周知させることが急務かと思います。一番近い国であり、我が国の在日及び帰化率が最も多い民族なのです。両国間の厚い歴史認識の壁を限りなく取り除くことが、お互いの平和への唯一の道であると思います。

 そのためには、我が国国民の「奪われた歴史」からの覚醒が必須であります。国民が覚醒すれば、まともな政治家は安心して政治に没頭できるはずです。現在の政治家は「選挙」に勝つための「票」のために、国民の認識に左右され、手足縛られ猿ぐつわを噛まされ、苦汁をなめ、本来の仕事ができないでいるのです。

 どの政治家が候補者が、本当に国のあり方を考え国民を思う政治をやろうとしているのかを、国民の大多数が見抜く見識を身に付けなければ、民主主義は正しく機能しません。それこそ弱者を切り捨てる搾取社会を、ますます助長させることになるのです。




400万(※億)ドル (水間政憲)2007-12-18 23:14:07

 北朝鮮への支援は、日本に400万(※億)ドル出させる。これは、李韓国大統領候補の発言である。韓国が、日本の支援で復興したことを物語っている。この言動は、今まで韓国を甘やかしてきた日本に、責任の一端がある。C型肝炎被害者全員を、救済できない日本が、朝鮮人を支援する必要など一切ない。

 そこで、外国語に翻訳することを含め『SAPIO』(2007年11月14日号)に掲載された「『大日本帝国下の朝鮮半島』近代化の真実」を転載フリーとしますので、拡散して下さい。ジャーナリスト水間政憲。転載フリー


◎「『大日本帝国下の朝鮮半島』近代化の真実」:『SAPIO』(2007年11月14日号)--水間政憲・転載フリー 

 常に外交において「歴史カード」を突きつけられる日本にとって、歴史を正しく評価することが今ほど大切なことはない。時には植民地統治の「功」の部分を強調してみせる必要もあるだろう。実はあの朝日新聞がその手助けとなる。貴重な発掘史料をレポートする。

 福田首相は10月初旬に南北首脳会談のため平壌を訪れた盧武鉉韓国大統領に、金正日総書記へ「過去を清算し日朝国交正常化を実現させたい」とのメッセージを言付けたという。「過去の清算」とは北朝鮮にとっては植民地支配への謝罪とともに巨額の経済援助を日本から引き出すことに他ならない。

 しかしこれはおかしな話だ。02年9月17日、小泉首相と金正日総書記が交わした日朝平壌宣言では「両国及びその国民のすべての財産及び請求権を相互に放棄する」ことに同意している。

 さらに、GHQの試算では、北朝鮮に残した日本政府と民間の資産は462億2000万円。これは現在の物価で8兆7800億円相当にあたる。(『産経新聞』02年9月13日付)。

 交戦国でなかった北朝鮮に残した日本資産の請求権は国際法上認められているが、平壌宣言によって日本は8兆7800億円の請求権を放棄したのである。国交正常化にあたって「金」を支払う必要などどこにもない。

 以上は北朝鮮の話だが、韓国も含めて朝鮮半島における植民統治が残した遺産とはいかなるものだったのか。外務省が把握している終戦時の朝鮮半島における日本の資産は702億5600万円となっており、現在の物価で13兆3486億円に上る(1945年8月15日時点の朝鮮在外財産評価額)。

 今回筆者は、国会図書館に眠る貴重な史料を発掘した。日本が朝鮮半島を植民統治した1910(明治43)年の5年後、1915(大正4)年から1945(昭和20)年まで発行された朝日新聞の「朝鮮版」である。

 当時は『大阪朝日』の地方版として朝鮮西北版、南鮮版、北鮮版、西鮮版、中鮮版、鮮満(朝鮮・満洲)版などが存在していた。研究者の間では植民統治の真実を知る上で「幻の史料」とも呼ばれ復刻もされているが、まだ一部であり、今回、戦後初めて読者の目に触れる記事も多い。

 本稿では、これら「朝鮮版・朝日新聞」に掲載された記事を中心に現在も朝鮮半島で社会インフラとして利用されている日本の「遺産」を紹介する。

 「処女列車は走る
 試運転は上首尾」


 先の南北首脳会談では、南北縦断鉄道・京義線の輸送を開始することや開城・新義州間の鉄道の共同補修を南北共同宣言で謳い上げた。これらは元々朝鮮併合前の1899年に始まった鉄道整備計画によって作られたものだ。鉄道は国家の基本インフラと言っていい。記事から当時の様子を拾ってみよう。

 <処女列車は走る 愈(いよい)よ開通の京慶線永川・友保間 試運転は上首尾>

 「大型機関車両に連絡の二等車両、食堂併用の三等車一両、計二両の試運転列車はすがすがしい朝陽を浴びて午前八時三十六分大邱駅を出発、(略)列車は坦々たる畑中の直線コースを時速五十キロで邁進している、(略)この開通によつて今後の輸送に期待するところが多い」(『大阪朝日・南鮮版』1938年12月1日付)

 <京慶線を一部電化 明年度から工事に着手>(同1938年12月10日付)

 JR北海道の一部(小樽-滝川間)が電化されたのは、1968年8月のことだった。北海道に電車が通ったのは朝鮮半島の30年後なのである。それらに付属した駅舎も豪華版で、東京駅よりも重厚な佇いの京城駅(04年まで使われてきた旧ソウル駅は今後博物館として利用される)は、

 <竣工した京城駅>

 「既にほぼ工事の落成を告げている新築の京城駅開通式は来る十月十三日朝鮮神宮に奉納すべき宝物が京城に到着する当日を以て盛大に挙行せらるる予定である」(『大阪朝日新聞附録・朝鮮朝日』1925年9月15日付)と報じられている。

 国有鉄道と私設鉄道は朝鮮半島全域に及んだ。1937年1月までの国有鉄道の総延長は3575.9km、私設鉄道は1463.6kmとなっており膨大な鉄道網が敷かれたのである(『半島の近影』朝鮮総督府鉄道局、1937年刊)。

 最近、朝日新聞は戦時中の新聞報道は、大本営発表、政府寄りで真実を伝えていなかったなどと自ら釈明している。たしかに当時の新聞を今眺めると「光」の面が強調されすぎている嫌いはある。しかし、「地元新聞」に「嘘」が報道されたのであれば、日本語教育を受けていた現地の人々は当時でも問題にしていたであろう。また史料を渉猟しながら筆者は、新聞による「宣伝」の面を考慮してもあまりある「事実」が存在していると考えざるを得なかった。

 本土と同等の
 教育を実施


 物資輸送で鉄道と対をなす港の整備も実行された。

 <仁川築港工事竣成式>

 「工費四百万円を投じたる仁川築港、(略)自転車競走及び仮想行列其他の催しあり未曾有の賑ひを呈せり」(『大阪朝日・鮮満版』1918年10月29日付)

 北朝鮮の羅津駅、清津港(今もほぼそのまま「利用」されているという)なども日本時代の築港だ。『大阪朝日・南鮮版』1938年12月13日付によると、羅津港は3000万円(当時の国家予算は28億6779万円)を投じ、はじめから遠距離貿易を予定して埠頭も広く、清津港、雄基港以上に近代的な港だったという。今となってはなんとも皮肉な話ではあるが、羅津港は中国に50年の租借権を獲得され中国の“北朝鮮植民地化”の象徴となり、清津港は対日工作の拠点となっている。

 「富国強兵」の名の下の工業発展も「光」の部分として有名だが、韓国だけでなく北朝鮮の工業発展に決定的な影響を与えたのは当時、世界一、二の規模を誇った水豊ダム発電所の建設である。これによって1941年から北朝鮮の送電が始まっている。その他にも当時の記事は、

 <絢爛たる化学工業 北鮮各地に勃興す>

 「東洋のイー・ゲー(当時のドイツの大手化学会社)を思はす興南朝窒工場を中心として絢爛たる化学工業の花を咸南各地に満開せしめている野口コンツエルンの躍進も、日本鉱業をトップとして幾多の資本系統によつて開掘されんとしている」(『大阪朝日・朝鮮西北版』1936年10月1日付)

 と工業発展を遂げる熱気を伝えている。朝窒(朝鮮チッソ)は当時世界最大級の窒素工場だったことは戦後の史料でも数多く評価されているところだ。公衆衛生の向上も近代都市インフラの大切な柱だ。

 <平壌の臭気一掃 愈よ糞尿地下タンク新設>

 「府内の糞尿は現在府内大馳嶺里の貯畜場にためているが(略)、大都市としての面目上の問題であり、矢野平壌府尹(いん)も先般内地六大都市の糞尿処分施設を視察し原始的な府の処置について改善意見を持つに至つたので糞尿地下タンクを新設する」(『大阪朝日・朝鮮西北版』1938年12月11日付)

 学校教育は、近代国家の礎であり、欧米諸国と日本の植民政策の決定的な違いは、本土と同等の教育を植民地でも施したことにある。戦後は「内鮮一体」の施政の負の面ばかりが強調されるが、この点も再評価されるべきであろう。例えば最高学府の帝国大学を植民地内にも設立した。

 京城帝国大学(現在は文化関連団体が入居)は1924年に設立され旧帝国大学(9校)の中で6番目だった。当時の記事はこう伝えている。

 「目下京城府東崇洞に新築中の京城帝国大学の工事もその後順調に進み来年四月の開校期までには万違算なきはずである、しかし四月の開校日までに竣成するのは大学予科の卒業生法文科八十名と合せて百六十名を収容すべき校舎だけで、なほ十五年度には五十万円の予算で図書館、心理学教室、医学部本館および講義室を(略)完成する」(『大阪朝日新聞附録・朝鮮朝日』1925年9月27日付)

 日本統治時代の朝鮮半島には、1924年までに、法学専門学校、高等工業学校、高等商学校、高等農林学校、師範学校、官公立中等学校など148校が開校していた(『朝鮮年鑑』大正15年度版)。

 「記念碑的建造物」として
 ソウルに残る日本建築


 各記事のマイクロフィルムや当時の写真集を総覧して目につくのは、学校、銀行、裁判所などが次々と建設されていることだ。歴史的建造物として残され今も利用されている。

 例えば韓国政府は、1995年に朝鮮総督府庁舎を植民統治の負の象徴として解体したが、現ソウル市庁舎は旧・京城府庁舎をそのまま使用している。

 <新築の京城府庁舎 工事着々と進行す>

 「鉄筋コンクリートで四階建平面山字型をなし正面二十八間(約50m)、(略)高さ百十八尺(約36m)の塔屋を設くる等真に半島有数の大建築である」(『大阪朝日新聞附録・朝鮮朝日』1925年9月27日付)

 また現在、ソウル市立博物館に転用されている元高等法院は1908年に開庁している。

 「併合前は司法と行政との混淆が甚だしく、裁判はすべて行政官が之れを行ひいたのであるが統監府時代に全然行政事務より切り離され現在は地方法院(内地の地方裁判所)覆審法院(内地の控訴院)高等法院(内地の大審院)の三階級とし司法制度は確立せられ」た(『大阪朝日新聞』1924年5月25日付)。つまり国家の基本である三権の一つがこの時確立されたのである。

 「反日」として名高い現在の韓国紙さえも「新世界百貨店旧館は『韓国流通史の記念碑的建造物』」(『朝鮮日報』ネット版06年9月26日付)と評価せざるを得ないのは旧「三越」である。現在は韓国資本に渡り「新世界百貨店」となっている。隣に新館が造られているものの旧館を「韓国では例を見ない工法」(同)まで使って、大改修工事を行い、07年12月に当時の建物を残してリニューアルオープンする予定らしい。三越は1906年に「京城出張員詰所」を開設してから朝鮮半島に進出し、1929年に「三越京城支店」を開店している。

 今回紹介できた史料はごく一部にすぎない。国会図書館に所蔵されている膨大な史料を冷静に分析すれば、戦後言われているような朝鮮半島統治時代のイメージは一新されるのではないか。日朝交渉が国交正常化と経済援助を両天秤にかけて進められようとしているいま、北朝鮮の罠に嵌らないためにも「植民統治の評価」=「過去の清算」はしっかりとした資料のもとに日本側の理論を構築することが急務である。



 

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【2007/12/19 14:45】 | 【演説・講演・論文・コラム】 | トラックバック(0) | コメント(0)
あの周恩来が靖国を拝観していた頃の神田と中国共産党の関係
水間政憲氏 ※ ジャーナリストであり近現代史研究家でもある水間政憲氏の論文です。転載フリーとのことで掲載させて頂きました。

 日中間の歴史認識のズレは、我が国の歪んだ戦後教育にも問題がありますが、そもそも中国には歴史を政治的に偽造・改ざんするという文化(?)があるのです。つい最近も日中間の共同文書で「削除」という改ざんが成されていますが、よくやる手法なのですね。

 敗戦国として一時的に歴史を奪われたことは仕方のないことと思いますが、そのまま放置ではいけません。正しい歴史を取り戻しましょう。国民が歴史を取り戻し、弱腰な政府を後押ししましょう。


□あの周恩来が靖国を拝観していた頃の神田と中国共産党の関係
:水間 政憲『正論9月号』2005(平成17)年9月1日初版発行


 「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れてはならない」

 日中復交にさいしての周恩来首相の有名な言葉である。

 20世紀初頭の1917年9月、内乱状態の中国から、一人の青年が日本に留学して来た。天津の南開学校を卒業した若き日の周恩来であった。

 中国人留学生は、日清戦争が終結した一八九六年、講和条約(下関条約)が結ばれて13人の留学生が来日したのが始まりであった。その時、清国との間で留学生の来日に尽力したのは西園寺公望文部大臣であった。

 ちなみに1972年の日中共同声明に尽力したのは、西園寺公望の孫で、戦中ゾルゲ事件に連座した西園寺公一だった。

 中国は、近代国家の実態を日清戦争によってまざまざと見せつけられた。そこで、我が国を通しての近代化を選択した。漢字を使用する我が国が、西洋近代文化を取捨選択して活用している現状を見て、西洋諸国から新たに学ぶより有益と判断したのである。

 その後、中国人留学生は増加の一途を辿り、日露戦争を境にしてピークに達している。その人数は、1905年に8600余人、1906年には約2万人とも言われている。

 我が国が過去千年以上にわたって送り出した留学生の数を、中国は1~2年で上回ったことになる。

 当時、我が国で中国人教育の為に設立された学校には、成城学校(陸軍士官学校の予備校)、日華学堂(専門各科を学ぶ為の言語を中心)、振武学校(陸軍士官学校、陸軍戸山学校に入る為の予備校)、東亜商業学校、東京同文書院、弘文学院、東斌学堂、法政速成科、経緯学堂、早稲田大学留学生部などがあった。

 蒋介石は陸軍士官学校卒となっているが、実際は振武学校に通っていた。また、中国政府官費留学生は、我が国の国立大学に入学したものだけが認められていた。日清戦争後は、中国が日本に学べとの流れの中で、両国の国民感情がよくなり、一気に「清国熱」が高まり、教育、軍事、外交、法政、農業顧問など様々なジャンルの日本人が中国へ渡った。その人数は、1899年の1725人から、1906年には1万6910人(東亜同文会編『支那年鑑』)となっていた。

「中国人の風気を開発」するとの信念を持った教育熱心な日本人の中からは、中国に学校を設立するものも現れた。
 その主な学校は、北京の東文学社(1901年)、上海の留学高等予備学堂(1905年)、南京の本願寺東文学堂(1901年)、天津の東文学堂(1899年)、杭州の日文学堂(1898年)、厦門の東亜学院(1900年)、泉州の彰化学堂(1899年)などである。

「歴史はくり返す」とよく言われるが、1972年の日中共同声明以降と同じ様な状況だったのである。

 当時、中国が文化交流の中で日本語から取り入れた言語は、王立達の論文「現代漢語中従日本借来的詞彙」(実藤恵秀著『中国人日本留学史』)によれば、「現在よく使用されている外国語の84%となり、また『新名詞辞典』『新知識辞典』などに収められている語彙のほとんど半分は日本語から借用したもの」だという。

 そこで、高名凱、劉正タン(土ヘンに炎:タン)共著『現代漢語外来詞研究』(前掲書)を活用して、「中華人民共和国憲法」を見ると、「中華」以外の「人民」「共和国」「憲法」は日本人が創造した言語である。

 その本文も、日本語を削除すると憲法として成り立たないのである。

 その意味で、現代の中国国家及び国民の概念は、日本語なくして存在できないのである。

 しかし、中国はあまりにも拙速に日本語を取り入れたので、未だに日本人が創造した意味を理解していない。

神田は革命運動に走る中国人留学生たちの拠点

 日本に留学した周恩来は、中国政府が認める官費留学生を目指して1918年3月、東京高等師範学校を受験した。しかし、失敗している。

 周恩来は同年7月、背水の陣で第一高等学校(現・東大教養学部)の受験に挑むが、また失敗した。

 周恩来は、その時の心境を友人に手紙で次のように告白している。

「日本にやって来たのに日本語をうまく話せず、どうして大いに恥じずにいられよう! これを自暴自棄というのだ。いかなる国を救うのか! いかなる家を愛するのか! 官立学校に合格できない、この恥は生涯拭い去ることができない!」(『周恩来十九歳の東京日記』小学館文庫)

 周恩来は中国政府の官費留学生の待遇を得ることは出来なかったが、共産党の指導者になるための社会主義思想に出合った。

 河上肇京都帝国大学教授の雑誌『社会問題研究』を手にしたことが、周恩来における共産主義思想の原点なのであった。

 周恩来は、河上肇に心酔して帰国までの半年間、友人の呉達閣に誘われて京都大学の聴講生になっている。

 当時、中国人留学生は、神田神保町周辺に数多く住んでいた。神田には、中国人留学生の約三分の二を集めていた東亜高等予備学校(現在の神保町二丁目の愛全公園付近)と中華青年会館があった。周恩来も東亜高等予備学校に通っていた。

 当時、中国国内は内乱状態で、愛国心の強い周恩来がとても勉学に専念できるような状況ではなかったのであろう。

 1911年、中国15省で革命政府が成立し、翌12年に孫文を臨時大統領とする中華民国が南京に成立した。翌13年、袁世凱が大統領に就任すると、独裁政権にもどってしまった。袁世凱は翌14年国会を解散して、わずか2年で清朝時代へ逆行して行った。我が国で学んだ孫文たちの近代国家建国の理想は形骸化した。

 第一次大戦(1914~18)に乗じて、我が国は、対華21ヶ条要求を袁世凱に受諾させた。袁世凱は、1916年に病死して、翌17年、清朝復活クーデターが暴発した。それを収拾した段祺瑞国務総理は、ドイツに宣戦布告している。周恩来は、この様な激動の中で革命運動に参加して行った。

 東京は、「中国革命同盟会」が発足したところで、孫文の革命家生活40年の3分の1を過ごした、中国近代国家建国の拠点都市であった。

 孫文の父親、達成は中国広東省最大の暴力団といわれた「三合会」の会長だった。父親が死ぬと、孫文は22歳で会長に就任している。

 孫文は、我が国の政財界(犬養毅元首相、頭山満玄洋社代表など)から、物心両面の絶大な支援を受けていた。その都度、革命が成就した暁には、満州の統治を日本に委ねるなどの甘言を弄していた。

 1912年、中華民国臨時政府大統領として、南北妥協を策し袁世凱に大統領を譲り渡したことで、孫文には人道的使命もなく、政治理念もなにもない。あるのは、独善的な中華思想だけだったと覚醒した黒龍会代表、内田良平は以後支援を打ち切っている。

 それにもかかわらず、1913年の第二次革命にまた日本から孫文を支援している。

靖国神社に親しみを感じていた周恩来

 当時、中国人留学生の革命への熱い想いを発散できる場所は、サロンの役割と革命運動の拠点になっていた神田神保町にあった中華青年会館であった。

 周恩来は、読書と散歩をこよなく愛し、神田神保町周辺を徘徊していた。

 神保町は、当時も今と同じ様に書店が軒を連ねていた。東京堂書店などに入り浸っていた周恩来にとって大学の授業を受けることより有意義だったであろう。

 おそらく周恩来は、神保町からすぐ近くにある靖国神社に行っているのではないかと、頁を捲ると、靖国の文言が眼に飛び込んできた。


1918年4月30日(火曜日)気候・夜・雨。
【治事】
「午前、授業のあと、青年会(著者注・中華青年会館)に行き、帰ってきて読書。午後、授業のあと、急いで帰ってきて、また読書。夜、九段に靖国神社の大祭を見に行くが、雨に降られたのでやめて、青年会に行って新聞を読み、伯鳴の部屋に行き、しばらく話す」


 靖国神社は、神保町から4~5分。目と鼻の先にあり、公園がわりに散歩コースとして利用していたのであろう。この日は、靖国神社で春季例大祭が開催されることを事前に承知した上で、見に行っている。


同5月1日(水曜日)気候・雨のち晴れ。
【治事】
「朝、読書。昼飯のあと、半時間、昼寝。夜、九段をぶらぶらしていると、靖国神社の大祭に出会い、それを見てはなはだ大きな感慨を催す」


 周恩来は、昨夜見ることが出来なかった「大祭に出会い、それを見て…」とあるが、それは神官が隊列を組み、神門を通り拝殿、昇殿へと進む姿を拝観しての感想なのであろう。日記には、「九段をぶらぶらしていると…」とあるが、神官の隊列は靖国神社境内にいなければ、見ることはできない。

 中国人留学生用の留学案内書には、『日本遊学指南』(章宗祥著)などがあった。その中の「東京の遊覧地」には、〈靖国神社「麹町九段坂の上にある。国家のために忠死した人を祀ってある」〉と記載されている。

 周恩来は、青年会などで様々な留学案内書を手にして、「大祭」の行事がいかなるものか認識していて感動したのであろう。

 当時、中国では戦死しても家族に通知されることもなく、まして恩給などの保証もなく、国家が殉国者を手厚く慰霊することなど夢のような出来ごとだった。現在でも中国に於いては、政府や軍の幹部でなければ八宝山(中国の慰霊場)に祀られることはない。

 胡錦濤主席などの中国共産党第四世代は、社会主義の中で育ったのであり、宗教に基づく慰霊とはいかなるものか理解できないのであろう。しかし、中共第一世代は、宗教とはいかなるものかを認識した上で社会主義国家を創った。それは、周恩来の日記の中にも見ることができる。


1918年2月15日(金曜日)気候・晴れ。温度6.2度。
【通信】
「釈迦が『世界には成仏しない者が一人いる。私こそその一人だ』というほど大きくはなれないけれども、有縁の者と一人一人断絶させられており、私にできなければ、誰が達磨の面壁に学ぶことができよう。……私の心を依然として『自然』に用い、進化の軌道に従いながら、もっとも大同の理想にちかい最新のことをしなければならない…」



 周恩来の南開学校時代の友人、厳智開は東京芸術大学に留学していて、台東区谷中の霊梅院(禅宗)に下宿していた。周恩来は、その友人との交流の中で禅宗にふれたと思われる。

 日記の中で「達磨の面壁」と書いた周恩来が、一時禅宗に興味を示していたのは明らかである。

 菩提達磨は、インドから中国に渡って来て禅宗の開祖になった。しかし、禅宗は中国で根付かなかった。周恩来が惹かれたのは、「進化」「大同の理想」(無差別自由のユートピア世界)、「最新」といったことか。その文言の意味する先にある社会主義思想に光明を見出したのであろう。周恩来が靖国神社に親しみを感じていたことは、その後の日記にも現れている。


6月2日(日曜日)気候・小雨。
【治事】
「朝、『新中』に行って集会に参加し、ついで夢九を訪ね、昼まで話し、いっしょに出かけて会元楼で食事。飯のあと『游就館』に遊び、私の寓居に帰り、しばらく話してからやっと別れる。夜、輪扉が来る」


 この日は、小雨にもかかわらず靖国神社遊就館(当時は「游」と書いた)に行ったとあり、1月1日から6月3日までで3回靖国神社に行ったことが書かれている。

 周恩来が、散歩がてらに靖国神社に行った回数はけっこう多かったと思われる。
 その頃、周恩来をインタビューした東京日日新聞記者神近市子によれば、「下宿で新聞や本を読み、外へ出る時はかすりの着物に兵児帯をしめ、ロシア風の帽子をかぶったりしてなかなかおしゃれだった」(『日本人の中の周恩来』)と。日本の風俗を受け入れていたようである。

 周恩来は、近代国家日本の殉国者にたいする慰霊の実態を見て、日本の伝統と文化の神髄をそこそこ理解していたのではあるまいか。

 いずれにしろ中華人民共和国「建国の母」と称される周恩来が、日清、日露戦争の戦死者を祀っている靖国神社の「大祭」を拝観していた事実は注目してよかろう。

 現在、中国は、日清戦争以降を日本が中国を侵略したと喧伝している。胡主席は、「宗教」の神髄を知る為にも、靖国神社の「大祭」を拝観した周恩来の真情を理解してほしい。

 1921年7月の中国共産党創立者12名中、初代総書記陳独秀、李大、李達、董必武、李漢俊、周仏海は日本留学組であった(早稲田大学で学んでいた李大も靖国神社遊就館を拝観している)。中国共産党創立者である陳総書記以下主な指導者は、現中国共産党が批判する「軍国主義国家時代の日本」で社会主義を学んでいたことになるのだ。

 中国サイドは、その辺の事情に気付いたがゆえに、靖国問題の論点をいわゆる「A級」戦犯にすり替えたのであろうが、ここにも大きな矛盾が生じる。

「A級」戦犯として処刑された七人は、各連合国側の自国民にも知らされていた有名人であった。中国の場合は、南京攻略戦の総司令官、松井石根大将である。しかし、松井大将は陸軍を代表する親中国派の聖将でもあった。 松井大将は、南京攻略に於いて「中国文化保持のための厳命」を発し、和平の「投降勧告文」を撒布したり、「南京城攻略要領」で国際法を厳守させていた。松井大将は、国際法をより徹底する為に、国際法と慣習法の権威斉藤良衛博士に同行してもらっていた。

 東京裁判は、「A級戦犯」を裁くために、事後法の「平和に対する罪」を主に活用した。

 「A級戦犯」で処刑された七人の「平和に対する罪」の訴因の有罪、無罪の数を見ると松井大将以外は、2~7つの有罪となっている。しかし、松井大将は、「平和に対する罪」に関する訴因のすべてが無罪であった。

 松井大将は、B・C級を裁くための「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」の訴因の中の一つだけの有罪で処刑になった。松井大将を「A級戦犯」とすることが、できないのである。

 A、B、Cの区分けをするのであれば、松井大将は「B・C」級戦犯となる。となれば、直接中国と関係のある「A級戦犯」が存在していないことになり、中国が声高に批判する「A級戦犯」の根拠がないことになる。

中国は政治用語の基本概念を理解していない

 1972年、中国はソ連との対立から開戦まで準備していた中で「資本主義帝国」と批判していた日本に接近して国交を結んだ。疲弊した国家経済をたて直すことが、最重要政策だった。

 日中間の戦時中の諸問題は、1978年の日中平和条約の締結ですべて終結している。それが国際的な常識である。

 にもかかわらず、中国がくり返し問題にしてくるのは、日本から取り入れた近代国家に於ける政治用語の基本概念を理解していないことに原因がある。

 王毅駐日大使は今春、早稲田大学での講演などで、「日本が国際国家になりたければ、小泉首相は靖国参拝をするべきでない」「国際的な常識、コンセンサスでやることが利益になる」と述べていた。王大使がいう「国際」「国際的」は、日本が創造した言語である。

 王大使は「国際」「国際的」を「中国中心」「中国中心的」と解釈している。王大使は、未だ世界の中心は中国との中華思想の幻想の中にいるのであろう。

 国際的常識をもっている世界の主要国の政府関係者は、靖国神社に参拝している。参拝していないのは中国だけなのである。2002年3月には、韓国の大使館付武官の柳海軍大佐、徐陸軍大佐も靖国神社に参拝している。

 中国が好んで使用する「歴史を鑑として」の「歴史」は、日本が創造した言語で日本語を取り入れた弊害が今頃になって現れて来たのであろう。未だ中国は、「歴史」を客観的に見ることなどまったく必要ないとの判断で解釈しているようだ。

 一般的に日本が、西洋近代文化を学び始めたのは、幕末の西周や津田真道などのヨーロッパ留学以降といわれている。しかし、実際には西洋近代文化を取り入れ始めたのは、それより100年以上前の1720年(享保5)年からである。

 将軍吉宗は、1720年、宗教書以外の洋書の翻訳を解禁したことで、一気に洋書熱に火が付いた(『中国人日本留学史』)。

 中国は、同じ1720年、キリスト教を禁止して、以後100年間宣教師は中国でほとんどの活動が封じられた。中国では中華思想の高慢な態度で、外国人が漢訳した本には見向きもしなかった。それが、日本と中国の近代文化の吸収の差となって現代にも影響をあたえているのである。

 本年4月の北京で開催された日中外相会談の席上、李肇星外相は、町村信孝外相にたいして「日本には人権問題がある」と意味不明な発言をした。

 日本がいかに人権問題にかかわって来たのかを実例で示すと、1872(明治5)年、横浜に停泊中の奴隷船マリア・ルーズ号の船長を裁判にかけ、監禁されていた中国人苦力230名を解放して、中国に送り返しているのである(『明治維新と東洋の解放』)。

 日本は、中国が人権の意味を知らない時、すでに現在にも通用する人権意識をもっていたのである。ちなみに「人権問題」は日本語である。

 1919(大正8)年ベルサイユ講和会議において、日本は「人種差別撤廃決議案」を上提した。19人の委員の内11人が賛成し、2人は欠席して反対投票はなかった。

 しかし、英国代表のロバート・セシル卿が強固に反対し、日本の提案を強く拒否した結果、議長の米国大統領ウィルソンは否決したのである。

 この時、人間平等の精神が踏みにじられたことが、我が国における第二次大戦の淵源にもなっている。

かつて中国の要人は度量が広かった

 人治主義の中国に於いて、表面的であっても友交関係が維持できたのは、日本留学組の郭沫若副総理(九大医卒)、周恩来首相の参謀役だった廖承志(早大で学ぶ)などが存命中の1983年頃まで。そのころは歴史認識問題など起きていなかった。

 周恩来のあとを引き継いだ華国鋒首相の存在も見過ごすことはできない。1980年5月、中国人民外交学会(日中友好協会の上部機構)の招待で、国策研究会常任理事矢次一夫、三菱重工業相談役河野文彦、評論家細川隆元の三人は、準国賓の待遇で華国鋒首相、小平副首相と会談している。度量の広い会談が交わされている。(『北京会談〈全記録〉』)

 河野 西太平洋においてお国と日本と米国が協力していくことが世界の平和・安定を維持していく上にきわめて重要であるという点で、私はそのことだけ申し上げたいと思います。

 華国鋒 すべての問題が完全に一致するのは大変難しいことです。それぞれの国が置かれている環境・条件が異なる。…問題を認識する場合、それを見る角度によって認識も異なってくるわけです。…私たちが自分の意見と異なる意見を耳にした場合、それはむしろよいことで、悪いことではないと思います。…相当な相違点をもっているというのはごく正常なことだと思います。

 小平 私たちの間には、多くの問題について、見方や見解に相違のあることを、私は承知しております。しかし、それは構わないことで、重要なことは、私たちの間の理解を促進していくことです。


 天安門事件を武力弾圧した小平のことばは、額面通り受けとれないにしても、現中共指導者の硬直した姿勢とは大きな違いである。そして、小平は矢次氏に対して唐突に次のことを申し入れたのである。

 「きょうここで、岸(信介)先生に対し正式に招待の意を表明いたします」

 今、中国は、靖国神社に合祀された「A級戦犯」のことを大問題にしているが、岸元首相は戦前から満州の妖怪と畏れられ、戦後は、GHQに「A級戦犯」として逮捕された人物である。

 中国は、利用価値がある国家や個人には遜り「A級戦犯」でも招待する価値があると判断する。

 「白いねこでも黒いねこでもねずみを取るねこは良いねこだ」は、小平のことばとして有名だが、これは小平個人のことばというよりも、「中国四千年」の歴史の中で中国人の遺伝子に組み込まれ、変化することのない基本的意識なのである。




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【2007/12/11 13:14】 | 【演説・講演・論文・コラム】 | トラックバック(0) | コメント(0)
三島由紀夫 檄文
※ 筆者が三島由紀夫を語るなんてことはあまりに無謀なことです。あの壮絶な最期。その時中学生だった筆者が受けた印象その記憶が、狂気の事件という、まったく恥ずかしい限りで。学校の先生からは「三島は老いを恐れていた」「若く美しいうちに死にたかっただけ」などと精神的な欠陥を強調、「自殺はいかん」と説教された。

 あの時、テレビ・ニュースでも演説の詳細は分からなかった。筆者は、あの頃花盛りだった暴力的な学生運動が大嫌いで、恐らく同じような印象(嫌悪感)を受けたのかもしれません。

 あの檄文や演説の内容を、その後もずっと知らずに過ごしてしまったことを非常に悔しく思っているのですが、マスメディアが報道したかどうかの覚えがない。報道していたとしたら、あれだけの事件なのだから記憶が残ると思うのですが。

 ということで、あの演説・檄文を掲載するのに躊躇していたわけですが、目の覚めるような西村眞吾代議士の論文に背中を押されました。 


西村眞吾衆議院議員 










憂国忌と翌十一月二十六日の白襷隊
(眞吾の時事放談:平成19年11月26日)
http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi

 昨日の十一月二十五日は、「憂国忌」である。

 即ち、三十七年前の十一月二十五日、三島由紀夫と森田必勝は、市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に討ち入り割腹自殺を遂げた。

 私はその時、学生であった。京都市左京区の大文字山の麓、浄土寺馬場町の学生寮に住んでいた。朝と晩の食餌付きで月四千五百円の寮であった。

 何の用があったのか忘れた。多分いつものように目的もなくぶらりと銀閣寺か大学の方にいっていたのであろう。その帰り、垣根の横を通って、寮の門に近づくと、中から仲間の寮生が飛び出してきた。そして、門の前でぶつかりそうになった僕に、「三島さんが自衛隊に討ち入って今立て籠もっている」と言った。

 その一瞬の彼の顔に、晩秋の光が当たり木々の葉や梢の影が刻まれていた。その彼の顔に射す光の形は今も甦ってくる。そして、その顔の光と影を見ながら、僕は、「三島さんは死ぬんだ」と思った。

 翌朝の毎日新聞朝刊に、作家の司馬遼太郎氏の「三島事件」に関する論説が掲載された。

 司馬遼太郎氏は、先ず、吉田松陰を語ってから、彼のようなタイプは民族の歴史の中でただ独り出ればいいのだと切り出し、何故なら二人も出してしまうと、民族の精神病理の問題になると述べたのである。

 そして、「かの名作、まことに名作」という表現で、三島の作品である「午後の曳航」を紹介して三島の自決への軌跡を辿り、最後に、それにしても、この我が民族の歴史の中で二度と現れないかもしれない作家を、精神と肉体のアクロバットの果てに失った悲しみを如何にすればいいのか、と締めくくった(以上,原文を探さず記憶にもとづく)。

 この論評を読んで僕は、衝撃的な三島の自決の報の直後に、というよりは、三島の首のない胴体と生首が総監部から運び出される映像を眺めながら、これだけの深く静かな論評を書き上げた司馬遼太郎氏の力量に舌を巻いた。そして、この記事は私にとって司馬遼太郎氏の一番印象深い一文になった。

 昨日は、この三島由紀夫と森田必勝の自決から三十七年が経った日であった。私は、大分県護国神社で行われた「大分憂国忌」に出席して記念講演をする機会を与えられた。

 実に立派な大分護国神社境内の憂国忌会場に入ると、神殿の横には、三島と森田の両烈士の垂れ幕の横に、神風特別攻撃隊各烈士の慰霊の幕が掲げられていた。

 その幕を見たとき、私は三十七年前の両烈士そして六十二年前の神風特別攻撃隊各烈士とともに、日露戦争時、百三年前の明日二十六日の、旅順要塞攻防戦における三千の白襷隊の各烈士のことをどうしても語りたくなった。

 思えば、大分は海側からの旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫海軍中佐の故郷である。広瀬中佐の霊が旅順を語れと促したのかも知れない。
 
 明治三十七年十一月二十六日、旅順に対する第三回総攻撃が開始された。この時、乃木希典軍司令官指揮する第三軍のみならず,日本が生死の分かれ目に立っていた。旅順が陥落しなければ日本軍は、陸に海に総崩れになって崩壊し、我が国家はロシア軍に席巻され滅亡したであろう。
 しかし、旅順総攻撃に入った各師団は大損害を受けて撃退され攻撃成功の見込みはつかなかった。

 そこで、各師団の攻撃がことごとく失敗に終わったのを見とどけた乃木軍司令官は、二十六日夕刻、特別部隊による壮絶な攻撃を決意する。それは、中村覚歩兵第二旅団長の意見具申によるもので、中村少将が指揮して夜間に刀と銃剣で敵陣保塁に攻め込む奇襲である。夜間の目印のため全員が白い襷をかけた。

 乃木軍司令官は、三千の白襷隊にたいし、「国家の安危は我が攻囲軍の正否によって決せられんとす」との悲壮なる訓辞を述べ、整列する将兵の間を歩き、ただ「死んでくれ、死んでくれ」と言った。

 そして午後六時に行動を開始した白襷隊は、二十六日午後九時、敵陣に突入した。しかし、中村隊長が重傷を負って倒れ、ほとんどが死傷して隊として消滅したのである。

 大砲と機関砲で武装しコンクリートで固められた強固な永久保塁に対する三千名の刀と銃剣での夜襲である。後世、この白襷隊の攻撃をもって、まるで彼らが乃木に犬死にさせられたように語られる。司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」では、白襷隊が乃木の「無能」による兵の殺戮の例として挙げられている。

 しかし、私は、会場の特別攻撃隊各烈士の幕を見たとき、白襷隊の各烈士のことを語り、次のロシア軍側の文献を紹介したのである。それは、岡田幹彦著「乃木希典、高貴なる明治」(展転社)にある忘れがたいロシア側記録である。

「我等旅順籠城の守兵は、一兵一卒に至まで・・・血につぐに骨をもってし、骨につぐに直ちに魂をもって死守したるなり。しかも日本軍の堅忍なるや分を得れば寸、寸を取れば尺と・・・営々倦まざること即ちこれ日本軍の精気なりといわん。

 実にこの精気に強き分子たる日本軍が精気に弱き露軍を屈服せしめたるなり。

 余は敢えて屈服という。されど一九〇五年の一月一日の開城を指すに非ざるなり。その前年の暮れ、即ち十一月二十六日における白襷抜刀決死隊の勇敢なる動作こそ、まことに余輩をして精神的屈服を遂げしめる原因なれ。

 この日の戦闘の猛烈惨絶なりしことは・・・その適切なる修飾語を発見することを得ず。・・・しかもその天地の振動に乗じ、数千の白襷隊は潮の如く驀進して要塞内に侵入せり。

 総員こぞって密集隊・・・白襷を血染めにして抜刀の形姿、余らは顔色を変ぜざるを得ざりき。余らはこの瞬間、一種言うべからざる感に打たれぬ。曰く、屈服。」
 
 よく文献を集めたといわれる司馬遼太郎氏は、この記録を知らず、もしくは無視したようであるが、敵軍であるこのロシア側記録こそ、後世特に戦後になって、「坂の上の雲」などで「愚行」とされた中で戦死していった白襷隊将兵の霊に捧げるべき言葉では無かろうか。

「白襷隊三千の烈士よ、貴官らの勇敢な死は、旅順陥落をもたらし、祖国をして勝利せしめたり」

 と、そして

 「あなた方の尊い自己犠牲の上に、今に生きる我等は亡国の民ではなく、日本に生まれた喜びを心に持つことができるのです。ありがとうございます」と。

 国家の再興は、教育の再興にかかっているが、歴史の回復なくして教育の再興はない。そして、歴史の回復とは、勇戦奮闘した英霊に感謝の誠を捧げることからはじまる。

 全国、津々浦々の墓地には、ほぼ例外なく墓石の先が尖った兵隊さんの墓がある。私は、それらを見るとき、日本が近代に経験したものは「大祖国戦争」であったと思う。そして、時に

「ごくろうさんでございました。ありがとうございました」

 とつぶやき、何処何処で戦死、戦病死と刻んだ字をながめる。そして、これが私にとって、我が国の歴史を実感することにつながってくる。

 読者諸兄姉も、散歩の途中、通勤の途中、村や町の墓地に行き会うことがあると思う。

 その墓地の中に、兵隊さんの墓石があるはずだ。それを眺めて、欧米列強が繰り広げる弱肉強食の帝国主義の時代に、独立して近代化を成し遂げた我が国の祖父母の時代の苦難の歩みを少しでも実感しようではないか。

 自国の歴史は、他人のことのように観るべきではない。

 自国の歴史は、津々浦々の墓地からも実感することができる。




 三島由紀夫
 


三島由紀夫 演説文
(30分の予定がヘリコプターや野次で肉声はかき消され7分で断念。・・・は、聞き取り不能)
http://www.geocities.jp/kyoketu/61051.html

 私は、自衛隊に、このような状況で話すのは空しい。しかしながら私は、自衛隊というものを、この自衛隊を頼もしく思ったからだ。こういうことを考えたんだ。しかし日本は、経済的繁栄にうつつを抜かして、ついには精神的にカラッポに陥って、政治はただ謀略・欺傲心だけ………。これは日本でだ。ただ一つ、日本の魂を持っているのは、自衛隊であるべきだ。われわれは、自衛隊に対して、日本人の………。しかるにだ、我々は自衛隊というものに心から………。

 静聴せよ、静聴。静聴せい。

 自衛隊が日本の………の裏に、日本の大本を正していいことはないぞ。

 以上をわれわれが感じたからだ。それは日本の根本が歪んでいるんだ。それを誰も気がつかないんだ。日本の根源の歪みを気がつかない、それでだ、その日本の歪みを正すのが自衞隊、それが………。

 静聴せい。静聴せい。

 それだけに、我々は自衛隊を支援したんだ。

 静聴せいと言ったら分からんのか。静聴せい。

 それでだ、去年の十月の二十一日だ。何が起こったか。去年の十月二十一日に何が起こったか。去年の十月二十一日にはだ、新宿で、反戦デーのデモが行われて、これが完全に警察力で制圧されたんだ。俺はあれを見た日に、これはいかんぞ、これは憲法が改正されないと感じたんだ。

 なぜか。その日をなぜか。それはだ、自民党というものはだ、自民党というものはだ、警察権力をもっていかなるデモも鎮圧できるという自信をもったからだ。

 治安出動はいらなくなったんだ。治安出動はいらなくなったんだ。治安出動がいらなくなったのが、すでに憲法改正が不可能になったのだ。分かるか、この理屈が………。

 諸君は、去年の一〇・二一からあとだ、もはや憲法を守る軍隊になってしまったんだよ。自衛隊が二十年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだ。もうそれは政治的プログラムからはずされたんだ。ついにはずされたんだ、それは。どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。

 去年の一〇・二一から一年間、俺は自衛隊が怒るのを待ってた。もうこれで憲法改正のチャンスはない!自衛隊が国軍になる日はない!建軍の本義はない!それを私は最もなげいていたんだ。自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ。日本を守ること。日本を守るとはなんだ。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである。

 おまえら聞けぇ、聞けぇ!静かにせい、静かにせい!話を聞けっ!男一匹が、命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか。

 それがだ、いま日本人がだ、ここでもってたちあがらなければ、自衛隊がたちあがらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだねえ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。諸君と日本の………アメリカからしかこないんだ。

 シビリアン・コントロール………シビリアン・コントロールに毒されてんだ。シビリアン・コントロールというのはだな、新憲法下でこらえるのが、シビリアン・コントロールじゃないぞ。

 ………そこでだ、俺は四年待ったんだよ。俺は四年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を。………そうした自衛隊の………最後の三十分に、最後の三十分に………待ってるんだよ。

 諸君は武士だろう。諸君は武士だろう。武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ。どうして自分の否定する憲法のため、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。これがある限り、諸君てものは永久に救われんのだぞ。

 諸君は永久にだね、今の憲法は政治的謀略に、諸君が合憲だかのごとく装っているが、自衛隊は違憲なんだよ。自衛隊は違憲なんだ。きさまたちも違憲だ。憲法というものは、ついに自衛隊というものは、憲法を守る軍隊になったのだということに、どうして気がつかんのだ!俺は諸君がそれを断つ日を、待ちに待ってたんだ。諸君はその中でも、ただ小さい根性ばっかりにまどわされて、本当に日本のためにたちあがるときはないんだ。

 そのために、われわれの総監を傷つけたのはどういうわけだ<野次

 抵抗したからだ。憲法のために、日本を骨なしにした憲法に従ってきた、という、ことを知らないのか。諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。

 一人もいないんだな。よし!武というものはだ、刀というものはなんだ。自分の使命………。

 それでも武士かぁ!それでも武士かぁ!<野次

 まだ諸君は憲法改正のために立ちあがらないと、見極めがついた。これで、俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。それではここで、俺は、天皇陛下万歳を叫ぶ。

 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!


□ 檄 文
http://www.geocities.jp/kyoketu/61052.html

 われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。

 かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。

 ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。

 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。 

 われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。

 もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。

 われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあった。

 憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。

 日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。

 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。

 その日に何が起ったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。

 治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。

 名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。

 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。

 創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。

 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。

 男であれば、男の衿がどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。

 しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。

 われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。

 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。

 繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジジェネラル一人、自衛隊からは出なかった。

 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。





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【2007/11/30 20:52】 | 【演説・講演・論文・コラム】 | トラックバック(0) | コメント(5)
怨みは怨みによってではなく 慈悲で癒される
スリランカ民主社会主義共和国国旗 ※ 昭和26(1951)年9月8日、サンフランシスコ平和会議の最終日、セイロン(現スリランカ)代表・JRジャヤワルデネ初代大統領(当時蔵相)の演説です。
 これは原文(シンハラ語)の英訳をスリランカ大使館が和訳したものです。当時の会議での紛糾の様子やアジア諸国の感情が生々しく伺えます。演説を聴いた参加諸国の代表は大いに湧き立ち、吉田元首相は感涙したそうです。筆者も痺れました。




サンフランシスコ平和会議でのJRジャヤワルデネ代表演説
http://www.d7.dion.ne.jp/~tomoca/nettaigo/address_jr_ja.htm

 賛同を勧誘されている平和条約草案について、セイロン国政府の見解を、この51か国の集会前に提出する機会を与えられましたことを、私は大いなる特典と考えます。

 私の声明は我国が本条約を受け入れる諸理由から成り立っていますが、本条約に対して向けられたいくらかの批判を反ばくする企てもあります。もっとも私は、私の国の政府を代表してのみ話すことが出来るわけですが、然し日本の将来に対して一般的態度の中でのアジアの諸国民の感情を、私は表明出来ると主張します。

 私は現在、会議で考慮中の条約の最終草案の公式化にまで持って行った出来事について、語る必要はありません。アメリカ代表ダレス氏とイギリス代表ケンネス・ヤンガー氏は、1945年8月の日本の降伏文書協定から始めて、それ等の出来事を詳細に且つ丁寧に我々に示されました。然しながら、次の事柄は述べて置いてもよいと思います。

 即ち、本条約の草案を採用すべきであるという手続きに関しては、四大強国の間で探刻な意見の衝突があったことを述べて置いてもよいと思うのです。

 ソ連は、四大強国だけが、即ちアメリカ、イギリス、中国及びソ連の外相会議だけが、それを引き受けるべきであると主張し、そして若し条約草案作成のために他の国々が加入するのであれば、拒否権を保留されなければならないと主張しました。

 イギリスは、自治領は相談を受けるべきであると主張し、アメリカはこれに賛同しました。
両国は又、対日戦争に参戦したすべての国々と相談することを支持しました。

 これ等の諸国の間では又、違った考慮から、条約の実際の条件に関する意見の相違がありました。ある国は新しい軍国主義的日本の台頭を恐れ、他の国は日本の侵略によって生じた災害と恐怖を忘れ兼ねて、意見がわかれました。

 敢えて意見として述べますが、完全に独立した日本のための主張がはじめて提出され、考慮されたのは、1950年1月に開催された連邦外相のコロンポ会議に於いてでありました。このコロンボ会議は、日本を孤立させたケースとして考えるのではなく、南アジア及び東南アジアとして知られている地域の一員として考えられました。世界の富と人口の大部分を含み、最近になって漸く自由を回復した国々からなる南アジアと東南アジア、それ等の国々の諸国民は数世紀なおざりにされた結果、今尚苦しんでいます。

 この会議から二つのアイディアが浮かびあがりました。一つは独立国日本のそれであり、他方は南アジア、東南アジア諸国民の経済的、社会的開発の必然性で、それを確保するためにコロンボ計画として現在知られている計画が着手されました。

 ケンネス・ヤンガー氏は、コロンボ会議の後に連邦諸国長官の運用委員会が条約草案の仕事にかかった経過を説明され、そしてその後にアメリカ代表ダレス氏と相談されたことを説明されました。

 今我々の前にある条約は、これ等の協議と折衝の成果であります。

 私の政府の見解の或る部分がそこに主張されていますが、私の政府の見解でないものも主張されています。私は現時点に於いて、日本と進んで和平を討議したいとする諸国の間で達成出来る同意の最大の共通な尺度を告げていると、私は主張します。

 日本に対する態度に於いて、セイロン、インド、そしてパキスタン等のアジア諸国は、日本は自由でなければならないという最大の考えによって動きました。本条約はその考えを完全に具現していると私は主張します。

 日本の自由という事柄について付帯的な他の問題があります。即ち自由は本州、北海道、九州、四国の主要の島々に限定されるべきであるか、或いは近隣のいくつかの小さい島々にまで広げるべきであるか。若しそうすべきでないのなら、これ等の島々は如何にすべきか。台湾は1943年のカイロ宣言に従って中国に返還されるべきか。若しそうすべきであるのなら、中国のどちらの政府へ? 中国は平和条約会議へ招くべきか。若しそうであるのなら、どちらの政府を? 賠償は日本から強要すべきか。若しそうなら金額は。日本が自国の防衛を組織するまでは、どの様にして自らを防衛するのか。

 日本の自由という中心問題について、我々は究極には同意することが出来ました。そして条約はその同意を具現しています。他の問題については際立った意見の相違がありましたが条約は大多数の見解を具現しました。若しこれ等の諸問題の或るものが違った方法で解かれていたら、私の政府はその方を好んだでありましょう。然し大多数が我国に同意しないという事実は、自由と独立した日本の中心概念を含む本条約に、我国が調印するのを控える理由にはなりません.

 最初に私が言及しました関連のある事柄は、日本が自由になれば解決不可能ではありませんが、日本が自由にならなければ解決不可能であると我国は思います。

 自由の日本は、例えば国連組織を通じてこれ等の問題を世界の他の自由諸国と討議することが出来、早目に満足すべさ決議に到達出来ましょう。本条約に署名することにより、我々は日本をしてそうすることが出来るようにさせます。即ち日本が中国を承認すると決定するならば、中国政府と友好条約を結ぷことが出来るようにと、そして日本をして印度と平和友好条約を結ぶことが出来るようにさせると私が述べるのは、大変嬉しいことであります。若し我々が本条約に調印しなければこれ等起こり得ることは、何れも起こり得ないでありましょう。

 何故アジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。それは我々の日本との永年に亘るかかわり合いの故であり、又アジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア緒国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者として又友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬の為でもあります。

 私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、アジアの為の共存共栄のスローガンが今問題となっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者の或人達がそうすることによって自分達が愛している国が開放されるという希望から日本の仲間入りをした、という出来事が思い出されます.

 セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国こ供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。

 我国はそうしようとは思いません。何故なら我々は大師の言葉を信じていますから。

 大師のメッセージ、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」はアジアの数え切れないほどの人々の生涯(生活)を高尚にしました。仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那へそして最後には日本へ伝えました。

 これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのであります。この共通文化は未だに在続しています。それを私は先週、この会議に出席する途中日本を訪問した際に見付けました。又日本の指導者達から、大臣の方々からも、市井の人々からも、寺院の僧侶からも、日本の普通の人々は今も尚、平和の大師の影の影響のもとにあり、それに従って行こうと願っているのを見いだしました。我々は日本人に機会を与えて上げねばなりません。

 そうであるから我々は、ソ連代表の云っている、日本の自由は制限されるべきであるという見解には賛同出来ないのです。

 ソ連代表が加えようと欲する制約、例えば日本が自由の国であれば当然そうする資格のある国防軍を維持する権利に加える制限といったもの、そして、彼が提議する他の制限は、現在ここの会場に居られる代表の大多数の方々にとって受け人れ難いものにするばかりでなく、この会議に出席されなかった国々の中の或国、特にこの条約のありありと心に描くところより更に進んだ所へ行きたい印度にとってさえも、受け入れることが出来ないものにします。

 若し再びソ連がカイロとポツダム宣言に反して、日本へ返還した琉球諸島と小笠原諸島を欲しがるのなら、それでは何故南樺太は、千鳥列島もまた日本へ返還されないのか?

 私は興味をもって、次の事に注目します。即ちソ連の修正案は、日本国民に基本的表現の自由、新聞及び宗教礼拝の出版の自由、政治上の見解の自由、及び公開の集会の自由を保証しようと要求しています。-----ソ連の国民自身でさえも所有し享有したいと心から執着したいであろう自由をです。

    (注---和訳資料はここまで。以降の数行は欠損)







 ※ 少し補足します。有名な一文、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」は、英文からの和訳です。原文のシンハラ語と日本語は共通項が多々あり、直訳した方が日本人には馴染める表現になるのだそうな。言語は文化ですね。仏教という絆が思いのほか強いものであることを再確認させられました。直訳すると

   ワイラヤ   ワイライェン   ノワ    マイトリエン  サンシデー
   怨みは   怨みによって  ではなく   慈悲で    癒される


 なるほど日本的な表現になりました。この感じが解る民族でよかった~。ブッダの『ダンマパダ』からの言葉を引用したもの。

 因みに、鎌倉の高徳院にジャヤワルデ氏の顕彰碑が建立されており、そのレリーフには

      人はただ愛によってのみ
      憎しみを越えられる
      人は憎しみによっては
      憎しみを越えられない


 とあります。裏面の顕彰碑誌にはブッダ『ダンマパダ』の言葉

 実にこの世においては怨みに報いるに怨みを以てしたならば ついに怨みの恩むことがない
 怨みをすててこそ恩む これは永遠の真理である

 
 と共に、感謝の言葉が刻まれています。



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【2007/11/21 11:13】 | 【演説・講演・論文・コラム】 | トラックバック(0) | コメント(0)
何のための連立話であったのか
西村眞吾衆議院議員 ※ 何のための連立話であったのか。小沢党首が辞意表明を撤回したことはどうでもよい。発端となった連立話という両党首の暴走を見過ごしてはいけない。

 一日も早く麻生氏に政権を渡してほしいと思う。福田首相にこそ投げ出してもらいたい。国家の運営を何だと思っているのか。国民は見殺しにされている。

 




□ 官邸、未だ決断せず - 眞吾の時事通信(平成19年11月5日)
http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi

 10月30日の本時事通信における私の提言を前提にして、
以下述べたい。

 11月1日から翌二日未明にかけて、私は、総理大臣が自衛隊の最高指揮権を発動して、「インド洋上における給油活動を継続せよ」との命令を発するのを強く期待していた。
 給油活動に関する「特別措置法」の期限が切れるので、それに代わる「特別措置」の決断がいると考えたからである。それが、前回の時事通信で述べたように、総理大臣の最高指揮権の発動である。これこそ、シビリアンコントロールの発現である。
 
 この「特別措置」が必要と考えるほどに、インド洋における給油活動は、我が国の国益にとって必要なのだ。
 
 神戸の大地震の時に、自衛隊を救助に出動させる要件として知事の要請が法律上明記されていたが、現実には知事自身が被災して要請を出せる状況ではなかった。この時、知事の要請を求める法律に従って漫然と時間を空費することは許されず、総理の決断が必要であった。国民の命がかかっていたからである。
 この度の「特別措置」の決断も、この大地震の際以上に必要である。なるほど、国民の具体的な命がかかっているようには見えない。しかし、お国の将来がかかっている。そして、国家の将来の安泰は国民の将来を直接左右するからである。

 今からでも遅くはない。
 国家の将来に責任を負う内閣総理大臣が、自衛隊の最高指揮権に基づく給油継続命令を発出されることを要請する。

 ところで、ここ数日、総理大臣の思考を支配したのは、インド洋ではなく、党首会談であったようだ。
 会談から出てきた小沢さんが、党内に自民党と民主党の連立の提案をした。役員会で否決された。それで、4日午後党代表を辞めると発表した。
 ついこの間の秋の初めに、安倍前総理が辞めると発表したことを、前代未聞と評した人も、また辞める。
 
 安倍前総理は、インド洋での給油活動継続に内閣の命運をかけると宣言し、その為に党首会談を要請したのだが、小沢さんは、この要請を受けなかった。
 しかし、小沢さんが言った「政治家なら会うべきだろう」とは、福田総理よりも安倍前総理との会談に関して言うことである。何故なら、安倍総理は自らが国益上内閣の命運をかけてでも継続すべきだとするインド洋での給油活動継続のために会談を申し込んだからである。これこそ、国家の将来に責任を負う政治家の公の課題を掲げた会談申し込みではないか。
 これに対して、この度の福田・小沢会談は、誰が仕組んだのか、誰から言いはじめたのか、何を話すための会談なのか、未だ不透明である。
 ただ、会談から出てきた小沢さんの連立提案が党内で否定されたと聞いたときに、私は「また、投げ出すかも分からんなー」と周囲に言った。

 さて、この二回の党首会談で騒いでいるところでは、念頭にないであろうが、国民の運命に関する事態が動き始めている。
 北朝鮮による拉致被害者救出問題のことである。
 10月31日、アメリカのアービッシュ国務次官補代理が拉致議連幹部に会談を申し込んできたので、ドノバン主席公使を交えて公使公邸で会談した。
 アメリカ側の話を総合すると、アメリカは北朝鮮が核無力化に合意すれば、「テロ支援国家リスト」から北朝鮮を外す方向で動いている。これに関する日本側の意見を聞きたくて会見を申し込んできたようだ。
 もちろん、拉致議連幹部は、拉致被害者救出を無視して如何なる譲歩もあり得ないと強く主張した。そして、アメリカがテロ支援国家リストから北朝鮮を外せば、日本国民のアメリカに対する失望は計り知れないと伝えた。
 北朝鮮の核が無力化するんですよ、とアメリカ側が言ったときに、私は、アメリカは12年前のクリントン大統領の時代にも騙されたように、また北朝鮮に騙されているんだと言った。
 アメリカ側が、核が使われた時の惨害を考えてくださいと言ったときに、アメリカに言われなくとも2回も落とされた日本の方がよく分かっていると言った。
 議会人として、日本人の感情はフランクに伝えておくべきだと思ったからだ。
 
 しかしながら同時に感じたのは、この時、我が国はインド洋においてアメリカ艦船に対する給油活動を放棄している訳で、一方では相手への給油という貢献を中断しておきながら、他方では日本人救出へ共同歩調を求める立場の弱さである。
 アメリカが「テロ支援国家リスト」から北朝鮮を外せば、日米同盟に修復しがたい傷を与えますぞ、と言ったものの、では日本はインド洋で何故同盟国にふさわしい貢献をしてくれないのかと言われれば、窮することは確かであった。しかし、アメリカ側はそこに突っ込んでこなかった。その真摯な態度が印象に残る。
 翌日の11月1日、ヒル国務次官補とアービッシュ次官補代理が外務省を訪ね、北朝鮮問題の打ち合わせをしている。同時にアメリカは大使館においてインド洋での日本の給油活動が如何に大切であるかと与野党議員を相手に説明会をしている。
 日本の政情空白のなかで、アメリカは尽くすべきことは尽くすべく着々と動いている。

 ニューヨークの爆破も日本人拉致も、ともに「テロ」である。
その「テロとの戦い」はインド洋でも朝鮮半島でも行われるべきである。西はアメリカが主体、東は日本が主体である。
 我が国は、インド洋での給油の継続という日本の貢献を掲げながら、西の「拉致というテロとの戦い」においてアメリカの貢献を強く求める立場にあったのだが、現在むざむざとその立場を放棄しつつある。東西の課題を総合的に捉えることも出来ないでいる。
 拉致議連関部は、11月中旬、ワシントンに行ってアメリカ議会人と接触して「テロ支援国家」から北朝鮮を外してはならないと伝える予定である。
 しかし、我が国は、ワシントンに大使館を保有しているのだ。東京にあるアメリカ大使館が日本の議員を招いて日本の洋上補給活動が如何に必要であるかをアピールしたように、ワシントンにある日本大使館も、アメリカの議員を招いて、拉致被害者救出というテロとの戦いのためにテロ支援国家リストから北朝鮮を外してはならないと強く説得すべきである。その為の在外公館ではないか。
 
 日本人拉致被害者の北朝鮮からの救出問題は、党首会談をした二人の念頭にもなかったのであろう。また、インド洋での給油継続に内閣の命運をかけるとした安倍前総理のような課題の提起もなかった。
 では、「何のための」連立話であったのだろうか。
 ただ「連立が目的」であったのかも知れない。


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【2007/11/07 09:18】 | 【演説・講演・論文・コラム】 | トラックバック(0) | コメント(0)
福田総裁の誕生
 ※ 健闘も空しく麻生氏が勝つことはできませんでした。今この国は最悪の福田総裁を迎えてしまった。

 麻生派を除く全派閥の談合により、連日の報道では福田圧勝を伝えていました。結果は総数で福田氏330票、麻生氏197票。どこが福田圧勝なんですか。あの一方的なマスコミ報道をもってしても、たった16名の小さな麻生派以外の全派閥談合をもってしても、麻生氏はここまで追い上げたのです。とてつもないことです。

 しかし残念ながら福田総裁が決定してしまった。即ち福田総理の誕生ということになります。保守政党であったはずの自民党が左傾化著しい総理を誕生させてしまったのです。

 したがって、結果330票もの国益とならぬ政党であることが露呈したからには、筆者は自民党を支持するわけにはまいりません。

 この国には時間がありません。このまま自民党を維持させることは、政治を国民を惑わせるだけであると考えます。いよいよもって、早々の政界再編を強く求めます。

 22日の新宿東口での北村弁護士の応援演説に、筆者は全くの同感です。麻生氏が総理となる日をこれからも切望します。


□ 平成19年9月22日新宿東口 北村弁護士による応援演説



こんにちはー! 私は自民党員でもなければ政治家でもありません。だから、この自民党がどうなろうが私は関係ない(聴衆笑い)。

 しかしながら、麻生太郎が大好きで日本の国が大好きです。

  今、この自民党の総裁というのはイコール日本の首相です。 だからこの総裁選は捨て置けない。捨てて置けません。

  私から見ると、部外者の私から見ると、この長老の、はやる派閥の領袖と言われる人たちが この麻生太郎に抱いている感情が手に取るようにわかる。

『あの少数派閥の麻生めが、あの麻生がなぜ国民に人気があるんだ。なぜなんだ。 あんな奴に首相になって欲しくない』

 というジェラシーですよ、これは。あきらかに!(聴衆からの拍手)なぜかわかりますか?

 麻生太郎の話を少しでも聞いたことのある人、たとえば10分以上聞いたことのある人は、あの具体的で、説得力のあって、熱意があって、この人には力があると、みんな思うんです。

 ところがどうだ、今の派閥の領袖といわれる人たち、あの人たちの話を聞いてそう思えますか。 全く僕には思えない。

 だから今回の持つ総裁選で、この派閥の領袖といわれる人たちのこの推す候補がこのままエスカレータ式に首相、総裁になって、そのまま首相になるようであれば私は今後、自民党を批判を続けるつもりだ!自民党はもうなくなった方がいい! (拍手)

 こんなやり方で首相が決まって、長老たちのジェラシーで首相が決まるような国であれば、これはあの民主党、私から見て、この民主党の政策というのは私から見ればですよ、素人の私から見れば、この自民党政権が、かつておかした過ちをそのままやろうとしている。

 たとえば農業政策。最も悪政といわれた農家にお金を ばら撒くような政策をこれからやろうとしている。 いいですか?日本が国際貢献をしようとしているこのインド洋上の給油についても、これを国益、日本の国益を考えずに中断しようとしている。

 そんな汚い政党でも、いいですか、そんな汚い民主党でも、今、この自民党総裁選で麻生太郎が簡単に負けるようであれば

 まだあっちの方がいいかもしれないと俺は思っている! (拍手)

 そういうことがわかりますか。いいですか。人間の言葉が説得力あるというのはどういうことなんですか。

 政治の問題は難しい。だけどその難しいことをわかりやすく具体的に話せる人間ってのはどういう人間なんだ。

 その政治の本質をわかっているからわかりやすく、我々に話すことが出来るんですよ。いいですか。

 政治の話をわかりやすく出来ない人間ってのは二通りあるんだ。 一つは本音を語ろうとしない人間。(拍手)

 もう一つは頭の悪い人間なんだ。 この二つしかないんだ。 そこが麻生太郎と全く違うところなんです。

 もう一つ言わせてもらいます。 私は、例えばですよ、私はお膳立てが全部揃わなければ出ません、て、私はお膳立てが全部揃わなければ出ませんと、こういう風に言う候補がいたとすれば、これは弁護士の目から 見ると非常にプライドの高いお方だ。(笑い)

 それはどういうことになるか、いいですか、この人にもし日本の未来を託した場合、ある局面では国益よりも、国民の生活よりも、自分のプライドを優先するだろう。

 そういうもんなんだよ。いいですか。それをわかるだろう。私にはわかる。 (拍手)

 いいですか、日本の国益を担って、首相として歩むためには強さが必要なんだよ、人間としての強さが。

 その為には自分こそ総理に相応しいんだと、自分こそ総理に相応しいんだと、みんなが思って、自分も思って、それで敢然と立ち向かっていく、そういう人間でなければダメなんです! (大拍手)

 それを分かるか!

 僕は今回の総裁選を見てて、マスコミもわかってないし、 一般の人ももしかしてわかってないんじゃないかと思ったの。

 だからここに来たんですよ。 でも先ほどネットの情報を聞いてみると、実は国民はわかってるらしい。

 この間テレビの、テレビのね、ある番組で、まあ政治評論家と称する人はこう言いました。

 『秋葉原では大分麻生さんの人気が高いようですね。だけど彼らには投票権はないからな』

 そういう皮肉を言っている政治評論家がテレビで喋ってた。こいつは頭が悪いです。(拍手)

 何で頭が悪いか。 いいですか、今この情報化社会においては投票権がなくとも、自民党の総裁選にはこれだけ注目が集まっている。 そして国会議員が投票する時に国民の声を全く無視するわけにはいかない。

 だから国民の声を無視するわけにいかないから、じゃあ何が起こったんだ。

 麻生謀略説。

 麻生が安倍の足を引っ張ったんだ、そういう謀略説を流したでしょ、最初に。 あれはまさに国民の声を無視できないから、世論操作しようとしたんだよ!それがわかりますか。(拍手)

 こんな短い期間であの麻生謀略説をひっくり返すのは大変なことだ。
まして麻生太郎本人は、非常に品のいい男だ。だから、自分でそうじゃないんだなんてことは言わない。

 だから品の悪い私が言ってるんだよ。わかるかね!! (大拍手)

 いいですか、僕はね、この総裁選で、もう一度言いますよ。 この総裁選で麻生太郎が簡単に負けるようであれば、

 明日から自民党の悪口を言い続けるんだ! こんな国会議員はみんなやめちまえ!

 マスコミの人間は、いかに麻生太郎が力があっても、説得力があっても、 一切報道しないよう、しないよう、しないようにしてるよ。これは本当のことだ。

 マスコミを信用してはいかん! (大拍手)

 マスコミに出てくる弁護士が優秀だと思ったら大間違いだ。(観衆笑い)

 中には優秀な奴もおるけど。 いいですか、そこでね、私はみなさんにお願いしたい。 馬鹿な国会議員でも、ドアホウな国会議員でも、麻生太郎が、麻生太郎が首相にならなければ国民から目を背けられてしまう、そう思わせて欲しい。

 最後に一点だけ、もう一点だけ、ごめんなさい。 麻生太郎は、失言失言といわれてる、早く辞めろと言われてる。

 麻生太郎は、失言失言といわれてるがね…、ここをよく考えて下さい。 官僚答弁ばっかりする政治家の話が面白いか?(聴衆:面白くない!!)

 みんなのことを考えて、我々のことを考えて、わかるように話をする、その麻生太郎が俺は大好きなんだ。 (大拍手)

 今日仙台で、仙台で、麻生太郎さんが掲げたこの紙ね、紙ね。こう書いてある。

  四の五の言わずに総理にさせろ!

 それが私の考えだ。以上。 (大拍手)

 



 ※ テキストは『新・へっぽこ時事放談』様エントリーより転載致しました。 




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【2007/09/24 05:45】 | 【演説・講演・論文・コラム】 | トラックバック(0) | コメント(2)
しゃばだば近代国史帖


日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。

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この道を、どんな日本人が歩いていたんだろうと、ついつい想いを巡らせてしまう今日この頃です。
いろんな感動エピソードに出会ったけれど、記憶力が悪く片っ端から薄れてしまうので、思い切ってブログに挑戦することにしましたとさ。

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