※ お蔭様でやっと最終回にこぎつく事ができました。遅々として進まぬ更新であったにも拘らず、根気良く見守り下さいましたこと、有難うございました。“シベリア抑留”と言葉にすれば簡単ですが、その実態、意味を知る日本人はまだまだ一握りに過ぎません。戦後60余年、この過酷な体験を余儀なくされた方々はご高齢となられ、その多くはすでに亡くなられています。 阿部さんはおっしゃいました。やっとの思いで日本へ帰って来たものの、お偉いさんたちとは違って自分たちのような若い一社員への国からの補償は殆ど無いに等しく、また補償を求めて動いてくれる支援者も無かった。ましてや今となっては生き残っている者も少なく、何を今さらというところです・・・、と。 筆者はお話をうかがいながら、阿部さんのシベリアでの不当な抑留生活におけるソ連への憎しみもさることながら、夢にまで見た祖国にまで不当に扱われたやり場のないそのご無念に、どうお答えすればよいのやらと心が痛みました。 早期帰還者の多くが共産主義の洗脳の犠牲となり、舞鶴で心待ちにしていた家族の許へ帰ることもせず、そのまま日本共産党へ直行した者まであったのです。そしてにわかに共産党の議席が倍増するという時代でもありました。シベリア問題はタブー視され、帰還者たちは置き去りにされたのです。 阿部さんにとって懐かしい故郷であっても、阿部さんを疑い、快く受け入れることをしませんでした。阿部さんの社会復帰は困難を極めることになりました。
※ 学校の教科書で、このシベリア抑留についてどのように記載されているか。それはほんの数行で、例えば「新しい歴史教科書」をもってしても、 「ソ連は日ソ中立条約を破って満洲に侵入し、日本の民間人に対する略奪、暴行、殺害を繰り返した。そして日本兵の捕虜をふくむ約60万の日本人をシベリアに連行して、過酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させた。」 一枚の絵が添えられているものの、たったこれだけの表現で終わりです。教科書には字数の制限や教科書検定の規定という枠がある上に、教える立場の教師の扱い如何で、生徒の記憶に残るのは“シベリア抑留”という言葉だけのように思います。 せん越ではありますが、歴史を教える教師には、その時代その時代の我々の先祖が、迫り来た事態をどう捉え、どう悩み、どう考え、どう行動したのか、その心情に重点を置き、生徒たちが我が事として学び取れるように授業をしていただきたいと思います。 何を隠そう筆者は歴史が苦手でした。年数と出来事を羅列し、暗記するだけの歴史の授業には全く興味がわかず、つまらなかった記憶しかありません。ましてや特にこの第二次世界大戦あたりの授業は、「期末テストが始まるから、あとは各自で読んでおきなさい」と軽く流されただけのように記憶しています。 しかもそれら教えられた日本の歴史は自虐的で、結果“戦前”の印象は暗いイメージに閉ざされ、戦後こそが平和で正しいと教えられました。中でも印象に残る代表的なものは、「今後何があっても憲法9条は守らねばならない。日本がもしあのまま戦争に勝っていたとしたら、今頃とんでもない国になっていただろう」と脅され、9条を守るよう誓わせられたことです。 今思えば、あの時代こそ、つまり幕末から昭和にかけての時代こそが、日本が初めて世界史に登場し、日本史において最大の国難の時代であったのです。いやまだ、その国難は続いていると言えます。まだまだ日本は、戦後体制(占領下体制)の蜘蛛の糸から脱却できないでいるのですから。あんな教育が今も続いているのですから無理もありません。 我々の父祖はその最大の国難に真っ向から立ち向かい、辛うじて日本を残してくれました。熱戦は終わったけれど、その国難は今や見えない形で私達の傍で闊歩しています。これを子孫にまで先送りさせるわけにはまいりません。 さて最後に、去る4月11日にご逝去になられた、故 名越二荒之助先生の最後に詠まれた和歌をご紹介して終わりにしたいと思います。筆者は名越先生から多大なる影響を受けました。そんな方は多いと思いますので、先生の詳しいご紹介は割愛させていただきます。 昨年の秋のある日、夜空に浮かんだ美しい月を見て詠われ、今年の歌会始に出品されたものだそうです。先生も5年間のシベリア抑留から帰還されています。 お題 「月」 名越二荒之助 シベリアの荒野に眠る英霊を 忘れず照らせ今宵の月も ● これまでに参考にしたサイト ・舞鶴引揚記念館 ・平和祈念展示資料館 ・平和祈念事業特別基金 戦後強制抑留史 ・『異国の丘』とソ連・日本共産党 ・国際コミュニケーションプレゼンレポート:国際コミュニケーション(8) ・第018回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第3号 ・日ソ戦争 地図・ソ連の歴史教科書 ・JOG(297) 近衛文隆 〜 ラーゲリに消えたサムライ ・旧ソ連抑留画集 ・大礒正美研究室 コラム「よむ地球きる世界」:ソ連の北海道占領計画を知らしめた久間発言 ・同上コラム:問題な(カイロ・ポツダム文書の)日本語 ・満洲国の地図 他、複数の「抑留者の証言」サイト等 ![]() |
※ 左の画像は阿部さんの手記に含まれていたラーゲリの分布図です(クリックで拡大)。その数字もやはり推察の域を出ないものなのですが、ソ連領内全体での総数は2000ヶ所を下らないであろうとのこと。スターリンは第一次及び第二次世界大戦で荒廃した国内を復興するために、自国民に加え複数多数の他国民を拉致しこれに充てていたことになります。そしてもうひとつ、スターリンの思惑にはレーニン以来の「世界共産主義革命運動」があります。 日本人抑留者の祖国への返還は早期の者で4〜5年かかり、その後長期の者は3年の空白の後に第一次が8年後、最終で11年後と実にだらだらと後ろ向きな対応に始終しました。 その間の日本政府の対策は、GHQ占領下であり独自主導とはいきません。また、終戦後、昭和22〜3年頃からの米ソ冷戦の勃発で、大戦時は連合国であった米ソがにらみ合っていたのですから、なおさらのこと回り道でした。 それに加え、スターリンの思惑が邪魔をします。コミンテルン主導の下に結成された日本共産党の存在です。抑留者の返還の遅れの影で日本共産党が暗躍していました。
引用文を見ておかしなところがありますね。「よく準備された民主主義者」とはどういう意味なのか。それはすなわち「共産主義者」のこと、抑留者の大半がこの共産主義者への転換のための「洗脳」に悩まされました。「民主化」と称する「共産主義化」でした。 さらに抑留者の返還の遅れが日本共産党書記長からの希望を根拠にしているくだりがありますが、それはさすがに関係はないだろうと思われます。なぜなら日本共産党はコミンテルンの配下であって対等ではないのだから、スターリンのソ連に尻尾を振っていただけのことで、それが有ろうが無かろうが抑留者を積極的に返還する気は全く無かったと思われます。しかし、日本共産党が同胞である抑留者を共産主義革命の道具としてしか見ていなかったことは間違いないことです。 阿部さんご自身は、洗脳されることはなかったとのこと。しかし、民間人でありながら囚人とされたのです。抑留者とは言ってもさまざまなタイプがありました。収容所での待遇もさまざまで、労働はなかったが禁固され、他者との一切の接触を遮断された者もありました。驚くことに女性の抑留者まであったのです。(今回の手記に出てくる女囚は日本人ではありません)
※ 冷戦について。冷戦の反対語は熱戦。その違いは武力を持って戦うか否かにあります。俗に言う「東西冷戦」とは「米ソ冷戦」のことです。主体は日本にありません。主体を日本にすると、日ソ冷戦は大戦前からありました。厳密に考えるとそれは、大正12年に日本共産党ができた時点で勃発していたと考えられます。 その3年後の昭和元年に、日ソ国交樹立に伴い「治安維持法」が制定されました。日本国内にソ連大使館を設置することで予想される、共産革命の諜報・謀略の加速に対処するものでした。 現在も日本は、東アジア諸国との間で、つまり中国・ロシア・北朝鮮・韓国との間で冷戦状態にあると筆者は認識しています。そこには領土問題と拉致問題という紛争が存在するからです。ロシアとの間では、シベリア抑留の問題も解決していません。 これらの状況を踏まえると、戦後廃止させられた「治安維持法」の復活を望むところです。それ以前に憲法改正、本当のところは新憲法の制定なのですが・・・。山積された戦後体制からの脱却の諸項目を加速させるためには、安倍政権の長期化が必須だと思います。そのためには、近々の参議院選で自民党に圧勝していただきたい。 当ブログにおいて、政治についての云々はなるべく避けたかったのですが、歴史と政治は切っても切れない関係のようで・・・今般の参議院選がとても気がかりです。国が倒れては年金などそれこそ消えてしまうのですから、年金問題に始終して選挙を有利に運ぼうとする野党の見識の無さと、それを煽るマスコミが本当はどこを向いているのかを・・・。もうやめましょう。(笑) 今回の手記内容は前回までと違い、次回いよいよ日本へ帰還となることへの「夜明け前」のような軽快さを感じました。そこで、筆者の解説部分では、軽く読み流せないように抑留問題の根幹にあるものを提起させていただきました。 日本における開国以来の日清・日露・支那事変を含む大東亜戦争とは、世界史的に見てまさしく、ソ連の覇権である世界共産革命運動と欧米列強の人種差別的覇権の狭間で吹き荒れた、とてつもなく巨大な渦に巻き込まれた運命的な悲劇であったと考えます。 次回はいよいよ最終回。いっしょに日本へ帰りましょう。 ![]() |
※左の地図は《東京木材問屋協同組合》さんのサイトよりお借りしたものです(クリックで大きくなります)。阿部さんを含む多くの抑留者によって建設された「第二シベリア鉄道」の位置が示されています。阿部さんが勤務した“ハイラル”の位置は筆者が付け加えました。“カラカンダ”は、モンゴルの左側にあり、この地図には含まれません。筆者はこの連載を進めながら、手記をタイプしながら、初めて知る事柄のひとつひとつを、ネット上ではありますができるだけ詳細に調べるようにしていました。というより、どんどん疑問が膨らみ、タイプの手が止まってしまうのです。 単語のひとつ、それらを示す画像はないか、他の方の証言や当時の議事録、調べていくうちにまた初めて知る驚愕の事実に出くわしてしまいます。それらに付随する様々な要素について考えているうちに、散り散りだった多くの事柄の断片がつなぎ合わされ、まるで絵が浮き上がってくるかのようです。 当時の日本を取り巻く悪夢のような現実、“激動の昭和”と言われますが、それはすでに明治後期の日本の指導者たちには見えていたことではないかと思います。運命と言ってしまえば簡単ですが、我々の父祖はその、とてつもない運命に真っ向から立ち向かっていたのだと・・・。
※ ソ連から提出された抑留者のデータと、その後のソ連の崩壊にともない放出された公文書のデータは、それぞれの数字が大きく異なります。 先日、いわゆる「従軍慰安婦問題」、一部の米国下院議員の動きの件で奔走されているすぎやまこういち氏が、「全体主義者の武器はいつも“ウソ”」と述べられていましたが、このソ連のデータでも合致しますね。 しかも、公文書の数字についても正確であるとは考えられません。囚人列車で運ばれる間の犠牲者は除外して、到着した後の数字しかないからです。また、特務機関や諜報機関の将校などは逮捕直後に裁判を受ける間もなく処刑されています。収容所内であっても、過去に亡くなった者の名前を点呼するなど、およそ正確に記録されていたとは思えません。 すぎやま氏ご指摘の「全体主義者」という括りで見ますと、ソ連・中国・北朝鮮のやり方はあらゆる点でよく似ていますね。過去のナチスも含めて。 では、今回はこれくらいにします。次回は興味深い、阿部さんから見たそれぞれの民族性についてや、よく使ったロシア語など、収容所内における諸々のエピソードを予定しています。(ラスト2です) ![]() |
![]() ※ 大変お待たせいたしました。ようやく阿部忠男さんご本人と電話にて連絡がとれました。これより少しずつ阿部さんの手記を連載したいと思います。 できるだけ読みやすい形態にしたいので、筆者なりに多少の説明とタイトルを加えました。旧仮名使いや旧漢字は現代のものに変えました。ロシア語表記はカタカナにしました。筆者はロシア語は皆目わかりませんので、阿部さんに電話越しで発音していただき表記しました。間違いがあればご指摘下さい。 上の写真は「平和祈念展示資料館」様よりお借りしたものです。“シベリア抑留”の実態について参考にさせていただきました。 ここで阿部さんについて少しご紹介いたします。 阿部さんは大正11年、愛媛県に生まれました。高等小学校を出て地場産業である今治市のタオル工場にて勤務、18歳(昭和15年)で志願し満洲は新京(旧満洲国の首都で現在の長春)の通信隊に入隊、特殊無線隊に配属されました。その直後に日本に唯一の陸軍通信学校(現、神奈川県相模大野)に派遣され2年間の教育の後に除隊、満洲電信電話株式会社(でんでん調査局)に入社します。 ここで筆者はこれは「特務機関」ではなかったのかと疑問に思い、阿部さんに確認をいたしましたが、ご本人にはそのような認識はなくあくまで除隊しての入社であったとのことでした。しかし、勤務内容は特務(ソ連の軍用電波を傍受し各種情報を分析)であったとのことです。そのため阿部さんは戦犯としての烙印を押され、その抑留期間は長期に及ぶことになります。 8年間の抑留生活の後に、昭和28年12月、ナホトカ港より「興安丸」にて第一次帰還(長期抑留者)を果たしますが、昭和24年頃までに帰還した早期帰還者たちの多くがソ連共産党により洗脳されていたことで、阿部さんも疑われ社会復帰に大変な困難が伴いました。 これについても確認いたしましたが、阿部さんの抑留環境は酷いものでしたので洗脳されるわけがなく、ソ連に対しては憎しみのみであるとのことでした。 阿部さんとは連絡が取れたばかりです。取材を重ねる中で、色んな話が聞けることと思います。それを少しずつご紹介しながら連載したいと思います。尚、ご本人に確認する前に掲載した「お知らせ」の内容には多少の誤認がありますことをご了承下さい。また、掲載の後に細部を修正することもあろうかと思いますがご理解下さい。
※ 阿部さんは戦犯の烙印を押され、その抑留生活は長期に及び、また一般の抑留者とは隔離され、多民族の収容所を転々とする間、日本人は常に2〜3人であったそうです。 また、当時日ソ間で結ばれていたのは「中立条約」ですが、多くの人は「不可侵条約」と認識していたようです。もっとも、当時の日本政府は条約を結ぶにあたって「不可侵条約」を希望しており、ソ連が譲らず最終的に「中立条約」で落ち着いたため混同されているのだと思われます。 次回は、長期抑留者の顔ぶれと阿部さんの特殊無線隊での教育過程、満洲でんでん調査局(ハイラル支部)での生活、そして終戦、ソ連兵による身柄拘束までを予定しております。 ![]() |
| しゃばだば近代国史帖 |
日本の近現代史の中から、主に感動エピソードを拾い集めてみたい。ゆっくりゆっくりですが。個人的には備忘録(メモ)のつもりです。
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